死んでから、生きてるって、どういうことだ?
その問いは、朝にコーヒーを飲むような日常性で、ふいに僕の思考に現れた。
目覚めて、呼吸して、ものを考える。体温があり、重力がある。
だからといって、それが“生きている”という状態を保証するものではない――ということを、僕はようやく理解し始めていた。
生とはなにか。
死とは、どこから始まるのか。
哲学者たちは、言葉を使って“死”を定義しようとしてきたが、結局のところ、それは“生きている者”による仮設にすぎない。
死者は語らない。語れるのは、死の周辺に立っている生者だけだ。
では、僕は今――どこにいる?
天井から、音がした。
鉄と鉄の接合部から、ぽたりと水滴が落ちる音。雨だろうか。
この施設には窓がない。空も、天気も、確かめようがない。
だが、水の音は、時間を連れてくる。
ぽたん、ぽたん、と一定のリズムで打たれる水音は、内部に浸透して、僕の呼吸を同調させる。
その中に、一瞬だけ――声が混じった気がした。
「……いない……」
誰の声だろう?
僕の声ではない。少なくとも、音の質が違った。
けれど、耳で聞いたというより、脳の裏側で再生されたような響き。
あのとき、日記を読んで以来、断続的に感じている“他者の気配”が、また頭をもたげた。
僕は“自分”なのだろうか。
あるいは、“誰か”を再生しているだけの模造品なのだろうか。
スワンプマン――その思考実験が浮かぶ。
人が一人、雷に打たれて即死する。
同時に、まったく同じ構造の人間が、原子レベルで複製されて、その場に現れる。
記憶も、身体も、性格も、完璧に同じ。
だが、その存在は“本人”なのか?
もし、僕が“死んだ”直後に、何者かの手で別の身体に記憶を写された存在だとしたら――僕は、僕ではない。
ただの再現。
それも、“意識”というもっとも不確かな部分を模倣しただけの、表層的なコピー。
けれど、今こうして、僕は考えている。
「我思う、ゆえに我あり」という言葉を拠り所にするならば、僕は間違いなく存在している。
しかし、その“思考”すらも、“他者”のものだったとしたら?
喉の奥が、再び渇いた。
口内の温度が不自然に高い。舌先が、牙の付け根に触れて、僅かに痛む。
僕は血を吸った。鼠を殺した。
その事実が、理屈よりも早く、存在の座標を動かしていく。
あれは、欲望だったのか。
それとも、本能だったのか。
あるいは、誰かの“記憶された衝動”だったのか。
この身体は、僕のものではない。
アカリという少女のものであり、僕はそこに“宿っている”。
しかし――もしかすると、“宿っている”のは僕ではなく、“アカリ”の方かもしれない。
この意識、この思考、この“俺”の感覚こそが、アカリという身体に残された魂の、最後の残響なのではないか。
つまり、僕の自我そのものが“乗っ取られたもの”であり、
僕が僕だと思っているこの視点こそが、すでに別の誰かによって“再構成された虚像”だとしたら。
「――お前、ほんとうに日向なの?」
音はなかった。けれど、そう問われた気がした。
鏡はない。だが、自分の顔を思い浮かべてみる。
少女の輪郭、黒い髪、細い首筋。
そこに“僕”の表情はない。
それでも、笑おうと思えば笑える。
目を閉じれば、涙が出る。
この反応は、誰のものだ?
僕は、死んだ。
少なくとも、一度はそうだった。
その“死んだはずの自分”を、なぜ、こうして感じ続けているのか。
それが、再生なのか、模倣なのか、侵蝕なのか――判別はつかない。
だが、ひとつの可能性だけは、否応なく浮かび上がる。
――この身体の“死者”が、俺を乗っ取ったのかもしれない。
つまり、僕は“アカリ”になりかけている。
あるいは、最初から“アカリ”だったのかもしれない。
柊日向という名前も、事故の記憶も、“元からこの身体にあった記憶”の一部だとしたら?
冷たい水が、頭の芯を刺す。
そのとき、遠くで雷のような音がした。
壁の向こう。施設の奥。あるいは、その外。
僕は、ふと“上”を思い出した。
地上。
この施設の外側。太陽のある場所。
世界の“現実”があるはずの領域。
僕は、それを確認しなければならない。
もし、僕の知っている“世界”が、まだ存在しているのなら――
「地上に出よう」
声に出すことで、それが決意に変わった。
僕が“誰”であるのかを確かめるには、閉じた世界では足りない。
歩き出す。
この身体が、“どこへ”向かおうとしているのか。
僕という存在が、“誰の記憶”を歩いているのか。
まだわからない。
けれど、ひとつだけはっきりしている。
――このままでは、“俺”が、曇っていく。