氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
講義が早めに終わった午後。蝉の鳴き声が遠くで響いている。
晴れ渡った空、灼けるようなアスファルト。
季節はもうすっかり夏の気配だった。
予定もバイトもない、ただの平日。
本来なら、ようやく一息つける貴重な空白──そのはずだった。
(なんか、何も考えたくないな)
けれど、頭の中は全然静かじゃなかった。
数日前のはずなのに、いるかの言葉がまだ胸の奥で残響している。
『私は、また一緒に氷の上で滑りたいんだよ』
泣きながら訴えかけてきた彼女の姿。
あんな姿、見たことがなかった。
黒崎さんの名刺は、今も家の机の上に置きっぱなしになっている。
周囲の人間が、次々と“再起の舞台”を整えてくれている。
まるで、俺が戻ることが当然だと信じているみたいに。
だけど──本当に、それでいいのか?
気持ちはぐちゃぐちゃだった。
どこに立って、何を選べばいいのかさえわからない。
(……俺に、そんな資格なんてあるのか?)
そんな逃げ場のない思考に沈んだまま、帰宅した。
玄関をくぐっても、部屋はいつもと何も変わらない。
クーラーの冷気がゆるやかに回っていて、壁掛けの時計の針が静かに進んでいる。
(……何もしない。今日は、そういう日でいい)
心を無理やり空にしようと、深く息を吐いた──そのとき。
──ピンポーン
インターホンが鳴った。
(……こんなタイミングで、誰だよ)
ため息をつきながら立ち上がり、玄関へ向かう。
けれど、扉の向こうから届いた声には、苛立ちも戸惑いも吹き飛ばされた。
「お届けものでーす」
覚えのない宅配便。
受け取った段ボールは、肩幅よりひとまわり大きく、やや平べったい形をしていた。
見た目に反してずっしりと重く、腕に重みがのしかかる。
差出人欄には──「碧芽 みどり」の文字。
丁寧な筆跡。母の文字だった。
「……母さん?」
箱の上で目が止まり、思わず首をかしげる。
品名は「雑貨品」。それだけでは中身は分からない。
ひとまずテーブルの上に置いて、背筋を伸ばす。
(なんで……今、母さんから?)
嫌な予感があるわけではない。
けれど、箱の中に“何か”が詰まっている気がして、手をつける気になれなかった。
気づけば、スマホを手に取っていた。
発信履歴を開き、「母親」の名前に親指を重ねる。
コールが三度鳴ったところで、懐かしい声が耳に届いた。
「もしもし?」
「……俺。葉」
「葉?あら、元気にしてる?」
変わらない。どこか肩の力が抜けた、穏やかな声。
「まあ……なんとか。それより、なんか荷物が届いたんだけど」
「もう着いたの? 思ったより早かったわ」
「……あれなに?食べ物とかじゃ、ないよね?」
「ふふ。それは開けてからのお楽しみ。腐るものは入ってないから、急がなくて大丈夫よ」
どこか含みのある声だった。そんな母の調子が懐かしくて、少しだけ胸がざわつく。
「大学生活はどう? 講義、ちゃんと行ってる?」
「ちゃんと出てるよ」
「友達はできた?」
「何人かは」
「恋人は?」
「……なんでいきなり?」
母のからかい混じりの声に、小さくため息が漏れる。
「……まぁ、大学生活は、ぼちぼち楽しみながらやってるよ」
「“ぼちぼち”、ね。楽しそうでよかったわ──また、クラブでスケート滑り始めたからかしら?」
その言葉が、やけに自然に出てきたものだから、一瞬、耳を疑った。
不意打ちのように胸を突く。
「……どうして、それを?」
「この間、黒崎さんから連絡があったの。何年ぶりかしら。あなた、今クラブに所属して、練習してるって」
「……そっか、黒崎さんが。余計なことを」
黒崎さんが連絡したということは、スポンサー契約の話も伝わっている、ということだ。
知られたくなかった話題に、自然と唇を噛んでいた。
「余計じゃないわ。教えてくれてよかった。あなたがまた氷の上に立ってるって聞いて、私は……安心したもの」
母の声は静かだった。
責めるでも、喜びに満ちているでもなく──どこか遠くの空を見て語るような、そんな声。
けれど、その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。
「……でも、本気で戻るつもりは、ないよ。大会に出るのも……その、今のクラブの人に誘われたからで。多分、もうないと思う」
「そう」
「昔みたいに、全力で目指してるわけじゃない。大きい大会とか、全日本とか……そんなの、俺にはもう関係ないから」
言ってから、自分の声が少し震えていたことに気づく。
そのまま黙り込む俺に、母はゆっくり言葉を重ねた。
「……ねえ、葉。どうして、そんなふうに線を引くの?」
「それは……」
「……黒崎さんから、あなたが名古屋でまたスケートの大会に出たって聞いた時ね」
母の声は穏やかだった。けれど、その奥には、わずかな震えが混じっていた。
「嬉しかった。でも……少し、寂しくもあったの」
「……」
「あなたは、私に何も言ってくれなかったから」
そっと息を飲み込んだ。
言い訳はいくらでも浮かんだが、口に出すどれもが、安っぽく感じられた。
「……だって、言えないだろ、そんなの」
唇が震える。
「……俺が滑ってたせいで、事故に遭って……父さんは……」
口にした瞬間、胸の奥が焼けるように痛くなった。
「母さんも手が……夢だった画家をやめて、北海道に戻って……地道にパートして……」
瞼の裏には、麻痺の残る手で器用に暮らしを支える母の姿が浮かぶ。
かつて個展も開いていた母が、あの絵筆を手放したこと。
画材の一部は処分され、残った道具は押入れの奥に眠っていた。
「……俺、あれから何度も考えた。もし、スケートなんかしてなければ、って」
父にも、母にも、ただただ申し訳ない。
そんな思いだけが、何度も胸を往復する。
しかし──
「葉」
優しく、けれどはっきりと遮る声が返ってきた。
「私はね、あなたが私の夢を壊したなんて、一度も思ってないのよ」
その言葉が、心の奥に沈んでいた何かをそっと打ち抜いた。
「確かに、事故のあとでいろいろ変わった。お父さんはいなくなったし、画家を続けられなくなって、生活の形も変わった。でも、それよりも辛かったのは──あなたが笑わなくなったこと」
声ににじむのは、静かな痛みだった。
「あなたはずっと私に気を遣って、北海道でも頑張ってくれてた。でもね……私は気づいてた。あなたが、心のどこかで滑りたいって思ってるってこと」
母の声が少しだけ詰まり、また穏やかに続いた。
「私はまた筆を持とうと思ったの。手は震えるし、握り続けることは出来ないわ。でも、時間をかければ描くことはできる──ねえ、荷物、開けてみてくれないかしら?」
促されるままに段ボールを開け、緩衝材をどけると──
そこに現れたのは大きな額縁に収められた一枚の絵だった。
「……え……」
息を呑んだ。
──氷の上を滑る、白髪の青年。
空気を裂いて跳ぶ、一瞬の構図。
それは間違いなく──自分だった。
周囲を漂う細かな粒子の描写は、まるで現実の氷の結晶ではないように輝きに満ちていた。
震える手で額縁に触れる。
ガラス越しに伝わる冷たさが、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
「……母さん。これ……」
「私が描いたのよ」
思わず、スマホを握る手が止まった。
「……嘘、だろ。母さん、絵なんて……もう……」
「黒崎さんがあなたの演技の動画まで送ってくれてね。描いたの。時間はかかったけど……この子を、描きたくなったから」
その“この子”が誰を指しているのか、聞かなくてもわかった。
言葉が、喉の奥で詰まる。思わず視線を落とす。
「あなたが、氷の上で生きるってことを、ちゃんと“私の手”で描きたかった」
「……母さん……」
「葉。私はね、まだ画家なのよ。頑張れば、描くことだってできる。世の中には口で絵を描く人だっているのよ。いまは不恰好だけど、いつかまた──個展を開きたい」
電話の向こうで、微かに笑うような声がした。
「でもね、もうひとつ、諦めていない夢があるの」
言葉が止まる。
「“偉大なフィギュアスケーターの母親”になること。それが、私のもう一つの夢だったの」
ぽろり、と。涙がひとすじ、頬を伝った。
それは罪悪感でも、赦しでもなかった。もっと静かで、温かい何かだった。
「ねえ、葉。……もう、自分を責めるのは終わりにしましょう。私は、あなたが夢を追う姿を、これまでも、これからも、ずっと応援してる。父さんだってそうよ。どんな形でも、私たちはあなたの味方よ」
もう、震えは隠せなかった。
自分の滑りに、未来を託すように語ってくれる人がいる。
氷の上に戻ることを、涙で望んでくれた人がいる。
もう一度あの世界に挑戦することを、背中から支えてくれる人がいる。
胸の奥に押さえ込んでいたものが、そっと解けていった。
「……俺……」
声が震える。
「……もう一度、滑りたい。夢を、もう一回、追いたい」
電話口の向こうで、母が静かに──嬉しそうに頷いた気がした。
「いいわ。任せて。応援するわ」
その声は、どこまでも静かで、どこまでも強かった。
絵を抱きしめるようにして、膝を折る。
声を上げて泣いた。
それは──あの頃の、子供のような泣き方だった。
◆
震えたスマホに、いるかはぼんやりと視線を落とした。
明るくなった画面には通知がひとつ、届いている。
(……また、誰かの連絡か)
ため息とともに画面を切ろうとした瞬間、そこに表示されたメッセージを見て、手がぴたりと止まった。
「……」
しばらく沈黙が流れる。
けれど、口元には淡く、かすかな弧が浮かんでいた。
「…遅いんだよ、ばか」
その指が、そっと画面をタップする。
開かれたトーク画面に、映っていたのは──短い言葉だった。
『俺、フィギュアスケートに復帰するよ』
ふっと、いるかの目元が緩んだ。
次回、第1章エピローグです。
いつも感想等々ありがとうございます!