氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
──名港杯から数日。
あんな大会の後でも、まるで何も変わらないかのような平日がやってくる。
「よしっ、これで全部っと」
バイト終わり。スケートリンクに残った最後の初心者用のソリを回収を終えると、俺はベンチで一息ついた。
整氷が終わったばかりのリンクは人もまばらで、氷の表面だけが淡く輝いている。
ぼんやりとその氷面を見ていると、まだ体に残る感覚が蘇る気がした。
(楽しかったなぁ)
素直に、そう思えた。
リンクいっぱいに降り注いだ拍手の音。表彰台で悔しそうに笑っていた渉人くんの顔。
音も、景色も、まだ耳と目に残っている。
それでも、今日は、ただの平日。
拍手も歓声もない、いつもの昼。
頭ではわかってるのに、どこか火照ったままの熱が、まだ身体の奥に残っている気がしていた。
あの後、実叶ちゃんからは「すごくよかったよ」って連絡が来て、素直に嬉しかったけど──
(あいつとは、全然連絡つかないけど……どうしたんだ)
ポケットの中のスマホを確認するも、通知はなし。
"いるか"とだけ表示されたトーク画面は、数日前を最後に沈黙していた。
連絡先、交換したんだから、せめて既読くらいはつけてほしい。
ため息をひとつ吐いた。
ちょうど、そんな時だった。
「こんにちはー!」
ぱたぱたと軽やかな足音とともに、いのりちゃんがスケート靴を履いてやってきた。
「あ、いのりちゃん。こんにちは」
「葉くん、今日もお仕事?」
「もう終わるとこ。いのりちゃんは、レッスン?」
名港杯に向けた練習を通して、いのりちゃんとの距離は少し縮まった気がする。
前までは大人に対する距離感があったのに、最近はずいぶん自然に話してくれるようになった。
「うん!でも司先生の時間まで少しあるから、ちょっとだけ滑りたくって」
そう言いながら、彼女はなぜか俺の隣に腰を下ろした。
(ん?)
滑るんじゃなかったのかと不思議に思っていると──
いのりちゃんが、きらきらした目で俺を見上げてきた。
鼻息荒く、何か言いたそうな顔。
「あの、あのね、昨日の葉くんの演技……すっごかったよ……!」
興奮した様子で両手をバタバタさせながら、懸命に伝えようとしてくれている。
その姿があまりに微笑ましくて、つい笑ってしまいそうになる。
「ジャンプもすごかったけど、それだけじゃなくて……振り付けやスピンも、全部すごくって、細かいターンとか、腕の動きとか、ずっと見とれちゃった。なんか、司先生みたいだなって!」
「いやいや、司さんみたいは言いすぎだって」
普段は元気すぎるくらいの司さんだけど、そのスケーティングは本当に繊細で綺麗だった。
元アイスダンス選手の技術っていうのは、やっぱり俺とはレベルが違う。
苦笑まじりに返すと、いのりちゃんはムッとして口を尖らせた。
「ほんとだもん!」
「ありがとね。昨日は、実叶ちゃんと一緒に来たんだっけ?」
「うん!お母さんいなかったけど、どうしても観に行きたいって言ったら、いいよって!」
パタパタと靴の先を揺らしながら、得意げに笑ういのりちゃん。
でも、その目はふと、少し遠くを見つめていた。
「葉くんは、すごいなぁ……わたしも、あんなふうに滑りたい」
ぽつりと漏らされた、淡い憧れの言葉。
「まあ……俺だけ、同じプログラムを何年も滑ってきたってのもあるからさ。ちょっとズルい条件だったかもな」
つい、そんな言葉が出た。
軽い口調のつもりだったけど──言い訳っぽく聞こえたかもしれない。
(でも、事実だし)
ジャンプよりも演技構成に体力を注いだ。
6年間のプログラムの熟練度と解釈力で、PCSが跳ね上がったのは確かだ。
瞬間的に、実力以上の滑りができた──それだけを見て憧れられるのは、なんだか少し落ち着かない。
「そうなの?でもわたし……はやく上手くなりたい」
自分に言い聞かせるように、いのりちゃんが小さく呟いた。
「今度受けるバッジテストで1級に合格できたら、夏が終わるまでに大会出るんだ」
「もう次の大会?いのりちゃん、頑張り屋さんだね」
「うん。大会でできないことに向き合って、もっともっと……誰よりも、スケートが上手になりたい」
真っ直ぐな瞳。決意のこもった表情。
まだ11歳の女の子とは思えないほど、まっすぐなその言葉に、胸の奥が熱くなる。
でも、その直後──
「葉くんは、次の大会も出るの?」
とても無邪気な声だった。
だけど、その一言に──言葉が詰まった。
「昨日の演技、すごかったから。やっぱり葉くんは、すごい“選手”なんだなって思ったの」
「……うーん、どうだろうな」
曖昧に笑ってごまかしてしまった。
自分でも分かってる。"うん"と答えられなかったのは──
事故の記憶が、まだ俺の中にあるから。
大会の帰り道。
「今日もすごかったな」って、運転しながら話してくれた父。
助手席で笑っていた母。
街灯が並ぶ、静かな夜道。
交差点、信号、そして──横から差し込んできた、眩しいライト。
そして──ぶつかった、あの瞬間。
音も、光も、全部、まだ鮮明に残ってる。
昨日のように拍手の雨を浴びていた、そんな“ある日”のことだった。
(俺のせいで、家族は……)
時間が経っても、その感覚だけは消えてくれない。
こちらの気持ちを機敏に感じ取ったのか、いのりちゃんの表情が戸惑ったように曇った。
慌てて、口を開く。
「ごめん。まだ、ちゃんとは決めてないんだ」
手を振ってごまかすように答えたけど──彼女の顔は、あまり晴れなかった。
「そうなんだ……」
「ちょっとな。考えてることが、色々あって」
申し訳なさを感じながら、ベンチに座り直す。
(それに──現実的な問題もあるんだよなぁ)
有り体に言うと、お金がない。
(北海道の頃とは違うし)
あっちでは市営リンクが安くて、中学生までは滑走料も無料だった。
お年玉で買った中古のスケート靴に、簡単な練習着。
趣味として滑る分には、バイト代でもなんとかやっていけた。
でも、競技に本気で戻るとなれば話は別だ。
今の練習環境は、あくまで"習い事"の範囲に近い。
司さんや瞳先生の個人レッスンも、本格的な選手に比べれば少ないし、自主練中心でコストを抑えたからこそ、名港杯に出ることができた。
けれど、本格的に復帰して試合を追うってなれば、そんなやりくりじゃ、すぐ限界が来る。
衣装も、コーチ代も、遠征費も……大学生のバイト代でどうにかなるような世界じゃない。
そんなことを考えていたら──
「でも……わたしね」
いのりが顔を上げて、まっすぐに言った。
「葉くんのスケート、すごく好きだから……あの、いつかまた見てみたいな」
言いよどみながらも、最後までちゃんと伝えてくれたその言葉に、胸がじんとした。
「……ありがと。そう言ってもらえるの、やっぱり嬉しいよ」
でも、と話を逸らす様に俺は言葉を続ける。
「それよりも、いのりちゃんの次の大会の方が先かな」
「ば、バッジテスト1級に合格できたら……だけど」
そう言って体をそわそわと動かしながら、ふと上目遣いで俺の顔を見てきた。
「ねえ、葉くん……今度また、練習見てくれる?」
「え?」
思わず聞き返すと、いのりちゃんはちょっとだけ恥ずかしそうに笑った。
「この前、大会前にちょっとだけ見てくれたよね?だから、また手伝ってほしくて……だめ、かな?」
「いや、だめじゃないけど……司さん、泣いちゃうよ?」
いのりちゃん全力投球なあの人から育成の仕事を取り上げたら、冗談じゃ済まなそうだ。
いや、泣くくらいならまだマシかもしれない。たぶん寝込む。そんな熱量があの人にはある。
想像できたのか、いのりちゃんは「うっ」と言って言葉を詰まらせた。
「そ、それは分かってるよ。司先生は優しいし、すごく一生懸命助けてくれる。けど、自分だけでもちょっとだけ、こっそり上手くなって驚かせたいの」
その小さな目標に、思わず笑みがこぼれる。
「いいね、それ。サプライズは大好きだよ……自主練習のお手伝いなら、付き合うよ」
「ほんと!?」
パッと顔を輝かせたいのりちゃんが、嬉しそうに跳ねる。
「でも!司先生からなに教わってるかは、俺にも教えてね。下手に変なこと言って混乱させたくないし。勝手に口出すのは司さんに悪いからさ」
「うん!!じゃあ、あのね……あっ」
と、話しかけようとした瞬間、彼女がはっと顔をこわばらせた。
視線の先を追うと──
「こんにちはー、いのりさん! あれ、葉さんもいたんだね!」
司さんが、いつもの全力笑顔でやってきていた。
いのりちゃんは一瞬、今のやりとりを聞かれていたのではと焦った様子だったけれど、司さんのあまりに眩しい笑顔を見る限り、大丈夫そうだ。
「つ、司先生。こんにちは……」
「こんにちは、司さん。いのりちゃんのレッスンまでまだ時間があるのに早いですね」
「うん!でも今日は、葉さんにちょっと用事があってね。早めに来ちゃった!」
(?大会で少し疲れたから、レッスンを少し休みたいって伝えた話かな……?)
首をかしげていると、司さんがすっとスマホの画面を差し出してきた。
そこには、産業機器メーカーらしき地元企業のホームページ。
「この会社、知ってる?」
「……なんとなく見覚えある、かも……」
「産業機器とか、スポーツ設備とかを作ってる会社なんだけどね!実はそこの黒崎さんって方から、うちのクラブに連絡が来たんだ」
黒崎──その名前に、どこか懐かしい響きを感じた。
「なんと!葉さんに、スポンサー契約の話が来てるんだよ!」
「え、ええ!? 葉くん、すごい!!」
隣で口を押さえて驚くいのりちゃんの様子が、遠く感じられる。
自分でも気づかないうちに、拳に力が入っていた。
(そっか、あの黒崎さんか……懐かしいな)
──思い出すのは、あの頃の記憶。
まだ、家族が揃っていて。
フィギュアスケートと、真っ直ぐに向き合っていた頃。
その企業は、かつてスポンサーになりかけて──そして、事故によって白紙になった企業の名前だった。
「……葉さん?」
司さんからの声に、曖昧に応える。
差し出されたチャンスに、どこか他人事のような感覚があった。
手を伸ばせば掴めるかもしれない。
でも、今の俺がその手を取っていいのか……まだ、答えは出せなかった。
いつも感想ありがとうございます!時間ある時にまとめて見させてもらってます!
お気に入り、評価、誤字報告も大変ありがたいです!