氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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もうちょっとだけ続きます


11 滑走の波紋

割れるような拍手の中、司が号泣しながら葉を抱き上げているのが見えた。

突然宙に浮かされて、あたふたと困ったような彼の表情が、離れていてもはっきりと見える。

 

「ふふっ……葉くん、楽しそう」

 

結束実叶は、そっと目を細めた。

客席中央、前列寄り。演技の細部がはっきり見える位置で、彼女は最後の最後まで祈るような気持ちで見守っていた。

あの氷の上に現れたのは、懐かしくて、でも確かに“今”を生きている彼だった。

 

(──よかった、本当によかった)

 

未練も、迷いも、全部滑りの中に溶けていた。

ただそこに、彼のスケートがあったことが、心から嬉しかった。

 

拍手を送りながら、ふと昨日の光景が脳裏に浮かぶ。

──廊下でばったり出会った彼の姿。

 

『久しぶり、実叶ちゃん』

 

いのりの演技前、会場の廊下を歩いていたときだった。

 

一瞬、誰か分からなかった。

ビデオ通話の画面越しでは伝わらなかった部分。彼は思っていた以上に、大人になっていた。

 

あの頃とは違い、見上げるように視線を上げて──その成長を実感する。

 

『びっくりした!わ、葉くん!?背おっきくなったねー!?』

『だって俺もう大学生だよ。6年も経てば、さすがに背も伸びるよ』

『……そうだよね。6年……か』

 

そんなに経ってたのか、と改めて気づかされた。

新しい出会いや出来事に満たされた日々。そのなかで、自然とスケートからは距離ができていた時間だった。

 

それを後悔してはいない。

けれど──彼の滑りを、見なくなってしまったことだけは、少し寂しく感じていた。

 

『でも、今日は久しぶりに葉くんの演技見れるから楽しみにしてるよっ!このあいだ電話してすぐに、"大会出る"なんて言うからちょっと驚いちゃった』

 

そう言うと、彼は少しだけ目を伏せて、照れくさそうに笑った。

 

『実は、いるかにも会ってさ……久しぶりに、大会で滑りたくなったんだ』

 

その笑顔は──初めて彼に出会ったときのままだった。

 

ふらっとクラブに入ってきた、一つ年下の男の子。

 

他の子よりも遅くフィギュアスケートを始めた、ちょっと静かな子だと思っていた。

でも、氷の上に立った瞬間──その印象は一変した。

 

誰よりも滑りに向き合い、転んでも立ち上がり、飽きることなく挑み続ける姿。

ジャンプはいつだって高く、遠く、誰より先を目指していた。

そんな彼は、とても楽しそうに笑っていた。

 

正直、少しだけ嫉妬もした。

実力も、注目も、あっという間に彼が持っていってしまったから。

でも……そんな彼に向けられるクラブメイトの視線に気がつくと、葉は少し寂しそうな目をしていた。

 

(やっかみなんかで、やめてほしくなかった……私は、あの滑りの続きをずっと、見たかったんだから)

 

そんな彼は、少しだけ遠回りをして、もう一度スケート靴を履いてくれている。

 

『あの頃みたいに、高く跳ぶことはできてないけど……それでも、がっかりはさせないつもりだよ。ちゃんと“今の俺”を見せるから……期待、しててよ』

 

その声の温度も、まっすぐな眼差しも、今もはっきりと思い出せる。

 

──耳に、再びざわめきが戻ってくる。

会場を包む拍手の音が、現実へと引き戻してくれる。

 

(がっかりなんて、出来るわけなかったよ)

 

難しいジャンプは、たしかに少なくなっていたかもしれない。

でも、それを補って余りあるほど──彼の滑りは、ひとつひとつが眩しく光っていた。

 

その眼差しはぎらぎらと輝き、まるで「ここが自分の場所だ」と、全身で叫んでいるようだった。

 

「ずるいなぁ……昨日、のんちゃんの演技で泣いちゃってたのに……」

 

目元ににじむ涙を、そっと袖で拭う。

そして、小さな笑みを浮かべながら、ぽつりとつぶやいた。

 

復帰は今日だけなのか。

この先、どこまで滑るつもりなのか──それは分からない。

 

復帰は、今日限りなのかもしれない。

それとも──本気で、またこの世界に戻ってきたのか。

 

まだ彼の中でも、答えは出ていないのかもしれない。

 

けれど。

 

「……大丈夫だよね」

 

氷の上で見た、あの頃と変わらない目を思い出す。

その目が、未来をまっすぐ見据えていることに、どこか安心できた。

 

どうか──

彼がもっと自由に滑れますように。

しがらみも、迷いも、誰かの期待さえも背負わず、

ただ、心のままにスケートと向き合える未来が、訪れますように。

 

(私はもう、フィギュアスケート選手じゃないけど)

 

いのりがいて、いるかがいて、新しい仲間たちもいる。

葉を囲む輪は、ちゃんとそこにある。

 

「うん、きっと大丈夫っ」

 

会場にそっと視線を送る。

まだざわめきの残る会場のどこかにいるかもしれない、もうひとりの元クラブメイトの姿を思い浮かべて。

 

「懐かしいなぁ……いるかちゃんも、どこかで葉くんの演技……見てるのかなぁ」

 

そう呟いた実叶の遥か遠く──

客席の最上段、全体を見下ろせる位置に、岡崎いるかの姿があった。

 

「……」

 

まだ拍手は鳴りやまない。

 

観客たちは立ち上がり、興奮気味に声を掛け合っている。

だがその喧騒のなかで、いるかだけが、別の時間に取り残されたような感覚に囚われていた。

 

拳を強く握りしめたまま、身体がまるで動かなかった。

鼓動が早くなるばかりで、呼吸の仕方さえ分からなくなった気がした。

 

──あれが、"今"の碧芽葉の演技だった。

 

あまりにも静かで、あまりにも熱く、あまりにも美しかった。

リンクの上を舞っていた彼は、確かに6年前の“あの人”ではなかった。

それでも、その滑りの芯に宿っていたものは、何ひとつ変わっていなかった。

 

その滑りに感動した。しかし──

 

『……今のあんた、滑りは相変わらず綺麗。でも"本気"がない。本気だったはずの人が、なんとなく滑ってるだけって、見てるだけでムカつくんだよ……!』

 

──あの日、自分が投げつけた言葉。それが重くのしかかっている。

 

なんとなく滑ってる訳がなかった。

あの滑走には、たった2ヶ月の練習だけでは決して到達できない、幾星霜にも積み重なった煌めきがあった。

 

彼は独りで、ずっと氷の上で、その軌跡を磨いていたのだ。

 

そんなこと、昨日のSPの演技を見たときから……本当はもう気づいていた。

 

それでも、認めたくなかった。自分が何か大きな勘違いを犯してしまったのではないかと。

込み上げてきた感情のままに、葉へ声を荒げたあの日のことを、冷静に見つめ直すもうひとりの自分がいた。

 

──彼は、なぜあんなにも大好きだったフィギュアスケートから離れてしまったのか。

 

幼少期、寂しさと怒りで耳を塞いでいた疑問が、再び胸をよぎる。

気がつけば、観客のざわめきの中、スマートフォンを手に取っていた。

 

──嫌な予感がした。やめておけ、と直感が囁いた。

それでも、指はゆっくりと文字を打ち込む。

 

 

"碧芽葉 フィギュアスケート"

 

 

表示されるいくつもの検索結果。

 

「────え」

 

結果の下の方に紛れていた、ひとつの古いニュースが目に入る。

 

──6年前の交通事故。

とある家族の乗った乗用車が事故に遭い、父親が死亡。母親は重傷。

フィギュアスケートの大会帰りだったその家族の名前は──"碧芽"

 

──自分が、どれだけ酷いことを言ったか。

 

今さらになって、ようやく思い知った。遅すぎた。

 

いるかは、ずっと怒っていた。

いつか彼が氷の上に戻ってくるって期待していた分だけ、勝手に裏切られた気がして、勝手に傷ついて──

でもそれはすべて、自分の幼さと無理解の裏返しだった。

 

かつての天才は、フィギュアスケートで大切なものを失っていた。

 

「なのに……」

 

彼は、あのリンクで──何ひとつ語らずに、すべてを滑り切った。

怒りも悲しみも語らずに、ただ一つの演技で示してみせた。

 

(……こんなとき、私は……なんて言えばいいんだ……)

 

手が震えているのに気づいて、いるかはそっと膝の上で指を絡めた。

震えをごまかすように。

俯いた視線の先では、氷の上の光だけが、静かに揺れていた。

 

「すごかったね」「まさか逆転するなんて」──そんな言葉と共に、周囲の観客はまだざわめきの中にいる。

 

でも、彼女の中では、まったく別の音が響いていた。

焼けつくような後悔。どうしようもない罪悪感。

 

 

──ごめん。無責任に復帰して欲しいなんて、言って、ごめん。

 

 

(言え……そう言えよ、岡崎いるか。もう、お前はスケートに無理に戻ってこなくていいって……)

 

そうして、碧芽葉というスケーターはこの氷の世界から永遠に消えてしまうのだろう。

 

そんな未来を想像して──

じわり、と景色が歪んだ。指を硬く握りしめる。

 

白い軌跡を残した、あの美しいスケーティングが、まだ目に焼き付いている。

 

それでも。どうしても、目を逸らせなかった。

どれだけ傷ついても、どれだけ苦しくても──あの滑りが、好きだった。

 

(くそっ)

 

もう、周囲のざわめきは、彼女の耳には届いていなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──ピロン、と録画を終えた音がスマートフォンから鳴った。

 

会場の一角。一般観客席から少し離れた、協賛企業向けの席。

スーツ姿の男が、無言のまま静かに座っていた。

 

胸元には、地元の企業名が入った関係者パス。

周囲の熱気から少しだけ距離を取るように、彼はじっとリンクを見つめていた。

 

演技を終えた白髪の青年が、拍手の中をゆっくりと戻っていく。

 

男はスマートフォンを仕舞うと、代わりに内ポケットから黒革の手帳を取り出した。

ページの間に挟まれていた一枚の写真に、そっと目を落とす。

 

少年と、自分。

数年前、リンク前で並んで撮った一枚。小さな記念──のはずだった。

 

一瞬だけ目を細めて、静かに写真を手帳に戻す。

そしてスマートフォンを取り出し、画面をひとつ開いた。

 

何かを確かめるように、そして──何かを思い出すように。

男はひとつ小さく息をつき、どこかへ向かう様にゆっくりと席を立った。




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