氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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第2章 凍らない場所
16 4年後の君へ


期末試験を終えた大学は、夏休み目前の浮き足立った空気に包まれていた。

 

旅行の話、サークルの合宿、アルバイトの稼ぎ時──

あちこちで浮ついた声が飛び交い、誰もがそれぞれの“夏”を思い描いている。

 

この場所では、"碧芽 葉"という1人のフィギュアスケーターがつい最近復帰した事なんて、きっと誰も知らないのだろう。

リンクの外にある日常は、そんな風に今日も変わらず回っている。

 

「さて、ここでワークの時間を取りましょう──4年後の自分を、想像してみてください」

 

そんな中、俺はいま後悔しかけていた。

 

(めんどうくさいな……)

 

黒板には『キャリア支援ガイダンス』の文字。1年生向け、夏休み直前の進路ガイダンスだ。

前に立つ職員の声が響く中、配られたワークシートにはいくつかの質問が並んでいる。

 

 

《4年後の自分を想像してみましょう》

 

1:第一志望の進路(職種・業界)を具体的に書いてください。

2:その進路を志望する理由を書き出してみましょう。

3:その進路に向けて、大学在学中に取り組みたいこと(学び・経験)を書いてください。

 

 

軽い気持ちで覗きに来たのだが、まさか話聞くだけで終わらないとは。

 

(これ書くのかぁ……俺、4年後って、何してるんだろう)

 

ペンをくるくると回しながら、白紙のプリントを眺める。

ちらりと隣を見れば、他の学生たちはもう欄を埋め始めていた。

 

「俺、メディア系行きたいんだよね」

「やりたいことないしなぁ、一旦コンサルで武者修行するとか?」

「俺、起業って書いとこ!!」

 

そんな声が飛び交う中、俺の紙だけが、ぽつんと空白のままだった。

 

(そんな先の事なんて……つい最近、フィギュアスケート復帰とかで大変だったのに)

 

つい最近、6年ぶりにフィギュアスケートの世界に戻ってきた。

支えてくれる人たちがいて、スポンサーの後押しもあって、今は不自由なく練習できる環境もある。

 

もう一度滑ると決めてから、迷い続けていた頃の自分には戻っていない。

それでも──

 

(この先のことは、まだうまく言葉にできない)

 

記憶の中で、いるかのまっすぐな言葉がずっと残ってる。

 

『オリンピック──私たちが、金メダリストになるって話だよ』

 

俺と、いるかと、実叶ちゃん。

昔に3人で交わした、子どもじみた──でも確かに“本物だった”約束。

 

 

──来年にはオリンピックの選考がある。

 

 

でも、俺には遠すぎる話だ。

 

12歳で途切れたキャリア。ジュニアの大会にも、国際大会にも実績がない。

選考にかすりもしないのは、分かりきっている。

 

(目指すなら、5年後か……)

 

その頃には23歳──フィギュアスケーターとしては全盛期を少し過ぎたあたり。

 

想像も出来ない先の未来に苦笑する。

まだ正面から夢を見られるほど、俺の心は強くなかった。

 

「……好きなだけじゃ、もう足りないんだろうな」

 

ぼやきは誰にも届かず、宙に消えた。

 

気がつけばガイダンスは終わっていて、周囲は夏休みの解放感に包まれている。

だけど、なんとなくそのまま帰る気になれなくて──俺はキャンパスの片隅をぼんやりと歩いていた。

 

特に目的地があったわけじゃない。

ただ、なんとなく歩いていた。人の流れから離れて、静かな場所を求めて。

 

「将来……かぁ」

 

フィギュアスケートに戻れて、今こうして滑れているのは、本当に幸せだと思う。

でも、“先”のことをしっかり考えるには、まだ心が追いついていない。

そんな漠然とした不安が、胸に引っかかっている。

 

──ふと、夏の蒸し暑さに混ざって、氷の冷気を感じた気がした。

 

「……ってあれ、ここどこだ?」

 

思考の海から浮かび上がるように足を止める。気がつけば、見覚えのない建物の前に立っていた。

 

校舎とは明らかに異なる、立派でどこか異彩を放つ建物。

見上げた壁に掲げられた文字が、目に飛び込んでくる。

 

『間京大学スケートアリーナ』

 

(ここって……噂の)

 

大学の敷地内に、関係者専用のスケートリンクがあるとだけ聞いた事があった。

場所は知らなかったはずなのに、偶然辿り着いたことに運命を感じてしまう。

 

ふと視線を下ろすと、扉は開け放たれていた。

誰かが出入りした直後だろうか。迷いながらも、俺はそっと中を覗いてみる。

 

ロビーを挟んだガラス窓の向こうに、天井の高いリンクが広がっているのが見えた。

距離があるはずなのに、冷たい空気がこちらまで届いてくる気がする。

 

──その時だった。

 

「やっと来たか。待ちくたびれたぞ、葉」

 

背後から突然の声。

驚いて振り返ると、ロビー前の自動販売機の前に立っていたのは──渉人くんだった。

 

鷗田 渉人。

名港杯で一緒に戦った選手であり、ノービス時代から何度も顔を合わせてきた旧知の仲。

 

数ヶ月ぶりに見る姿は、ジャージにスポーツドリンクを手にした相変わらずの姿。

少し飄々とした笑みまで、まるで変わっていない。

 

「……おつかれ、渉人くん。数ヶ月ぶりだね」

 

「なんかよそよそしいな。遊びに来いって連絡しても全然来ないし、もう来る気ないかと思ってたぞ」

 

笑いながら肩をすくめるその雰囲気は、昔と変わらない。

 

「ごめん、なんかずっとバタバタしててさ」

 

「まあいい。今来たってことは、少しは余裕出てきたってことだろ?せっかくだし、見ていけ。今、自主練中だからリンクも空いてる」

 

そう言って、俺の肩をぽんと叩いた。

思ったより力強いその手に押されるように、俺はリンクサイドに足を踏み入れる。

目の前のスケートリンクは想像以上に広くて、静かだった。

 

(綺麗だな……)

 

照明は柔らかく、氷のコンディションも良さそうだ。

人が少ないせいか、空気が澄んでいるようにも感じる。

 

ルクス東山FSCでは小中学生ばかりだったせいか、年代の近い選手が数人練習する姿が妙に新鮮だった。

 

「いいだろう? 一般客はいないから混まないし、静かで集中できる」

 

「……いいね、羨ましい」

 

正直な感想が自然と口から出た。

 

「絶賛部員募集中だ。クラブ兼任の奴もいるから、籍を置くだけでもいい……実績は部にも回して貰うがな。滑ってくか? 靴、貸すぞ」

 

「いやいや、そこまでするつもりは……っていないし」

 

横を見るとつい数瞬前までいたはずの渉人くんはもう靴を取りに行っている。

慌てて追うと、彼は靴を取りに行く途中で誰かを見つけたようだった。

 

ちょうどあいつ来てるな、と呟きながら手を大きく振って、向こうに声をかけている。

 

「おーい、理依奈!」

 

「なにー?」

 

渉人くんが手を挙げた先で、ウェーブがかった金髪を束ねた女性が振り返った。

氷の上を颯爽と滑る姿は、細い体にもかかわらず、どこか堂々としていて視線を引く。

 

「……理依奈ちゃん?」

 

それは、記憶にある人だった。

鯱城 理依奈。

 

ノービスの頃、ひとつ年上だが、何度か大会で顔を合わせた記憶がある。

当時からよく目立つ選手だったけれど、今はその頃よりずっと、存在感が大きくなっていた。

 

思わず声をかけると、彼女はすぐに笑顔を返してきた。

 

「あれ、葉じゃん!ひっさしぶりー、そっか大学こっちだったんだ」

 

「うん、まあ……こっそり在籍してる」

 

「渉人に聞いたよ、名港杯出てたって!戻ってきたんだって聞いて、ちょっとテンション上がったわ」

 

話し方は昔と変わらず砕けていて、肩の力が抜ける。

 

(そういえば、理依奈ちゃんも間京大学だったっけ)

 

「理依奈、今日はこっちで練習か?珍しいな」

 

「うん、グランプリシリーズが近いからさ。リンク全部使える時間、ありがたいんだよねー。クラブだと子供達もいるからたまに手狭でさ」

 

彼女は笑いながら軽く肩をすくめた。

 

("グランプリシリーズ"、か……)

 

その単語に、彼女が日本を代表する特別強化選手として、海外の大会に派遣されてる事を思い出す。

 

昨年の全日本選手権で表彰台入りをした強豪選手にのみ与えられる称号──それが“特別強化選手”。

 

(そうだ、理依奈ちゃんって……前回のオリンピックにも出てたんだっけ)

 

4年前、15歳でのオリンピック出場。

あのときはニュースでも大きく取り上げられていた。

同じリンクにいたはずなのに、いまはどこか遠くに感じる。

 

「理依奈も、ここの部員なんだ。普段はクラブの方が多いけど、たまにこっちでも滑りに来る」

 

渉人くんが補足すると、理依奈ちゃんは「部室のロッカー、色々置きっぱなしでさー」と肩をすくめた。

 

「葉さぁ、せっかく来たなら、ちょっと滑ってきなよ。試しにさ」

 

再会した彼女の言葉に流されるまま、俺は借りた靴を履いてリンクへと向かう。

足の裏から伝わる氷の硬さと、滑り出しの微かな抵抗。

 

「いってらっしゃい」

 

渉人くんの声に背を押され、ゆっくりと滑り出す。

氷の質を確かめながら徐々にスピードを上げ、ステップやターン、ジャンプの助走へと切り替えていく。

 

ひと蹴りする毎に、気持ちが段々と氷に向かうのが分かる。

 

(大須のリンクより静かだ……何も聞こえないくらいに集中できる)

 

そっと加速して、踏み切る。

 

跳躍──3回転サルコウ

 

空中での時間が伸びる感覚。着氷の音が、コーン、とリンクに響いた。

遠くでざわめきの声が上がるのが分かったが、まったく気にならなかった。

 

「っ……」

 

思わず息が漏れる。先日の名港杯の時よりも確かな手応え。

先ほどの将来への不安も、少しだけ氷に溶けていく気がした。

 

(……この練習環境はやばいな、惹かれる……ん?)

 

滑りながらふと、人影が見えた気がした。

リンクサイドの外、窓越しに見える廊下に、影がひとつ。

 

壁に片脚をかけて、ストレッチをしている誰か。

黒の練習着に、手にはストレッチバンド。すらっと伸びた脚。

どこかで見たような動きに──気がつけば、滑っていた足を緩めていた。

 

(あれって……)

 

リンクを離れ、エッジカバーを手早くつけると廊下へ向かう。

 

照明の下、近づくほどにはっきりとその姿が見えてくる。

体を倒してストレッチを続けるその顔がこちらを向けたのは──

 

「……やっぱり葉じゃん。なんで此処いんの?」

 

──いるかだった。

 

「お前、なんでここに?」

 

「見てわかんない?練習……ジュニアグランプリ控えてんの」

 

「いや、そうじゃなくって……ここ使ってんだ」

 

「私、ここの附属高だし。クラブじゃチビ達で手狭なんだよ」

 

そう言って、バンドを引きながら再び柔軟を続ける。

時々、チラチラとこちらを見るのが、なんとなく落ち着かない。

 

「まさかとは思うけど……部活、見に来たとか?」

 

「見に来たっていうか、渉人くんに連れてこられて。たまたま」

 

「ふーん……じゃあ、入るの?」

 

「……まだ決めてない」

 

バンドを引いたまま、いるかがこちらに視線を戻す。

 

「そんな、チンタラしてて大丈夫?今年の全日本の中部ブロック、エントリー間に合わなかったんでしょ?」

 

「うっ……分かってるよ」

 

痛い所を突かれた。

つい先日までのフィギュアスケートに復帰するか悩んでいる間に、今年の中部ブロック予選への申込みが締め切られていたのだ。

 

「今年の全日本選手権は見送るけど……違う大会には出るつもり」

 

「あっそ。調整ならいざ知らず、小さい地方大会で積める経験なんてペラッペラだと思うけど……ちなみに部活の先輩たち、カレッジ対抗戦出るよ」

 

「え?」

 

「西日本学生選手権──西日本の大学生選手の頂点を決める大会」

 

そう言えば、いのりちゃんが小中学生で似た大会に出場するという話を思い出す。

 

「出るならそっちのがレベル高いんじゃない?もう入っちゃえよ、部活。あんた、悩むと長いんだから。たまにはさ」

 

軽い口調だけど、どこかこちらの内側を突いてくる言い方だった。

 

「……お前にしては珍しく勧誘するじゃん。なんか裏でもある?」

 

「べ、別に勧誘なんて……っ」

 

その瞬間、ふと思い出す。

復帰を迷っていたとき──あのとき、彼女が言ってくれた言葉。

 

『……あんたの滑りが、好きだったんだ。昔も、今も、ずっと……ずっと憧れてた』

 

(──ああ、そういうことか)

 

珍しく食い下がってきた理由に合点がいって、思わず口元がゆるむ。

 

「……そういや、お前。俺の滑り、好きだって言ってたもんな」

 

「~~~~っ!!」

 

ばちん、とバンドが鳴る。

顔を真っ赤にしたいるかが、言葉を探して慌てふためいている。

 

「ばっ!?ち、ちがっ……違えし! 好きって、そういう意味じゃなくて、あれは、技術的な話で……!」

 

珍しく動揺する姿に、なんだかちょっと笑ってしまう。

そんな彼女と一緒に練習する日々は、きっと悪くない。そんな予感がした。

 

「とりあえず、入ってみようかな。ここ、悪くないし」

 

そう言うと、いるかはそっぽを向いたまま、バンドをぎゅうっと引き伸ばした。

 

「……勝手にしろ」

 

その言葉とは裏腹に、その耳は先っぽまで真っ赤だった。




再開します。良かったら、またお付き合いください。
第2章は時系列的に原作1年目の未描写部分が多くなりそうです。
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