血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第12章 第2話:記憶の断片

 

草の匂いがした。風は柔らかく、目を閉じていても陽の方向がわかるようだった。

私は、誰かと並んで座っていた。隣にいるのは、小さな少女。彼女の髪は肩までで、風に吹かれてわずかに揺れていた。

 

「ねえ、覚えてる?」

 

声は、とても小さく、しかし鮮明に響いた。

私はすぐに返事をしなかった。考えていたわけではない。ただ、言葉が浮かばなかった。

 

「……ううん。でも、忘れたくないと思ってる」

 

自分の口から出たその言葉は、まるで別の誰かのようだった。けれど、それは嘘ではなかった。

少女は、にっこりと笑った。どこか寂しげで、でも責めるようなところはない。

目を細めると、まぶしい光が背後から彼女を縁取っていた。輪郭が曖昧になり、肌の色や表情さえも、すこしずつ溶けていく。

 

「わたしのこと、忘れないでね」

 

その一言だけが、最後まで輪郭を保っていた。

 

次の瞬間、目を覚ました。

天井の白さが、異様に明るく見えた。光はカーテンの隙間から射し込み、まるで夢を断ち切るためのもののようだった。

 

頬が、濡れていた。触れてみると、涙のあと。寝汗ではないと、すぐに分かった。

夢を見て泣くのは、久しぶりだった。けれど、それが悲しいからなのか、嬉しかったのか、自分でも判断できなかった。

 

手の中に、何かがあった。

握った記憶すらなかったが、確かにそこにあった。

小さなネームプレート。プラスチックの表面はわずかに擦れていて、角は丸くなっていた。

 

《アカリ》

 

そう書かれていた。

明朝体の文字は、既に少しかすれている。けれど、読み取るには十分だった。

 

私は、それを見つめた。しばらくのあいだ、ただそれだけをしていた。意味を探そうとも、記憶を掘り起こそうともせず、ただ、視界に収めていた。

 

「君の名前、もう誰も呼ばない」

 

そう口に出すと、不思議と、胸の奥がざらついた。

それは悲しみではなく、痛みでもなかった。ただ、現実だった。

 

もう誰も、その名前を口にしない。学校でも、家でも、どこでも。

誰かがその名を呼んで振り向くことはないし、誰かに説明する必要もない。

それは、誰にも属さない記号になっていた。

 

けれど、それでも私は――忘れない。

 

忘れない、ということが記憶なのだと、今は思える。

完璧に思い出せなくてもいい。輪郭が曖昧でも、名前だけが残っても、そこに確かに存在したと、信じられるなら、それはまだ“いる”ということだ。

 

窓の外では、風が木々を揺らしていた。葉の重なりが影を作り、部屋の壁に揺れていた。

時間は動いていた。止まることも、戻ることもなく。

 

私は、ベッドの横に小さな引き出しを開けて、そのネームプレートをそっと置いた。

まるで祈るように、あるいは捧げるように。

 

もう呼ばれることのないその名前は、しかし、私の中にだけ、確かに生きている。

その事実が、今は、ほんの少しだけ救いだった。

 

「血も、名前も、過去も……超えて“今”を生きていく」

 

それが、いまの私の、唯一の確信だった。

 

そしてそれは、誰かの代わりでも、誰かの望みでもなく、

ただ、自分の意志として、そう在ろうと思えた。

 

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