氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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10 名港杯(下) Prototype

 

リンクに一人で立つと、まるで真っ白なキャンバスに立ったような気分になる。

自分の思うままに、何を描いてもいい──そんな権利を手渡されたときのような、高揚と緊張が胸を打つ。

 

葉は細く息を吐きながら、胸の鼓動を静めるように顔を片手で覆った。

 

(ノーミスは絶対条件。ジャンプで途切れたら……PCS(演技構成点)は一気に落ちる)

 

そうなれば、勝ち筋は消えてなくなる。

視界の半分が闇に沈む。残った視界にだけ、氷と光と、自分の未来が映る。

 

(でも、それだけじゃ足りないな……ははは、後で司さんに怒られるかな)

 

まるで自分ごとのように、熱く、まっすぐなあの眼差しが、今日も心強い。

あれだけ選手のことを信じてくれるコーチがいたなら、いのりも心強いことだろう。

 

司さんに怒られる姿なんて想像できないけれど──そう思いながら、葉はリンクの中央へと足を運ぶ。

 

中央に近づくたびに、観客席のざわめきが少しずつ減っていく。

彼が鬼気迫る雰囲気を帯びていくことに、勘の良い観客が、早くも気づき始めていた。

 

──これから、何かが起きる。

 

直前に滑った鷗田渉人の圧巻の演技を見て、多くの観客は「優勝は決まった」と感じていた。

 

逆転の可能性を口にする者もいたが、ここはあくまで地方大会。

全日本のような大舞台でもないのに、そこまで賭ける理由があるとは思えなかった。

 

観客席の中で、ただ2人──結束実叶と岡崎いるかを除いては。

彼女たちだけは、彼の本気を知っていた。

 

葉の両手が、静かに、ゆっくりと掲げられる。

緊張が糸のように張り詰め、会場全体を包み込んだ。

 

──そして、演技が始まった。

 

 

曲は、映画『Cirque des Cieux / 空のサーカス』より《Prototype》

 

 

風切り音と共に、繊細なピアノの旋律がリンクに降り注ぐ。

葉の滑り出しもまた、それに応えるように静かだった。

 

氷上にひとすじ、細い曲線が描かれる。

ただ、音楽と対話するように。氷に、風に、耳を澄ますように。

 

『司さん、ジャンプ構成変えましょう』

 

リンクに向かう直前、葉は司にそう告げた。

今の構成では勝てない。どれだけ加点を重ねても、基礎点の壁は越えられない。

 

司もそれは分かっていた。

 

(鷗田選手の4Tの安定感は、誤算だった……前シーズンの成功率はかなり低かったのに)

 

難易度の高いジャンプは、それだけで基礎点が跳ね上がる。

7回のジャンプが課されるFSでは、ジャンプが積み上がるほど渉人との点差が大きくなる。

 

2回転ジャンプでは──基礎点数の地力が足りない。

 

『そうだね。でも、葉さん、それって……』

 

『はい。3回転サルコウを飛ばせてください──そのうえで、GOEもきっちり取って見せます』

 

──カシュっと、ブレードが氷から離れる。

 

 

3回転サルコウ

 

 

浮き上がる様に。そして、ゆるやかに体を預けるようにして、彼は跳んだ。

観客が思わず息をのむ、自然な跳躍。浮かび、回り、ふわりと氷へ戻る。

無駄がなく、美しく、そして──何より、静かだった。

 

(大丈夫……!サルコウの感覚はまだ、俺の中にある)

 

成功の安定感に、まだ不安はあった。

しかし、ブレードから伝わってくる会心の手応えに葉の脚に力が入る。

 

残りのジャンプは6個。

しかし、ルール上全てのジャンプで3回転サルコウを飛べるわけではない。

 

それでも、今できるすべてを──この氷に置いていく。

 

(どこまでやれるかなんて、最初から分かってた。本気で向き合ってきたなら、それを見せればいいだけだ)

 

かつての同期との、勝ち負けだけじゃない。

 

リンクの上に戻ってきたこの舞台。

たとえ小さな大会でも、ここに立つまでの自分が、嘘じゃなかったと証明したかった。

"あの頃"の記憶にすがるでもなく、"あの先"を夢見るだけでもない。

ただ、今の自分が、本当に滑りたいと願っているということを。

 

だからこそ──いまこの瞬間、逃げる理由は、もう何もない。

 

スパイラルから、自然な流れでターンに入る──

が、それを見守っていた司の眉がわずかに動いた。

 

──少しだけ、予定と違う軌道。そして差し込まれる動作

 

エッジの切り返しが深く、入りの角度が難しい。

そして、そのまま加速して跳躍の構えへ。

 

司は思わず息を飲んだ。

 

(これ、事前に決めてた構成と……違う──)

 

ステップのルート。ターンの組み合わせ。ジャンプへの入り。着氷後の流れ。

すべてが、より複雑で、リスキーだ。明らかに難易度を上げた、高得点へ手を伸ばす演技。

 

それでも動きに無理はない。まるで最初から、この構成で滑るつもりだったかのように、自然だった。

 

(アレンジしてる……即興で。しかも、あれだけの完成度で)

 

司の目が、はっきりと見開かれる。驚きと、確信の入り混じった色。

 

かつての天才少年のイメージが、音を立てて更新されていく。

今、この瞬間を生きるスケーター──"碧芽 葉"の、現在の才能が氷の上に広がっている。

 

次々とジャンプが成功していく。

軽やかに舞い上がり、氷上に着地するたび、拍手とともに会場の熱がじわりと上がっていくのを感じる。

 

(俺は今まで、どれだけやり込んだだろう。この慣れ親しんだステップと音楽のリズムを)

 

葉の動きのボルテージが呼応するように上がっていく。

 

(何十回……いや、もっとか。本来なら、ジュニアで披露するはずだったプログラム)

 

北海道で──たった一人、何度も何度もこのプログラムを滑っていた。

その記憶が、葉の脳裏にふっと浮かぶ。

それは、未練だった。構成も、動きも、ステップの間合いさえも。すべてが、体に染みつくほどに繰り返した、叶わなかった願いの残滓。

 

だから、即興のアレンジなんて、できて当たり前だった。

このプログラムには、6年分の想いが詰まっているのだから。

 

(でも──それも、今日までだ)

 

プログラムを作った12歳の頃、この曲が流れる映画が好きだった。

 

空中ショーを専門にアクロバット飛行をする飛行団の物語。

煙をまとって空を舞い、観客を魅了した。ただ、その笑顔のために命を懸けて飛ぶ者たち。

 

(滑りで、人を感動させたい──)

 

まるで自分の気持ちをそのまま物語にしたようで、あの映画に心を奪われた。

そうして初めて選曲したこのプログラムは、しかし──日の目を見ることはなかった。

 

(未練も、過去も、ここで終わらせる)

 

足を送り、氷を蹴り、スピードに乗った身体が、ためらいなく踏み切る。

 

(今日、俺はまた、空を飛ぶ!)

 

──ひとつ目のジャンプ。力強く、美しい弧を描く。

──そしてすぐにもうひとつ。連続で跳ね上がる動きが、氷上に精密な軌跡を刻む。

 

3回転サルコウ、2回転トウループ。

その連続ジャンプは、まるで曲芸飛行をする飛行機のように──鮮烈で、迷いがなかった。

 

「──よし!」

 

跳び終えた瞬間、司の口から思わず声が漏れた。

リンクサイドで拳を握りしめながら、演技を追い続けていたその目がわずかに見開かれている。

 

ノーミスどころではない。当初の構成より明らかに難易度の高いジャンプを、しかも余裕を持って決めている。

それだけじゃない。ジャンプへの入り方、タイミング、すべてが想定よりも緻密に仕上がっている。

 

──GOE+3以上は出てるはず……!

 

つぶやいた言葉は歓声にかき消され、誰の耳にも届かない。

けれど、リンクの一角──関係者席からは、ざわめきが広がり始めていた。

 

「今のも、かなり加点つくぞ……」

「3回転の構成?隠してたのか、いや元々組んでたのか?」

「これ、PCS凄いことになってないか?ノーミスでまとめきったら、鷗田のスコアに……」

 

プロの目には分かる。

この演技が、ただの"健闘"では終わらないことが。

 

(観客とは、違うざわめきだ……)

 

司は、ざわめきの質の違いを肌で感じていた。

ただの期待でも賞賛でもない。これは──「点数の予測」と「勝敗の再計算」が始まった証。

 

そしてその中心に、碧芽 葉がいる。

 

(……でも、それでも、まだ届くかは分からない)

 

鷗田渉人のフリーは、圧巻だった。

ミスの少ない、かつ4回転を組み込んだ構成。

現実的なスコアを考えれば、葉がノーミスを決めてもまだ、数点届かない可能性は十分にある。

 

司の額に、一筋、汗がにじむ。

 

──しかし。

 

リンクの上で、曲が一気に昂ぶった。

ストリングスが波のように押し寄せ、金管が空を切り裂くようなフレーズを奏でる。

 

(来る……!)

 

葉の身体が、加速する。

軽く助走を取り、リンクを横切るようにエッジを刻む。

左右のターン、上下の重心変化。

──ステップシークエンスの始まりを告げる動き。

 

音楽と完璧に呼応するように、観客の息が止まる。

その音を追いかけるように、葉がリンクを駆けた。

 

鋭く、しかし柔らかく。

足元で氷が鳴き、スケート靴が刻む一歩ごとに、空気が震えた。

 

連続するターン、深く沈み込むエッジ、切り返しの応酬。

左右に流れるラインの中に、一分の迷いもなかった。

 

(きっつぃ……いつもより、体が、反応が良すぎる)

 

葉は自分でもそう思うほど、鋭く身体が動いていた。

過去最高に音楽と一体になり滑っているような錯覚──曲をリードし、追い越し、リンクの全てを塗り替えていく。

 

複雑化したアレンジの中、目が回りそうなほどのスピードと難易度。

それでも、怖くなかった。

身体がちぎれそうなほど動いて、息は切れて、視界は揺れる。

それでも──笑ってしまいそうなほど、心が軽かった。

 

(苦しかった。傷つけて、逃げて、それでも未練はリンクに残して。過ぎ去る時間だけが、俺を無常に置いていった)

 

けれど今──このステップの一歩一歩が、自分のすべてを肯定してくれてる気がした。

 

消えない傷はいまもある。演技が終われば、また胸を締めつけてくるだろう。

何度も繰り返し、自分を縛るあの記憶が戻ってくる。

 

でも今、この瞬間だけは──

 

(何もかも、忘れていられる)

 

氷を踏みしめる音が、旋律と重なり合う。

観客の拍手と息を呑む気配が、まるで背景の一部のように溶けていく。

 

ここにあるのは、ただ一人の演者と、白いキャンバス。

誰も彼を縛らない。誰も彼を止められない。

 

音楽に合わせた拍手が響く中で、葉は舞い続ける。

 

そして、熱を帯びていた空気がふっと鎮まり、

ステップの最後の一歩を踏み出した葉は、静かに息を吸い込む。

そのまま流れるように、最後のコンビネーションスピンへと入っていく。

 

(ラスト──)

 

最初はゆるやかに、やがて速度を上げていく。

身体の軸を保ったまま、角度を変えながら滑らかに回る。

観客の拍手も、声も、どこか遠ざかっていくように感じられた。

 

(まだ終わりたくない、けど……終わらせないと)

 

白い髪が、まるで演技そのものの軌跡のように、空間に残像を残していく。

 

(やっと、ここまで来れた)

 

激しくも穏やかな旋律が、ラストへと向かう。

あの映画のクライマックスと同じ──飛びきったあとの静寂。

拍手でも、歓声でもなく──ただ、自由な空がそこにある。

 

スピンが徐々に減速し、最後の回転が静かに止まる。

 

葉は静かに片膝をつき、氷に手を添える。

深く、長い呼吸。

演技の終わりが訪れたのだと、遅れて心が気づく。

 

──音楽が、止む。

 

一瞬の、沈黙。

 

それは、誰もが息を呑んだまま、言葉も拍手も置き去りにされた"余白"だった。

 

そして──

割れるような拍手が、リンクを包んだ。

 

葉は、静かに眼下の氷を見つめる。

そこには、長い時間をかけてようやく描ききった、ひとつの軌跡があった。

 

かつてジュニアで滑るはずだったプログラム。

発表されることなく、ただ"試作"のまま、忘れられそうになっていた構成。

誰にも見せることのないまま、心の奥に沈めていたそれが──今、ようやく形になった。

 

ゆっくりと立ち上がり、観客へ深く一礼する。

 

(……やっと、終わらせられた)

 

拍手の中に身を置きながらも、葉の胸に湧いてきたのは、熱ではなく、不思議な静けさだった。

 

達成感──

けれど、そのすぐ隣に、ひとつの思いが芽生える。

 

(これが、最後かもしれない)

 

とても、名残惜しい。

このリンクも、この音楽も、この高揚も。

もう二度と味わうことはないかもしれないという、喪失感。

 

それでも、確かに思える。

ただ、自分のスケートが本物だったと。そう思える何かを、この氷の上に置くことが出来たから。

 

汗に濡れた前髪が額に落ちる。

葉は背筋を伸ばし、もう一度、深く一礼する。

 

拍手は鳴り止まない。

リンクの端へ向かう葉の視線の先には──大粒の涙を浮かべた司が、立っていた。

 

「葉、さんっ……!!最高!!最高の、演技だった!!!!」

 

「ありが……とう、司さん……」

 

少しふらつきながら、葉はスケートリンクの縁に手をかける。

 

「それより、肩、貸して……意地張ってたけど、もう足プルプル……です……」

 

背の高い司の肩にぶら下がるように掴まりながら、2人はゆっくりとリンクサイドへと向かっていく。

その間も──葉の耳には、観客たちのざわめきが遠く響いていた。

 

熱気。驚き。困惑。そして、静かな敬意。

 

誰もが言葉を控え、固唾を飲んでいた。

場内の空気が張り詰める中、アナウンスの声が響き渡る。

 

 

《碧芽 葉さんの得点──141.13》

 

 

その瞬間、会場の空気が弾けた。

ざわめきが波のように広がり、遅れて拍手が一斉に湧き起こる。

 

葉と司の目が合った。

大きく見開かれた2つの瞳に、じわりと歓喜の色がにじむ。

 

「う、うわあああああ!やったあああああ!!!」

 

司の喜びが爆発する。

2人はほとんど同時に手を上げ、大きくハイタッチを交わした。

 

葉も、肩で息をしながら、照れくさそうに笑っていた。

 

《総合得点211.63。現在の順位は──第1位です》




【参考:FSリザルト】
<碧芽 葉>
 総合得点:141.13
 └「TES(技術点):51.22」 + 「PCS(演技構成点):89.91」
  ※ジャンプ基礎点:22.27
  (3S,2Lz+2T,2A,2Lo,3S+2T★,2F★,2S★)

<鷗田 渉人>
 総合得点:134.34
 └「TES(技術点):65.61」 + 「PCS(演技構成点):68.73」
  ※ジャンプ基礎点:47.42
  (4T,3A,3Lz+2T,3Lo,3S★,3F+2T★,3F★)

※技術点=「演技中の全ての技(ジャンプ・スピン・ステップ)の基礎点」+「GOE(出来栄え点)による減加点」
※★は後半ジャンプ(得点1.1倍)
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