夜の町には、音がなかった。
いや、正確に言えば、音はある。信号機の電子音、遠くの車の走行音、電柱に結ばれた標識の軋み。
けれど、それらが“音”として届く前に、すべてが霧に包まれてしまう。
この町は、感覚の輪郭を溶かす。
視覚も聴覚も嗅覚も、すべてが薄くなる。
それなのに――嗅覚だけが、突如として鋭敏になった。
鉄の匂い。
湿った、温かい、鉄のような匂い。
鼻腔の奥を焼くような感覚とともに、それが“血”であることを直感した。
明確な根拠もなく、ただ、そうとしか言えなかった。
呼吸が浅くなった。
脳が熱い。耳の奥が、じんじんと疼く。
思考より先に、身体が動いた。
走っていた。
脚が勝手に地面を蹴り、靴底がリズムを刻む。
――どうして?
という問いが、遅れて浮かぶ。
どうして走っている? どうして、誰かを探している?
けれど、もう止まれなかった。
世界が色彩を失い、血の匂いだけが地図になった。
気づけば、“誰か”の背後に立っていた。
若い女だった。ショートヘア、肩にバッグ。
うなじが白い。耳の後ろが露出している。
その呼吸の音が、異様にはっきりと聞こえる。
――吸いたい。
そう思っていた。いや、考えるよりも先に、欲望がそこにあった。
牙が疼く。
喉の奥が熱を持つ。
唇が、乾く。
足音もなく近づく。
あと十センチ。
あと五。
「――やめろ」
声がした。
世界が止まった。
その瞬間、僕の背中に冷たい何かが触れた。
肩を押さえる手。
振り返ると、そこにいたのは、ナギだった。
霧の中で、彼はまるで“描かれた人物”のように立っていた。
銀髪が静かに揺れている。前髪が長く、右目は完全に隠れていた。
左目だけが、鋭く光っていた。切れ長で、瞳の奥に冷たい硝子のような質感がある。
黒いロングコートが、足元まで垂れていた。風もないのに、裾が音を立てずに揺れていた。
細く、白い手には、本革の手袋。
懐中時計が胸元に吊るされていて、金属がかすかに霧の湿気を反射していた。
その姿を、僕は一瞬“人間ではない”と思った。
思った、というより、理解してしまった。
ナギは、きっと、僕と同じように“境界にいる”。
「君、血の匂いに惹かれたんだね」
ナギの声は、静かだった。驚きも怒りもなかった。
「……違う……そんなつもりじゃ、なかった……」
震えた声が出た。口の中にまだ、苦味が残っている。
それは、欲望の残滓かもしれない。
僕の意志が、ほんの一瞬でも“殺したい”と思ってしまった証拠。
ナギは、僕の肩から手を離さなかった。
指先に力がこもっていないのに、まるで逃げられない重さがあった。
「殺したくなかったなら、それでいい」
彼は、ただそれだけを言った。
その一言が、骨の奥に突き刺さる。
「……でも、俺……俺、きっと……」
言葉にならなかった。
膝が震えて、視界が滲む。
しゃがみこむと、全身から力が抜けた。
「止まってよかった。それは、君の中に“まだ”人間の部分が残ってる証拠だ」
「残ってる……って……」
「君は人間じゃない。でも、それが悪いとは限らない」
その言葉には、重さがあった。
理屈ではない。
ナギ自身が、それを体験として知っている者の語り方だった。
僕は、顔を上げた。
ナギの表情は、やはり無感情だった。
だけど、その無表情の奥に、ほんの少しだけ“揺れ”が見えた気がした。
たぶん、彼もまた、誰かに止められたことがあるのだろう。
あの言葉は、“自分に向けて言った言葉”だったのかもしれない。
「……ありがとう」
喉の奥が渇いていた。
けれど、その言葉だけは、確かに自分の意志で出た。
ナギは、ゆっくりと立ち上がった。
懐から古びた手帳を取り出し、何かをひとつ書き込んだ。
「明日、君を“封印の場所”へ連れて行くよ」
背を向けてそう言うと、ナギは夜の霧の中へと歩き出した。
黒いコートが、音もなく闇に消えていった。
僕は、しばらくその場から動けなかった。
自分の中に残る熱。それが“生きている”ことの証明だと思いたかった。
けれど、それはもう、人間のそれではない。
血の匂いは、まだ鼻の奥に残っていた。
それは、消えない印として、僕の中に居座っていた。