氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
ワイパーが静かにフロントガラスを横切る。
天気予報は晴れだったはずなのに、なぜか雨上がりのような匂いが鼻についた。
愛西ライドFSCヘッドコーチ 五里誠二。
女子ジュニアの期待の星・岡崎いるかのコーチでもある彼は、一人車を走らせていた。
自分のクラブのNo.1選手が、なぜか急に出場を決めた名港杯。その帰り道だった。
特別に疲れているわけではない。ただ、ハンドルを握る手には、いつもよりわずかに力がこもっている気がした。
「……今日は、すげぇもん見たな」
信号待ちでふとつぶやいた独り言が、車内に静かに響いた。
今日の大会のハイライト。脳裏に浮かぶのは、白髪の青年。
"碧芽"という選手の名前は前から知っていたが、直接見たのは初めてだった。
怪物だの神童だのと言われていた、消えた天才。
あれから何年も経って、まさか今日、自分の目の前で滑るとは思ってもみなかった。
(まぁ、正直に言えば、あのブランク明けだ。思い出作りに出て来たんだろうとしか思えんわな)
演技前の練習を見ていたが、跳んでいたのはすべて2回転ジャンプ。3回転も4回転もなし。
まさか本番もその構成で来るわけ──と思っていたら、本当にそのままやってのけた。
点は伸びない。それがこの世界の当たり前だ。
実際、男子シニアの上位と張り合うには、ジャンプの基礎点があまりに軽すぎる。
──特に、優勝候補の鷗田選手
冒頭の4回転トゥループを決め、コンビネーションも手堅くこなす。構成に隙がない。
出場選手の中で彼が頭ひとつ抜けてるのは、誰が見ても明らかだった。
そんな演技の中で、2回転ジャンプ主体の演技は埋もれてしかるべきだった。
なのに──碧芽 葉という男の得点は、予想を大きく上回っていた。
「……
赤信号から視線を落とした先──スマートフォンに映る彼の
その演技構成点は、平均から大きく抜きん出た点数を叩き出している。
ジャンプの基礎点で圧倒的に不利なはずなのに、加点要素である
そして、スケーティング技術や表現力を評価する
この2つの加点だけで、3回転サルコウ2回飛んだ程度の点数が入っている。
一つひとつの動作にキレと深みがあって、スケーティングの質そのものが審査員に突き刺さっていたんだろう。
あの2回転ジャンプは、ただの2回転では終わっていなかった。
跳び方、入り方、流れ──こんな地方大会では拝めないほど、すべてが美しかった。まるで計算された芸術のように。
点数の数字だけ見たら"おかしい"と感じるレベルだったが、演技を思い返すと、むしろ納得する自分がいる。
「だが、足りないな」
鷗田選手に追いつくにはまだ足りない。
彼の4回転構成はやっぱり壁が高い、と五里は思った。
このままでは、明日のFSでも逆転は難しい。SPで出遅れた分を、同じ様な構成でひっくり返すのは至難だ。
それでも、ここまで競り合うとは思っていなかった。
あれだけリスクを削った構成で、トップ争いに絡むって──
「……神童は、やっぱり神童だったってことか」
"十で神童、十五で才子、二十歳過ぎれば只の人"
──そんな言葉は彼には当てはまらなかったのかもしれない。
信号が青に変わる。ゆっくりとアクセルを踏みながら、五里は呟いた。
何年も氷の上を離れていた人間に、出来る滑りじゃない。失ってもなお、研ぎ澄まされ続けた何かがある。
交差点を曲がり、住宅街に入る。
カーステレオは切ったままだったが、それが今は心地よかった。考えごとには、無音の方がいい。
(……まったく、ああいう演技を見ると、こっちまで気が引き締まる)
自分のクラブの選手たちに、何を教えられるだろう。
まだシニアに上がる選手はいないが、今日のあの滑りを見て、何を感じるだろう。
一番年齢が近いのは──と考えたところで脳裏に一人の顔が浮かんだ。
──岡崎いるか
(そう言えば、今日のあいつ……様子がおかしかったな)
演技直前の練習は普段通りだった。ジャンプは入ってたし、動きも悪くなかった。
でも、SP演技が終わってしばらくするとどこか目の奥が落ち着かないように見えた。何かを抱えてるような……そんな気配があった。
(なにかに当てられたか……?ジュニア以外の演技なんて、普段はあまり見ないのに)
元々、感情の波が大きい子だ。
強気に見せても内面は繊細で、ときどきバランスを崩す。
今回もその延長だろう。調子を崩す時期があるのは、選手なら誰にでもあることだ。
「まぁ……明日は少し、多めに声かけとくか」
ジュニアの選手も、明日にはFSが控えている。
いるかを脅かすような選手はいなかったが、選手のケアは万全にしておくに越したことはない。
ライトの明かりに浮かび上がる住宅の並びを眺めながら、五里はゆっくりと車を停めた。
エンジンを切ると、街の静けさが耳に流れ込んでくる。
「やれやれ、大会前っていうのは何度経験しても緊張するもんだな」
五里は軽く伸びをすると、家の扉を開けた。
◆
──名港杯2日目。男子シニア
これから始まるフリースケーティング。
昨日のSPとの合計点で優勝が決まる。その戦いの幕は、すでに上がっていた。
「……」
俺は観客席から、リンクを進む渉人くんの姿を見つめていた。
ノービス時代、何度か大会で顔を合わせていた彼との再会は、思っていた以上に胸にざわついた感情を残していた。
懐かしさか、それとも焦りか──正体のよく分からない熱のようなものが、静かに心の奥を刺激していた。
「やっぱり気になるよね、鷗田選手のこと」
隣に座る司さんが、真剣な表情でそう言った。
今日は、いのりちゃんもいないからか普段よりも落ち着いて見えた。
司さんは基本的に良い人だが、涙もろく感情の振れ幅が大きい。
昨日も、いのりちゃんが滑り終わって優勝を決めた時、干涸びるかと思うほどに号泣しててちょっと引いた。
「もちろん。ノービスの頃とはもう別人ですし……数少ない、現役の同期でもありますから」
フィギュアスケートは、厳しいスポーツだ。
才能、環境、体の成長、経済的な事情──いくつもの理由で、年齢が上がるにつれて選手は減っていく。
彼との再会をきっかけに、ノービス時代の仲間の名前を検索してみた。
でも、そのほとんどはもう選手登録していなかった。みんな、どこかで降りていったのだ。
そんな中で、彼だけは残っていた。
ノービスの頃の面影を残しながら、確かに成長していた。
身長は大きく伸び、がっしりとした体にはアスリートらしい風格さえある。
俺よりも高い体躯は、氷の上でひときわ映えていた。
渉人くんがスタートポジションについた瞬間、会場が静まりかえる。
一拍の間をおいて、リンクにピアノの旋律が流れ始めた。
《Horizon》
──ファンタジー戦記映画「White Ember」挿入曲。
氷に閉ざされた王国で、ひとりの少年が運命に抗い、王となる旅路を歩み出す。
その物語が、いま──氷上に描かれはじめた。
静かな曲調に合わせ、滑らかに滑り出す渉人くんの姿に視線が引き込まれる。
氷を踏む足運びは迷いがなく、体の動きには芯が通っている。
ジャンプを武器にしていた俺とは違って、彼は元々、スピンやステップが得意な選手だった。
どの技も丁寧に仕上げられていて、ひとつひとつが確かに積み重ねられてきたものだとわかる。
ノービス時代はジャンプで点を稼いでいた俺の方が優勢で、勝敗はいつも俺に傾いていた。
だが──
(変わったね、渉人くん)
彼が最初に跳んだ4回転トウループ。
スピードに乗り、高く、美しい弧を描いて跳び上がる。
そのまま、静かに氷を捉える着氷に、会場の空気がひときわ引き締まった。
堅実で、無駄のないジャンプ。
ただの技ではなく、彼の積み重ねてきた“時間”そのものが跳んだようだった。
(成長している。この6年間で、ずっと)
少しずつ、リンクから姿を消していった仲間たち。
1人、また1人と氷の上から降りていく中で、彼はずっと努力を続けていた。
リンクに刻まれたエッジ跡の数が、彼の4回転ジャンプを形作っている。
(俺が止まっていた間も、君は──ずっと走り続けていたんだ)
差が開いたことを、今まざまざと突きつけられている。
大きな破綻もない、難しいジャンプもきちんと決めてくる。
その滑りはどこまでも丁寧で、練習の積み重ねを感じさせた。
(不器用だった君が、一歩一歩積み重ねてきたのが、その滑りから伝わってくる気がする)
心の中でそんな言葉が浮かぶ。
それは皮肉ではなく、心からの賞賛だった。
「安定してるね、鷗田選手」
「はい。彼、昔から粘り強さがありましたから。昨日も3A、踏切の時に穴に引っかかったみたいですけど、着氷耐えてましたし」
「そうだね。このFSも決めるべきところは、確実に決めにきている」
大きな転倒もなく、GOEの減点も最小限にとどまるだろう。
彼の滑りは「努力の集積」としてそこにあるように思えた。
無理のない構成で、できることを着実に積み上げ、
丁寧に、何度も繰り返して磨いてきた結果としての演技だった。
──そしてそれは、4回転ジャンプという形で明確に表れている。
演技は終盤へと差し掛かる。
盛り上がりゆく旋律とともに、彼の滑りがさらに輝きを増していく。
映画の主人公が、試練を越えて王冠を受け取る──そんな場面を思わせた。
彼は、まっすぐな意志を纏いながらリンクを駆けていた。
(……これが、渉人くんの"今"か)
戴冠の瞬間。
クライマックスにふさわしい美しいスピンで、渉人くんは滑りきった。
深々とお辞儀をするその姿に、会場から割れんばかりの歓声が上がる。
この中部地区では、間違いなく彼こそが"今の王"だ。
「葉さん、そろそろ準備行こうか」
「はい」
拍手に背を押されるように、俺はゆっくりと立ち上がった。
その時、リンクを降りる渉人くんと、ふと視線がぶつかる。
彼は、まっすぐ人差し指をこちらに向けてきた。
──挑戦状。それ以外の意味など、なかった。
俺は小さく、頷く。
(受けて立つよ、渉人くん)
ノービスの頃、彼は俺を追う立場だった。
けれど、今はもう逆だ。追うのは、俺のほうだ。
《鷗田 渉人さんの得点──134.34》
背中越しに得点がアナウンスされる。
《総合得点──210.02。現在の順位は第1位です》
(……厳しいなぁ)
思わず、苦笑がこぼれる。笑ってる場合じゃない。けど、笑うしかない差だった。
現在2位にいる選手と、約30点差をつけての1位。簡単に届く点差じゃない。
俺がここから逆転する為には、技構成の不利を逆転できるほどの完璧な演技が必要だ。
(いや──
乾いた唇をゆっくり舐める。
リンクサイドに足を踏み入れると、ひんやりとした冷気が身体中に染み渡る。
氷の匂い、氷の音。すべてが、俺の感覚を呼び覚ます。
(でも──見てろよ)
深く、長く息を吐く。
これが最後の大会になるかもしれない。ならば、この滑りで、すべてを証明する。
俺のスケートを、俺という存在に。
そして、勝気な元クラブメイトに。
(そういえば昨日の朝から、あいつ見かけてないな──)
あれから姿を見ていないことを、ふと思い出す。
昨日のSPを滑ったあと、何も言ってこなかったのも、少しだけ気になっていた。
性格的に、演技を見て黙っているタイプじゃない。
何か言いたいことがあったなら、きっと顔を出すだろうと思っていた。
けれど──今回は違った。
(……まぁ、忙しかっただけかもしれないけど)
"あいつらしくない"と、少しだけ気になる。
けれど、それを尋ねる理由も、時間も、今はない。
だったら──滑りで伝えるしかない。
(多分、どっかで見てるよな……いるか)
言葉は要らない。
俺がどれだけ本気でここに立っているかを、滑りで示せばいい。
「……司さん」
「どうしたの?」
「いのりちゃんに続いて、2枚目の金メダル──取って来ますよ」
「っ!よし、行こう!見せつけてやろう、葉さん!!」
俺はまだ、ここにいる。
そして、まだ──終わらせるつもりはない。
渉人くんの滑りが残した熱を胸に、俺は静かに氷の中央へ向かった。
【参考:前日終了時点のSP得点】
総合得点=「ジャンプ/スピン/ステップの基礎点」+「GOEによる減加点」+「PCS点数」
★は後半ジャンプ(得点1.1倍)
<碧芽 葉>
総合得点 70.50
※ジャンプ基礎点:8.83(2Lz+2T,2F,2A★)
<鷗田 渉人>
総合得点 75.68
※ジャンプ基礎点:25.50(4T,3Lz+2T,3A★)