草の匂いがした。風は柔らかく、目を閉じていても陽の方向がわかるようだった。
私は、誰かと並んで座っていた。隣にいるのは、小さな少女。彼女の髪は肩までで、風に吹かれてわずかに揺れていた。
「ねえ、覚えてる?」
声は、とても小さく、しかし鮮明に響いた。
私はすぐに返事をしなかった。考えていたわけではない。ただ、言葉が浮かばなかった。
「……ううん。でも、忘れたくないと思ってる」
自分の口から出たその言葉は、まるで別の誰かのようだった。けれど、それは嘘ではなかった。
少女は、にっこりと笑った。どこか寂しげで、でも責めるようなところはない。
目を細めると、まぶしい光が背後から彼女を縁取っていた。輪郭が曖昧になり、肌の色や表情さえも、すこしずつ溶けていく。
「わたしのこと、忘れないでね」
その一言だけが、最後まで輪郭を保っていた。
次の瞬間、目を覚ました。
天井の白さが、異様に明るく見えた。光はカーテンの隙間から射し込み、まるで夢を断ち切るためのもののようだった。
頬が、濡れていた。触れてみると、涙のあと。寝汗ではないと、すぐに分かった。
夢を見て泣くのは、久しぶりだった。けれど、それが悲しいからなのか、嬉しかったのか、自分でも判断できなかった。
手の中に、何かがあった。
握った記憶すらなかったが、確かにそこにあった。
小さなネームプレート。プラスチックの表面はわずかに擦れていて、角は丸くなっていた。
《アカリ》
そう書かれていた。
明朝体の文字は、既に少しかすれている。けれど、読み取るには十分だった。
私は、それを見つめた。しばらくのあいだ、ただそれだけをしていた。意味を探そうとも、記憶を掘り起こそうともせず、ただ、視界に収めていた。
「君の名前、もう誰も呼ばない」
そう口に出すと、不思議と、胸の奥がざらついた。
それは悲しみではなく、痛みでもなかった。ただ、現実だった。
もう誰も、その名前を口にしない。学校でも、家でも、どこでも。
誰かがその名を呼んで振り向くことはないし、誰かに説明する必要もない。
それは、誰にも属さない記号になっていた。
けれど、それでも私は――忘れない。
忘れない、ということが記憶なのだと、今は思える。
完璧に思い出せなくてもいい。輪郭が曖昧でも、名前だけが残っても、そこに確かに存在したと、信じられるなら、それはまだ“いる”ということだ。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。葉の重なりが影を作り、部屋の壁に揺れていた。
時間は動いていた。止まることも、戻ることもなく。
私は、ベッドの横に小さな引き出しを開けて、そのネームプレートをそっと置いた。
まるで祈るように、あるいは捧げるように。
もう呼ばれることのないその名前は、しかし、私の中にだけ、確かに生きている。
その事実が、今は、ほんの少しだけ救いだった。
「血も、名前も、過去も……超えて“今”を生きていく」
それが、いまの私の、唯一の確信だった。
そしてそれは、誰かの代わりでも、誰かの望みでもなく、
ただ、自分の意志として、そう在ろうと思えた。