氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

14 / 32
13 揺らぎの中で

「──今回のお話、辞退させてください」

 

言葉にした瞬間、思ったよりも声が響いた。

 

平日の午後。カフェには穏やかな空気が流れている。 年配の夫婦が寄り添って話し、ビジネスマンがノートPCに目を落とす。 カップとソーサーが触れ合う音が、静かに室内を満たしていた。

 

そんな空間に、絞るように出した声が落ちた。 自分でも、かすかに震えているのがわかる。唇の内側が乾いていた。

 

目の前に座る黒崎さんは、深く小さく息を吐いた。静かな溜息だった。

 

「……理由をうかがっても?」

 

その声は淡々としていた。けれど、その静けさの奥に、わずかな感情の揺れを感じ取ってしまう。

 

「……俺には、そのチャンスを受ける資格がない気がしたんです」

 

喉の奥がつまったようで、うまく言葉が出てこない。

本当は、もっと言いたいことがあるのに、口が追いつかない。

 

黒崎さんは微かに口元を歪めた。苦笑のような、それでいてどこか切ない表情だった。

 

「"資格"ですか。都合よくまた契約を持ちかけた会社に、嫌気が差したかと思ってましたよ」

 

そう言って、少しだけ目を伏せる。

 

「弊社とのスポンサー契約が内定していたのは、もう6年前ですか。あの時も、私が担当でした。覚えていますか?」

 

記憶の底に沈めていた映像が、ふと浮かび上がってくる。

 

少し若かった黒崎さんが、真剣なまなざしで俺の演技を見つめていた。 契約の話が舞い込んだ日、父さんも母さんも、本当に嬉しそうだった──あの笑顔は、今も忘れられない。

 

「社内は新しい才能の登場に沸いていました。『この子は、将来きっと偉大なスケーターになる』って。でも……あの事故が、すべてを変えました」

 

カップの湯気が、ふっと揺れて、消えた。

あのときの熱が、音もなく失われていったことを思い出す。

 

「……契約が白紙になったのは、申し訳なく思っています。どれだけ"支援"の名目を掲げても、企業として動ける範囲には限界があった。傷ついていた君に、ちゃんと向き合えなかった。本当に、すみませんでした」

 

飾りのない言葉だった。取り繕うでもなく、きれいにまとめるでもない。静かに悔やむ、大人の声音だった。

 

「……本当は、何度も謝りに行こうと思っていたんです。でも……出来なかった。ずるい大人ですよね。ずっと、心に引っかかっていたのに」

 

彼の視線がこちらを見据えた瞬間、心臓がひとつ強く脈打った。

 

「だから、名港杯で君の名前を見つけたときは……正直、震えました。滑りの魅力は、まったく色褪せていなかった。それどころか──以前よりも、ずっと輝きを増していた」

 

黒崎さんは目を細めた。その表情は、心から何かを願うように、静かで、真っ直ぐだった。

 

「……思わず、スマホで録画してしまって。社内の上層部にも見せたんです。『もう一度、この選手を支援したい』って。必死で説得しました」

 

少し照れたように、眉を下げて笑う。

 

「大企業なら、もっと時間も手続きも必要だったと思います。でも、うちは違う。こういうとき、情熱で動けるくらいの規模なんですよ。『この選手を逃したら、きっと後悔する』って言ったら、上もちゃんと聞いてくれました」

 

声に熱があった。その熱は、皮膚を通して、胸の奥に届いていた。

 

「あなたの演技は、真っ直ぐに伝わってきました。ジャンプの難易度なんて関係ない。あの日、リンクの上で君の滑りには──“未来”の光が宿っていた。私には、そう見えたんです」

 

──そんなふうに思ってくれる人が、まだいたんだ。

言葉にならない何かが、俺の喉の奥で熱くふくらむ。

 

「全日本選手権の出場者を抑えての優勝。それがどれほど異例か、我々も承知しています。ブランクがあったことも、すべて含めて、私は評価しているつもりです」

 

一拍置いて、穏やかに言葉を継いだ。

 

「……もう満開の花ではなく、これから咲こうとしている花にこそ、水は必要なんだと、私は思うんです」

 

その一言が、心のいちばん脆いところに、優しく触れた気がした。

 

「もし、弊社に対して恨みがあるなら……それも覚悟していました。でも、君自身が"資格がない"と感じているなら──それは違う。君は、このチャンスを受け取っていい人です」

 

胸の奥で、なにかが音を立てて崩れそうになった。

 

「……ありがとうございます。でも、それは……俺の、個人的な事情なんです」

 

やっとの思いで、そう返す。

 

黒崎さんはそれ以上は追わず、黙ってコーヒーに口をつけた。 その静かな仕草が、かえって優しくて──少し、苦しかった。

 

「……事故のこと。全部ではありませんが、話は聞いています。だから、君がリンクから離れていた理由も……少しは、わかるつもりです」

 

視界がにじみそうになるのを、必死にこらえた。

 

「でも、葉さん。全部の責任を、一人で背負い込む必要なんて……どこにもないんですよ」

 

その一言が、胸の真ん中を強く、深く、抉った。

 

「過去は変えられないし、それとどう向き合うかは自由です。でも──“もう一度滑りたい”って気持ちが、少しでもあるのなら」

 

黒崎さんはそっと目を細める。

 

「過去とその想いは、切り離して考えてもいい。誰かのためじゃなくて、自分のために滑っていいんです」

 

その声は、泣きたくなるほど優しかった。

 

「──今日は突然呼び出してしまって、すみませんでした。契約の話を正式に出す前に、まず君の意志を聞いておきたかったんです。……一度、持ち帰って考えてください。返事は、いつでも構いません。私は……君の滑りを、信じていますから」

 

そう言って立ち上がった黒崎さんの背中を、俺は言葉もなく見送った。

 

テーブルの上に、名刺が一枚だけ残されていた。

その白い紙片が眩しくて、思わず目を逸らす。

 

(……父さん、母さん。俺、どうしたらいい?)

 

──亡くなった父。両腕に麻痺が残った母。

あのふたりなら、なんて言うだろうか。

 

コーヒーを飲み干し、カップをソーサーに戻す。

 

湯気はもう、消えていた。

 

立ち上がったとき、胸の奥から何かが、ふっとこぼれ落ちそうになった。

それが悲しみなのか、希望なのか──自分でも、よくわからなかった。

 

急に差し出されたチャンスに揺れている自分。

事故の記憶に縛られ、氷の外で立ち止まり続けている自分。

俺のことなのに、もう何が本当か分からない。

 

(……誰かに、会いたいな)

 

ふと、そんな想いが浮かぶ。

 

司さん、いのりちゃん、実叶ちゃん──

次々に顔が浮かんだ中で、不意に思い出したのは、口が悪くて素直じゃない、昔のクラブメイトの顔だった。

 

誰よりも痛い言葉を投げてきて、誰よりも近くまで踏み込んできた。

だから、かもしれない。もう一度、あの目を見てみたかった。

 

(……ちょうど、大丈夫か気になってたし)

 

ここ数日、彼女からは一通も返事がなかった。

既読もつかず、メッセージは止まったまま。

 

(……たしか、この辺りにリンクがあったはず)

 

押しかけて、また怒られるかもしれない。

でも──理由なんて、後から考えればいい。

 

今はただ、誰かの顔が見たかった。

 

スマホをポケットにしまい、俺はそっと席を立った。

彼女なら、また迷いを断ち切る何かを言ってくれる気がして──足は自然と、リンクへと向かっていた。

 

 

 

葉が自分を訪ねてきたのだと気づいた瞬間、心臓がひとつ跳ねた。

 

それは、岡崎いるかが──いま、一番会いたくない人物だった。

 

無意識に結んでいた靴紐の手が止まる。視線は落としたまま。

それでも、気配だけでわかった。

 

「……なんで来たの?」

 

思ったよりも冷たい声が出た。彼には、何の非もないのに。

でも──優しくしてしまえば、自分の中で張りつめていたものが、崩れてしまいそうだった。

 

「連絡取れなかったし……大会のあと、姿も見えなかったから。心配になってさ」

 

優しい人だ。

昔から、そういうところがあるのを知っていた。

 

「……連絡が面倒だっただけ。悪かったよ、心配かけて。体調が悪いとかじゃないし」

 

言いたいこととは、違う。

なのに、口が勝手に動く。言葉が尖ってしまう。

 

「嘘つくなよ。顔色、めっちゃ悪いじゃん……本当は、調子よくないんだろ?」

 

「いいから、放っておいて」

 

突き放すような対応に、葉から戸惑った様な雰囲気を感じる。

 

「どうしたんだよ……もしかして、大会の時も避けてたのか?俺の滑り……良くなかったか?」

 

その一言に、思わず顔を上げる。

 

目に映ったのは、想像していたよりも弱い顔だった。

不安が滲んでいる。なにかがあったからなのか──それとも自分のせいなのか。

 

「あんたさ、ほんとバカだよね」

 

震えていたのは、声だけじゃなかった。

指先も、胸の奥も──ずっと前から、震えていた。

 

「あんたの滑り、凄かったよ。ちゃんと本気で向き合ってて、眩しかった。……これは、自己嫌悪。勝手に怒って、なじって……なにも、知らなかったくせに」

 

感情が、また胸の底からこみ上げてくる。

滲む視界をごまかすように俯いた。後悔が、鋭く胸を引っかいてくる。

 

「……事故のこと、ずっと知らなかったんだ。……なのに、あんなこと、私……」

 

拳が膝の上で震えていた。

 

さっき、ふと目に入った彼の髪──ずっと染めたのかと思っていた。

でも、根元まで白い。生え際も、色が違わない。

 

(染めたんじゃない……元から、こうなったんだ)

 

事故と、髪の色。結びつけるのは難しくなかった。

いるかは、ぎゅっと歯を食いしばった。

 

「……誰よりも綺麗に滑ってたあんたが、リンクに立たないなんて。勝手に怒った。でも……それって、ただの我儘だったんだ」

 

こんなのは、わがままだ。

何も知らなかったくせに、何様のつもりだったんだろう。

 

何か言いかけた葉の声を、思わず被せて遮った。

 

「だからさ……あんたは、もう無理して戻ってこなくても──」

 

込み上げる感情に途中で、言葉が切れた。

視界の滲みが、ぐっと広がっていく。

 

リンクの音が遠のく。

 

 

──昔の光景が、不意に蘇る。

 

 

2回転サルコウが跳べた日。

リンクの隅で、実叶が笑ってくれていた。

 

『すごーい!いるかちゃん、スケートの才能あるよ!天才!』

 

『えへへ……』

 

言われて嬉しくて、笑い返していたのはまだスケート靴も持っていない頃だった。

 

スケートに来ている一般客のざわめきが気になって、目を向けた先。

反対側のリンクで、1人の少年がジャンプの姿勢に入っているのが見えた。

 

カシュッ──

 

目を向けた瞬間、目が離せなくなった。

 

助走から踏切まで、すべてが流れるようで、自然だった。

空中に浮いた瞬間──時間が止まったように見えた。

 

高くて、遠くて、静かで、美しかった。

周りの音が、すべて消えた気がした。

 

(……すごい)

 

着氷の音で我に返るまで、ただ立ち尽くしていたのを、いまでも覚えている。

声も出なかった。ただ、見惚れていた。

 

『すごいでしょ、うちの葉くん』

 

どこか誇らしげに言った実叶に、幼い自分はただ頷いた。

 

(……こうなりたい)

 

その瞬間、そう思った。

天才って、こういう人のことを言うんだと。身体の奥で、自然に理解していた。

 

年上の選手たちでさえ、あの瞬間は霞んで見えた。氷の上に立っていたのは、あの人だけだった。

 

あの背中を追いかけることが、自分のすべてになった。

いつか──彼と並んで、同じ空を飛びたい。そう思うようになった。

 

でも、環境は変わった。

 

実叶は怪我でリンクを離れ、静かに引退した。

そして、彼もある日を境に、クラブに来なくなった。

 

ぽっかりと空いたリンクは、寒かった。

 

その頃、いるかの母親がクラブ内の保護者と揉めて──別のクラブへ移らざるを得なかった。

新しいリンク。知っている顔はひとりもいなかった。

 

それでも、滑るのをやめなかった。

 

──あのジャンプが、あったから。

 

目標だった。ずっと。

だから、信じてた。きっと、また会えるって。

 

別れ際に彼が言った、あの言葉を胸に抱いていた。

 

『いつか、また一緒に滑ろう……いるかなら、俺なんかすぐ追い越すだろうけど』

 

だから、大会で滑ると聞いた時──

一緒に滑れる日が、本当に来たんだと、思っていたのに。

 

(なのに……)

 

──記憶の海から、静かに浮かび上がる。

 

ぽたりと、涙が一滴。リンクサイドに音もなく落ちた。

泣き顔なんて、絶対に見せたくなかった。

でも、あふれてくる思い出が、その堤防を押し流そうとしていた。

 

「……あんたの滑りが、好きだったんだ。昔も、今も、ずっと……ずっと憧れてた」

 

ぽつりと、いるかは呟いた。

それは言葉というより、記憶がそのまま染み出してきたようだった。

 

驚いたように、葉がこちらを見るのが視界の端でわかる。

でも、視線を戻すことなく、いるかは続けた。

 

「なくなっちゃったと思ってた。勝手に見限って、勝手に諦めて……」

 

でも、大会であんな演技を見せつけられてしまった。

 

あの滑り。

静かで、美しくて──それでいて、何かを、心の奥から叫んでいるようだった。

 

「まだ、できるんじゃん……って思った。あんたは変わらず、格好良かった」

 

言葉が止まらなかった。

思いも、後悔も、憧れも、次々とあふれ出してくる。

 

「……ごめん。これから最低なこと言う」

 

わかってる。どれだけ自分勝手かなんて、痛いほどわかってる。

 

でも──それでも、止められなかった。

 

顔を上げた。

葉の顔が見える。苦しそうな、でもこちらの声を聞き続ける優しい顔だった。

 

「戻ってきてよ……葉」

 

それは叫びでも、懇願でもなくて。

ただ、心の底からにじみ出た、本当の言葉だった。

 

「フィギュアスケートの世界に、もう一度……あんたの滑りを見せつけてよ」

 

言葉にするたび、胸がきしむ。

 

「私は、また一緒に氷の上で滑りたいんだよ」

 

精一杯の想いだった。

逃げたくなかった。だから、目をそらさなかった。

──だけど。

 

「……」

 

彼は、黙ったままだった。

視線が揺れている。拳を強く握ったまま。

何かを言おうとして、それでも──口を閉ざす。

 

ほんの少しだけ、彼の唇が動いたように見えた。

けれど、それが「ありがとう」だったのか、「ごめん」だったのか──いるかには聞き取れなかった。

 

いるかは静かに視線を落とした。

また、涙が滲みそうになる。

 

でも、泣かない。絶対に、泣くものか。

下を向いたまま、袖口でそっと目元を拭った。

 

──これは、涙なんかじゃない。

 

自分に、そう言い聞かせる。

 

たとえ何も返ってこなくても。

あの言葉は、きっと──自分のための言葉だった。

 

伝えられた。それだけで、いい。

伝えられたという事実だけが──いるかへのせめてもの慰めだった。

 

 

 

 

日が傾き始めている。

黒崎はスマートフォンを見つめていた。

 

ほんの一瞬、ためらいのように指先が止まる。

それでも覚悟を決め、番号を押す。

 

「……私、葉さんのスポンサー契約を一度担当していた、──社の黒崎と申します。ご無沙汰しております。突然のご連絡、申し訳ありません」

 

丁寧に、慎重に。

それでいて、芯の通った声で言葉を紡いだ。

 

「実は、葉さんの件で少しお話があります──」




ちょっとで一区切り。もう少々お付き合いください。

感想、評価等諸々ありがとうございます!!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。