ここは《レ・ボーテ・ユリィ》店裏――
街の奥様方が集う、香りと喧騒の魔道具店の、その裏手にひっそりと広がる私室。
そこはマダム・ユリィの住まいであり、彼女の“素顔”が覗く場所でもある。
部屋に足を踏み入れれば、まず目を引くのは整然と並んだ雑貨の数々。
色とりどりの化粧瓶、煌めく香油の瓶、柄入りの櫛や魔術的な調香アイテムまで――
どこを切っても可愛いと美が散りばめられていた。
それだけではない。
この空間には拡張の魔術がかけられており、外から見た面積の倍以上の広さを誇っている。
天井は高く、奥にはふかふかのソファやら、猫脚のバスタブやら、謎の全身ミラーが並ぶユリィの楽園が広がっていた。
そんな空間の一角――
香り立つキッチンでは、マダム・ユリィが華やかなエプロン姿で鍋をかき回していた。
ふわりと花柄が踊るリボン付きのエプロン。肩ひもには刺繍、裾にはフリル。
だがその愛らしい布の下では、両腕が迷いなく巨大な鍋をかき混ぜ続けていた。
その姿は、可憐と逞しさの見事な融合だった。
「もう少しだから、ちょっと待ってなさいね〜」
そう言いながらも、ユリィは振り返らずに鍋を回していく。
鍋から立ちのぼる香りは、食欲をくすぐるスパイスと優しい甘味の混合。
野菜、肉、薬草、隠し味の香油――次々と加えられていく料理は、体と肌の回復を同時に狙ったマダム独自の回復レシピである。
やがて鍋の中身を器に盛ると、彼女は鍋つかみ片手にリビングへと運んでいった。
そのリビングには、すでに戦いの痕跡があった。
空になった皿、食べ尽くされたパン、カトラリーすら置き去りにされたままのテーブル。
そこに座っているのは――
黄金を思わせる明るい金髪に、雷光のような緑のメッシュが混ざった青年だった。
まだ若い。だが、線の整った顔立ちはどこか鋭く、
整った鼻梁と涼しげな目元に、凛とした戦士の雰囲気を漂わせている。
その美貌は、どこか影を孕みながらも、確かに目を奪うタイプの男だった。
青年は、ちらりとユリィを一瞥する。
だが視線はすぐに器へと戻り、またもがっつき始めた。
「も〜、そんなに急がなくても逃げないのに〜」
ユリィは肩をすくめながらも、皿をテーブルに置いて小さく笑う。
目の前で食欲を爆発させる青年を眺めながら、ユリィはどこか呆れたように、それでいてわずかに目を細めていた。
「うるせぇ……っ、こっちは、久しぶりの……まともな、飯なんだよ……!」
がつがつと、空腹のまま獣のように喰らう青年。
パンを一口、スープを三口、肉と野菜を交互に詰め込みながら、合間にしっかりスープも啜っている。
行儀がいいとは言い難い。だがその一挙手一投足に、まるで命が吹き返していくような気配があった。
「はいはい。落ち着いてからでいいわよ、感想は」
ユリィはそう言って、対面の椅子にふわりと腰を下ろす。
腕を組み、肘を軽くテーブルに乗せて、じっと目の前の青年を見つめた。
――その横顔は、まだ幼い。
(十八……いえ、もっと若いかもね)
(それに久しぶりの飯? この辺りは貧富の差も少ないはず。浮浪児なんて最近見かけないし……)
孤児院の年齢でもなければ、旅の冒険者にしては所持品が少なすぎる。
第一、あのフードと髪色――目立つくせに、本人には誰にも気づかれたくない雰囲気がある。
思案しつつも、ユリィはその食べっぷりにほんの少しだけ頬を緩めた。
誰かが美味しそうに食べる姿というのは、理由もなく幸福感をくれる。
「……お前は食べねぇんか?」
ふいに顔を上げた青年が、気まずそうに口をぬぐいながら訊いた。
「っふ、そんな料理を守ってる人に言われてもねぇ」
ユリィはくすっと笑い、揺れる睫毛の奥で目を細める。
「あたしはいいの。みてるだけで、お腹いっぱいになるから」
その言葉に、青年はなぜか小さく眉を寄せた。
だが何も言わず、再び器に向き直る。
そのまま、最後のひと口を食べ終えるまで、ユリィは黙って見守っていた。
半刻ほどして、ようやく全ての皿が空になった。
青年は大きく息をつき、椅子に背をあずけて言った。
「……っぷ。あー……まじで、うまかったぜ。ありがとな」
その顔は、食う前よりもずっと人間らしい。
ユリィはにこりと笑い、手を叩いて言った。
「はい、お疲れ様。……美味しかった?」
「あぁ。……最高だったよ、マジで」
「そう、よかったわ。それじゃ――ちょっとお話、聞かせてもらいましょうか?」
ユリィはパンッと軽快に手を叩いた。
その瞬間、テーブルの上の食器類がカタカタと音を立てて動き出し、キッチンの方へと自律的に歩き出す。
浮遊する皿、踊るフォーク、列をなすスープ皿。
「……は?」
目を丸くする青年をよそに、ユリィはふわりと肘をついて体を傾けた。
姿勢は優雅だが、視線は鋭い。
「あんた、なんでまたあんなところにいたの? 森って言っても、あそこは魔物が出る可能性だってゼロじゃないのよ?」
「……あんな場所にいる魔物くらい、敵じゃねぇよ」
「倒れてた子に言われてもねぇ〜」
ユリィは肩をすくめ、意地悪く唇を尖らせる。
「あれは……たまたま、寝てただけだ!!」
語気は強いが、青年の顔にはまだ疲労の色が残っていた。
擦り切れた服、汚れたフード。靴の裏はほつれ、手の甲には薄い擦過傷がいくつも走っている。
道中の過酷さを物語るその姿は、彼が“寝ていただけ”というにはあまりに嘘くさかった。
(……この街に、そうまでして来る理由なんて、ある?)
ここは長閑な街。温泉と薬草以外に取り柄はなく、観光地というほどの規模でもない。
そんな場所に、あんなに疲れ果てるまで歩いて来た理由……。
最初は流れで家に連れ帰ったけれど、もしかして、妙な厄介ごとに関わってしまったのでは――
そんな予感が胸の奥をくすぶりはじめる。
「それで?」
淡々と問いかけるユリィに、青年はしばらく黙っていた。
何かを躊躇うように、迷うように、口を開く。
「……人探しに、来た」
「人を? なるほどねぇ〜。どんな人なの?」
人口四百。顔の広いユリィの情報網をもってすれば、見つけ出すのはそう難しくない。
軽い調子で問い返したその瞬間、青年の表情にわずかな影が落ちた。
「……わかんねぇ」
「え?」
「……どんなやつか、わかんねぇんだよ」
その答えに、ユリィはぱちくりと瞬きした。
「顔とか髪型とか? 性別、年齢……せめて何か手がかりはあるんでしょう?」
「顔も髪も……わかんねぇ。どういう奴かも、わかんねぇ。だけど――」
言いかけて、言葉を濁す。
喉まで出かけた何かを、飲み込むように口を閉じた。
「……やっぱ、わかんねぇ」
「ふ〜〜ん……?」
ユリィは、長い睫毛を伏せて紅茶を一口啜った。
カップの縁越しに見える青年の目は、曇っていて、でもどこか切実だった。
(なーんか、隠してる感じね。……あ〜〜〜……こりゃ、間違いなく厄介ごとに首突っ込んじゃったわ)
そう思いつつも、すでにご飯を食べさせた相手を追い出せるような性格でもないことを、ユリィ自身が一番よくわかっていた。
「わかったわ!」
パンッ!と派手な音を立てて、ユリィは勢いよく立ち上がった。
机が軽く揺れ、紅茶の残りがカップの中で小さく波打つ。
突然の大声に、青年はビクリと肩を跳ねさせた。
だがそんな反応をよそに、ユリィは勝手に宣言を始める。
「あんた、うちに来なさい!」
「……はあ!? 何バカなこと言ってんだよ!!」
「だって、もともとこっちに“用事”があるんでしょう? だったら宿が必要になるのも当然じゃない」
「いや、そうだけどよ……勝手に決めんな!!」
「勝手じゃないわよぉ〜。どうせお財布、カラッカラなんでしょ?」
「……っ!」
図星だった。青年の目が泳ぐ。
ユリィは勝ち誇ったように片目をつむり、ウインクをひとつ。
「だったらここにいた方が、お得よ? 飯も寝床もついてるし、美容にもいい空間なのよぉ?」
「……んなの、いらねぇよ。外で寝れる」
「衛兵に捕まって、牢にぶち込まれても?」
「街の外に出りゃ問題ねぇ」
「まあ! ここら辺には《影狼》が出るのに? 寝込みを襲われたら、あっという間よぉ?」
影狼――夜の狩人。
地中から音もなく現れ、暗闇に紛れ、獲物の気配に敏感な群れの魔物。
旅人を襲う代表格として、イグ周辺の森では知られた脅威だった。
「……問題ねぇ」
青年は低く答える。
頑ななその言葉に、ユリィは頬をふくらませて言い返した。
「も〜〜〜、強情なんだからっ!」
「お前だってそうだろ!!」
ふたりの声が重なり、一瞬だけ空気が止まった。
……そして、ユリィは小さく息を吐いて、腕を組む。
「……う〜ん、どうしよっかな〜〜」
ぶつぶつと呟きながら、斜め上を見て考え込む。
いつもなら、ここまで拒否する相手なんて放っておくのに――
(……どうも、ほっとけないのよねぇ)
今にもふらつきそうな体。
無理をして平気なフリをするその目。
そして――どこか居場所がないとでも言いたげな、空虚な声。
(これが……母性!?)
……断じて違う。
だが、その気持ちのままに、ユリィは再び彼に向き直った。
「じゃあ、こうしましょう」
「……は?」
「うち、ちょうど人手が足りてないのよ。魔道具の仕分け、補充、調整、あと接客……いろいろあるけど、あんた働けるでしょう?」
「……」
「住み込み、三食付き、寝具と入浴設備完備。お給料は出ないけど、悪くない条件だと思うわよ?」
にっこり、満面の笑み。だがそこには逃げ場などひとつもない。
青年は口を開けたまま、なぜか返す言葉を失っていた。
「それにね」
ユリィはそっと目を細め、少しだけ声を柔らかくした。
「……あんた、どこにも行く場所なさそうだもの。だったら――ここが、最初の場所でいいじゃない」
その言葉が、青年の胸に何かを落とした。
沈黙の中、彼はしばらく視線を彷徨わせ――そして、ぽつりと呟いた。
「……朝、寝坊しても……怒んなよ」
「当然、怒るわよォ!」
こうして、ボロボロの青年と――母性?に満ちあふれた麗人との少し奇妙で、どこか可笑しな共同生活が始まるのだった。
***
余談
「あたしはユリィ。マダム・ユリィよ。好きに呼びなさい」
黒髪をかき上げ、どこか得意げにウィンクするその姿は、街の誰もが知る看板娘ならぬ看板マダム。
対する青年は、気の抜けたような調子で言い返す。
「へいへい。俺はナバアだ。よろしくな、おっさん」
――静寂。
ソファに腰かけたままのユリィが、笑顔のままぴたりと動きを止める。
部屋の空気が、すっと冷えた気がした。
「……次にそう言ったら、粉砕するわよ〜?」
涼しげな声とともに、手元のコンパクトがパキンと音を立てて握りつぶされる。
冗談めいていながら、どこか本気を感じるその声音に、ナバアは反射的に背筋を伸ばした。
「……マダム・ユリィ」
「よろしい」
マダムは満足げに頷くと、食器を洗いにキッチンへと歩いていく。
――こうして始まったふたりの物語は、まだ誰も知らない勇者譚の、ほんの前日譚にすぎない。