血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第10章:哲学者の墓標
第10章 第1話:スワンプマンとの対話


 

戦いの只中で、僕は突然ひとりきりの闇に落ちた。──静寂の牢獄。ここでは剥がれた思考の皮膚がただ漂い、声も音も身体も意味を失っていく。呼吸の感覚すら遠く、そこにあるのはただ一つ、自分と同じ顔をした存在だった。スワンプマン――「もうひとりの自分」が、淡い光の縁取りを纏いながら問いかける。

 

「君は本当に日向だと思っているが、証明できるか?」

言葉は残響と化し、僕の中を巡回した。確かに僕は日向と名乗り、過去の記憶を抱えている。だが記憶とは複製可能なデータに過ぎず、コピーされた記憶の塊が人間と呼べるかどうかは別の問題だ。僕は思考実験の輪の中に捕らわれる。

 

「俺は“今”ここにいる――それだけで充分だ」

僕は反論を試みる。だがスワンプマンの笑みは深く、問いは果てしなく続いた。名前が示す唯一性は、単なるラベルに過ぎない。痛みも呪いも、記憶と同じく移転可能だとするなら、僕と彼の違いは何だろうか。思考の隔壁が崩れ落ち、僕は不確かな存在の縁に立つ。

 

次第に静かな確信が湧き上がる。証明の欲望を捨て、存在することの実感に身を委ねるとき、世界は再び輪郭を取り戻し始めた。スワンプマンとの対話は、自己否定と自己肯定の往復運動だった。問いが深まるほど、僕は自我という名の呪縛に気づく。

 

「名前がなくても、君は君だ」

──その声は僕の内奥から発せられたのか、それともあの存在が囁いたものか。確かめようとしても意味はない。どちらであってもいい。僕はこの瞬間に立ち会い、自分を選び直せばいいのだ。

 

肉体の痛みが戻ってくる。刹那、鋭い痺れが骨の髄に響いた。ここは依然として戦場の渦中。身体と精神が引き裂かれるような苦悶と共に、思考はまた深淵へと誘われる。それでも僕は確かに動いている。血の匂いと鼓動を通じて、世界は再び現実を取り戻す。

 

「お前は、名前を捨てられるか?」

問いは変容の合図だった。僕は目を閉じ、己の内側を見つめる。痛みが証明ならば、痛みは僕の一部だ。記憶が証拠ならば、記憶もまた僕の血肉だ。証明からの離脱は、再構成の始まりを意味する。

 

やがて暗闇が裂け、戦場のざわめきが遠くから聞こえた。僕は深呼吸し、意識の片隅でスワンプマンに感謝を捧げる。問いがもたらした混乱の果てに、新たな自己の断片が芽吹いたからだ。対話は終わり、次の一歩がこだまする。

 

「それでも、お前は“名前”を捨てられるか?」

その声に返答を保留し、僕はゆっくりと立ち上がる。己の身体が再び一つに統合し始める瞬間を感じながら、僕は新しい自分へと歩みを進めた。疲労と疑念を抱えたままでも、確かな一歩を踏み出す。思考実験はクライマックスへ、そして僕自身の実存は、まだ終わりを告げていない。

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