氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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12 風はまだ、動かない

──名港杯から数日。

あんな大会の後でも、まるで何も変わらないかのような平日がやってくる。

 

「よしっ、これで全部っと」

 

バイト終わり。スケートリンクに残った最後の初心者用のソリを回収を終えると、俺はベンチで一息ついた。

 

整氷が終わったばかりのリンクは人もまばらで、氷の表面だけが淡く輝いている。

ぼんやりとその氷面を見ていると、まだ体に残る感覚が蘇る気がした。

 

(楽しかったなぁ)

 

素直に、そう思えた。

リンクいっぱいに降り注いだ拍手の音。表彰台で悔しそうに笑っていた渉人くんの顔。

音も、景色も、まだ耳と目に残っている。

 

それでも、今日は、ただの平日。

 

拍手も歓声もない、いつもの昼。

頭ではわかってるのに、どこか火照ったままの熱が、まだ身体の奥に残っている気がしていた。

 

あの後、実叶ちゃんからは「すごくよかったよ」って連絡が来て、素直に嬉しかったけど──

 

(あいつとは、全然連絡つかないけど……どうしたんだ)

 

ポケットの中のスマホを確認するも、通知はなし。

 

"いるか"とだけ表示されたトーク画面は、数日前を最後に沈黙していた。

連絡先、交換したんだから、せめて既読くらいはつけてほしい。

ため息をひとつ吐いた。

 

ちょうど、そんな時だった。

 

「こんにちはー!」

 

ぱたぱたと軽やかな足音とともに、いのりちゃんがスケート靴を履いてやってきた。

 

「あ、いのりちゃん。こんにちは」

 

「葉くん、今日もお仕事?」

 

「もう終わるとこ。いのりちゃんは、レッスン?」

 

名港杯に向けた練習を通して、いのりちゃんとの距離は少し縮まった気がする。

前までは大人に対する距離感があったのに、最近はずいぶん自然に話してくれるようになった。

 

「うん!でも司先生の時間まで少しあるから、ちょっとだけ滑りたくって」

 

そう言いながら、彼女はなぜか俺の隣に腰を下ろした。

 

(ん?)

 

滑るんじゃなかったのかと不思議に思っていると──

いのりちゃんが、きらきらした目で俺を見上げてきた。

鼻息荒く、何か言いたそうな顔。

 

「あの、あのね、昨日の葉くんの演技……すっごかったよ……!」

 

興奮した様子で両手をバタバタさせながら、懸命に伝えようとしてくれている。

その姿があまりに微笑ましくて、つい笑ってしまいそうになる。

 

「ジャンプもすごかったけど、それだけじゃなくて……振り付けやスピンも、全部すごくって、細かいターンとか、腕の動きとか、ずっと見とれちゃった。なんか、司先生みたいだなって!」

 

「いやいや、司さんみたいは言いすぎだって」

 

普段は元気すぎるくらいの司さんだけど、そのスケーティングは本当に繊細で綺麗だった。

元アイスダンス選手の技術っていうのは、やっぱり俺とはレベルが違う。

 

苦笑まじりに返すと、いのりちゃんはムッとして口を尖らせた。

 

「ほんとだもん!」

 

「ありがとね。昨日は、実叶ちゃんと一緒に来たんだっけ?」

 

「うん!お母さんいなかったけど、どうしても観に行きたいって言ったら、いいよって!」

 

パタパタと靴の先を揺らしながら、得意げに笑ういのりちゃん。

でも、その目はふと、少し遠くを見つめていた。

 

「葉くんは、すごいなぁ……わたしも、あんなふうに滑りたい」

 

ぽつりと漏らされた、淡い憧れの言葉。

 

「まあ……俺だけ、同じプログラムを何年も滑ってきたってのもあるからさ。ちょっとズルい条件だったかもな」

 

つい、そんな言葉が出た。

軽い口調のつもりだったけど──言い訳っぽく聞こえたかもしれない。

 

(でも、事実だし)

 

ジャンプよりも演技構成に体力を注いだ。

6年間のプログラムの熟練度と解釈力で、PCSが跳ね上がったのは確かだ。

 

瞬間的に、実力以上の滑りができた──それだけを見て憧れられるのは、なんだか少し落ち着かない。

 

「そうなの?でもわたし……はやく上手くなりたい」

 

自分に言い聞かせるように、いのりちゃんが小さく呟いた。

 

「今度受けるバッジテストで1級に合格できたら、夏が終わるまでに大会出るんだ」

 

「もう次の大会?いのりちゃん、頑張り屋さんだね」

 

「うん。大会でできないことに向き合って、もっともっと……誰よりも、スケートが上手になりたい」

 

真っ直ぐな瞳。決意のこもった表情。

まだ11歳の女の子とは思えないほど、まっすぐなその言葉に、胸の奥が熱くなる。

 

でも、その直後──

 

「葉くんは、次の大会も出るの?」

 

とても無邪気な声だった。

だけど、その一言に──言葉が詰まった。

 

「昨日の演技、すごかったから。やっぱり葉くんは、すごい“選手”なんだなって思ったの」

 

「……うーん、どうだろうな」

 

曖昧に笑ってごまかしてしまった。

自分でも分かってる。"うん"と答えられなかったのは──

 

事故の記憶が、まだ俺の中にあるから。

 

大会の帰り道。

「今日もすごかったな」って、運転しながら話してくれた父。

助手席で笑っていた母。

街灯が並ぶ、静かな夜道。

交差点、信号、そして──横から差し込んできた、眩しいライト。

そして──ぶつかった、あの瞬間。

 

音も、光も、全部、まだ鮮明に残ってる。

 

昨日のように拍手の雨を浴びていた、そんな“ある日”のことだった。

 

(俺のせいで、家族は……)

 

時間が経っても、その感覚だけは消えてくれない。

こちらの気持ちを機敏に感じ取ったのか、いのりちゃんの表情が戸惑ったように曇った。

 

慌てて、口を開く。

 

「ごめん。まだ、ちゃんとは決めてないんだ」

 

手を振ってごまかすように答えたけど──彼女の顔は、あまり晴れなかった。

 

「そうなんだ……」

 

「ちょっとな。考えてることが、色々あって」

 

申し訳なさを感じながら、ベンチに座り直す。

 

(それに──現実的な問題もあるんだよなぁ)

 

有り体に言うと、お金がない。

 

(北海道の頃とは違うし)

 

あっちでは市営リンクが安くて、中学生までは滑走料も無料だった。

お年玉で買った中古のスケート靴に、簡単な練習着。

趣味として滑る分には、バイト代でもなんとかやっていけた。

 

でも、競技に本気で戻るとなれば話は別だ。

 

今の練習環境は、あくまで"習い事"の範囲に近い。

司さんや瞳先生の個人レッスンも、本格的な選手に比べれば少ないし、自主練中心でコストを抑えたからこそ、名港杯に出ることができた。

 

けれど、本格的に復帰して試合を追うってなれば、そんなやりくりじゃ、すぐ限界が来る。

衣装も、コーチ代も、遠征費も……大学生のバイト代でどうにかなるような世界じゃない。

そんなことを考えていたら──

 

「でも……わたしね」

 

いのりが顔を上げて、まっすぐに言った。

 

「葉くんのスケート、すごく好きだから……あの、いつかまた見てみたいな」

 

言いよどみながらも、最後までちゃんと伝えてくれたその言葉に、胸がじんとした。

 

「……ありがと。そう言ってもらえるの、やっぱり嬉しいよ」

 

でも、と話を逸らす様に俺は言葉を続ける。

 

「それよりも、いのりちゃんの次の大会の方が先かな」

 

「ば、バッジテスト1級に合格できたら……だけど」

 

そう言って体をそわそわと動かしながら、ふと上目遣いで俺の顔を見てきた。

 

「ねえ、葉くん……今度また、練習見てくれる?」

 

「え?」

 

思わず聞き返すと、いのりちゃんはちょっとだけ恥ずかしそうに笑った。

 

「この前、大会前にちょっとだけ見てくれたよね?だから、また手伝ってほしくて……だめ、かな?」

 

「いや、だめじゃないけど……司さん、泣いちゃうよ?」

 

いのりちゃん全力投球なあの人から育成の仕事を取り上げたら、冗談じゃ済まなそうだ。

いや、泣くくらいならまだマシかもしれない。たぶん寝込む。そんな熱量があの人にはある。

想像できたのか、いのりちゃんは「うっ」と言って言葉を詰まらせた。

 

「そ、それは分かってるよ。司先生は優しいし、すごく一生懸命助けてくれる。けど、自分だけでもちょっとだけ、こっそり上手くなって驚かせたいの」

 

その小さな目標に、思わず笑みがこぼれる。

 

「いいね、それ。サプライズは大好きだよ……自主練習のお手伝いなら、付き合うよ」

 

「ほんと!?」

 

パッと顔を輝かせたいのりちゃんが、嬉しそうに跳ねる。

 

「でも!司先生からなに教わってるかは、俺にも教えてね。下手に変なこと言って混乱させたくないし。勝手に口出すのは司さんに悪いからさ」

 

「うん!!じゃあ、あのね……あっ」

 

と、話しかけようとした瞬間、彼女がはっと顔をこわばらせた。

視線の先を追うと──

 

「こんにちはー、いのりさん! あれ、葉さんもいたんだね!」

 

司さんが、いつもの全力笑顔でやってきていた。

いのりちゃんは一瞬、今のやりとりを聞かれていたのではと焦った様子だったけれど、司さんのあまりに眩しい笑顔を見る限り、大丈夫そうだ。

 

「つ、司先生。こんにちは……」

 

「こんにちは、司さん。いのりちゃんのレッスンまでまだ時間があるのに早いですね」

 

「うん!でも今日は、葉さんにちょっと用事があってね。早めに来ちゃった!」

 

(?大会で少し疲れたから、レッスンを少し休みたいって伝えた話かな……?)

 

首をかしげていると、司さんがすっとスマホの画面を差し出してきた。

そこには、産業機器メーカーらしき地元企業のホームページ。

 

「この会社、知ってる?」

 

「……なんとなく見覚えある、かも……」

 

「産業機器とか、スポーツ設備とかを作ってる会社なんだけどね!実はそこの黒崎さんって方から、うちのクラブに連絡が来たんだ」

 

黒崎──その名前に、どこか懐かしい響きを感じた。

 

「なんと!葉さんに、スポンサー契約の話が来てるんだよ!」

 

「え、ええ!? 葉くん、すごい!!」

 

隣で口を押さえて驚くいのりちゃんの様子が、遠く感じられる。

自分でも気づかないうちに、拳に力が入っていた。

 

(そっか、あの黒崎さんか……懐かしいな)

 

──思い出すのは、あの頃の記憶。

 

まだ、家族が揃っていて。

フィギュアスケートと、真っ直ぐに向き合っていた頃。

 

その企業は、かつてスポンサーになりかけて──そして、事故によって白紙になった企業の名前だった。

 

「……葉さん?」

 

司さんからの声に、曖昧に応える。

 

差し出されたチャンスに、どこか他人事のような感覚があった。

手を伸ばせば掴めるかもしれない。

でも、今の俺がその手を取っていいのか……まだ、答えは出せなかった。




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