血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第11章 第2話:誰が誰だったのか

 

鏡の前に立つと、そこに映る顔は確かに私のものでありながら、まるで他人のもののように思えた。淡い蒼白の肌に浮かぶ血管の一本一本まで覚えているはずなのに、その輪郭をなぞろうとすると指先がすり抜けてしまう。息を吸い込むと、胸の奥底にぽっかりと穴が開いたような、空洞の感触があった。

 

窓の外では夜の帳が下りはじめ、黒神邸の古びた木枠はシルエットだけを残している。雨粒が細い音を立ててガラスを叩き、しとしととした湿り気が廊下まで染み込んでくる。廊下の隅に置かれた古い靴箱の引き出しを開くと、そこにはひとつの名札があった。「日向」とだけ彫られた無機質なプラスチック板。その文字を指でなぞると、指先にかすかなぬくもりを感じたような気がした。しかし、思い出せるのは文字の形だけで、その背景や体温は遠い過去の幻のようにかすんでいる。

 

押し入れの中には、小さな写真立てがあった。笑顔の少女――アカリ。その瞳に揺れる光は、確かにかつて私の中に宿っていたはずのものだった。だが、その瞳の奥を見つめようとすると、まるでそこに「私」がいないかのように虚ろな影だけが映る。手に取った瞬間、写真立てがずしりと重く感じられ、その重みが存在の実感をかき消していった。

 

机の引き出しから、古い日記帳が顔を出す。ページをめくるたびに、見覚えのある文字列が行間に浮かんでは消える。「今日は楽しかった」「明日はみんなと一緒に」──断片的な文章からは、生きていた頃の感触や匂いすら伝わってきそうだ。しかし閉ざされた文字の世界は、私を拒むように冷たく微笑むだけで、そこに刻まれた「私の声」は聞こえない。

 

スマートフォンを手に取り、画面を開く。履歴に残るはずの検索ワードも通知も、すべてがまっさらだ。メールやSNSのメッセージは空白で、誰とのやり取りも存在しない。指先が震え、画面から湧き上がる冷気に背筋がひんやりとした。まるで、ネットワークの海の底に私という粒子だけが抜け落ちているようだった。

 

「私は、誰だったのだろう」

声に出して問うても、返ってくるのは自分自身のエコーだけだった。昔の自分は、名前と記憶が結びついていたはずだ。日向という器に、アカリという魂が宿り、その交差点に「私」が存在していた。だが今は、器も魂も、別々の迷路を彷徨っているように思える。

 

思考実験の一片として、自分の同一性を問い直す。もし「私」が記憶と名前の連動によって成立しているならば、その両方が消えたとき、「私」はどこへ行くのだろうか。空間のどこかに漂う魂だけが残されるのか。それとも、完全に消え去るのか。あるいは、他者の認識が魂の座標を定めるのかもしれない。

 

壁にかかった古いカレンダーの日付は、いつの間にかすべて白紙に差し替えられていた。月の満ち欠けだけが記されたその紙片は、時間の流れを思わせるはずだが、それすら意味を失っている。過去も未来も、ただ「今」という一点に集約されてしまったかのようだった。

 

ふと、夢の中で聞いた声が蘇る。淡い囁きは混ざり合い、輪郭を持たないまま漂っていた。

「ねえ、君はどっちでいたいの?」

言葉は問いかけであり、私自身に向けられた挑戦のように響いた。日向として、アカリとして、あるいは名を持たずに在る〈私〉として。選択の余地が、鋭い刃のように胸の奥を突いた。

 

静寂に包まれた部屋の隅で、私は小さくつぶやいた。

 

「名前なんて、きっとただの便宜。でも――それでも名乗りたいと思ってしまうんだ」

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