それは力に変わるから。
例え、それが暗く卑しい気持であったとしてもそれを否定しない。
その思いは自分を形成した大切な気持ちだから。
学校から帰り、私服に着替えた後、俺は先生から頼まれた挨拶周りを終わらせるために愛西ライドFSCに来ていた。
背にはリュックサックを背負い、いつも使っているらしい名港のリンクへと足を運んでいた。
「すいません」
「はい? 何でしょうか?」
「ここに愛西ライドFSCコーチの
「わかりました。少々お待ちください」
受け付けの人は中へと消えていき、俺は近くのベンチで座って待つことにする。
本当にこれで良かったのだろうか。
一人の時間が多い分、ふと思ってしまう。やめた方が良かったのか。
暗く、深い水の中に沈むような感覚。同時にやりたいと強く思っている自分がいる。矛盾する思考と行動。今の俺にないものは一体、なんなのだろうか。
「おや?」
「……ん?」
白髪の大柄な老け顔の男性。
分厚いコートにマフラーと重装備ですごく温かそうな人が俺をジッと見ていた。
「えっと、何でしょうか?」
「君は、去年のジュニアGP王者の千仭選手ですね」
「え……なん……で」
「妻が故郷で日本人が全米、GPで優勝したと話題に挙げていたので……」
「あ、それは……どうも……。いえ、すいません。失礼ながらお名前を聞いても?」
「あぁ。失礼しました。私は名港ウィンドのヘッドコーチの
鴗鳥慎一郎。
確か、オリンピック銀メダリストだったはず。三十代近くまで現役選手として活躍した人。コルニウス先生は『いぶし銀のような渋いおじ様なのよねぇ~』などと言っていたがなんだろうか。
なんか、実際に会ってみると思っていたイメージと違う。
全体的にふわふわしている。
過去の試合データを見たことがあるが、闘志に満ちた揺らめく焔のような人という印象だった。だが、今はただ面白いオジサンなのだ。
すごく困惑している。
「あぁ、どうも。俺……すいません。私はルクス東山FSC所属の淵藤千仭です」
「ルクス? アメリカのクラブではないのですか?」
「えっと……昨日付でこっちに移籍する形になりました」
「そうなのですか。では、今日はどのようなご用件で?」
「コルニウス先生の資料を愛西の五里先生へ届けるのとあいさつに……」
などと話していると受付の人が戻ってきた。
「すいません。五里先生は少し遅れるそうですのでどうしますか?」
「そうですか……ならしばらく待っていますね。どのくらいできそうですか」
「すいません。そこまでは」
「分かりました。ありがとうございます」
ここで待機か。
暇だし何か曲でも聞こうかと思っていると鴗鳥先生が俺の隣に座ってくる。
近い。肩が触れそうなほど近い。
「……何でしょうか。鴗鳥先生」
「もし、よろしければ、五里先生がくるまで滑っていきませんか?」
「俺、部外者ですよ?」
「貴方の滑りをクラブの皆さんに見てもらいます」
「良いんですか?」
「ええ、ジュニアGP王者の滑りを見てもらい、これからの目標にしてもらいます」
「言いますぇ。じゃあ準備してきますね」
更衣室で上着を脱いで手袋をはめる。
俺が入ると名港と愛西の子たちは『知らない人が来た』という顔をしていた。完全に部外者の俺に対して警戒心むき出しだが、ジュニアとシニアクラスのスケーターは『何でお前がここに居るんだよ』という顔をしていた。
俺は知らん。鴗鳥先生に聞いてくれ。
「はぁ……」
ため息を吐きながら氷の上に乗る。
なめらかでとても滑りやすい。調子も良くて慣らしは特に必要はなさそうだった。
準備をしていると鴗鳥先生がきて生徒たちを集めていた。
「世界ジュニアGP王者の淵藤千仭選手です。突然の来訪で驚かれている子もいるでしょうが、すいません。私が彼にお願いしました。申し訳ありません」
喋っている中で感じていたが、鴗鳥先生は腰低いから断りにくいんだよなぁ~。
あの場で『だから何だよ。見せねぇよ』と言えばそれで終わりなのだが如何せん、コルニウス先生の知り合いだから断るなんて選択肢はあの時は頭になかった。
「鴗鳥先生、説明終わりましたか?」
「はい、ありがとうございます。曲はどうしますか?」
「交響曲第五番八短調の運命でお願いします」
「わかりました」
俺はリンクの真ん中へと移動して曲が始まるまで待機する。
曲が始まり俺は一気にトップスピードに入り、ジャンプの準備をする。
最初は四回転サルコウに三回転ループ。
シャッ! と着氷。勢いは死んでいない。ならまだいける。もう一本!
四回転ループ。
「四回転を二本⁉」
「間髪入れずに⁉」
ノービスの子たちだけではなくジュニアの一部はあり得ないという顔をしている。
そうだろうな。
俺はスケート歴が二、三年と短い。
だが、俺には恵まれた身体があった。コルニウス先生からも『四回転はできるフィジカルはあるのよねぇ』と言わせるほどだ。
残るは負担という点だけで気を付けておけばいい。四回転は毎週間に六回まで。試合では完全開放という制限の基、練習をしている。
だから、俺は曲かけでしか跳ばない。
そのまま三回転ルッツを跳びステップを踏んでからのレイバックスピン。
そこからトウジャンプの三回転フリップ。
着氷しステップシークエンスへと移行する。
俺は氷の上で描く図形が好きだからこれは誰よりも練習をした。特に明浦路司選手。
俺は彼を参考にスケーティングをフルコピーし俺なりに磨き上げたもの。本人に見られたらたくさん駄目だしされるような付け焼刃なモノだった。
だが、今はGPの時よりも上手くなっている。
俺を見ろ。俺を感じろ。俺という存在をお前らの記憶に刻み付けてやる。
「スゲェ……」
「何だよ……アレ……」
「すごく、キレイ」
そうだろ。
俺は、この燻ぶってる
四回転トウループ。
「三回目⁉」
「足の感覚どうなってんだよ!」
「後半に四回転⁉」
「頭おかしいだろ……」
驚け。世界ジュニアGPの王者の称号は伊達じゃないってとこを見せてやるよ。
最後のジャンプ。
トリプルアクセルにオイラーからの四回転サルコウ。俺が最も使う得意コンビネーション。
足換えコンビネーションからのシットスピンからブロークンレッグ。足換えからのサイドウェイズにI字スピンのコンビネーションスピン。
最後まで気を抜かずに踊り切る。
「どうですか?」
「素晴らしいの一言ですね」
「そうですか……」
そう言われ、俺は両手を広げ高らかに叫ぶ。
「名港と愛西の皆さま! 本日は俺の突然の曲かけに付き合って下さりありがとうございます! これが世界を獲った滑りです。願わくば、俺を超えると決意してくれることを切に願います」
そう締めくくり、俺はリンクを降りる。
ベンチに座り、天井の証明を眺めていた。
「淵藤! 悪いな待たせて」
「五里先生。どうも」
「てか、お前、さっき滑ってたな。前よりも上手くなってるじゃねぇか」
「いえいえ。これからブラッシュアップしてより鋭く、鮮麗にしますよ。それよりも、コレを」
そう言って俺はA4の封筒を渡す。
「コルニウス先生と作った成長期の食事に関する資料です」
「おぉ! 良く手に入ったな!」
「まぁ、データが目の前にいるので……」
「えっ?」
「それ、俺の二年間のデータもあるので参考にしてください。近々、アメリカでも発表されますけどそれは俺が日本語訳をしたので読みやすいはずです」
「至り尽くせりだな」
「まぁ、俺もスポーツ医学関連でお世話になりましたし……」
「そうか。しかし、大きくなったなぁ」
「そうですか? 向こうではこれくらいないと戦えないですよ?」
などと会話していたのだが、五里先生の後ろについ一時間前に分かれた同級生の姿が見えた。
「え……岡崎さん?」
「……淵藤」
「え? お前ら、知り合い?」
「同級生ですね」
「最悪……何で居るの?」
スケートって強豪になるとメンバーが固定になるから狭い世界だと思っていたがここまで狭いと逆に狙ってるのかと言ってしまいそうになる。
しかも、岡崎さんの目は赤く腫れてる。泣いていたのだろう。流石に見るのも指摘するのも酷だと思い、用件も済んだので帰ろうとするのだが、裾を岡崎さんに捕まれてしまう。
「ねぇ、淵藤」
「何かな? 岡崎さん」
「どうしてアンタは、あんな滑りができるの?」
その真剣な眼差しに、少しばかり俺は自分と重ねてしまった。
岡崎さんは俺と同じように何かで迷ってる。それが家族なのか友人なのかは分からない。でもこれだけは言えた。
「俺は、胸の中にあるいろんな思いを糧に跳んでるよ。後悔とか、憎悪とかも含めて全部。抱えてるもの全てを吐き出してみればいいよ。案外、行けるもんだよ」
「……ありがと。ちょっと試してみる」
「そう? なら、これを渡しておくよ」
俺はメモ用紙を渡す。
「これは?」
「俺の連絡先とID。いらなかったら捨てていいよ。じゃ……」
「うん……」
そのまま俺は帰宅し、就寝するころに携帯を確認したら岡崎さんから返信が来ていたので『これからよろしくお願いします』と返して床についた。