視線というものは、重力とは別の法則で働いている。
人の目は光を反射して像を捉える器官だが、視られている側が感じるのは、どうしてか“触れられている”という感覚だ。
皮膚に貼りつき、形状をなぞるようにまとわりつく。
まるで、透明な包帯が服の上から巻き付けられていくようだった。
視線が一つ、また一つ。
背中を通りすぎては、しつこく残り香のように肌にこびりつく。
街に出てからもう十分は歩いただろうか。だが、気を抜くとすぐ“見られている”ことに意識を持っていかれる。
小さな子どもが、こちらをじっと見ていた。
まるでテレビ画面を見るような顔で――好奇心と、ほんの少しの畏れを混ぜたような、遠慮のないまなざし。
僕を、見ていた。いや――“彼女”を、だ。
たしかに、街の中に浮かぶこのシルエットは、見慣れないものだったかもしれない。
黒のセーラーにレギンス、編み上げのブーツ。腰まで届く黒髪は霧の水気を含み、柔らかく揺れていた。
どこかの制服か、それともコスプレとでも思われたのか。
ただ、目元にうっすらとあるクマが、眠たげな顔立ちに不穏な陰を落としていたのは、僕自身にもわかった。
誰かが囁くのが聞こえたような気がした。
けれど、それが現実の音なのか、意識の混濁なのか、区別がつかなかった。
通りの角を曲がると、古びたレンガ造りの建物があった。
張り紙が、かすかに揺れている。読み取れたのは「郷土資料室」――かつては図書館の分館か何かだったのだろう。
人目を避けるようにそのドアを押した。
古びた木の香りと紙の湿気が、外気とは違う空気の層をつくっていた。
館内は無人だった。
受付はあるが、誰もいない。静かに棚を眺めると、「黒神ヶ淵民俗誌」「郷土怪異譚」「失われた神話体系」など、いかにもなタイトルが並んでいた。
僕は一冊、「黒神ヶ淵の口碑伝承と都市伝説」を手に取った。
表紙には地味な書体で、編纂者の名が小さく書かれていた。「黒神ナギ」。
名前に、微かな既視感があった。
ページをめくる。そこには、「黒神ノ穴」という語が繰り返し登場していた。
この町の地下にあるとされる巨大な空洞。災厄を封じた“穴”。
そして、そこに棲む“獣”。
“アカリ”という名前も、どこかの注記にあった。
獣に憑かれた少女――そう書かれていた。
「――君、珍しいね」
不意に背後から声がした。
振り返ると、青年が立っていた。年齢は僕と大して変わらないように見える。
けれど、その眼差しには何か、“見透かす者”の冷たさがあった。
「黒神ヶ淵に外から来る人なんて、滅多にいないんだよ。しかも、こんなところに」
「……外から来たって、どうしてわかったんですか」
「空気が違う。君は、この町の“霧”にまだ慣れていない」
青年は笑った。けれど、その笑みは表面の筋肉でつくられたものだった。
「黒神ナギ、っていいます。こういう話を集めててね。今、君が読んでたやつ、僕が書いたやつだよ」
僕は、驚いたふりをした。けれど、それはごく浅い驚きだった。
この町では、偶然は偶然のままでいてくれないらしい。
「その本に、“アカリ”って名前、あったでしょう」
「……あった気がします」
「君、それ、君の名前じゃない?」
心臓が、ひとつだけ深く沈んだ。
目の前のナギが、少しだけ距離を詰めてくる。
「君は、“誰かの代わり”として目覚めたのかもしれないよ」
彼の声は穏やかだった。でも、音の奥に何かざらついたものがあった。
「……どういう意味ですか?」
「まあ、今はまだ答えを出さなくていい。ただ、ひとつ言えるとしたら」
ナギは、書棚の端にある一冊の本を手に取り、背表紙をなでながら言った。
「黒神ノ穴って場所は、何かを喰う。記憶とか、名前とか、あるいは“人”そのものをね」
僕は、その言葉をどう解釈していいのか分からなかった。
けれど、たしかに、背筋が冷えるような実感だけはあった。
ナギは、ふと時計を見て言った。
「夜になったら、もっと面白い話ができると思うよ。君さえ、その時まで無事なら、だけど」
外に出ると、霧はさらに濃くなっていた。
空の位置が、どこか分からなくなっていた。
視線の残像と、記憶の隙間。
この町には、何かが沈んでいる。
それが何か、まだ僕には分からない。