午後の光はやわらかく、校舎の屋上はいつもよりも静かだった。
風がひとすじ吹き抜けて、制服の裾をわずかに持ち上げる。その動きに、反応するでもなく、私は鉄柵のそばでノートを開いていた。
数ページめくったところに、ペンのインクで書かれたひとつの名前がある。
それは、誰かに呼ばれるためのものではなかった。名乗るためのものでもなかった。
ただ、「私」がかつてそこにいたことを忘れないための、しるしだった。
“アカリ”。
その名前には、今はもう意味がないかもしれない。けれど、意味が消えることと、存在が消えることは、まったく別の話だ。
私はそれを、たぶん、身体で知っていた。
ページの端に、小さな線を引く。リズムもなく、意図もない。ただ、手を動かすことで、なにかが保たれる気がした。
「名前がなくなると、自分もいなくなると思ってた」
風に向かってそう呟くと、自分の声が耳の奥で跳ね返った。
それは誰かへの問いではなく、応答でもなかった。まるで空白の余白に印をつけるような、小さな行為だった。
扉が軋む音がした。
振り返ると、ナギと沙夜が並んで立っていた。どちらも、何も言わず、ただこちらを見ていた。
私は立ち上がらずに、微笑んだつもりだったが、それがどう映ったのかはわからない。彼女たちはそのまま、私の隣に歩いてきて、同じように柵にもたれた。
三人は並び、誰も話さなかった。
それでも、そこには会話よりも確かなものがあった。
言葉にしないことのなかに、すでに多くが含まれていた。
私はふたたびノートを見下ろした。
そこには、名前の下にいくつかの単語が走り書きされていた。
「夜」「鏡」「誰でもない」「音」「目覚め」……脈絡のない羅列。それでも、たしかに自分の手が書いたものだった。
それを見て、私はようやくペンを閉じた。
「名前がなくても、血が騒がなくても、ここに“わたし”がいる」
それが、今の自分の答えだった。誰かに理解されなくてもいいし、過去に遡って証明する必要もない。
存在は、定義されることで成立するものではないと、今なら言える。
むしろ、定義を超えて残るものだけが、本当の“自分”なのかもしれない。
風がまた、吹いた。今度は少し強くて、ノートのページがめくれた。
けれど私はそれを閉じなかった。めくられるままにしていた。
沙夜が空を見上げる。ナギもまた、それに倣う。
私も同じように、空を仰いだ。雲は流れていたが、どこにも向かっているようには見えなかった。
それは、まるで思考のようだった。答えのないまま、ただ流れていく感情。ときおり輪郭を見せ、すぐにまた形を変えて消えてしまう。
それでも、そこにあるということ。それだけが真実だ。
私はもう、名前に縛られない。血の呪いにも、記憶の残響にも。
だれかの娘でも、だれかの影でもない。そう名乗らなくても、証明しなくても、ここに“私”がいる。
“誰でもない”ことは、同時に、“誰でもありうる”ということ。
その自由の中にこそ、自分を見出せるようになった。
風は、もう一度吹いた。さっきよりも優しく、なにかをなぞるように。
私はそっと目を閉じた。
耳の奥で、遠く誰かの名前が呼ばれたような気がしたが、それはたぶん、気のせいだった。
あるいは、それで良かったのだ。