存在を肯定するとは、意外にも単純な行為かもしれない。
たとえば、目の前にいる相手の呼吸を数え、その鼓動に自分の呼吸を合わせる。それだけで、人と人は同調し、互いを許容し合える――そんな錯覚を覚えることがある。
ナギは、まさにそうして僕の前に立っていた。
深淵の闇を照らす唯一の光源である懐中電灯を、わざと壁に向けて下げ、僕の顔を直接照らさない。光と影のはざまで、彼の瞳だけが静かに白く反射していた。
「俺を見ろ」
低い声だった。命令でも、懇願でもなく、ただ事実を述べる音の温度で。
怖かった。けれど、目を逸らしてはいけない気がした。
僕はゆっくりと視線を上げた。そこで初めて、自分がどれほど縮こまっていたのかに気づく。膝を抱えた姿勢のまま、体は固く、呼吸は浅い。まるで凍りついた猫のように身を守っていた。
ナギは一歩だけ近づいた。靴底が小さく礫を踏む音がした。
その微細な破砕音が、やけに大きく胸に響いた。鼓動が反射し、軽い幻聴のように時間差で耳朶を打つ。
「俺は、ずっと君を観察していた」
その言い回しは、愛の告白には聞こえなかった。むしろ研究者の所感に近い。だが、そこに冷たさはなかった。
「日向でも、アカリでもいい。あるいは、そのどちらでもない存在でも構わない」
彼はそこで言葉を切り、わずかに眉を寄せた。それは逡巡ではなく、言語の最適解を探すための計算に見えた。
「俺は、いま目の前にいる“君”を、肯定したい」
肯定――その音の並びに、胸の奥の何かが疼いた。
自分を否定することでしか現実と折り合えなかった僕にとって、それは酷な提案だった。肯定は、罪悪感を死なせる薬でもあり、生き延びろと命じる毒でもある。
「……どうして? 僕は、人を殺した」
声が震えた。アカリの記憶が呼び水になり、喉が痛むほど乾いた。
ナギは首を振った。光が揺れ、影が伸び縮みする。
「君が何をしたかじゃなく、君が何を選ぶかだ」
「選ぶ?」
「そうだ。“融合”を拒んだのは、君だけの決断じゃない。分離で苦しみ続ける覚悟をした“二人”の共同決定だ。ならば俺も、その痛みごと肯定する」
理屈は乱暴だった。だが、感情は驚くほど滑らかに浸透してきた。
肯定とは、論理の適合ではなく、結果の受容なのだと理解した。
「俺は手を伸ばす。ただし、掴むかどうかは君が決めろ」
そう言いながら、ナギは掌を差し出した。掌の中央に小さな擦過傷があり、乾いた血がまだ赤黒く残っていた。
その傷は、きっと僕のせいだ。過去のどこかで、彼を拒絶したときに刻まれたもの。
痛みの痕跡を露わにしたまま、それでも伸ばされた手。僕はゆっくりと右手を持ち上げた。震えがあったが、以前のような恐怖ではなかった。むしろ、過剰な静けさに戸惑っていた。
触れた瞬間、温度が流れ込んだ。指先の静電気が象徴的に弾け、世界がわずかに明るくなったように錯覚した。
泣きたいわけではなかった。けれど、頬を涙が伝った。
それはアカリの涙かもしれなかったし、日向の涙かもしれなかった。あるいは、獣の涙だったのかもしれない。
いずれにせよ、区別は無意味だった。感情はただ結露のように存在し、重力に従って零れ落ちる。それで十分だった。
「選んだのか?」
ナギの声は、かすかに揺れていた。
「いや……まだ、選びきれていない。でも、選ぶための場所に立った気がする」
「なら、俺は離さない」
その宣言は、束縛にも救済にも聞こえた。
闇の奥で“獣”の気配が蠢いた気がしたが、すでに僕の心臓は別のリズムを刻んでいた。二拍子でも三拍子でもない、不定形の拍動。それが、僕とアカリとナギの、最初の共通言語なのかもしれなかった。
闇が静かに後退する。
深淵の壁面に、遠く崩落音が反射した。
戦いはまだ始まっていない。それでも、終わらせるための意志だけは、確かにここで合流した。
僕は涙を拭い、かすかな笑みを浮かべた。
「変だよな。肯定されると、世界が少しだけ広がる気がする」
ナギは、ほんのわずか口角を上げた。
「世界は狭いままだ。ただ、君の視野が閉じなくなっただけだ」
――その言葉こそが、彼の選択だった。
遠くで壁が砕ける大きな音がした。深奥の闇が震え、冷たい空気が吹き抜ける。砂塵が渦を巻き、懐中電灯の光束を汚した。
だが僕たちは、互いの手を離さなかった。
決戦の始まりは、静かだった。