血よりも深く ―地方都市“黒神ヶ淵”異譚―   作:くにゅたろ

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第2章 第3話:血の気配

 

 夜の町には、音がなかった。

 いや、正確に言えば、音はある。信号機の電子音、遠くの車の走行音、電柱に結ばれた標識の軋み。

 けれど、それらが“音”として届く前に、すべてが霧に包まれてしまう。

 

 この町は、感覚の輪郭を溶かす。

 視覚も聴覚も嗅覚も、すべてが薄くなる。

 それなのに――嗅覚だけが、突如として鋭敏になった。

 

 

 

 鉄の匂い。

 湿った、温かい、鉄のような匂い。

 鼻腔の奥を焼くような感覚とともに、それが“血”であることを直感した。

 明確な根拠もなく、ただ、そうとしか言えなかった。

 

 呼吸が浅くなった。

 脳が熱い。耳の奥が、じんじんと疼く。

 

 思考より先に、身体が動いた。

 走っていた。

 脚が勝手に地面を蹴り、靴底がリズムを刻む。

 

 ――どうして?

 

 という問いが、遅れて浮かぶ。

 どうして走っている? どうして、誰かを探している?

 

 けれど、もう止まれなかった。

 世界が色彩を失い、血の匂いだけが地図になった。

 

 

 

 気づけば、“誰か”の背後に立っていた。

 若い女だった。ショートヘア、肩にバッグ。

 うなじが白い。耳の後ろが露出している。

 その呼吸の音が、異様にはっきりと聞こえる。

 

 ――吸いたい。

 

 そう思っていた。いや、考えるよりも先に、欲望がそこにあった。

 

 牙が疼く。

 喉の奥が熱を持つ。

 唇が、乾く。

 

 足音もなく近づく。

 あと十センチ。

 あと五。

 

 

 

 「――やめろ」

 

 声がした。

 世界が止まった。

 

 その瞬間、僕の背中に冷たい何かが触れた。

 肩を押さえる手。

 振り返ると、そこにいたのは、ナギだった。

 

 

 

 霧の中で、彼はまるで“描かれた人物”のように立っていた。

 銀髪が静かに揺れている。前髪が長く、右目は完全に隠れていた。

 左目だけが、鋭く光っていた。切れ長で、瞳の奥に冷たい硝子のような質感がある。

 黒いロングコートが、足元まで垂れていた。風もないのに、裾が音を立てずに揺れていた。

 

 細く、白い手には、本革の手袋。

 懐中時計が胸元に吊るされていて、金属がかすかに霧の湿気を反射していた。

 

 その姿を、僕は一瞬“人間ではない”と思った。

 思った、というより、理解してしまった。

 ナギは、きっと、僕と同じように“境界にいる”。

 

 

 

「君、血の匂いに惹かれたんだね」

 ナギの声は、静かだった。驚きも怒りもなかった。

 

「……違う……そんなつもりじゃ、なかった……」

 

 震えた声が出た。口の中にまだ、苦味が残っている。

 それは、欲望の残滓かもしれない。

 僕の意志が、ほんの一瞬でも“殺したい”と思ってしまった証拠。

 

 ナギは、僕の肩から手を離さなかった。

 指先に力がこもっていないのに、まるで逃げられない重さがあった。

 

「殺したくなかったなら、それでいい」

 

 彼は、ただそれだけを言った。

 その一言が、骨の奥に突き刺さる。

 

「……でも、俺……俺、きっと……」

 言葉にならなかった。

 膝が震えて、視界が滲む。

 しゃがみこむと、全身から力が抜けた。

 

「止まってよかった。それは、君の中に“まだ”人間の部分が残ってる証拠だ」

 

「残ってる……って……」

 

「君は人間じゃない。でも、それが悪いとは限らない」

 

 

 

 その言葉には、重さがあった。

 理屈ではない。

 ナギ自身が、それを体験として知っている者の語り方だった。

 

 

 

 僕は、顔を上げた。

 ナギの表情は、やはり無感情だった。

 だけど、その無表情の奥に、ほんの少しだけ“揺れ”が見えた気がした。

 

 たぶん、彼もまた、誰かに止められたことがあるのだろう。

 あの言葉は、“自分に向けて言った言葉”だったのかもしれない。

 

 

 

 「……ありがとう」

 

 喉の奥が渇いていた。

 けれど、その言葉だけは、確かに自分の意志で出た。

 

 ナギは、ゆっくりと立ち上がった。

 懐から古びた手帳を取り出し、何かをひとつ書き込んだ。

 

「明日、君を“封印の場所”へ連れて行くよ」

 背を向けてそう言うと、ナギは夜の霧の中へと歩き出した。

 黒いコートが、音もなく闇に消えていった。

 

 

 

 僕は、しばらくその場から動けなかった。

 自分の中に残る熱。それが“生きている”ことの証明だと思いたかった。

 けれど、それはもう、人間のそれではない。

 

 

 

 血の匂いは、まだ鼻の奥に残っていた。

 それは、消えない印として、僕の中に居座っていた。

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