血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

50 / 63
第9章 第3話:ナギの選択

 

 存在を肯定するとは、意外にも単純な行為かもしれない。

 たとえば、目の前にいる相手の呼吸を数え、その鼓動に自分の呼吸を合わせる。それだけで、人と人は同調し、互いを許容し合える――そんな錯覚を覚えることがある。

 

 ナギは、まさにそうして僕の前に立っていた。

 深淵の闇を照らす唯一の光源である懐中電灯を、わざと壁に向けて下げ、僕の顔を直接照らさない。光と影のはざまで、彼の瞳だけが静かに白く反射していた。

 

 「俺を見ろ」

 低い声だった。命令でも、懇願でもなく、ただ事実を述べる音の温度で。

 

 怖かった。けれど、目を逸らしてはいけない気がした。

 僕はゆっくりと視線を上げた。そこで初めて、自分がどれほど縮こまっていたのかに気づく。膝を抱えた姿勢のまま、体は固く、呼吸は浅い。まるで凍りついた猫のように身を守っていた。

 

 ナギは一歩だけ近づいた。靴底が小さく礫を踏む音がした。

 その微細な破砕音が、やけに大きく胸に響いた。鼓動が反射し、軽い幻聴のように時間差で耳朶を打つ。

 

 「俺は、ずっと君を観察していた」

 その言い回しは、愛の告白には聞こえなかった。むしろ研究者の所感に近い。だが、そこに冷たさはなかった。

 

 「日向でも、アカリでもいい。あるいは、そのどちらでもない存在でも構わない」

 彼はそこで言葉を切り、わずかに眉を寄せた。それは逡巡ではなく、言語の最適解を探すための計算に見えた。

 

 「俺は、いま目の前にいる“君”を、肯定したい」

 

 肯定――その音の並びに、胸の奥の何かが疼いた。

 自分を否定することでしか現実と折り合えなかった僕にとって、それは酷な提案だった。肯定は、罪悪感を死なせる薬でもあり、生き延びろと命じる毒でもある。

 

 「……どうして? 僕は、人を殺した」

 声が震えた。アカリの記憶が呼び水になり、喉が痛むほど乾いた。

 

 ナギは首を振った。光が揺れ、影が伸び縮みする。

 「君が何をしたかじゃなく、君が何を選ぶかだ」

 「選ぶ?」

 「そうだ。“融合”を拒んだのは、君だけの決断じゃない。分離で苦しみ続ける覚悟をした“二人”の共同決定だ。ならば俺も、その痛みごと肯定する」

 

 理屈は乱暴だった。だが、感情は驚くほど滑らかに浸透してきた。

 肯定とは、論理の適合ではなく、結果の受容なのだと理解した。

 

 「俺は手を伸ばす。ただし、掴むかどうかは君が決めろ」

 そう言いながら、ナギは掌を差し出した。掌の中央に小さな擦過傷があり、乾いた血がまだ赤黒く残っていた。

 

 その傷は、きっと僕のせいだ。過去のどこかで、彼を拒絶したときに刻まれたもの。

 痛みの痕跡を露わにしたまま、それでも伸ばされた手。僕はゆっくりと右手を持ち上げた。震えがあったが、以前のような恐怖ではなかった。むしろ、過剰な静けさに戸惑っていた。

 

 触れた瞬間、温度が流れ込んだ。指先の静電気が象徴的に弾け、世界がわずかに明るくなったように錯覚した。

 

 泣きたいわけではなかった。けれど、頬を涙が伝った。

 それはアカリの涙かもしれなかったし、日向の涙かもしれなかった。あるいは、獣の涙だったのかもしれない。

 いずれにせよ、区別は無意味だった。感情はただ結露のように存在し、重力に従って零れ落ちる。それで十分だった。

 

 「選んだのか?」

 ナギの声は、かすかに揺れていた。

 「いや……まだ、選びきれていない。でも、選ぶための場所に立った気がする」

 「なら、俺は離さない」

 

 その宣言は、束縛にも救済にも聞こえた。

 闇の奥で“獣”の気配が蠢いた気がしたが、すでに僕の心臓は別のリズムを刻んでいた。二拍子でも三拍子でもない、不定形の拍動。それが、僕とアカリとナギの、最初の共通言語なのかもしれなかった。

 

 闇が静かに後退する。

 深淵の壁面に、遠く崩落音が反射した。

 戦いはまだ始まっていない。それでも、終わらせるための意志だけは、確かにここで合流した。

 

 僕は涙を拭い、かすかな笑みを浮かべた。

 「変だよな。肯定されると、世界が少しだけ広がる気がする」

 ナギは、ほんのわずか口角を上げた。

 「世界は狭いままだ。ただ、君の視野が閉じなくなっただけだ」

 

 ――その言葉こそが、彼の選択だった。

 

 遠くで壁が砕ける大きな音がした。深奥の闇が震え、冷たい空気が吹き抜ける。砂塵が渦を巻き、懐中電灯の光束を汚した。

 だが僕たちは、互いの手を離さなかった。

 

 決戦の始まりは、静かだった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。