正反対の存在だったとしても全てを呑み込む。
それが貴方の望まぬ結末に誘うとしても止まることはない。
暖かで、柔らかな感触が顔全体を包み込まれ目を覚ます。
「ん?」
昨日、俺はソファで寝たはず……。
なんだ、この灰色の布は。ふと、背筋が凍る感覚が全身を駆ける。
違う、これは俺が岡崎さんに渡したパーカーのはず。ベッドを使っていいといったはずなのに目の前には……。
やめよう。やめるべきだ。
そう、思いつつも少し顔を上げると岡崎さんが規則正しい寝息を立てながら寝ていた。
「……」
声にならん悲鳴が上がりそうになる。
俺は、岡崎さんに抱きしめられる形で寝ている状態だ。動こうものなら彼女が目を覚まし、凄惨なめに合うことは必至だろう。それに頭を両腕でロックされてるため顔を上下にしか動かせない。
おまけに俺の両腕は彼女が落ちないように抱きしめている。
離れなければならないのだが、どうしても動きたくなかった。すごく、心地よくて安心する匂い。ずっとここに居たいとすら思える安心感が俺を包んでいた。
「ふふっ……」
「っ……!」
起きたのか?
身体を強張らせて視線を戻すが、彼女の手が後頭部を優しく撫でておりギュッと再び抱きしめられてしまう。
「ぅ、ぁ……」
脳がぐずぐずに蕩ける様な感覚だ。
今まで誰かに甘えたり弱味を見せることができず気を張りすぎていたのもありここにきて張りつめていた糸が切れた。
「いいこ、いいこ……」
「…………」
「よく頑張ったね……もう、大丈夫だから」
駄目だ。
感情が抑えられない。
両目から溢れる涙が、止まらない。
俺は――頑張ったのだろうか。頑張っていたのだろうか。
どれだけ頑張っても、向けられるのは敵意と憎悪。俺が同じモノを向けているから帰ってくるのはそれしかないと分かっていた。それでも、俺は、誰かに認められたかった。
頑張ったんだ。
誰も守ってくれない。だから強くあるしかなかった。
何処へ行っても、ずっとこのままなんだって思った。もう両親のいた日常は、帰ってこない。ようやく、区切りをつけることができるかもしれない。
「ん……淵藤? また泣いてるの?」
「あぁ、俺……この気持ちに区切りをつけるよ」
「そうなの? じゃあ、頑張らないとね」
「うん……ありがとう。岡崎さん」
「いるか……」
「?」
「名前で良いよ。私も千仭って呼ぶから」
「ありがとう。いるか……さん」
「ふふっ。今は、それで良いよ」
俺は彼女の言葉に、救われたんだ。
涙を拭い、俺は今日の支度を始めた。
***
ルクス東山スケートリンク――。
あの後、いるかさんとはお互いに練習のために分かれた。
いつもよりも身体が軽く、『眼』の調子も良い。
「淵藤選手……」
「明浦路先生、何ですか?」
「いや、何かあったのかなって。いつもよりも動きがいいしエッジもちゃんと入ってる。すごくいいよ!」
「ありがとうございます。あと、少し時間貰えますか?」
「え? 良いよ。何か相談事?」
「あ~まぁ、そんなところです」
一度、リンクサイドに入り、俺は持ってきたシューズを明浦路先生に渡す。
「えっと……淵藤選手? これは?」
「シングルのシューズとブレードです。これ使って一度、先生の滑りを見せてください」
「良いけど……俺は……」
「言い訳はいいのでさっさと履いて滑ってください。引き出しが多いことに越したことはないですよね?」
「まぁ、そうだね……」
「あと、俺のことは千仭で良いです。俺もここの生徒で明浦路さんは先生なんです。改めまして、よろしくお願いしますね」
「分かったよ。千仭さん」
取り合えず、明浦路先生には俺のSPを通しで滑ってもらうことになった。
「ねぇ千仭さん。本当に滑るの?」
「普通に滑れてるので大丈夫だと思います。あと、一回転でいいのでジャンプもお願いします」
「え?」
「高峰先生から明浦路先生は一回見れば大体覚えれると聞いています。なので一回俺が滑るので覚えてください」
一通り、俺が一度滑りを見せた。
明浦路先生の元へ戻ると、彼は不安げに俺を見てくる。『これをやるの? 本気?』というのが顔から滲み出ているのだが先生には悪いがこれはやってもらわなきゃいけない。
「先生?」
「千仭さん。俺は……その……」
「階級とか関係ないですからね?」
「え?」
「俺は、アメリカでコルニウス先生にクラブに入る条件で二回転アクセルを跳べなきゃ入れないと最初に言われました」
「えぇ……」
この話、あまりしたくない。
でも先生って選手としての未練を断ってコーチになってる。彼の滑りを見て、そう思った。一度、夢破れてそれでもあがいている滑り。コルニウス先生と似たタイプだというのは見てすぐに分かった。
「先生が選手に未練があるかもしれないって思ってます。でも、これから結束さんのコーチとして、彼女を導くのなら……やるべきだ」
「……っ!」
「指導者として、この経験は必ず役に立つはずだから」
「分かった、やってみるよ」
改めて、俺は明浦路先生のスケーティングには目を見張るモノがある。
観察するだけでも価値はあるといえる。
ブレードの食い込み、重心の位置、加速と緩急のタイミング。身体の細かな動き音楽との同調性。これ以上にないほど上手い。何より、先生がリンクに掛けた執念を感じる。
絶対に氷の上を自分の居場所にしたいという決意と熱量をこれでもかと感じる滑り。
そして何よりも俺と同じなんだ。
明浦路先生も俺と同じ『眼』を持ってるんだ。それも、無自覚に。
精度と持続可能時間は俺よりもずっと長い。ジャンプも一回転とは思えないほど綺麗な着地。沈みもなく着氷も軽やかで嫉妬すらしてしまうほどの上手さだ。
「先生……スゲェよ……!」
持っている能力は俺と同じでありながら互いに根付いている信念は真反対。明浦路先生が目標までの道標を照らす正道なら俺は深淵から全てを呑み込もうとする邪道。
――それでも俺はやらなきゃならない。
全てを血肉にして俺専用にブラッシュアップする。
必要なピースは全て揃ってる。
「千仭さん。どうかな?」
「……」
「千仭さん?」
「先生は、俺と同じなんですか?」
「え……?」
「俺と同じ《俯瞰視点》を持っているんですか?」
「俯瞰……視点? それはどういう意味かな?」
この様子だと自覚は無し。
自信がないというよりも自分自身に対して劣等感の方が強いと言ったほうが正しい。自分の能力の高さや才能を否定したいのだろう。
今まで苦労していた分、自尊心とかそういう物が極端に低くなっている。故に気付かない。
「ご自身の動きが分かっているような動きなので、明浦路先生も俺と同じ眼を持っている人かと思いました」
「そう……だね。俺はスタートが遅かった……その分、劣等感で視野が狭くなっていたのかもね」
「なっているでしょう? 現にジャンプなんて余裕だったじゃないですか」
「うぅ……言葉が……刺さる」
「でも、これは大きな収穫じゃないですか? これから、より的確に指導をお願いしても良いですか? 司先生」
「じゃあ、これからもう少し厳しくいくから覚悟してね!」
「はい……!」