氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
『株式会社──社は、名古屋出身のフィギュアスケートの碧芽葉選手(ルクス東山FSC)と、20XX年X月よりスポンサー契約を締結したことをお知らせします』
大須スケートリンク。その入り口近くに座っていた高峰瞳は、スマートフォンの画面に表示されたその文章を見つめながら、そっと息を吐いた。
話は葉から聞いていたものの、実際に企業のHPに掲載されているのを目にすると、胸の奥からじんわりと嬉しさが込み上げてくるようだった。
「……くぅ〜っ、やったわね葉くん……!」
画面上の写真では、白髪の青年が少し恥ずかしそうに笑っている。
何年もこのクラブで子どもたちを見てきたが、スポンサー契約まで辿り着いたのは、これが初めてだった。
一度は競技を離れながらも、自分の力でここまで戻ってきた。その事実が、何より誇らしかった。
「こんにちはー、瞳先生!あれ?何かいいことあったの?」
レッスンにやってきた生徒が、瞳の様子に首を傾げた。
その声に我へと返った瞳は、少し慌ててスマートフォンを画面ごと裏返す。
「あっ、ごめんごめん。ちょっと、嬉しいお知らせがあってね」
「嬉しいお知らせ?」
「葉くんのこと。ある企業さんが彼の演技を見て、“応援したい”って思ってくれたの。正式にスポンサー契約を結んだんだって」
「えぇ!!葉くんって、あの葉くん? ……すごい! ほんとにすごいね!」
生徒の目がぱっと見開かれる。
まだ中学生の彼女にとって、同じクラブ出身の先輩が企業からサポートを受けるという出来事は、まるで夢のようだった。
「うちのクラブから、そんな選手が出るなんて……!」
「ね、本当に嬉しいわよね」
瞳は、そんな生徒の反応を微笑ましく見つめながら、そっと胸の内で思う。
──“これが、次の世代の希望になってくれたらいい”。
ただの契約以上に、今日のこの出来事はクラブ全体にとっての“誇り”だった。
今この瞬間も、その次の芽吹きを夢見て、多くの若い選手たちがリンクに立っている。
リンク中央で汗を流す結束いのりも、そのひとりだった。
「凄いよ、いのりさん!!タイミングばっちりだよ!」
リンクの中央で、司のよく響く声が弾んだ。
いのりの跳躍を見守っていたその目が、驚きでまん丸に見開かれている。
──2回転ループ
これまで何度挑んでも着氷が乱れていた技。
今日は跳び上がる角度も回転も見事に決まっていた。
司は手に持っていたノートに、ジャンプの記録をしようとするも、手が震えてうまくペンが動かない。
目頭を押さえ、鼻をすすりながら感極まったように叫んだ。
「ブロークンレッグに続いて、2回転まで1人で……?すごい、すごいよ、いのりさん!!」
その様子を少し離れた場所から見ていた葉が、苦笑まじりに呟く。
「司さん、声大きすぎでしょ……」
バッジテスト1級取得を目指すいのりのレッスン。
その滑りを、監視ベストを身に着けた葉が、リンク上の一角から静かに見守っていた。
「……ちゃんと2回転ループ降りれたか。偉いなぁ」
目を細め、口元をほんの少しだけ緩める。
こっそり続けてきた自主練の成果が、しっかり実を結んだ。
そして、それを見て泣きそうになっているコーチの姿に、思わず心がふっと緩む。
(こっそり手伝ってきた甲斐があったなぁ)
静かに胸の奥でそう思ったそのとき──
いのりが、ちらりとこちらに視線を送り、控えめに右手でVサインを掲げた。
葉もまた、無言のまま微笑んで、指先で小さくVを返す。
そんな穏やかな瞬間を、ひとつの無遠慮な声があっさり塗り替えた。
「なに?知り合い?」
今日のアルバイト、リンクの監視は葉ひとりではなかった。
「……てか、あの子……めっちゃ可愛くない?」
唐突すぎる声に、葉は一瞬きょとんとした。
なんの脈絡もないひと言。それも、わりと真顔。
葉の横では〈研修中〉の腕章をつけた少女が、棒立ちでリンクを凝視していた。
表情は無。けれど目線だけは、いのりにロックオンされている。
「……いるか」
「は?なに?」
「お前が可愛い子が好きなのは分かったから、真顔で言うのやめろ……怖いから」
「うっさいな……」
ジュニアクラスのエリート。強化指定選手の岡崎いるか。
その彼女が、なぜか今日からこのスケートリンクでアルバイトを始めたという。
そして、よりにもよって彼女の教育担当に抜擢されたのが葉だった。
「っていうか、リンクでバイトするにしても、なんでここ選んだんだよ。もっと近いとこ、あっただろ」
葉が尋ねると、いるかはぷいっと顔を背けた。
「別に。数駅しか離れてないし……どこで働こうが私の勝手でしょ。金貯めて欲しいもんがあるんだよ」
「……はあ。欲しいものって?」
「秘密」
ぶっきらぼうにそう返しながらも、視線はすぐに氷上の少女──いのりへと戻っていた。
「……そんなに気になる?」
「うん。パタパタしてて、かわいい」
言葉とは裏腹に、表情はいつもの無愛想なまま。
なのに、その目だけがじっとリンクの中央を追いかけていた。
「お前……顔に出てないようで、めっちゃガン見してんじゃん」
「してない」
「いや、してるって。完全に“癒されてます”の距離感だぞ」
「……うっさいな」
口調は素っ気ないのに、視線だけやたら優しい。
そのアンバランスさが、逆に分かりやすい。
葉は思わず肩をすくめながら、少しだけ笑った。
「……あの子、実叶ちゃんの妹だよ」
その一言が落ちた瞬間、いるかの動きが止まった。
ぐるりとこちらを向いた目が「マジで?」と問いかけてくる。
葉は無言で頷いた。
「──へぇ、確かに似てるかも」
そのまま硬直したように、いるかはぽつりと呟いた。
その声色にふと、何か込み上げるようなものを感じ取って、葉は静かに口を開く。
「いるか、お前さ……久しぶりに、実叶ちゃんと話さない?」
「……」
「俺、連絡先知ってるしさ。多分向こうだって話たがってるよ」
いるかはしばらく反応を見せなかった。
ただ、じっと──まるで何かを確かめるように──氷上で跳ぶいのりの姿を見つめていた。
その眼差しは、懐かしい記憶をたぐるようにも、遠い何かと重ねているようにも見えた
「……しない」
やがて返ってきたのは、きっぱりとした否定の言葉だった。
「もう一回、実叶ちゃんと話すタイミングは、自分で決めてるから」
どこか決意を宿した声音に、葉は小さく首を傾げた。
そんなタイミングなんてあっただろうか──心の中で問いかける。
その気配を察したのか、いるかがちらりと視線をよこす。
「……忘れたの?昔、3人でいろんな約束したじゃん。リンクとか、合宿とかでさ」
「……ああ、あったな。そんなことも」
「それが叶ったとき、もう一度ちゃんと話すって決めたの。だから、今はまだ会わない」
「約束って……どれのこと?」
思い返すように、葉は宙を見上げた。
「毎日一緒に滑ろうね」って言ったこともあったし、
「いつか大会で、みんなでメダルを獲ろう」って誓い合ったこともあった気がする。
いるかは肩をひとつすくめて、呆れたように吐き出した。
「ほんと、バカ……私ばっか、ちゃんと覚えてんじゃん」
その言葉に焦った葉が、慌てて両手を振る。
「ち、違うって! 忘れたわけじゃなくて、どれのことかって話でさ……」
言い訳の途中、いるかの拳が葉の胸元を軽く突いた。
その仕草と声色には、どこか懐かしさが混じっていた。
「──てっぺん獲るって話に決まってるでしょ」
葉の口が、かすかに開く。
その一言の重みを、誰よりも知っているからこそ。
「……じゃあ、全日本優勝とか?」
問いかけると、いるかは鼻を鳴らした。
「ばか。やっぱり忘れてる」
氷上では、いのりが再び踏み切りの構えに入っている。
リンクを見守る二人は、しばし沈黙したまま、その光景を見つめていた。
その横顔に浮かぶのは、かつて見た希望の輪郭と、まだ言葉にならない未来のかたち。
葉の胸元へと伸びた指が、迷いなく、ぐいと押し返す。
葉が一瞬、わずかにまばたく。
リンクのざわめきを切り裂くように、その一言は放たれた。
まるで静寂の中の宣誓のように──葉の耳に、深く届いた。
「オリンピック──
第1章完。ここまで、お付き合いいただきありがとうございます。
ストックが尽きてしばらく経っていたので、少し書き溜め期間に入ります。
忘れられないうちに戻ってこれればと思うので、また引き続きよろしくお願いします。
感想や評価等々、日々の励みになっていました!第2章もよろしくお願いします!
※いるかの学年を中3→高1へ変更しました
(追記)年齢間違って認識してたのですが、バイトしてほしいのでこのまま行きます。影響出ない様に調整しておきます。