空が、裂けていた。
陽も星も奪い尽くすほどの漆黒に穿たれたそれは、あまりに巨大で、あまりに不定形だった。輪郭は球体――に見えるが、あらゆる線が粘り、揺れ、絡まりながらもどこか蠢いている。表面にはいくつもの眼孔がひらき、いくつもの口が、耳障りな声を発す。
口は笑っていた。
あるいは、泣いていた。
いや、言葉を喋っていた。
「ねぇ、みせてよぉ――」
「ひっくりかえしてみようよ、きっとたのしいよ?」
「ぐちゃぐちゃ、おもしろい」「おまえのなか、きっときれい」
「さっきのこ、まだうごいてたよ? かわいいね」
「うごかなくなったら、さびしいなぁ」「ほかのこ、いないかな」
「つくろうよ、あたらしいこ。おなじにして、にたようにして、まざっちゃってもいいや」
どれも子供の声で、無邪気で、無垢で、そして――酷薄だ。
それらの声が空から何重にも降り注ぎ、地に染みる。逃げ惑う人々の頭蓋に、耳の奥に、意識の境界にまで届いてくる。
そのとき、誰かが地を踏み鳴らした。
音が、空気を裂いた。地面がひときわ強く震え、逃げ出した者たちの影が一瞬止まった。
そこに立っていた。
黒衣の戦士。仮面を被った魔法使い。矛を携えた巫女。
彼らは逆光を背に、丘の上に並び立つ。だが中心にいたのは、ただ一人の男だった。
彼は、剣を持っていた。
その刃は光を受け、まるで夜を裂くようにきらめく。全身を包む銀鎧は、傷だらけで、それでもなお“象徴”としての威厳を崩さない。
その姿は、まさしく――勇者。
髪は風に逆らうように立ち上がり、眼差しは燃えるようにまっすぐだった。威圧など超えて、存在そのものが「味方」であることを告げている。
背後に従う仲間たちは皆、それぞれに異なる信念を宿した装いをしていた。仮面の魔法使いは浮遊する写本を伴い、巫女は空の異形に対し、祈りとも呪詛ともつかぬ言葉を紡いでいる。彼らの姿は明瞭ではない。だが、その“勇者”を中心に、ひとつの力として結ばれているのがわかる。
空のそれが、面白がるように声を上げた。
「きらきら、きれい。きれいなからだ」
「やっつけごっこするの? するの?」
「いたいの、やだよぉ? でもいいよ、でもいいよ」
勇者はその声に顔色一つ変えず、剣を掲げた。
その声音は雷鳴のごとく、戦場全てに響いた。
「気張りなさい!!あんたたち!!!」
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イグの街。
地図の端っこ、山と川とに挟まれて、小さくぽつりと存在する人口400人の街。
街道の幹線からは少し外れているが、土は豊かで、温泉も湧く。旅人が滞在するには悪くない立地だ。街の中央にある広場では、子どもたちが遊び、それを見て市民も和んでいる。その大通りにひときわ目を引く看板が揺れている。
赤いルージュで描かれた唇のマークと、その下に踊るような文字――
「レ・ボーテ・ユリィ」。
古びた洋館風の店舗の扉をくぐると、ほのかに花と香草の混じったような匂いが鼻をくすぐる。壁際にずらりと並ぶ魔道具は、美容系のものから、日用品、ちょっとした護身用まで。
数多くの魔道具が並ぶ店内では、今日も今日とて姦しい。
「それでね、あたし言ってやったの。三日連続で肌の調子がいいなんて、そりゃ魔道具のおかげってバレバレでしょうがって!」
「やーんアンナちゃん、それ本人に言ったの!?」
「もちろんよォ!あの子私の化粧水にケチつけてほんとにやんなっちゃうわ!!!!」
店の奥、ぐるりと囲むように座る妙齢の女性たち――いわゆる“花の会”と呼ばれる常連連中の中で、ひときわ派手な声が響く。
「はーい。お紅茶のおかわりが入ったわよ〜。」
「マダム〜、聞いてよ!!アンナったらね〜」
「はいはい。待っててちょうだい。」
マダム・ユリィ。
艶やかな黒髪をゆるやかに結い上げ、頬には薄桃色の化粧が差してある。長い睫毛と鮮やかな唇、まっすぐに背筋を伸ばした所作は、品がありながらもどこか挑発的。男とも女ともつかぬその立ち姿に、初見の者はみな二度見する。だがこの街の住民たちにとっては、見慣れた麗人である。
「ねぇユリィちゃん、この前のアイカラーね、旦那に褒められたのよォ」
「でしょう!? あたしが作ったのよ、褒められなきゃ承知しないわ。で、そのあとどうしたの?」
「ふふ、ちょっとだけ……ねぇ」
「やだァ、あたしにも教えなさいよそのちょっとを!」
口元に指先を添えて笑うユリィに、婦人たちは「またそれぇ」「マダムやめてよ〜」と口々に返す。
まるで小さな舞台劇のような和やかさが、店内に咲いていた。
……だが、その空気の片隅に、明らかに場違いな存在が三つあった。
扉のそば、目立たぬように肩を寄せ合って立っている、若い男たち――冒険者風の三人組。
一人は細身で、剣を腰に下げている。もう一人は弓を背負い、三人目は鎧の肩当てをつけているが、皆どこか気まずそうに視線を泳がせている。
勇気を振り絞るように、最年少らしき少年が小さな声で呟いた。
「……あ、あの!……武器、強化してもらえますか……」
その声に、店の空気がすっと静まった。
マダムたちは一瞬動きを止め、次の瞬間には微笑ましげに視線を向ける。
ユリィは唇に笑みを湛えたまま、くるりと視線を彼らに向ける。
そして――芝居がかった身振りで手を頬に添えると、こう言った。
「あらあら、かわいい子たちが来ちゃったじゃない。ごめんなさいねぇ、あんたたち。続きはまた今度。茶請け話忘れないでねぇ〜」
「やーね、ユリィちゃん。若い子にメロメロなんだからぁ。」
「若いっていいわねぇ~!」「あたしたちも昔は……」
「昔“は”ねぇ」「やーねぇ!」
くすくす笑いながらマダムたちが席を立ち、軽やかに店を出ていく。
ドアベルの音が遠ざかるころ、ユリィは改めて若者たちの方に歩み寄った。
外の陽光がガラス越しに差し込み、ユリィの影が彼らをやさしく包み込む。
男たちは圧倒されたように言葉を失っていたが――そんな彼らに、ユリィはいたずらっぽく目を細めて、言う。
「ようこそ。ここは《レ・ボーテ・ユリィ》――美と力の、気まぐれな魔道具店よ」