血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第12章 第3話:血よりも深いもの

 

午後の光はやわらかく、校舎の屋上はいつもよりも静かだった。

風がひとすじ吹き抜けて、制服の裾をわずかに持ち上げる。その動きに、反応するでもなく、私は鉄柵のそばでノートを開いていた。

 

数ページめくったところに、ペンのインクで書かれたひとつの名前がある。

それは、誰かに呼ばれるためのものではなかった。名乗るためのものでもなかった。

ただ、「私」がかつてそこにいたことを忘れないための、しるしだった。

 

“アカリ”。

その名前には、今はもう意味がないかもしれない。けれど、意味が消えることと、存在が消えることは、まったく別の話だ。

私はそれを、たぶん、身体で知っていた。

 

ページの端に、小さな線を引く。リズムもなく、意図もない。ただ、手を動かすことで、なにかが保たれる気がした。

 

「名前がなくなると、自分もいなくなると思ってた」

 

風に向かってそう呟くと、自分の声が耳の奥で跳ね返った。

それは誰かへの問いではなく、応答でもなかった。まるで空白の余白に印をつけるような、小さな行為だった。

 

扉が軋む音がした。

振り返ると、ナギと沙夜が並んで立っていた。どちらも、何も言わず、ただこちらを見ていた。

私は立ち上がらずに、微笑んだつもりだったが、それがどう映ったのかはわからない。彼女たちはそのまま、私の隣に歩いてきて、同じように柵にもたれた。

 

三人は並び、誰も話さなかった。

それでも、そこには会話よりも確かなものがあった。

言葉にしないことのなかに、すでに多くが含まれていた。

 

私はふたたびノートを見下ろした。

そこには、名前の下にいくつかの単語が走り書きされていた。

「夜」「鏡」「誰でもない」「音」「目覚め」……脈絡のない羅列。それでも、たしかに自分の手が書いたものだった。

 

それを見て、私はようやくペンを閉じた。

 

「名前がなくても、血が騒がなくても、ここに“わたし”がいる」

 

それが、今の自分の答えだった。誰かに理解されなくてもいいし、過去に遡って証明する必要もない。

存在は、定義されることで成立するものではないと、今なら言える。

むしろ、定義を超えて残るものだけが、本当の“自分”なのかもしれない。

 

風がまた、吹いた。今度は少し強くて、ノートのページがめくれた。

けれど私はそれを閉じなかった。めくられるままにしていた。

 

沙夜が空を見上げる。ナギもまた、それに倣う。

私も同じように、空を仰いだ。雲は流れていたが、どこにも向かっているようには見えなかった。

それは、まるで思考のようだった。答えのないまま、ただ流れていく感情。ときおり輪郭を見せ、すぐにまた形を変えて消えてしまう。

 

それでも、そこにあるということ。それだけが真実だ。

 

私はもう、名前に縛られない。血の呪いにも、記憶の残響にも。

だれかの娘でも、だれかの影でもない。そう名乗らなくても、証明しなくても、ここに“私”がいる。

“誰でもない”ことは、同時に、“誰でもありうる”ということ。

 

その自由の中にこそ、自分を見出せるようになった。

 

風は、もう一度吹いた。さっきよりも優しく、なにかをなぞるように。

 

私はそっと目を閉じた。

耳の奥で、遠く誰かの名前が呼ばれたような気がしたが、それはたぶん、気のせいだった。

 

あるいは、それで良かったのだ。

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