氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
割れるような拍手の中、司が号泣しながら葉を抱き上げているのが見えた。
突然宙に浮かされて、あたふたと困ったような彼の表情が、離れていてもはっきりと見える。
「ふふっ……葉くん、楽しそう」
結束実叶は、そっと目を細めた。
客席中央、前列寄り。演技の細部がはっきり見える位置で、彼女は最後の最後まで祈るような気持ちで見守っていた。
あの氷の上に現れたのは、懐かしくて、でも確かに“今”を生きている彼だった。
(──よかった、本当によかった)
未練も、迷いも、全部滑りの中に溶けていた。
ただそこに、彼のスケートがあったことが、心から嬉しかった。
拍手を送りながら、ふと昨日の光景が脳裏に浮かぶ。
──廊下でばったり出会った彼の姿。
『久しぶり、実叶ちゃん』
いのりの演技前、会場の廊下を歩いていたときだった。
一瞬、誰か分からなかった。
ビデオ通話の画面越しでは伝わらなかった部分。彼は思っていた以上に、大人になっていた。
あの頃とは違い、見上げるように視線を上げて──その成長を実感する。
『びっくりした!わ、葉くん!?背おっきくなったねー!?』
『だって俺もう大学生だよ。6年も経てば、さすがに背も伸びるよ』
『……そうだよね。6年……か』
そんなに経ってたのか、と改めて気づかされた。
新しい出会いや出来事に満たされた日々。そのなかで、自然とスケートからは距離ができていた時間だった。
それを後悔してはいない。
けれど──彼の滑りを、見なくなってしまったことだけは、少し寂しく感じていた。
『でも、今日は久しぶりに葉くんの演技見れるから楽しみにしてるよっ!このあいだ電話してすぐに、"大会出る"なんて言うからちょっと驚いちゃった』
そう言うと、彼は少しだけ目を伏せて、照れくさそうに笑った。
『実は、いるかにも会ってさ……久しぶりに、大会で滑りたくなったんだ』
その笑顔は──初めて彼に出会ったときのままだった。
ふらっとクラブに入ってきた、一つ年下の男の子。
他の子よりも遅くフィギュアスケートを始めた、ちょっと静かな子だと思っていた。
でも、氷の上に立った瞬間──その印象は一変した。
誰よりも滑りに向き合い、転んでも立ち上がり、飽きることなく挑み続ける姿。
ジャンプはいつだって高く、遠く、誰より先を目指していた。
そんな彼は、とても楽しそうに笑っていた。
正直、少しだけ嫉妬もした。
実力も、注目も、あっという間に彼が持っていってしまったから。
でも……そんな彼に向けられるクラブメイトの視線に気がつくと、葉は少し寂しそうな目をしていた。
(やっかみなんかで、やめてほしくなかった……私は、あの滑りの続きをずっと、見たかったんだから)
そんな彼は、少しだけ遠回りをして、もう一度スケート靴を履いてくれている。
『あの頃みたいに、高く跳ぶことはできてないけど……それでも、がっかりはさせないつもりだよ。ちゃんと“今の俺”を見せるから……期待、しててよ』
その声の温度も、まっすぐな眼差しも、今もはっきりと思い出せる。
──耳に、再びざわめきが戻ってくる。
会場を包む拍手の音が、現実へと引き戻してくれる。
(がっかりなんて、出来るわけなかったよ)
難しいジャンプは、たしかに少なくなっていたかもしれない。
でも、それを補って余りあるほど──彼の滑りは、ひとつひとつが眩しく光っていた。
その眼差しはぎらぎらと輝き、まるで「ここが自分の場所だ」と、全身で叫んでいるようだった。
「ずるいなぁ……昨日、のんちゃんの演技で泣いちゃってたのに……」
目元ににじむ涙を、そっと袖で拭う。
そして、小さな笑みを浮かべながら、ぽつりとつぶやいた。
復帰は今日だけなのか。
この先、どこまで滑るつもりなのか──それは分からない。
復帰は、今日限りなのかもしれない。
それとも──本気で、またこの世界に戻ってきたのか。
まだ彼の中でも、答えは出ていないのかもしれない。
けれど。
「……大丈夫だよね」
氷の上で見た、あの頃と変わらない目を思い出す。
その目が、未来をまっすぐ見据えていることに、どこか安心できた。
どうか──
彼がもっと自由に滑れますように。
しがらみも、迷いも、誰かの期待さえも背負わず、
ただ、心のままにスケートと向き合える未来が、訪れますように。
(私はもう、フィギュアスケート選手じゃないけど)
いのりがいて、いるかがいて、新しい仲間たちもいる。
葉を囲む輪は、ちゃんとそこにある。
「うん、きっと大丈夫っ」
会場にそっと視線を送る。
まだざわめきの残る会場のどこかにいるかもしれない、もうひとりの元クラブメイトの姿を思い浮かべて。
「懐かしいなぁ……いるかちゃんも、どこかで葉くんの演技……見てるのかなぁ」
そう呟いた実叶の遥か遠く──
客席の最上段、全体を見下ろせる位置に、岡崎いるかの姿があった。
「……」
まだ拍手は鳴りやまない。
観客たちは立ち上がり、興奮気味に声を掛け合っている。
だがその喧騒のなかで、いるかだけが、別の時間に取り残されたような感覚に囚われていた。
拳を強く握りしめたまま、身体がまるで動かなかった。
鼓動が早くなるばかりで、呼吸の仕方さえ分からなくなった気がした。
──あれが、"今"の碧芽葉の演技だった。
あまりにも静かで、あまりにも熱く、あまりにも美しかった。
リンクの上を舞っていた彼は、確かに6年前の“あの人”ではなかった。
それでも、その滑りの芯に宿っていたものは、何ひとつ変わっていなかった。
その滑りに感動した。しかし──
『……今のあんた、滑りは相変わらず綺麗。でも"本気"がない。本気だったはずの人が、なんとなく滑ってるだけって、見てるだけでムカつくんだよ……!』
──あの日、自分が投げつけた言葉。それが重くのしかかっている。
なんとなく滑ってる訳がなかった。
あの滑走には、たった2ヶ月の練習だけでは決して到達できない、幾星霜にも積み重なった煌めきがあった。
彼は独りで、ずっと氷の上で、その軌跡を磨いていたのだ。
そんなこと、昨日のSPの演技を見たときから……本当はもう気づいていた。
それでも、認めたくなかった。自分が何か大きな勘違いを犯してしまったのではないかと。
込み上げてきた感情のままに、葉へ声を荒げたあの日のことを、冷静に見つめ直すもうひとりの自分がいた。
──彼は、なぜあんなにも大好きだったフィギュアスケートから離れてしまったのか。
幼少期、寂しさと怒りで耳を塞いでいた疑問が、再び胸をよぎる。
気がつけば、観客のざわめきの中、スマートフォンを手に取っていた。
──嫌な予感がした。やめておけ、と直感が囁いた。
それでも、指はゆっくりと文字を打ち込む。
"碧芽葉 フィギュアスケート"
表示されるいくつもの検索結果。
「────え」
結果の下の方に紛れていた、ひとつの古いニュースが目に入る。
──6年前の交通事故。
とある家族の乗った乗用車が事故に遭い、父親が死亡。母親は重傷。
フィギュアスケートの大会帰りだったその家族の名前は──"碧芽"
──自分が、どれだけ酷いことを言ったか。
今さらになって、ようやく思い知った。遅すぎた。
いるかは、ずっと怒っていた。
いつか彼が氷の上に戻ってくるって期待していた分だけ、勝手に裏切られた気がして、勝手に傷ついて──
でもそれはすべて、自分の幼さと無理解の裏返しだった。
かつての天才は、フィギュアスケートで大切なものを失っていた。
「なのに……」
彼は、あのリンクで──何ひとつ語らずに、すべてを滑り切った。
怒りも悲しみも語らずに、ただ一つの演技で示してみせた。
(……こんなとき、私は……なんて言えばいいんだ……)
手が震えているのに気づいて、いるかはそっと膝の上で指を絡めた。
震えをごまかすように。
俯いた視線の先では、氷の上の光だけが、静かに揺れていた。
「すごかったね」「まさか逆転するなんて」──そんな言葉と共に、周囲の観客はまだざわめきの中にいる。
でも、彼女の中では、まったく別の音が響いていた。
焼けつくような後悔。どうしようもない罪悪感。
──ごめん。無責任に復帰して欲しいなんて、言って、ごめん。
(言え……そう言えよ、岡崎いるか。もう、お前はスケートに無理に戻ってこなくていいって……)
そうして、碧芽葉というスケーターはこの氷の世界から永遠に消えてしまうのだろう。
そんな未来を想像して──
じわり、と景色が歪んだ。指を硬く握りしめる。
白い軌跡を残した、あの美しいスケーティングが、まだ目に焼き付いている。
それでも。どうしても、目を逸らせなかった。
どれだけ傷ついても、どれだけ苦しくても──あの滑りが、好きだった。
(くそっ)
もう、周囲のざわめきは、彼女の耳には届いていなかった。
◆
──ピロン、と録画を終えた音がスマートフォンから鳴った。
会場の一角。一般観客席から少し離れた、協賛企業向けの席。
スーツ姿の男が、無言のまま静かに座っていた。
胸元には、地元の企業名が入った関係者パス。
周囲の熱気から少しだけ距離を取るように、彼はじっとリンクを見つめていた。
演技を終えた白髪の青年が、拍手の中をゆっくりと戻っていく。
男はスマートフォンを仕舞うと、代わりに内ポケットから黒革の手帳を取り出した。
ページの間に挟まれていた一枚の写真に、そっと目を落とす。
少年と、自分。
数年前、リンク前で並んで撮った一枚。小さな記念──のはずだった。
一瞬だけ目を細めて、静かに写真を手帳に戻す。
そしてスマートフォンを取り出し、画面をひとつ開いた。
何かを確かめるように、そして──何かを思い出すように。
男はひとつ小さく息をつき、どこかへ向かう様にゆっくりと席を立った。
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