第2章 第1話:霧の町
階段を登った先にあったのは、白い霧だった。
地下から抜け出してきたというのに、空は見えず、風もなかった。世界はただ、輪郭を失って静かに濁っていた。
呼吸をしても、肺に空気が入ってくる感覚がない。無風の曇天に閉じ込められているような、密閉された薄明かり。
僕は、思わず首元に手をやった。服の襟が肌にまとわりついて、じんわりと冷たい。どうやら汗をかいていたらしい。
霧の奥に、建物の影がいくつか立っていた。
看板。街灯。歩道。信号。車道。――ようやく現実の構成要素が、自分の視界に溶け出してくる。
だが、それは“懐かしい”とは思えなかった。むしろ、何かが失われた後の、抜け殻のような都市だった。
静かだった。
それは、都会の喧騒を知らない静けさではない。
“本来あるはずの音”が、不自然に失われているという種類の静けさだ。
人の声がしない。自転車のベルも、犬の鳴き声も、コンビニのBGMもない。
霧は、音をも奪っていた。
右手に、ショーウィンドウがあった。
洋品店か何かの、古びたガラス。マネキンが置かれていて、飾られたシャツは湿気を含んで重たそうだった。
そのガラスの表面に、ひとりの少女が映っていた。
――ああ、と僕は思った。
それが、自分の姿だと気づくのに、数秒かかった。
朝の霧の中、ガラスに浮かんだその少女は、思ったよりも美しかった。
客観的に言って、という前置きをつけておく必要があるだろう。
腰まで届く黒い髪が、わずかに波打っていて、光の加減で紫がかって見えた。
制服風の黒いセーラー服。その下には濃紺のレギンスと、編み上げのブーツ。
目元には、化粧ではない薄いクマが見えていて、眠たげなまなざしが鏡越しにこちらを見つめていた。
――いや、“こちらを睨んでいた”と表現したほうが正確かもしれない。
その目が、僕を見た瞬間、背中がぞくりとした。
自分が“見られている”という感覚に、耐えられなくなって、僕は思わず目を逸らした。
それでも、心の奥でまだあの瞳の残像が焼きついていた。
深紅の眼――赤というには深すぎて、血というには美しすぎる色。
その奥に何か獣のような光が潜んでいる。…そう感じてしまった。
僕は、少女だった。
それは事実であり、否定のしようがなかった。
鏡がそう言っていた。靴の重みがそうだった。
この髪の揺れ、胸元のふくらみ、肩幅の狭さ、ふくらはぎの形状、どれもが――僕がかつて知っていた“自分”とは違う身体だった。
だが、何がもっとも違和感を生んでいたかといえば、それは他人からの視線だった。
通りすがりの中年男が、ちらりとこちらを見た。すれ違いざまにもう一度、今度は足元から見上げるように視線を送ってきた。
「……なんだよ」
声は小さく漏れたが、誰にも届いていないようだった。
その声が、自分のものではないと、また思い出す。
高い。
細く、柔らかい。
だが、響きには何か、引っかかるような硬質さがあった。
少女の声でありながら、感情の奥に鈍く響く“異物”が混じっている。
そういえば、僕はいま、一人称を“僕”で話している。
でも、鏡に映ったあの少女がこの声で「僕」と言ったら、おそらく誰も信じないだろう。
「私」が自然なのかもしれない。
いや、でも、じゃあ――僕は“私”になるべきなのか?
……あれ、今、僕って言ったか?
信号が変わった。誰も渡らない交差点を、僕はただ立ち尽くして見ていた。
空はまだ灰色で、霧がすべてを包んでいる。
見えるはずのものが、すべて一段階、向こうにある。
この体で、これからどうやって人と接していく?
名前はアカリ。でも、意識は日向。
でも、その日向も、もういないのかもしれない。
死んだ。事故で。
それが現実だったのなら、今の“僕”は、誰の延長にある?
見知らぬ都市。
正確には、見たことがないはずなのに、なぜか懐かしい風景。
朽ちたアパートの外壁、傾いた電柱、灰色の横断歩道。
時間が止まっているような町。いや、止まっていたものが、またゆっくり動き出す気配。
まるで、この町が“待っていた”かのように。
僕は、霧の中を歩き出した。
この身体で、誰に会えばいいのかもわからないまま。