氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
「──今回のお話、辞退させてください」
言葉にした瞬間、思ったよりも声が響いた。
平日の午後。カフェには穏やかな空気が流れている。 年配の夫婦が寄り添って話し、ビジネスマンがノートPCに目を落とす。 カップとソーサーが触れ合う音が、静かに室内を満たしていた。
そんな空間に、絞るように出した声が落ちた。 自分でも、かすかに震えているのがわかる。唇の内側が乾いていた。
目の前に座る黒崎さんは、深く小さく息を吐いた。静かな溜息だった。
「……理由をうかがっても?」
その声は淡々としていた。けれど、その静けさの奥に、わずかな感情の揺れを感じ取ってしまう。
「……俺には、そのチャンスを受ける資格がない気がしたんです」
喉の奥がつまったようで、うまく言葉が出てこない。
本当は、もっと言いたいことがあるのに、口が追いつかない。
黒崎さんは微かに口元を歪めた。苦笑のような、それでいてどこか切ない表情だった。
「"資格"ですか。都合よくまた契約を持ちかけた会社に、嫌気が差したかと思ってましたよ」
そう言って、少しだけ目を伏せる。
「弊社とのスポンサー契約が内定していたのは、もう6年前ですか。あの時も、私が担当でした。覚えていますか?」
記憶の底に沈めていた映像が、ふと浮かび上がってくる。
少し若かった黒崎さんが、真剣なまなざしで俺の演技を見つめていた。 契約の話が舞い込んだ日、父さんも母さんも、本当に嬉しそうだった──あの笑顔は、今も忘れられない。
「社内は新しい才能の登場に沸いていました。『この子は、将来きっと偉大なスケーターになる』って。でも……あの事故が、すべてを変えました」
カップの湯気が、ふっと揺れて、消えた。
あのときの熱が、音もなく失われていったことを思い出す。
「……契約が白紙になったのは、申し訳なく思っています。どれだけ"支援"の名目を掲げても、企業として動ける範囲には限界があった。傷ついていた君に、ちゃんと向き合えなかった。本当に、すみませんでした」
飾りのない言葉だった。取り繕うでもなく、きれいにまとめるでもない。静かに悔やむ、大人の声音だった。
「……本当は、何度も謝りに行こうと思っていたんです。でも……出来なかった。ずるい大人ですよね。ずっと、心に引っかかっていたのに」
彼の視線がこちらを見据えた瞬間、心臓がひとつ強く脈打った。
「だから、名港杯で君の名前を見つけたときは……正直、震えました。滑りの魅力は、まったく色褪せていなかった。それどころか──以前よりも、ずっと輝きを増していた」
黒崎さんは目を細めた。その表情は、心から何かを願うように、静かで、真っ直ぐだった。
「……思わず、スマホで録画してしまって。社内の上層部にも見せたんです。『もう一度、この選手を支援したい』って。必死で説得しました」
少し照れたように、眉を下げて笑う。
「大企業なら、もっと時間も手続きも必要だったと思います。でも、うちは違う。こういうとき、情熱で動けるくらいの規模なんですよ。『この選手を逃したら、きっと後悔する』って言ったら、上もちゃんと聞いてくれました」
声に熱があった。その熱は、皮膚を通して、胸の奥に届いていた。
「あなたの演技は、真っ直ぐに伝わってきました。ジャンプの難易度なんて関係ない。あの日、リンクの上で君の滑りには──“未来”の光が宿っていた。私には、そう見えたんです」
──そんなふうに思ってくれる人が、まだいたんだ。
言葉にならない何かが、俺の喉の奥で熱くふくらむ。
「全日本選手権の出場者を抑えての優勝。それがどれほど異例か、我々も承知しています。ブランクがあったことも、すべて含めて、私は評価しているつもりです」
一拍置いて、穏やかに言葉を継いだ。
「……もう満開の花ではなく、これから咲こうとしている花にこそ、水は必要なんだと、私は思うんです」
その一言が、心のいちばん脆いところに、優しく触れた気がした。
「もし、弊社に対して恨みがあるなら……それも覚悟していました。でも、君自身が"資格がない"と感じているなら──それは違う。君は、このチャンスを受け取っていい人です」
胸の奥で、なにかが音を立てて崩れそうになった。
「……ありがとうございます。でも、それは……俺の、個人的な事情なんです」
やっとの思いで、そう返す。
黒崎さんはそれ以上は追わず、黙ってコーヒーに口をつけた。 その静かな仕草が、かえって優しくて──少し、苦しかった。
「……事故のこと。全部ではありませんが、話は聞いています。だから、君がリンクから離れていた理由も……少しは、わかるつもりです」
視界がにじみそうになるのを、必死にこらえた。
「でも、葉さん。全部の責任を、一人で背負い込む必要なんて……どこにもないんですよ」
その一言が、胸の真ん中を強く、深く、抉った。
「過去は変えられないし、それとどう向き合うかは自由です。でも──“もう一度滑りたい”って気持ちが、少しでもあるのなら」
黒崎さんはそっと目を細める。
「過去とその想いは、切り離して考えてもいい。誰かのためじゃなくて、自分のために滑っていいんです」
その声は、泣きたくなるほど優しかった。
「──今日は突然呼び出してしまって、すみませんでした。契約の話を正式に出す前に、まず君の意志を聞いておきたかったんです。……一度、持ち帰って考えてください。返事は、いつでも構いません。私は……君の滑りを、信じていますから」
そう言って立ち上がった黒崎さんの背中を、俺は言葉もなく見送った。
テーブルの上に、名刺が一枚だけ残されていた。
その白い紙片が眩しくて、思わず目を逸らす。
(……父さん、母さん。俺、どうしたらいい?)
──亡くなった父。両腕に麻痺が残った母。
あのふたりなら、なんて言うだろうか。
コーヒーを飲み干し、カップをソーサーに戻す。
湯気はもう、消えていた。
立ち上がったとき、胸の奥から何かが、ふっとこぼれ落ちそうになった。
それが悲しみなのか、希望なのか──自分でも、よくわからなかった。
急に差し出されたチャンスに揺れている自分。
事故の記憶に縛られ、氷の外で立ち止まり続けている自分。
俺のことなのに、もう何が本当か分からない。
(……誰かに、会いたいな)
ふと、そんな想いが浮かぶ。
司さん、いのりちゃん、実叶ちゃん──
次々に顔が浮かんだ中で、不意に思い出したのは、口が悪くて素直じゃない、昔のクラブメイトの顔だった。
誰よりも痛い言葉を投げてきて、誰よりも近くまで踏み込んできた。
だから、かもしれない。もう一度、あの目を見てみたかった。
(……ちょうど、大丈夫か気になってたし)
ここ数日、彼女からは一通も返事がなかった。
既読もつかず、メッセージは止まったまま。
(……たしか、この辺りにリンクがあったはず)
押しかけて、また怒られるかもしれない。
でも──理由なんて、後から考えればいい。
今はただ、誰かの顔が見たかった。
スマホをポケットにしまい、俺はそっと席を立った。
彼女なら、また迷いを断ち切る何かを言ってくれる気がして──足は自然と、リンクへと向かっていた。
◆
葉が自分を訪ねてきたのだと気づいた瞬間、心臓がひとつ跳ねた。
それは、岡崎いるかが──いま、一番会いたくない人物だった。
無意識に結んでいた靴紐の手が止まる。視線は落としたまま。
それでも、気配だけでわかった。
「……なんで来たの?」
思ったよりも冷たい声が出た。彼には、何の非もないのに。
でも──優しくしてしまえば、自分の中で張りつめていたものが、崩れてしまいそうだった。
「連絡取れなかったし……大会のあと、姿も見えなかったから。心配になってさ」
優しい人だ。
昔から、そういうところがあるのを知っていた。
「……連絡が面倒だっただけ。悪かったよ、心配かけて。体調が悪いとかじゃないし」
言いたいこととは、違う。
なのに、口が勝手に動く。言葉が尖ってしまう。
「嘘つくなよ。顔色、めっちゃ悪いじゃん……本当は、調子よくないんだろ?」
「いいから、放っておいて」
突き放すような対応に、葉から戸惑った様な雰囲気を感じる。
「どうしたんだよ……もしかして、大会の時も避けてたのか?俺の滑り……良くなかったか?」
その一言に、思わず顔を上げる。
目に映ったのは、想像していたよりも弱い顔だった。
不安が滲んでいる。なにかがあったからなのか──それとも自分のせいなのか。
「あんたさ、ほんとバカだよね」
震えていたのは、声だけじゃなかった。
指先も、胸の奥も──ずっと前から、震えていた。
「あんたの滑り、凄かったよ。ちゃんと本気で向き合ってて、眩しかった。……これは、自己嫌悪。勝手に怒って、なじって……なにも、知らなかったくせに」
感情が、また胸の底からこみ上げてくる。
滲む視界をごまかすように俯いた。後悔が、鋭く胸を引っかいてくる。
「……事故のこと、ずっと知らなかったんだ。……なのに、あんなこと、私……」
拳が膝の上で震えていた。
さっき、ふと目に入った彼の髪──ずっと染めたのかと思っていた。
でも、根元まで白い。生え際も、色が違わない。
(染めたんじゃない……元から、こうなったんだ)
事故と、髪の色。結びつけるのは難しくなかった。
いるかは、ぎゅっと歯を食いしばった。
「……誰よりも綺麗に滑ってたあんたが、リンクに立たないなんて。勝手に怒った。でも……それって、ただの我儘だったんだ」
こんなのは、わがままだ。
何も知らなかったくせに、何様のつもりだったんだろう。
何か言いかけた葉の声を、思わず被せて遮った。
「だからさ……あんたは、もう無理して戻ってこなくても──」
込み上げる感情に途中で、言葉が切れた。
視界の滲みが、ぐっと広がっていく。
リンクの音が遠のく。
──昔の光景が、不意に蘇る。
2回転サルコウが跳べた日。
リンクの隅で、実叶が笑ってくれていた。
『すごーい!いるかちゃん、スケートの才能あるよ!天才!』
『えへへ……』
言われて嬉しくて、笑い返していたのはまだスケート靴も持っていない頃だった。
スケートに来ている一般客のざわめきが気になって、目を向けた先。
反対側のリンクで、1人の少年がジャンプの姿勢に入っているのが見えた。
カシュッ──
目を向けた瞬間、目が離せなくなった。
助走から踏切まで、すべてが流れるようで、自然だった。
空中に浮いた瞬間──時間が止まったように見えた。
高くて、遠くて、静かで、美しかった。
周りの音が、すべて消えた気がした。
(……すごい)
着氷の音で我に返るまで、ただ立ち尽くしていたのを、いまでも覚えている。
声も出なかった。ただ、見惚れていた。
『すごいでしょ、うちの葉くん』
どこか誇らしげに言った実叶に、幼い自分はただ頷いた。
(……こうなりたい)
その瞬間、そう思った。
天才って、こういう人のことを言うんだと。身体の奥で、自然に理解していた。
年上の選手たちでさえ、あの瞬間は霞んで見えた。氷の上に立っていたのは、あの人だけだった。
あの背中を追いかけることが、自分のすべてになった。
いつか──彼と並んで、同じ空を飛びたい。そう思うようになった。
でも、環境は変わった。
実叶は怪我でリンクを離れ、静かに引退した。
そして、彼もある日を境に、クラブに来なくなった。
ぽっかりと空いたリンクは、寒かった。
その頃、いるかの母親がクラブ内の保護者と揉めて──別のクラブへ移らざるを得なかった。
新しいリンク。知っている顔はひとりもいなかった。
それでも、滑るのをやめなかった。
──あのジャンプが、あったから。
目標だった。ずっと。
だから、信じてた。きっと、また会えるって。
別れ際に彼が言った、あの言葉を胸に抱いていた。
『いつか、また一緒に滑ろう……いるかなら、俺なんかすぐ追い越すだろうけど』
だから、大会で滑ると聞いた時──
一緒に滑れる日が、本当に来たんだと、思っていたのに。
(なのに……)
──記憶の海から、静かに浮かび上がる。
ぽたりと、涙が一滴。リンクサイドに音もなく落ちた。
泣き顔なんて、絶対に見せたくなかった。
でも、あふれてくる思い出が、その堤防を押し流そうとしていた。
「……あんたの滑りが、好きだったんだ。昔も、今も、ずっと……ずっと憧れてた」
ぽつりと、いるかは呟いた。
それは言葉というより、記憶がそのまま染み出してきたようだった。
驚いたように、葉がこちらを見るのが視界の端でわかる。
でも、視線を戻すことなく、いるかは続けた。
「なくなっちゃったと思ってた。勝手に見限って、勝手に諦めて……」
でも、大会であんな演技を見せつけられてしまった。
あの滑り。
静かで、美しくて──それでいて、何かを、心の奥から叫んでいるようだった。
「まだ、できるんじゃん……って思った。あんたは変わらず、格好良かった」
言葉が止まらなかった。
思いも、後悔も、憧れも、次々とあふれ出してくる。
「……ごめん。これから最低なこと言う」
わかってる。どれだけ自分勝手かなんて、痛いほどわかってる。
でも──それでも、止められなかった。
顔を上げた。
葉の顔が見える。苦しそうな、でもこちらの声を聞き続ける優しい顔だった。
「戻ってきてよ……葉」
それは叫びでも、懇願でもなくて。
ただ、心の底からにじみ出た、本当の言葉だった。
「フィギュアスケートの世界に、もう一度……あんたの滑りを見せつけてよ」
言葉にするたび、胸がきしむ。
「私は、また一緒に氷の上で滑りたいんだよ」
精一杯の想いだった。
逃げたくなかった。だから、目をそらさなかった。
──だけど。
「……」
彼は、黙ったままだった。
視線が揺れている。拳を強く握ったまま。
何かを言おうとして、それでも──口を閉ざす。
ほんの少しだけ、彼の唇が動いたように見えた。
けれど、それが「ありがとう」だったのか、「ごめん」だったのか──いるかには聞き取れなかった。
いるかは静かに視線を落とした。
また、涙が滲みそうになる。
でも、泣かない。絶対に、泣くものか。
下を向いたまま、袖口でそっと目元を拭った。
──これは、涙なんかじゃない。
自分に、そう言い聞かせる。
たとえ何も返ってこなくても。
あの言葉は、きっと──自分のための言葉だった。
伝えられた。それだけで、いい。
伝えられたという事実だけが──いるかへのせめてもの慰めだった。
◆
日が傾き始めている。
黒崎はスマートフォンを見つめていた。
ほんの一瞬、ためらいのように指先が止まる。
それでも覚悟を決め、番号を押す。
「……私、葉さんのスポンサー契約を一度担当していた、──社の黒崎と申します。ご無沙汰しております。突然のご連絡、申し訳ありません」
丁寧に、慎重に。
それでいて、芯の通った声で言葉を紡いだ。
「実は、葉さんの件で少しお話があります──」
ちょっとで一区切り。もう少々お付き合いください。
感想、評価等諸々ありがとうございます!!