氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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15 風は、強く吹いている

『株式会社──社は、名古屋出身のフィギュアスケートの碧芽葉選手(ルクス東山FSC)と、20XX年X月よりスポンサー契約を締結したことをお知らせします』

 

大須スケートリンク。その入り口近くに座っていた高峰瞳は、スマートフォンの画面に表示されたその文章を見つめながら、そっと息を吐いた。

話は葉から聞いていたものの、実際に企業のHPに掲載されているのを目にすると、胸の奥からじんわりと嬉しさが込み上げてくるようだった。

 

「……くぅ〜っ、やったわね葉くん……!」

 

画面上の写真では、白髪の青年が少し恥ずかしそうに笑っている。

 

何年もこのクラブで子どもたちを見てきたが、スポンサー契約まで辿り着いたのは、これが初めてだった。

一度は競技を離れながらも、自分の力でここまで戻ってきた。その事実が、何より誇らしかった。

 

「こんにちはー、瞳先生!あれ?何かいいことあったの?」

 

レッスンにやってきた生徒が、瞳の様子に首を傾げた。

その声に我へと返った瞳は、少し慌ててスマートフォンを画面ごと裏返す。

 

「あっ、ごめんごめん。ちょっと、嬉しいお知らせがあってね」

 

「嬉しいお知らせ?」

 

「葉くんのこと。ある企業さんが彼の演技を見て、“応援したい”って思ってくれたの。正式にスポンサー契約を結んだんだって」

 

「えぇ!!葉くんって、あの葉くん? ……すごい! ほんとにすごいね!」

 

生徒の目がぱっと見開かれる。

まだ中学生の彼女にとって、同じクラブ出身の先輩が企業からサポートを受けるという出来事は、まるで夢のようだった。

 

「うちのクラブから、そんな選手が出るなんて……!」

 

「ね、本当に嬉しいわよね」

 

瞳は、そんな生徒の反応を微笑ましく見つめながら、そっと胸の内で思う。

──“これが、次の世代の希望になってくれたらいい”。

 

ただの契約以上に、今日のこの出来事はクラブ全体にとっての“誇り”だった。

 

今この瞬間も、その次の芽吹きを夢見て、多くの若い選手たちがリンクに立っている。

リンク中央で汗を流す結束いのりも、そのひとりだった。

 

「凄いよ、いのりさん!!タイミングばっちりだよ!」

 

リンクの中央で、司のよく響く声が弾んだ。

いのりの跳躍を見守っていたその目が、驚きでまん丸に見開かれている。

 

──2回転ループ

 

これまで何度挑んでも着氷が乱れていた技。

今日は跳び上がる角度も回転も見事に決まっていた。

 

司は手に持っていたノートに、ジャンプの記録をしようとするも、手が震えてうまくペンが動かない。

目頭を押さえ、鼻をすすりながら感極まったように叫んだ。

 

「ブロークンレッグに続いて、2回転まで1人で……?すごい、すごいよ、いのりさん!!」

 

その様子を少し離れた場所から見ていた葉が、苦笑まじりに呟く。

 

「司さん、声大きすぎでしょ……」

 

バッジテスト1級取得を目指すいのりのレッスン。

その滑りを、監視ベストを身に着けた葉が、リンク上の一角から静かに見守っていた。

 

「……ちゃんと2回転ループ降りれたか。偉いなぁ」

 

目を細め、口元をほんの少しだけ緩める。

こっそり続けてきた自主練の成果が、しっかり実を結んだ。

そして、それを見て泣きそうになっているコーチの姿に、思わず心がふっと緩む。

 

(こっそり手伝ってきた甲斐があったなぁ)

 

静かに胸の奥でそう思ったそのとき──

いのりが、ちらりとこちらに視線を送り、控えめに右手でVサインを掲げた。

 

葉もまた、無言のまま微笑んで、指先で小さくVを返す。

そんな穏やかな瞬間を、ひとつの無遠慮な声があっさり塗り替えた。

 

「なに?知り合い?」

 

今日のアルバイト、リンクの監視は葉ひとりではなかった。

 

「……てか、あの子……めっちゃ可愛くない?」

 

唐突すぎる声に、葉は一瞬きょとんとした。

なんの脈絡もないひと言。それも、わりと真顔。

 

葉の横では〈研修中〉の腕章をつけた少女が、棒立ちでリンクを凝視していた。

表情は無。けれど目線だけは、いのりにロックオンされている。

 

「……いるか」

 

「は?なに?」

 

「お前が可愛い子が好きなのは分かったから、真顔で言うのやめろ……怖いから」

 

「うっさいな……」

 

ジュニアクラスのエリート。強化指定選手の岡崎いるか。

その彼女が、なぜか今日からこのスケートリンクでアルバイトを始めたという。

そして、よりにもよって彼女の教育担当に抜擢されたのが葉だった。

 

「っていうか、リンクでバイトするにしても、なんでここ選んだんだよ。もっと近いとこ、あっただろ」

 

葉が尋ねると、いるかはぷいっと顔を背けた。

 

「別に。数駅しか離れてないし……どこで働こうが私の勝手でしょ。金貯めて欲しいもんがあるんだよ」

 

「……はあ。欲しいものって?」

 

「秘密」

 

ぶっきらぼうにそう返しながらも、視線はすぐに氷上の少女──いのりへと戻っていた。

 

「……そんなに気になる?」

 

「うん。パタパタしてて、かわいい」

 

言葉とは裏腹に、表情はいつもの無愛想なまま。

なのに、その目だけがじっとリンクの中央を追いかけていた。

 

「お前……顔に出てないようで、めっちゃガン見してんじゃん」

 

「してない」

 

「いや、してるって。完全に“癒されてます”の距離感だぞ」

 

「……うっさいな」

 

口調は素っ気ないのに、視線だけやたら優しい。

そのアンバランスさが、逆に分かりやすい。

 

葉は思わず肩をすくめながら、少しだけ笑った。

 

「……あの子、実叶ちゃんの妹だよ」

 

その一言が落ちた瞬間、いるかの動きが止まった。

ぐるりとこちらを向いた目が「マジで?」と問いかけてくる。

葉は無言で頷いた。

 

「──へぇ、確かに似てるかも」

 

そのまま硬直したように、いるかはぽつりと呟いた。

その声色にふと、何か込み上げるようなものを感じ取って、葉は静かに口を開く。

 

「いるか、お前さ……久しぶりに、実叶ちゃんと話さない?」

 

「……」

 

「俺、連絡先知ってるしさ。多分向こうだって話たがってるよ」

 

いるかはしばらく反応を見せなかった。

ただ、じっと──まるで何かを確かめるように──氷上で跳ぶいのりの姿を見つめていた。

その眼差しは、懐かしい記憶をたぐるようにも、遠い何かと重ねているようにも見えた

 

「……しない」

 

やがて返ってきたのは、きっぱりとした否定の言葉だった。

 

「もう一回、実叶ちゃんと話すタイミングは、自分で決めてるから」

 

どこか決意を宿した声音に、葉は小さく首を傾げた。

そんなタイミングなんてあっただろうか──心の中で問いかける。

 

その気配を察したのか、いるかがちらりと視線をよこす。

 

「……忘れたの?昔、3人でいろんな約束したじゃん。リンクとか、合宿とかでさ」

 

「……ああ、あったな。そんなことも」

 

「それが叶ったとき、もう一度ちゃんと話すって決めたの。だから、今はまだ会わない」

 

「約束って……どれのこと?」

 

思い返すように、葉は宙を見上げた。

「毎日一緒に滑ろうね」って言ったこともあったし、

「いつか大会で、みんなでメダルを獲ろう」って誓い合ったこともあった気がする。

 

いるかは肩をひとつすくめて、呆れたように吐き出した。

 

「ほんと、バカ……私ばっか、ちゃんと覚えてんじゃん」

 

その言葉に焦った葉が、慌てて両手を振る。

 

「ち、違うって! 忘れたわけじゃなくて、どれのことかって話でさ……」

 

言い訳の途中、いるかの拳が葉の胸元を軽く突いた。

その仕草と声色には、どこか懐かしさが混じっていた。

 

「──てっぺん獲るって話に決まってるでしょ」

 

葉の口が、かすかに開く。

その一言の重みを、誰よりも知っているからこそ。

 

「……じゃあ、全日本優勝とか?」

 

問いかけると、いるかは鼻を鳴らした。

 

「ばか。やっぱり忘れてる」

 

氷上では、いのりが再び踏み切りの構えに入っている。

リンクを見守る二人は、しばし沈黙したまま、その光景を見つめていた。

 

その横顔に浮かぶのは、かつて見た希望の輪郭と、まだ言葉にならない未来のかたち。

 

葉の胸元へと伸びた指が、迷いなく、ぐいと押し返す。

葉が一瞬、わずかにまばたく。

 

リンクのざわめきを切り裂くように、その一言は放たれた。

まるで静寂の中の宣誓のように──葉の耳に、深く届いた。

 

 

「オリンピック──()()()が、いつか金メダリストになるって話だよ」

 

 




第1章完。ここまで、お付き合いいただきありがとうございます。
ストックが尽きてしばらく経っていたので、少し書き溜め期間に入ります。

忘れられないうちに戻ってこれればと思うので、また引き続きよろしくお願いします。

感想や評価等々、日々の励みになっていました!第2章もよろしくお願いします!

※いるかの学年を中3→高1へ変更しました
(追記)年齢間違って認識してたのですが、バイトしてほしいのでこのまま行きます。影響出ない様に調整しておきます。
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