氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
メダリストは、全人類読め。
00 大須スケートリンクの夜
「なんでフィギュアやめちゃうの? あんなに上手なのに……」
リンクを出ようとした瞬間、背中から聞こえた声に足が止まった。振り返ると、3つ年下の妹分が立っていた。
切り揃えられた前髪の間から見える潤んだ瞳で、まっすぐに俺を見ていた。
「ミカちゃんもいなくなっちゃった……毎日、一緒に滑るって約束してたのに」
練習着のまま駆けてきたらしく、前髪が汗で額に張り付いている。小さな手が、後ろから俺の服の裾をきゅっと掴んだ。
「葉までいなくなっちゃったら……私、ひとりぼっちになっちゃう……」
声はだんだんと鼻にかかり、かすかに震えていた。
普段の強気な様子は見る影もない。泣きたいのを我慢していたのがひしひしと伝わってくる。だけど、もう限界だったのかもしれない。
彼女とはもう4年の付き合いだ。5歳から9歳へ──人生の半分を共に滑ってきた彼女にとって、このクラブの仲間は、もはや家族みたいなものだっただろう。
「……ごめんな」
しゃがんで彼女の目線に合わせると、俺は袖で彼女の涙をそっと拭った。
「いつか、また一緒に滑ろう……いるかなら、俺なんかすぐ追い越すだろうけど」
口にしてから、これは逃げの言葉だと自覚した。彼女が本当に欲しかったのは、こんな未来の約束じゃなくて、“今”の俺だったのに。
「……ごめん」
彼女は何も言わなかった。小さな肩がわずかに震えていた。
そっと頭を撫でて、背を向ける。リンクの出口へと歩き出した瞬間、
「葉なんて……大っ嫌い!!!」
怒鳴るような声が、リンクに響いた。
でも俺の足は止まらない。泣き顔を見せたくなかった。ただ、それだけだった。
車に乗り込むと、バックミラー越しの眼差しが静かに俺を見ていた。
「……それで、いいの?」
「耳あたりの良いことなんて言えないよ。もう、残れないんだし」
遠ざかるリンク。泣き声が、車の窓越しにぼやけて聞こえる。
「……そんなに泣くなよ」
そう呟いた自分の声には、震えが混じっていた。
◆
その日の夜、ネットニュースの片隅に小さな記事が掲載された。
『全日本ノービス男子4連覇──未来のオリンピアン、突然の引退』
通常、小学生の引退がニュースになることは、まずない。あまりにも当たり前のことだからだ……"彼"を除いては。
──その才能は、消えるにはあまりに眩しすぎた。
全日本ノービス選手権で4連覇。さらにそのノービスの上位選手が推薦出場した全日本ジュニア選手権でも2連覇。
まだ小学生だった彼が、高校生たちを押しのけて表彰台の頂点に立つ──そんな光景は、フィギュア界に夜鷹純以来の十数年ぶりの衝撃をもたらした。
通常、ノービスの4年間を4連勝した選手はオリンピアンになるというジンクスがある。
彼は、間違いなく未来の金メダリストとまで言われた。夜鷹純の再来だと。
だがその名前はその日、突然氷の上から消えた。スケート界がざわつく中、少年は背を向けた。
やがて、彼は“過去にいた天才”として、人々の記憶から徐々に薄れていく。
──それから、6年後。
名古屋 大須スケートリンクにて。
「あれ……整氷の時間なのに、誰か滑ってる?」
忘れ物を取りに来たルクス東山FSCアシスタントコーチ明浦路 司は足を止めた。
珍しく貸切予約も入っていない夜のスケートリンクは静まり返っていた。
一般営業も終わり、クラブの練習も終わった後。製氷車の整備が始まるまでのほんのひととき。リンクには誰もいないはずだった。
白銀の氷上を、ひとりの青年が舞っていた。
白髪がリンクの薄暗い照明を受けて淡く光る。まるで氷の精霊でも見ているかのように、司はその姿に目を奪われた。
整氷前の荒れたリンクとは思えないほど、彼の滑走は滑らかだった。
流れるようなエッジワーク。音もなく回転し、また疾走する。
目を引かれたのは、そのスピードだけではなかった。重力を感じさせない浮遊感と、足元に残るラインの正確さ。まるで氷の上に絵を描くような感覚で、ターンやステップを繋げている。
(誰だ……?あんな滑りをする人、近くのクラブでも見たことがないけれど)
司は反射的に足を止めた。
氷の上の青年は、バッククロスから自然な流れでモホークに入り、そこからロッカー、ブラケット、カウンターと次々にターンを繋いでいく。
途中、身体の軸を崩すことなくツイズルを差し込んだかと思えば、チェンジエッジを挟んで、スリージャンプのような軽い跳躍。滑りの密度と美しさに、思わず司は息を呑んだ。
──と、そこで彼が来ているジャケットに"大須スケートリンク"の文字が書かれていることに気が付く。
(もしかして……このリンクのスタッフ?いや、それにしては……)
体が自然に前に出ていた。
彼のステップが終わる頃には、司はリンクサイドのガラス越しにぴたりと立ち尽くしていた。
青年の身体がふっと浮き、リンクの中心で跳躍した。アクセルジャンプ。回転数は控えめだったが、流れの中で跳ぶには十分すぎる高さと幅。
着氷で少し軸がブレたが、それでも回転は抜けずに踏みとどまった。
(今の踏切は……明らかに高回転ジャンプを意識してた)
ごく自然なエッジ切り替え。高い重心制御。そこに宿るのは、「滑れる」レベルの話ではない。
司自身、これまで数多くのスケーターの演技を見てきた。その中でも、今目の前にいる青年の滑りは“別格”の何かを感じさせた。
(あれが……ただのスタッフの滑りなのか?)
司の胸に、熱いものが湧き上がる。
リンクの端まで滑り抜けた彼は、慌てた様子で穴を補修し始めた。どうやら、これは製氷業務の合間の“遊び”だったらしい。
──冗談じゃない、と司は思った。あんな滑りが、ただのアルバイトの余興で出せるものか。
気づけば、足が勝手に動いていた。声をかけるつもりなどなかったのに、思わず口が開いていた。
その時、青年がリンクから上がろうと向かってきた。司の存在に気づいたようで、一瞬だけ驚いたような顔をする。
「あ、あのっ……」
司が声をかけると、青年はビクリと肩を震わせた。
「わっ!?び、びっくりした……」
驚いた表情のまま振り返る青年と、目が合った。
整った顔立ち。顔にかかる少し伸びた白銀に光る髪。だが、それよりもなによりも──その瞳を、司は知っていた。
(……
名前が脳裏に浮かんだ瞬間、全身に電流が走ったような感覚に襲われた。
まさか、本当に本人なのか?一度は突然消えた天才──6年前、あまりにも突然に引退を告げた未来のメダリスト。
「碧芽 葉選手……ですよね?」
思わず口からこぼれた問いに、青年──葉が一瞬だけ固まった。
「……えっと……そう、です。"元"選手ですが……覚えてもらえていて嬉しいです」
小さく目を逸らしながら答えるその声に、確信が宿る。
間違いない。滑りも、目も、声も、記憶に残っている"あの時"と同じだ。司は嬉しさをそのままに言葉を続ける。
「あ、あのっ……俺のこと、覚えてますか?」
一瞬の間があく。葉の瞳が大きく泳いだ。
左上を見ながら、「えー、っと」と声にならない言葉が小さく漏れている。
明らかに思い至る顔や名前が出てこなくて迷っている様子だった。
わくわくと返答を待っていた司だったが、なにも返ってこない様子に、段々しょんぼりと小さくなっていく。
その様子に気がついた葉はアワアワと慌てた挙句、声を上擦らせながらわざとらしく手を打った。
「あ、あぁ……久しぶりすぎて、一瞬わかんなかったです!」
その言葉を聞いた瞬間、司の胸に広がったのは──喜びだった。
「良かった……!!葉さんに忘れられてるかと思った……!!でも、こんなところで再会出来るなんて、本当に……」
安堵のあまり自然と笑みがこぼれた。
声が弾むのを抑えきれなかった。再会の喜びと同時に、司の中で熱がこみ上げてきた。
「やばい、誰だったか全然覚えていない……」という葉から溢れた声はその耳に届いていない様だった。
「葉さんは今も、まだスケートを続けているの?」
「い、いえ、このリンクでバイトしてるだけで……本格的には、もうやってないですよ。大学生なんでお金もないですし」
その言葉は淡々としていた。その表情はどこか暗い。
けれど、滑っていたときのあの表情──リンクにいた時間だけは、明らかに現役のスケーターだった。
(あんな滑りをしておいて、"滑ってない"なんて……)
司はぐっと拳を握った。
"資金がない"という言葉も、資金難でフィギュアスケートに打ち込めない過去を持つ司の胸を打った。
「……実は俺、いまはルクス東山FSCでアシスタントコーチやってるんだ。もしよかったら、今度滑りに来てくれませんか」
そう言って名刺とメモを差し出す。そこにはクラブの連絡先と、練習時間が書かれている。
「……ルクス東山FSC、知ってます。貸切予約で何度かなまえを見ました」
でも、と葉の言葉が続く
「……なんで、俺なんかに?」
「さっきの滑り……忘れたいなら、あんなふうには滑れないと思う」
葉は目を見開いた。その熱に、青年の表情が一瞬だけ揺れたように見えた。
だが彼は、ほんのわずかな間のあとに、静かに言った。
「俺は、もう選手じゃないです。ただの大学生バイトですよ」
「でもあれは、忘れようとしても身体が覚えてる滑り方だった。技術も、感覚も、まだ全部、残ってる。忘れることを拒否している。俺は、そう思ったよ」
言葉に力がこもる。深夜のスケートリンク。誰もいない静けさの中で、司の声だけが響いた。
黙ったままの葉を見て、司は一歩だけ前に出る。
「俺には分かる。あれは、"想い"の滑りだって──氷の上に未練があるのなら、俺は戻って来て欲しい。滑るべきだと思う」
──後悔する前に。
司がそう言い切ったとき、葉の肩がわずかに揺れた。
「……それはないです。もう、離れた道なんで。それに俺に滑る資格なんてない」
それ以上は何も言わず、彼は「失礼します」と一礼して、リンクの奥へと戻っていった。
司はその背を見送りながら、息を吐いた。
(……滑る資格なんてない?)
そんなはずはない。しかし司は何も言えなかった。ただその言葉を、反芻するしかなかった。
目の前に立っていたのは──"過去の天才"だった。何かがあって表舞台から姿を消してしまった沈んだ太陽。
だが、氷の上で輝いていたのは紛れもない"今の彼"だったのだ。