血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

8 / 63
第2章 第2話:都市伝説研究家

 

 視線というものは、重力とは別の法則で働いている。

 人の目は光を反射して像を捉える器官だが、視られている側が感じるのは、どうしてか“触れられている”という感覚だ。

 皮膚に貼りつき、形状をなぞるようにまとわりつく。

 まるで、透明な包帯が服の上から巻き付けられていくようだった。

 

 視線が一つ、また一つ。

 背中を通りすぎては、しつこく残り香のように肌にこびりつく。

 街に出てからもう十分は歩いただろうか。だが、気を抜くとすぐ“見られている”ことに意識を持っていかれる。

 

 小さな子どもが、こちらをじっと見ていた。

 まるでテレビ画面を見るような顔で――好奇心と、ほんの少しの畏れを混ぜたような、遠慮のないまなざし。

 

 僕を、見ていた。いや――“彼女”を、だ。

 

 たしかに、街の中に浮かぶこのシルエットは、見慣れないものだったかもしれない。

 黒のセーラーにレギンス、編み上げのブーツ。腰まで届く黒髪は霧の水気を含み、柔らかく揺れていた。

 どこかの制服か、それともコスプレとでも思われたのか。

 ただ、目元にうっすらとあるクマが、眠たげな顔立ちに不穏な陰を落としていたのは、僕自身にもわかった。

 

 誰かが囁くのが聞こえたような気がした。

 けれど、それが現実の音なのか、意識の混濁なのか、区別がつかなかった。

 

 通りの角を曲がると、古びたレンガ造りの建物があった。

 張り紙が、かすかに揺れている。読み取れたのは「郷土資料室」――かつては図書館の分館か何かだったのだろう。

 

 人目を避けるようにそのドアを押した。

 古びた木の香りと紙の湿気が、外気とは違う空気の層をつくっていた。

 

 

 

 館内は無人だった。

 受付はあるが、誰もいない。静かに棚を眺めると、「黒神ヶ淵民俗誌」「郷土怪異譚」「失われた神話体系」など、いかにもなタイトルが並んでいた。

 

 僕は一冊、「黒神ヶ淵の口碑伝承と都市伝説」を手に取った。

 表紙には地味な書体で、編纂者の名が小さく書かれていた。「黒神ナギ」。

 

 名前に、微かな既視感があった。

 ページをめくる。そこには、「黒神ノ穴」という語が繰り返し登場していた。

 この町の地下にあるとされる巨大な空洞。災厄を封じた“穴”。

 そして、そこに棲む“獣”。

 

 “アカリ”という名前も、どこかの注記にあった。

 獣に憑かれた少女――そう書かれていた。

 

「――君、珍しいね」

 

 不意に背後から声がした。

 振り返ると、青年が立っていた。年齢は僕と大して変わらないように見える。

 けれど、その眼差しには何か、“見透かす者”の冷たさがあった。

 

「黒神ヶ淵に外から来る人なんて、滅多にいないんだよ。しかも、こんなところに」

 

「……外から来たって、どうしてわかったんですか」

 

「空気が違う。君は、この町の“霧”にまだ慣れていない」

 青年は笑った。けれど、その笑みは表面の筋肉でつくられたものだった。

 

「黒神ナギ、っていいます。こういう話を集めててね。今、君が読んでたやつ、僕が書いたやつだよ」

 

 僕は、驚いたふりをした。けれど、それはごく浅い驚きだった。

 この町では、偶然は偶然のままでいてくれないらしい。

 

「その本に、“アカリ”って名前、あったでしょう」

 

「……あった気がします」

 

「君、それ、君の名前じゃない?」

 

 心臓が、ひとつだけ深く沈んだ。

 目の前のナギが、少しだけ距離を詰めてくる。

 

「君は、“誰かの代わり”として目覚めたのかもしれないよ」

 彼の声は穏やかだった。でも、音の奥に何かざらついたものがあった。

 

「……どういう意味ですか?」

 

「まあ、今はまだ答えを出さなくていい。ただ、ひとつ言えるとしたら」

 ナギは、書棚の端にある一冊の本を手に取り、背表紙をなでながら言った。

 

「黒神ノ穴って場所は、何かを喰う。記憶とか、名前とか、あるいは“人”そのものをね」

 

 僕は、その言葉をどう解釈していいのか分からなかった。

 けれど、たしかに、背筋が冷えるような実感だけはあった。

 

 ナギは、ふと時計を見て言った。

 

「夜になったら、もっと面白い話ができると思うよ。君さえ、その時まで無事なら、だけど」

 

 

 

 外に出ると、霧はさらに濃くなっていた。

 空の位置が、どこか分からなくなっていた。

 

 視線の残像と、記憶の隙間。

 この町には、何かが沈んでいる。

 それが何か、まだ僕には分からない。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。