人生において起こり得るほとんどの事象というものは、大抵の場合は無意味で、無意義である。
そしてそれは人間個々人が有している特徴においても同じようなことが言える。その人がその人である理由に、意味はない。
生きているだとか死んでいるだとか、男だとか女だとか、知識豊富だとか無知蒙昧だとか、独りよがりだとか協調性の塊だとか、破壊だとか創造だとか、
縦書き
だとか横書きだとか、順々だとか
反転だとか、居るとか居ないとか、現実とか空想とか。
友情とか。努力とか。勝利とか。
あとはまー、人生とか。
そーいうの全部、平等にどーでもいい。
たった今どーでもよくなった。
「……あー、そーいう……」
「おいおい、人のことを一目見るなりその態度は失礼なんじゃないのかな? 僕は悲しいよ」
妄想や空想の類ではない。
そんなものを超越した、夢よりも夢みたいな現実。
目の前には、この世の全てがいた。
おれにとっての、唯一にして全。
「まあ、これから嫌ってほど長い付き合いになるだろうからね。よろしく頼むぜ、僕の妹」
安心院なじみが、確かにそこにいた──……え?
「えっと、あれ? 妹でございますか? 弟ではなく……」
「……起き抜けに──生まれ抜けと言うべきかな? まあいい、変なことを言うもんじゃないぜ。ただまあ、そうだな。そんなに自分が弟か妹か分からないって言うんだったら……」
安心院なじみ──お姉さまと呼ぶべきなのだろうか──は、そう言いながらおれの胸の辺りを指差し、こう言った。
「触ってみれば分かるんじゃねーの」
「……えっと、どこを?」
「その僕に似て貧相な胸」
……もー少しオブラートに包んだ言い方はできないものなのでしょーかね。
とりあえず、言われた通りに触ってみますけど──……ふむ、なるほど、これはこれは……。
「……どうやらおれは、本当にお姉さまの妹になっちまったみたいですね……?」
目の前のお姉さまは、薄く微笑むだけだった。
この時のおれは、まさか知る由もなかった。
知っていたはずなのに、理解できていなかった。
おれは、『悪平等』ではない。
そして、主人公でもない。
そのことを知ったのは、五千年前のことだった。
箱庭学園、生徒会室。花の香りが薄く漂うその部屋には、現在七人の人間が介し、会していた──五人の人間と、二名の人外が相対していた。
以下人名。
第九十九代生徒会執行部庶務職、人吉善吉。
同副会長職、球磨川禊。
同会計職、喜界島もがな。
同書記職、阿久根高貴。
一年一組所属、人吉瞳。
以下人外名。
現在無所属、安心院なじみ。
同上、不知火半纏。
半纏のみ背中を向けているため、ここで『相対』と明言するのは少々現実との乖離を招きかねないのだが、便宜上そう形容しておくことにする。
箱庭学園の命運を賭けた生徒会戦挙が終わった今になって、安心院なじみは一体何を目的としてこの場に現れたのか──その説明は、既に本人によって為された。
「つまりはだね、僕はめだかちゃんに白旗を上げにきたわけだ。勝てもしない勝負に出るほど、僕は人間でもないし、それにそこまで愚かでもないしね──きみならよく分かるだろう、球磨川くん?」
『……まあそりゃあ、僕ときみとは長い付き合いになるからね。きみのその皮肉めいた物言いに思うところがない……というわけでもないけれど、しかし僕だからこそ、きみの気持ちは分かるつもりだぜ』
どうやら安心院なじみと旧知の仲であるらしい球磨川は、ひとまずそんなふうに言葉を交わした。
球磨川とて突如現れた人外に混乱しているだろうに、それを一切気取らせないような返答を寄越したのは流石と言うべきだろう。
「そりゃあそうだろうね、どうもありがとう。理解者面が痛み入るね──さて、まあそんなわけで、だ。僕はめだかちゃんと争うつもりはない。それに伴い、きみたちと争うつもりもね」
僕はこれで平和主義者なんだぜ。
安心院なじみは雄弁に語った。雄弁に、そして興味なさげに。
心底、どうでもいいとでも言うように。
「それなら、つまり安心院なじみさん。あなたは──」
「おいおい勘弁してくれよ心療外科医の人吉瞳ちゃん。文字通りに永遠を生きている僕には敬意を払ってくれなくちゃあ──親しみを込めて安心院さんと呼んでくれなくちゃあ」
人吉瞳とて立派な大人──見た目は明らかに幼女であるという事実はさておき──だというのに、安心院なじみはそれでも、こともなさげに『敬意を払え』と口にした。
宇宙よりもよっぽど早くから存在している人外は、ここでもやはりどうでもよさげに、そんな言葉を吐いたのだ。
そして瞳は、目の前の少女の言うことに従うことにしたらしい。ひとまずは相手に話を合わせて、それから真意を探ることにしたようだった。
「──安心院さん、でいいのかしらん? ともかく、あなたが本当に『白旗を上げにきた』のであれば、それはつまり、箱庭学園がフラスコ計画を完全に放棄するということなのよね?」
「いやいや──フラスコ計画は僕の悲願でね、諦めるわけにはいかないんだ。だから、そうだな──」
目を瞑って人差し指を立てながら、得意げにも見える表情の安心院なじみは、自らの将来設計を語った。
否、語ろうとした。だけれど、語れなかった。
先に語られてしまったのだから。
「めだかちゃんの卒業を待ってから、フラスコ計画はその後のんびりと再開することにしたっつーわけなのですよね?」
「ッ!?」
どこか、聞いたことのある声。しかしその声が果たして誰のものだったのか、判別できた者は安心院なじみを除き、その場に存在しなかった。
その声は、あまねく全てに似ていた。
その声は、あらゆる全てに似ていなかった。
「おはようございます、こんにちは、こんばんは、ごきげんよう。おれはここです、ここにおりますとも」
「……っ、そうか! この声、どこかで聞いたことがあると思ったら零組の彼女の声だ!」
「ここにいる、って……あっ、いた! 安心院さんの後ろに──!」
阿久根と喜界島はそれぞれそんなことを口走った。突然人が現れたものだから、それに加えてどこででも聞いたことのある声なんてものを聞いてしまったものだから、やや気が動転しているらしかった。
はて、しかし後ろと来たか。僕の後ろには半纏が控えているはずなのだけれど──と、そこまで考えた末に思い至った。
ああ、なるほど。半纏と僕の間に──もっと詳しく言うのであれば、僕に背中をぴったりとくっつけて立っているな、と。安心院なじみはひとまずそう結論付けた。
そして、そんなことができる者とは、果たして何者なのだろうか。安心院なじみは色々な可能性を考えてみたものの、しかし。
「球磨川くんのツキのなさを移されたかなあ、これは」
こんなことができる奴など、一人しか知らない。安心院なじみはそのように呟きながら、小さくため息を吐くくらいのことしかできなかった。
「……まさか、お前がこんなところに流れ着いて、紛れ込んでいただなんてね──いやしかし、一体どういうつもりでここにいるんだい、お前」
「あらあらまーまー、そんなふうに『お前』だなんていかにも余所者を呼ぶ他所行きな言葉遣いはやめてくださいよ、おれは悲しーですぜ?」
安心院なじみと不知火半纏の登場に凍り付いてしまったその場の空気は、しかし直後に登場したもう一人によって、粉々に粉砕されてしまったと言っても過言ではない。
唯一の一年零組の生徒、通称『善悪違反』。
学園でも名高い平等に不平等な女。誰がどんな方法を使っても名前を知ることができなかった、正真正銘の正体不明。そんな彼女の登場が、果たして何故その場の空気感を破壊するに至ったのか。
答えは単純だ。言うまでもないことなのだ。
だって、そうだろう。公平なる不公平である彼女は、その場にいる誰よりも楽しそうに、けらけらと、からからと、きゃらきゃらと笑いながら、安心院なじみに向かって、確かにこう言い放ったのだから。
「昔のようになごみとは呼んでくださらないのですか?」
背後から安心院なじみに抱きつきながら、薄く微笑んでそんなことを言う『善悪違反』。その言動からは歓喜が薄く滲み出ている。
というか、そんなことよりも。
正体不明であった『善悪違反』の名前が本人の口から明かされたということよりも。
善吉は、彼女と安心院なじみの関係性が、気になって気になって、もう仕方がなかった。
友人の安心院なじみとの関係性が。
「……おい、お前……まさか、そこにいる安心院さんとかいう奴の関係者なのかよ!?」
「ええ、ええ。実はそーなんですよ、善吉くん。言う必要もないから黙っておきましたが、おれはこの人とそれはもう固い絆で、かた〜い絆で結ばれているんです!」
「だったら、お前から言ってやってくれよ! フラスコ計画なんてふざけた計画、さっさと永久凍結してくれって──!!」
「……? おや、善吉くん、あなたなにか勘違いしていませんか?」
藁にもすがる──と言ってしまうと過言かもしれないが、しかしそれくらいの思いで、善吉がなごみにフラスコ計画の凍結を提言してほしいと頼み込んだのは間違いない。
が、しかし。善吉はやはりここでも、物事の本質を見誤っていたと言う他ない。ヒントはそこかしこに散りばめられていたというのに、善吉はそれに気付くことができなかった。
そんなこと、完全に想定外だったから。
「勘、違い?」
「ええ、勘違いです、ひどい勘違いですとも、善吉くん、愛しの善吉くん。どーしておれが、お姉さまのやることを咎めなければならないのですか?」
「ッ!?」
あまりに自然に繰り出された暴論。それが真理であるとでも言うかのような、はっきりとした言葉遣い。恐らく目の前のなごみという人物は、本気でそう思っているのだろう。
が、しかし。またもやそれら全てがどうでもよくなるレベルの爆弾的な情報を、目の前にいる不公平な女は口にしていた。それを聞き逃した者は、その場に誰一人として存在しなかった。
「お……お姉さま、だって? おい、なあ──なごみ、だったっけ。お前……お前の苗字って、一体なんなんだ……?」
善吉には、そう問いかけるのが精一杯だった。だって、先ほどの言葉が、もしも万が一真実であったのならば──目の前の女は、自分たちと敵対するのではないか?
「おや、おやおやおや。おれの苗字なんかに興味があるとは、きみも中々変わり者ですねー、善吉くん。そーですね、それならおれときみの仲ですから、そろそろ自己紹介でもしておきましょーか」
善吉の──その場にいる全ての人間の懸念は。
斯くてどうでもいい真実となる。
「おれは 安心院なごみ」
「一年零組所属の
生徒であり」
「全てに 反するだけの
人外ですよ」
なおも安心院なじみに──姉に背後から抱きつきながら、悪戯が成功した子供のように笑うなごみ。
しかし対照的に、姉であるなじみの方はどこか面倒臭そうな雰囲気を醸し出しながら、こう言ったのだ。
「……まあ、そういうわけだから。愚妹共々、仲良くしてもらえると助かるぜ」
その一言は、善吉たちに『本当になごみは安心院なじみの妹である』という確信を抱かせるには、十分だった。
悪平等の妹であるのだと、そう確信させるのには。