第12章 第1話:日常の影
朝の空気には、もはや霧の名残さえなかった。
湿り気を含んだ風は、遠い季節の記憶と共に過ぎ去ったようだ。
坂道を自転車で下るとき、耳に届くのはタイヤがアスファルトを擦る音と、自分の呼吸だけ。空は澄んでいて、音が吸い込まれていくように静かだった。
制服の襟を整える指は、少しだけ冷たかった。けれど、その冷たさに意味を見出そうとする自分は、もういなかった。意味の多くは、失われた。あるいは、捨てた。いや、たぶん、誰かが置いていったのだ。名前のついた、あるいはそうでなかったものたちの痕跡を。
通り過ぎる街路樹には新芽がちらほらと光を浴びている。木々の間から差す光が、アスファルトの道に斑点のような模様を描き出していた。それは、傷跡にも似ていたが、別に痛みはなかった。
古書店の前を通りかかると、硝子越しに背表紙が並んでいるのが見えた。埃をかぶった文字たちは、どれも確かな形をしているのに、内容を思い出すことはできなかった。そういうものだろう。記憶とは、意味よりも輪郭のほうが先に消える。形があっても、中身は空洞かもしれない。
すれ違う人々の顔には、焦りも、哀しみも、怒りもなかった。ただ、歩いている。目的地へ向かって。あるいは、それを忘れるために。人はそうして毎日を生きる。誰かが死んでも、誰かが傷ついても、この通りの風景は変わらない。それが、世界というものだ。僕――私は、ようやくそれを受け容れられるようになったのかもしれない。
信号待ちのあいだ、ふと視線を横に逸らした。そこには、ガラス窓があった。反射した自分の姿が映っていた。見慣れた制服、整えられた前髪、まっすぐな肩。
だけど、その目が、ほんの一瞬、他人のように思えた。
深く沈んだような黒の中に、わずかに赤が滲んでいる。
昔の名残か、それとも想像か。判断はできなかった。
「……ああ」
声が漏れた。それは、納得というよりも、確認に近い。
私は、まだ、“どちらでもない”。
名前はひとつになったけれど、それが「戻った」わけではない。記憶は断片的で、埋まらない部分も多い。身体には、時折奇妙な感覚が残っている。胸の奥で鼓動が乱れることがある。声が響かず、耳の奥で反響するようなときもある。それでも、日常は始まってしまったし、私はその中にいる。特別なものではなく、ただの生徒として、ただの人間として。
不思議と、それを恐れてはいなかった。むしろ、どこかで望んでいた気さえする。
何も知らずに生きていくことを。すべてを忘れて歩くことを。
けれど、完全には忘れられない。忘れたくないと思っている自分も、まだいた。
だからこそ、こうして時折、自分の影を確かめる。
それが「日向」なのか、「アカリ」なのか、それともまったく別の何かなのか。
たぶん、もうどちらでもよかった。答えは、必要ない。
風が、制服の裾を揺らした。午前の空にかかる雲は薄く、しかしどこか形がはっきりしなかった。それはまるで、私自身のようだと、ふと思った。
坂道を下りきり、交差点を渡る。
向かいの歩道には、猫が一匹、じっとこちらを見ていた。
目が合ったが、猫は何も言わず、ただ瞬きをしただけだった。
「でも、――“いま”がある」
口に出した言葉は、誰に向けたものでもなかった。
自分自身ですらなかったかもしれない。ただ、そこに浮かんだ言葉だった。
それだけは、確かだ。