氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
「え、葉さん、大学のフィギュアスケート部に入ったの!?うち、辞めないよね!?」
思わず大声になった司に、大須スケートリンク中の視線が集まった。
「葉くん、辞めちゃうの!?」
いのりもその声に呼応するように、驚きの声を上げる。
あまりの勢いに、一般客たちが何事かとこちらを振り返っていた。
「しないしない!練習場所をもう一つ作っただけだから!」
慌てて手で制してくる葉に、司はほっと胸を撫で下ろした。
「なんだ、よかったぁ」
「葉くん、いなくなっちゃうかと思った……」
隣で同じように胸を撫で下ろしているいのりの様子に、司はふと目を細めた。
いのりが思った以上に動揺していたのが、少し意外だった。
(……こんなに葉さんのこと、慕ってたんだな)
最近、いのりが葉に懐いていることには気づいていた。
だが、今日見せた反応は、その想像を上回るものだった。
少し内向的だったいのりが、誰かとこんなふうに打ち解けられている。
それは、司にとっても密かな喜びだった。
(……よかった。いのりさんも、ちゃんとクラブで居場所を見つけられてるんだ)
年の近いクラブメイトと仲良くなるかと思っていたけれど、案外、年齢の離れた相手のほうが居心地がいいのかもしれない。
お姉さんがいるからなのかな?と、司が首を傾げる横で、葉は肩をすくめた。
「いろいろ助けてもらってますし、そんな薄情なことはしませんよ」
ため息まじりにそう言って、葉は続けた。
「それに、部活にもコーチはいますけど……司さんたちに見て欲しいです」
「本当に……?間京大学って、コーチ陣も優秀だって聞くけど……」
司は思わず聞き返してしまった。
間京大学といえば、フィギュアスケートの強豪であり、コーチ陣も名高い。
自分のような、シングル経験のないアイスダンス上がりのコーチで、本当に役に立てているのだろうか──そんな不安が、胸の奥にわずかに残っていた。
だが葉は、変わらない声音で言った。
「別に専属のコーチがつくわけじゃないですし、司さんの指摘はすごく助かってます。スケーティングも、アイスダンス仕込みの視点で教えてもらえれば、もっと伸ばせそうですし」
まっすぐな声だった。
司は、胸のどこかにあった小さな棘が、不意にほどけていくのを感じた。
「そっか、なら……よかった!」
明るく返した司は、気合を込めるように拳を握った。
「もっともっと葉さんの力になれるように、俺も頑張るよ!」
「はい。今日もレッスン、お願いします!」
そうして今日もルクス東山FSCでの葉の練習が始まる。
葉の練習内容は、ノービスクラスのいのりよりも複雑だ。
序盤の基本動作の反復こそ同じだが、できることが多い分、難易度や内容の密度が違う。
その比重は、すでに基礎よりも応用へと傾いていた。
(葉さん、ますます上手くなってる……努力もあるんだろうけど凄い集中力だ)
氷を押し切る力も、跳び出す瞬間の軸の強さも、以前よりずっと鋭くなっていた。
まるで空気を切り裂くように、リンクの上を駆け抜けていく。
中でもジャンプの進歩は目覚ましかった。
名港杯からさらに成長し、彼は驚異的なスピードで、5種の3回転ジャンプ着氷を達成していた。
「よし!3回転ルッツの着氷もクリーン。もうばっちりだね!!」
「
3回転アクセルこそ不安定なままだが、名港杯から数カ月とは思えない成長ぶりだった。
(この子は、どこまで行ってしまうんだろう)
背筋に、言葉にならない戦慄が走る。
それでも──もしもすべてが噛み合ったら、どれだけの得点が出るのか。
想像するだけで、司は身震いしそうになる。
(いのりさんももの凄い成長だし、葉さんも……俺の生徒たちは末恐ろしいな)
まだスケート歴4ヶ月なのに、先日1級に合格したいのりの成長もある。
葉の進歩も踏まえて、司は自分の中の常識が更新され続けていた。
「……ねえ、そういえば葉さん」
個人レッスンの1コマ目の切れ間。司は少し身を屈めて、葉に耳打ちをした。
「なんですか?」
「気にしないようにしようと思ってたんだけど……なんで岡崎選手が、リンクでこっち見てるの?」
司がちらりと指差すと、葉もそちらを見やった。
大須スケートリンクのジャージを着たいるかが、監視員の腕章をつけてリンクサイドに立っていた。
じっとこちらを見つめているように感じた。
「ああ……彼女、ここでバイト、始めたみたいで」
「それは聞いてたけど……もうすぐジュニアグランプリシリーズじゃなかったっけ?いいのかな、こんな大事な時期に」
「だと思いますけどオフの日に、たまに来てるだけみたいなんで。俺がとやかく言うことでもないですね」
葉がさらりと答えたあと、ふっと笑って言った。
「気分転換だとは思いますけど……多分、いのりちゃんの様子を見に来たんじゃないですか?」
その言葉に、司も自然と視線を向ける。
葉の視線の先では、いるかに向かって駆けていくいのりの姿があった。
最初はいのりも、いるかの鋭い目つきに怯えていた。
けれど、いるかが姉・実叶のクラブメイトだったこと、小さい頃に一緒に遊んだお姉さんだったことを思い出してから、すっかり懐いている。
今日も、いるかの姿を見つけるなり、いのりは嬉しそうに駆け寄って話しかけていた。
遠目で見守る中、いるかはいのりの結った前髪をつまんで「変なの」とでも言うように、弄っている。
(……いじめられたりはしてないんだよね?)
司はそわっとしながら二人を見つめる。
「……あれ、俺は見守ってていいんだよね?」
「たまにいじめっ子みたいですけど……小学生男子が好きな子にちょっかいかけるのと一緒なんで。大目に見てやってください」
その言葉に、司もふっと肩の力を抜いた。
改めてリンクに視線を戻すと、たしかに、いるかはどこか楽しそうにいのりをからかい、いのりもぷんすこと怒りながら、どこか嬉しそうだった。
「最悪の場合、俺がはたいて止めますから」
そう言う葉の言葉を、司は素直に信じることにした。
「でも、岡崎選手の意外な一面を知ったな」
ふと漏れた司の言葉に、葉が肩をすくめる。
「俺も最近知りましたよ……あいつ、可愛い女の子に構うの好きだったなんて。この前も、関西から来てた子たちにちょっかい出してましたし」
「関西……ああ、蛇崩先生のところの、すずさんと絵馬さんか」
先日、この大須スケートリンクで行われたバッジテストが頭をよぎる。
そこで偶然出会った京都の蓮華茶FSC所属、いのりと同年代のノービス選手たち。
司は2人のクラブコーチでもある蛇崩と情報交換をしながら、先日も彼女たちの滑りも見ていたのだ。
「あいつ、すずちゃんに『きゃわ』って真顔で言ってましたよ」
「そ、それは、表情とのギャップがすごいね……」
乾いた笑いを返しながらも、話題にのぼっている2人のノービス選手の存在は司には無視できない。
すずと絵馬は、いのりにとって今後のライバルになる。
特に絵馬はいのりと同時に1級に合格しており、次の西日本小中学生選手権にも出場予定。
いのりと同じカテゴリーでのライバルとなる。
一方のすずは、さらに突出していた。
11歳という年齢にしては異例のスピードで、バッジテスト7級の取得に挑戦中だ。
──バッジテスト7級。
全国のフィギュアスケーターでも1割未満しか到達しない難関。合格率だけ見れば、司法試験よりも低い。
(さすが、近畿で一番とも言われる蓮華茶FSC……)
そんなことを思いながら、司は隣の葉にふと視線を向けた。
「ちなみに葉さん、7級っていつ取ったの?」
「え、俺ですか?たしか……11歳のときですね。すずちゃんと同じ年ぐらいです」
さらっと返されたその一言に、司は一瞬、固まった。
葉がスケートを始めたのは8歳──そこから、わずか3年で7級到達ということになる。
司の中の常識に当て嵌めれば、この速度は異常だ。
(……このスピード感、基準にしていいのか?)
いのりも、早く級を上げたいとは言っていた。
いまの成長スピードのまま順調にいけば、最速で来年には6級に届くだろう。
だが、それはあくまで最速の場合。焦りは禁物だ。
絵馬も、いのりと同い年で1級に合格していたのだ。無茶せずに級を上げる事が大前提。
怪我や無茶をしない様に、いのりをサポートするのが司の役目だ。
(でも、絵馬さんの技術の高さはすでに1級の枠を超えていたような……何か1級を受けられなかった理由があるのかもな)
1級を超える実力がある選手が出てくるとなると、いのりが出場する来月の西日本小中学生選手権の舞台は厳しい戦いになるだろう。
そう思うと司は、背筋が自然と伸びる気がした。
「そういえば葉さん。大学のフィギュアスケート部だと、西日本学生選手権があったよね?」
「ええ。大学生だけの大会ですね」
「出るの?」
あくまで何気ない問いだった。だが、葉の表情がほんのわずかに陰る。
「……あれ? なんかまずいこと聞いた?」
「いえ。司さんが悪いわけじゃないです。部活のコーチからも、出場は勧められてますし」
「でも……?」
司が促すと、葉は小さくため息をついた。
「俺……部活の中で、ちょっと煙たがられてるみたいで……」
「……え?」
その言葉に、司は言葉を失った。
(葉さんが──煙たがられてる?)
人当たりはいいし、実力だって申し分ない。
冗談かと疑いたくなる。だが、葉の顔は曇ったままだ。
「だから、学生選手権への出場は……正直、迷ってるんです」
ぽつりと落とされた言葉に、司は何も返せなかった。
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