氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
リンクに一人で立つと、まるで真っ白なキャンバスに立ったような気分になる。
自分の思うままに、何を描いてもいい──そんな権利を手渡されたときのような、高揚と緊張が胸を打つ。
葉は細く息を吐きながら、胸の鼓動を静めるように顔を片手で覆った。
(ノーミスは絶対条件。ジャンプで途切れたら……
そうなれば、勝ち筋は消えてなくなる。
視界の半分が闇に沈む。残った視界にだけ、氷と光と、自分の未来が映る。
(でも、それだけじゃ足りないな……ははは、後で司さんに怒られるかな)
まるで自分ごとのように、熱く、まっすぐなあの眼差しが、今日も心強い。
あれだけ選手のことを信じてくれるコーチがいたなら、いのりも心強いことだろう。
司さんに怒られる姿なんて想像できないけれど──そう思いながら、葉はリンクの中央へと足を運ぶ。
中央に近づくたびに、観客席のざわめきが少しずつ減っていく。
彼が鬼気迫る雰囲気を帯びていくことに、勘の良い観客が、早くも気づき始めていた。
──これから、何かが起きる。
直前に滑った鷗田渉人の圧巻の演技を見て、多くの観客は「優勝は決まった」と感じていた。
逆転の可能性を口にする者もいたが、ここはあくまで地方大会。
全日本のような大舞台でもないのに、そこまで賭ける理由があるとは思えなかった。
観客席の中で、ただ2人──結束実叶と岡崎いるかを除いては。
彼女たちだけは、彼の本気を知っていた。
葉の両手が、静かに、ゆっくりと掲げられる。
緊張が糸のように張り詰め、会場全体を包み込んだ。
──そして、演技が始まった。
曲は、映画『Cirque des Cieux / 空のサーカス』より《Prototype》
風切り音と共に、繊細なピアノの旋律がリンクに降り注ぐ。
葉の滑り出しもまた、それに応えるように静かだった。
氷上にひとすじ、細い曲線が描かれる。
ただ、音楽と対話するように。氷に、風に、耳を澄ますように。
『司さん、ジャンプ構成変えましょう』
リンクに向かう直前、葉は司にそう告げた。
今の構成では勝てない。どれだけ加点を重ねても、基礎点の壁は越えられない。
司もそれは分かっていた。
(鷗田選手の4Tの安定感は、誤算だった……前シーズンの成功率はかなり低かったのに)
難易度の高いジャンプは、それだけで基礎点が跳ね上がる。
7回のジャンプが課されるFSでは、ジャンプが積み上がるほど渉人との点差が大きくなる。
2回転ジャンプでは──基礎点数の地力が足りない。
『そうだね。でも、葉さん、それって……』
『はい。3回転サルコウを飛ばせてください──そのうえで、GOEもきっちり取って見せます』
──カシュっと、ブレードが氷から離れる。
3回転サルコウ
浮き上がる様に。そして、ゆるやかに体を預けるようにして、彼は跳んだ。
観客が思わず息をのむ、自然な跳躍。浮かび、回り、ふわりと氷へ戻る。
無駄がなく、美しく、そして──何より、静かだった。
(大丈夫……!サルコウの感覚はまだ、俺の中にある)
成功の安定感に、まだ不安はあった。
しかし、ブレードから伝わってくる会心の手応えに葉の脚に力が入る。
残りのジャンプは6個。
しかし、ルール上全てのジャンプで3回転サルコウを飛べるわけではない。
それでも、今できるすべてを──この氷に置いていく。
(どこまでやれるかなんて、最初から分かってた。本気で向き合ってきたなら、それを見せればいいだけだ)
かつての同期との、勝ち負けだけじゃない。
リンクの上に戻ってきたこの舞台。
たとえ小さな大会でも、ここに立つまでの自分が、嘘じゃなかったと証明したかった。
"あの頃"の記憶にすがるでもなく、"あの先"を夢見るだけでもない。
ただ、今の自分が、本当に滑りたいと願っているということを。
だからこそ──いまこの瞬間、逃げる理由は、もう何もない。
スパイラルから、自然な流れでターンに入る──
が、それを見守っていた司の眉がわずかに動いた。
──少しだけ、予定と違う軌道。そして差し込まれる動作
エッジの切り返しが深く、入りの角度が難しい。
そして、そのまま加速して跳躍の構えへ。
司は思わず息を飲んだ。
(これ、事前に決めてた構成と……違う──)
ステップのルート。ターンの組み合わせ。ジャンプへの入り。着氷後の流れ。
すべてが、より複雑で、リスキーだ。明らかに難易度を上げた、高得点へ手を伸ばす演技。
それでも動きに無理はない。まるで最初から、この構成で滑るつもりだったかのように、自然だった。
(アレンジしてる……即興で。しかも、あれだけの完成度で)
司の目が、はっきりと見開かれる。驚きと、確信の入り混じった色。
かつての天才少年のイメージが、音を立てて更新されていく。
今、この瞬間を生きるスケーター──"碧芽 葉"の、現在の才能が氷の上に広がっている。
次々とジャンプが成功していく。
軽やかに舞い上がり、氷上に着地するたび、拍手とともに会場の熱がじわりと上がっていくのを感じる。
(俺は今まで、どれだけやり込んだだろう。この慣れ親しんだステップと音楽のリズムを)
葉の動きのボルテージが呼応するように上がっていく。
(何十回……いや、もっとか。本来なら、ジュニアで披露するはずだったプログラム)
北海道で──たった一人、何度も何度もこのプログラムを滑っていた。
その記憶が、葉の脳裏にふっと浮かぶ。
それは、未練だった。構成も、動きも、ステップの間合いさえも。すべてが、体に染みつくほどに繰り返した、叶わなかった願いの残滓。
だから、即興のアレンジなんて、できて当たり前だった。
このプログラムには、6年分の想いが詰まっているのだから。
(でも──それも、今日までだ)
プログラムを作った12歳の頃、この曲が流れる映画が好きだった。
空中ショーを専門にアクロバット飛行をする飛行団の物語。
煙をまとって空を舞い、観客を魅了した。ただ、その笑顔のために命を懸けて飛ぶ者たち。
(滑りで、人を感動させたい──)
まるで自分の気持ちをそのまま物語にしたようで、あの映画に心を奪われた。
そうして初めて選曲したこのプログラムは、しかし──日の目を見ることはなかった。
(未練も、過去も、ここで終わらせる)
足を送り、氷を蹴り、スピードに乗った身体が、ためらいなく踏み切る。
(今日、俺はまた、空を飛ぶ!)
──ひとつ目のジャンプ。力強く、美しい弧を描く。
──そしてすぐにもうひとつ。連続で跳ね上がる動きが、氷上に精密な軌跡を刻む。
3回転サルコウ、2回転トウループ。
その連続ジャンプは、まるで曲芸飛行をする飛行機のように──鮮烈で、迷いがなかった。
「──よし!」
跳び終えた瞬間、司の口から思わず声が漏れた。
リンクサイドで拳を握りしめながら、演技を追い続けていたその目がわずかに見開かれている。
ノーミスどころではない。当初の構成より明らかに難易度の高いジャンプを、しかも余裕を持って決めている。
それだけじゃない。ジャンプへの入り方、タイミング、すべてが想定よりも緻密に仕上がっている。
──GOE+3以上は出てるはず……!
つぶやいた言葉は歓声にかき消され、誰の耳にも届かない。
けれど、リンクの一角──関係者席からは、ざわめきが広がり始めていた。
「今のも、かなり加点つくぞ……」
「3回転の構成?隠してたのか、いや元々組んでたのか?」
「これ、PCS凄いことになってないか?ノーミスでまとめきったら、鷗田のスコアに……」
プロの目には分かる。
この演技が、ただの"健闘"では終わらないことが。
(観客とは、違うざわめきだ……)
司は、ざわめきの質の違いを肌で感じていた。
ただの期待でも賞賛でもない。これは──「点数の予測」と「勝敗の再計算」が始まった証。
そしてその中心に、碧芽 葉がいる。
(……でも、それでも、まだ届くかは分からない)
鷗田渉人のフリーは、圧巻だった。
ミスの少ない、かつ4回転を組み込んだ構成。
現実的なスコアを考えれば、葉がノーミスを決めてもまだ、数点届かない可能性は十分にある。
司の額に、一筋、汗がにじむ。
──しかし。
リンクの上で、曲が一気に昂ぶった。
ストリングスが波のように押し寄せ、金管が空を切り裂くようなフレーズを奏でる。
(来る……!)
葉の身体が、加速する。
軽く助走を取り、リンクを横切るようにエッジを刻む。
左右のターン、上下の重心変化。
──ステップシークエンスの始まりを告げる動き。
音楽と完璧に呼応するように、観客の息が止まる。
その音を追いかけるように、葉がリンクを駆けた。
鋭く、しかし柔らかく。
足元で氷が鳴き、スケート靴が刻む一歩ごとに、空気が震えた。
連続するターン、深く沈み込むエッジ、切り返しの応酬。
左右に流れるラインの中に、一分の迷いもなかった。
(きっつぃ……いつもより、体が、反応が良すぎる)
葉は自分でもそう思うほど、鋭く身体が動いていた。
過去最高に音楽と一体になり滑っているような錯覚──曲をリードし、追い越し、リンクの全てを塗り替えていく。
複雑化したアレンジの中、目が回りそうなほどのスピードと難易度。
それでも、怖くなかった。
身体がちぎれそうなほど動いて、息は切れて、視界は揺れる。
それでも──笑ってしまいそうなほど、心が軽かった。
(苦しかった。傷つけて、逃げて、それでも未練はリンクに残して。過ぎ去る時間だけが、俺を無常に置いていった)
けれど今──このステップの一歩一歩が、自分のすべてを肯定してくれてる気がした。
消えない傷はいまもある。演技が終われば、また胸を締めつけてくるだろう。
何度も繰り返し、自分を縛るあの記憶が戻ってくる。
でも今、この瞬間だけは──
(何もかも、忘れていられる)
氷を踏みしめる音が、旋律と重なり合う。
観客の拍手と息を呑む気配が、まるで背景の一部のように溶けていく。
ここにあるのは、ただ一人の演者と、白いキャンバス。
誰も彼を縛らない。誰も彼を止められない。
音楽に合わせた拍手が響く中で、葉は舞い続ける。
そして、熱を帯びていた空気がふっと鎮まり、
ステップの最後の一歩を踏み出した葉は、静かに息を吸い込む。
そのまま流れるように、最後のコンビネーションスピンへと入っていく。
(ラスト──)
最初はゆるやかに、やがて速度を上げていく。
身体の軸を保ったまま、角度を変えながら滑らかに回る。
観客の拍手も、声も、どこか遠ざかっていくように感じられた。
(まだ終わりたくない、けど……終わらせないと)
白い髪が、まるで演技そのものの軌跡のように、空間に残像を残していく。
(やっと、ここまで来れた)
激しくも穏やかな旋律が、ラストへと向かう。
あの映画のクライマックスと同じ──飛びきったあとの静寂。
拍手でも、歓声でもなく──ただ、自由な空がそこにある。
スピンが徐々に減速し、最後の回転が静かに止まる。
葉は静かに片膝をつき、氷に手を添える。
深く、長い呼吸。
演技の終わりが訪れたのだと、遅れて心が気づく。
──音楽が、止む。
一瞬の、沈黙。
それは、誰もが息を呑んだまま、言葉も拍手も置き去りにされた"余白"だった。
そして──
割れるような拍手が、リンクを包んだ。
葉は、静かに眼下の氷を見つめる。
そこには、長い時間をかけてようやく描ききった、ひとつの軌跡があった。
かつてジュニアで滑るはずだったプログラム。
発表されることなく、ただ"試作"のまま、忘れられそうになっていた構成。
誰にも見せることのないまま、心の奥に沈めていたそれが──今、ようやく形になった。
ゆっくりと立ち上がり、観客へ深く一礼する。
(……やっと、終わらせられた)
拍手の中に身を置きながらも、葉の胸に湧いてきたのは、熱ではなく、不思議な静けさだった。
達成感──
けれど、そのすぐ隣に、ひとつの思いが芽生える。
(これが、最後かもしれない)
とても、名残惜しい。
このリンクも、この音楽も、この高揚も。
もう二度と味わうことはないかもしれないという、喪失感。
それでも、確かに思える。
ただ、自分のスケートが本物だったと。そう思える何かを、この氷の上に置くことが出来たから。
汗に濡れた前髪が額に落ちる。
葉は背筋を伸ばし、もう一度、深く一礼する。
拍手は鳴り止まない。
リンクの端へ向かう葉の視線の先には──大粒の涙を浮かべた司が、立っていた。
「葉、さんっ……!!最高!!最高の、演技だった!!!!」
「ありが……とう、司さん……」
少しふらつきながら、葉はスケートリンクの縁に手をかける。
「それより、肩、貸して……意地張ってたけど、もう足プルプル……です……」
背の高い司の肩にぶら下がるように掴まりながら、2人はゆっくりとリンクサイドへと向かっていく。
その間も──葉の耳には、観客たちのざわめきが遠く響いていた。
熱気。驚き。困惑。そして、静かな敬意。
誰もが言葉を控え、固唾を飲んでいた。
場内の空気が張り詰める中、アナウンスの声が響き渡る。
《碧芽 葉さんの得点──141.13》
その瞬間、会場の空気が弾けた。
ざわめきが波のように広がり、遅れて拍手が一斉に湧き起こる。
葉と司の目が合った。
大きく見開かれた2つの瞳に、じわりと歓喜の色がにじむ。
「う、うわあああああ!やったあああああ!!!」
司の喜びが爆発する。
2人はほとんど同時に手を上げ、大きくハイタッチを交わした。
葉も、肩で息をしながら、照れくさそうに笑っていた。
《総合得点211.63。現在の順位は──第1位です》
【参考:FSリザルト】
<碧芽 葉>
総合得点:141.13
└「
※ジャンプ基礎点:22.27
(3S,2Lz+2T,2A,2Lo,3S+2T★,2F★,2S★)
<鷗田 渉人>
総合得点:134.34
└「
※ジャンプ基礎点:47.42
(4T,3A,3Lz+2T,3Lo,3S★,3F+2T★,3F★)
※技術点=「
※★は後半ジャンプ(得点1.1倍)