氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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14 筆はまだ、動いている

講義が早めに終わった午後。蝉の鳴き声が遠くで響いている。

 

晴れ渡った空、灼けるようなアスファルト。

季節はもうすっかり夏の気配だった。

 

予定もバイトもない、ただの平日。

本来なら、ようやく一息つける貴重な空白──そのはずだった。

 

(なんか、何も考えたくないな)

 

けれど、頭の中は全然静かじゃなかった。

数日前のはずなのに、いるかの言葉がまだ胸の奥で残響している。

 

『私は、また一緒に氷の上で滑りたいんだよ』

 

泣きながら訴えかけてきた彼女の姿。

あんな姿、見たことがなかった。

 

黒崎さんの名刺は、今も家の机の上に置きっぱなしになっている。

 

周囲の人間が、次々と“再起の舞台”を整えてくれている。

まるで、俺が戻ることが当然だと信じているみたいに。

 

だけど──本当に、それでいいのか?

 

気持ちはぐちゃぐちゃだった。

どこに立って、何を選べばいいのかさえわからない。

 

(……俺に、そんな資格なんてあるのか?)

 

そんな逃げ場のない思考に沈んだまま、帰宅した。

 

玄関をくぐっても、部屋はいつもと何も変わらない。

クーラーの冷気がゆるやかに回っていて、壁掛けの時計の針が静かに進んでいる。

 

(……何もしない。今日は、そういう日でいい)

 

心を無理やり空にしようと、深く息を吐いた──そのとき。

 

 

──ピンポーン

 

 

インターホンが鳴った。

 

(……こんなタイミングで、誰だよ)

 

ため息をつきながら立ち上がり、玄関へ向かう。

けれど、扉の向こうから届いた声には、苛立ちも戸惑いも吹き飛ばされた。

 

「お届けものでーす」

 

覚えのない宅配便。

受け取った段ボールは、肩幅よりひとまわり大きく、やや平べったい形をしていた。

見た目に反してずっしりと重く、腕に重みがのしかかる。

 

差出人欄には──「碧芽 みどり」の文字。

丁寧な筆跡。母の文字だった。

 

「……母さん?」

 

箱の上で目が止まり、思わず首をかしげる。

品名は「雑貨品」。それだけでは中身は分からない。

 

ひとまずテーブルの上に置いて、背筋を伸ばす。

 

(なんで……今、母さんから?)

 

嫌な予感があるわけではない。

けれど、箱の中に“何か”が詰まっている気がして、手をつける気になれなかった。

 

気づけば、スマホを手に取っていた。

発信履歴を開き、「母親」の名前に親指を重ねる。

 

コールが三度鳴ったところで、懐かしい声が耳に届いた。

 

「もしもし?」

 

「……俺。葉」

 

「葉?あら、元気にしてる?」

 

変わらない。どこか肩の力が抜けた、穏やかな声。

 

「まあ……なんとか。それより、なんか荷物が届いたんだけど」

 

「もう着いたの? 思ったより早かったわ」

 

「……あれなに?食べ物とかじゃ、ないよね?」

 

「ふふ。それは開けてからのお楽しみ。腐るものは入ってないから、急がなくて大丈夫よ」

 

どこか含みのある声だった。そんな母の調子が懐かしくて、少しだけ胸がざわつく。

 

「大学生活はどう? 講義、ちゃんと行ってる?」

 

「ちゃんと出てるよ」

 

「友達はできた?」

 

「何人かは」

 

「恋人は?」

 

「……なんでいきなり?」

 

母のからかい混じりの声に、小さくため息が漏れる。

 

「……まぁ、大学生活は、ぼちぼち楽しみながらやってるよ」

 

「“ぼちぼち”、ね。楽しそうでよかったわ──また、クラブでスケート滑り始めたからかしら?」

 

その言葉が、やけに自然に出てきたものだから、一瞬、耳を疑った。

不意打ちのように胸を突く。

 

「……どうして、それを?」

 

「この間、黒崎さんから連絡があったの。何年ぶりかしら。あなた、今クラブに所属して、練習してるって」

 

「……そっか、黒崎さんが。余計なことを」

 

黒崎さんが連絡したということは、スポンサー契約の話も伝わっている、ということだ。

知られたくなかった話題に、自然と唇を噛んでいた。

 

「余計じゃないわ。教えてくれてよかった。あなたがまた氷の上に立ってるって聞いて、私は……安心したもの」

 

母の声は静かだった。

責めるでも、喜びに満ちているでもなく──どこか遠くの空を見て語るような、そんな声。

けれど、その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。

 

「……でも、本気で戻るつもりは、ないよ。大会に出るのも……その、今のクラブの人に誘われたからで。多分、もうないと思う」

 

「そう」

 

「昔みたいに、全力で目指してるわけじゃない。大きい大会とか、全日本とか……そんなの、俺にはもう関係ないから」

 

言ってから、自分の声が少し震えていたことに気づく。

そのまま黙り込む俺に、母はゆっくり言葉を重ねた。

 

「……ねえ、葉。どうして、そんなふうに線を引くの?」

 

「それは……」

 

「……黒崎さんから、あなたが名古屋でまたスケートの大会に出たって聞いた時ね」

 

母の声は穏やかだった。けれど、その奥には、わずかな震えが混じっていた。

 

「嬉しかった。でも……少し、寂しくもあったの」

 

「……」

 

「あなたは、私に何も言ってくれなかったから」

 

そっと息を飲み込んだ。

言い訳はいくらでも浮かんだが、口に出すどれもが、安っぽく感じられた。

 

「……だって、言えないだろ、そんなの」

 

唇が震える。

 

「……俺が滑ってたせいで、事故に遭って……父さんは……」

 

口にした瞬間、胸の奥が焼けるように痛くなった。

 

「母さんも手が……夢だった画家をやめて、北海道に戻って……地道にパートして……」

 

瞼の裏には、麻痺の残る手で器用に暮らしを支える母の姿が浮かぶ。

かつて個展も開いていた母が、あの絵筆を手放したこと。

画材の一部は処分され、残った道具は押入れの奥に眠っていた。

 

「……俺、あれから何度も考えた。もし、スケートなんかしてなければ、って」

 

父にも、母にも、ただただ申し訳ない。

そんな思いだけが、何度も胸を往復する。

 

しかし──

 

「葉」

 

優しく、けれどはっきりと遮る声が返ってきた。

 

「私はね、あなたが私の夢を壊したなんて、一度も思ってないのよ」

 

その言葉が、心の奥に沈んでいた何かをそっと打ち抜いた。

 

「確かに、事故のあとでいろいろ変わった。お父さんはいなくなったし、画家を続けられなくなって、生活の形も変わった。でも、それよりも辛かったのは──あなたが笑わなくなったこと」

 

声ににじむのは、静かな痛みだった。

 

「あなたはずっと私に気を遣って、北海道でも頑張ってくれてた。でもね……私は気づいてた。あなたが、心のどこかで滑りたいって思ってるってこと」

 

母の声が少しだけ詰まり、また穏やかに続いた。

 

「私はまた筆を持とうと思ったの。手は震えるし、握り続けることは出来ないわ。でも、時間をかければ描くことはできる──ねえ、荷物、開けてみてくれないかしら?」

 

促されるままに段ボールを開け、緩衝材をどけると──

そこに現れたのは大きな額縁に収められた一枚の絵だった。

 

「……え……」

 

息を呑んだ。

 

──氷の上を滑る、白髪の青年。

空気を裂いて跳ぶ、一瞬の構図。

それは間違いなく──自分だった。

 

周囲を漂う細かな粒子の描写は、まるで現実の氷の結晶ではないように輝きに満ちていた。

震える手で額縁に触れる。

ガラス越しに伝わる冷たさが、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。

 

「……母さん。これ……」

 

「私が描いたのよ」

 

思わず、スマホを握る手が止まった。

 

「……嘘、だろ。母さん、絵なんて……もう……」

 

「黒崎さんがあなたの演技の動画まで送ってくれてね。描いたの。時間はかかったけど……この子を、描きたくなったから」

 

その“この子”が誰を指しているのか、聞かなくてもわかった。

言葉が、喉の奥で詰まる。思わず視線を落とす。

 

「あなたが、氷の上で生きるってことを、ちゃんと“私の手”で描きたかった」

 

「……母さん……」

 

「葉。私はね、まだ画家なのよ。頑張れば、描くことだってできる。世の中には口で絵を描く人だっているのよ。いまは不恰好だけど、いつかまた──個展を開きたい」

 

電話の向こうで、微かに笑うような声がした。

 

「でもね、もうひとつ、諦めていない夢があるの」

 

言葉が止まる。

 

「“偉大なフィギュアスケーターの母親”になること。それが、私のもう一つの夢だったの」

 

ぽろり、と。涙がひとすじ、頬を伝った。

それは罪悪感でも、赦しでもなかった。もっと静かで、温かい何かだった。

 

「ねえ、葉。……もう、自分を責めるのは終わりにしましょう。私は、あなたが夢を追う姿を、これまでも、これからも、ずっと応援してる。父さんだってそうよ。どんな形でも、私たちはあなたの味方よ」

 

もう、震えは隠せなかった。

 

自分の滑りに、未来を託すように語ってくれる人がいる。

氷の上に戻ることを、涙で望んでくれた人がいる。

もう一度あの世界に挑戦することを、背中から支えてくれる人がいる。

 

胸の奥に押さえ込んでいたものが、そっと解けていった。

 

「……俺……」

 

声が震える。

 

「……もう一度、滑りたい。夢を、もう一回、追いたい」

 

電話口の向こうで、母が静かに──嬉しそうに頷いた気がした。

 

「いいわ。任せて。応援するわ」

 

その声は、どこまでも静かで、どこまでも強かった。

 

絵を抱きしめるようにして、膝を折る。

声を上げて泣いた。

 

それは──あの頃の、子供のような泣き方だった。

 

 

 

 

 

 

震えたスマホに、いるかはぼんやりと視線を落とした。

明るくなった画面には通知がひとつ、届いている。

 

(……また、誰かの連絡か)

 

ため息とともに画面を切ろうとした瞬間、そこに表示されたメッセージを見て、手がぴたりと止まった。

 

「……」

 

しばらく沈黙が流れる。

けれど、口元には淡く、かすかな弧が浮かんでいた。

 

「…遅いんだよ、ばか」

 

その指が、そっと画面をタップする。

開かれたトーク画面に、映っていたのは──短い言葉だった。

 

 

『俺、フィギュアスケートに復帰するよ』

 

 

ふっと、いるかの目元が緩んだ。




次回、第1章エピローグです。

いつも感想等々ありがとうございます!
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