氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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18 氷を割る音

──間京大学。

 

愛知でも有数のスポーツ強化校として名を馳せるこの大学は、フィギュアスケートの強豪校としても知られている。

 

強化選手たちの合宿にも使われる本格リンクを擁し、部にはレベルの高い実力者たちが揃う。

私立大学のフィギュアスケート部の中でも、群を抜いた存在だ。

 

──そこに、碧芽葉が入部した。

 

ノービス時代、“天才少年”と謳われた存在。だが、彼の復帰は歓迎一色とはいかなかった。

 

過去に対する憧れと期待、そして警戒と剣呑な空気。

かつての栄光を知る者たちから向けられる視線がニ分されている事に、葉は気がついていた。

 

大抵の人間は、たとえ嫌っていたとしても、それを表に出すことはない。

しかし、中には露骨にその態度を示してくる者も存在していたのだ。

 

「おい、碧芽」

 

その日、リンクでウォーミングアップをしていた葉に声をかけてきたのは、その代表格のような部員だった。

リンクサイドから飛んできたその声には、苛立ちがにじんでいる。

 

葉が振り返った先にあったのは、にらみつけるような視線だった。

 

「どうした?」

 

「どうしたじゃねえよ。このあと曲かけやるから、リンク降りろ」

 

「えぇ、まだウォーミングアップ中なんだけどな」

 

「知るかよ。こっちが先に予約してんだ、おまえは陸トレでもしてろ」

 

ノービス時代、葉が何度か大会で見かけたことがあった選手だった。

関わりは薄く、話したこともほとんどない。彼がなぜそんな表情を向けてくるのか、葉にはわからなかった。

 

(全部リンク使うわけじゃないんだし、端っこで滑ってたって問題ないと思うんだけどなぁ)

 

曲かけ練習でリンクを広く使うことは知っている。

部内のルールで優先権があるのも事実だ。だが、彼が予約していたこと、葉には知らされていなかったのだ。

 

こういういびりにも似た出来事は、入部からすでに何度か発生していた。

 

「おい、早く降りろよ」

 

「わかったよ。急かすなって」

 

言いたいことがないわけではない。

でも、ここでは自分が“新入り”だ。下手に揉めても意味がない。

 

遠巻きに様子をうかがう他の部員たちの視線を感じながら、葉はリンクを離れる。

吐き出す息が、名残惜しそうに白く揺れた。

 

(やっぱ、歓迎されてないなぁ)

 

誰にでも好かれるなんて期待してない。

それは分かっていても、思ったよりも強い反発は想定外のことだった。

 

『何かあったら、いつでも相談しろよ』

 

入部した直後、そう言ってくれた渉人は所用で今日は不在だった。

よく話をするいるかや理依奈も、目前に迫ったそれぞれのグランプリシリーズに向けたクラブでの仕上げに集中しており、今日は部に顔を見せていなかった。

 

(下手に心配かけたくないな)

 

特にいるかと理依奈は、海外派遣される日本の代表選手として、大会での表彰台入りが求められている。

フィギュアスケートの強豪国、日本の看板を背負う以上、その目標はグランプリシリーズを勝ち抜いた先にあるグランプリファイナル。

オリンピックとはまた違った形で、世界一のスケーターを決める戦いだ。

 

──それぞれが、それぞれの舞台へ向かっている。

 

(俺も、頑張ろう)

 

遠くで戦っている仲間たちに、余計な心配をかけることだけは避けたかった。

自分がどう見られているかなんて、二の次でいい。

 

廊下の先、トレーニングルームの扉を開けて、葉は気合を入れ直した。

 

「っし、やるか」

 

リンクの外でだって、やらなきゃいけないことはたくさんある。

フィギュアスケーターに求められるのは、氷の上の練習だけじゃない。

 

柔軟性、体幹、筋力──

演技の質につながるすべてを支えるのは、リンクの外でのトレーニングだ。

鏡の前でのフォームチェックだって、氷の上ではできない。

 

特に四回転ジャンプ。

今後、それを取り戻していくためには、基礎的な総合力が欠かせない。

陸上トレーニングだって、決して無駄ではないのだ。

 

(ま、その前に……まずは目先のトリプルアクセルの安定だけど)

 

今日はそのために大学のリンクに足を運んでいた。

 

大須のスケートリンクでは、大人の葉がジャンプに失敗すると、派手な転倒音が響く。

目立つ音で一般客が振り返るので、静かな環境の中で思いっきり練習しておきたかった。

 

(……そろそろ、終わる頃だよな)

 

一通りの陸上トレーニングをこなした頃、時計に目をやった。

 

そわそわと身体が氷を求めているのがわかる。

だが、リンクからはまだかすかに曲かけ練習の音楽が聞こえていた。

 

(いや、まだか。でも……もうほとんど終わってるだろう)

 

落ち着かない。

もう少しだけ待つべきかもしれない。けれど、葉は身体の疼きを抑えることができなかった。

 

(……ちょっと覗くだけだから)

 

葉はトレーニングルームを出ると、廊下からリンクの様子をそっと覗いた。

 

ちょうど流れていた曲が終わったところだった。

リンク全体には、ゆったりとした余白が生まれ、何人かの部員たちが滑っているのが見えた。

いや、もしかしたら葉が戻ってくる前から滑っていたのかもしれない。

 

「お、終わってんじゃん。よし……」

 

エッジカバーを外しながら、意気込む葉の背中に、また声がかけられる。

 

「おい!碧芽、まだ使ってんだろうが!」

 

先ほど葉をリンクから降ろさせた部員だった。

曲かけ練習でにじんだ汗を拭いながら、ノート片手にこちらを見ている。

 

「いや、もう他の人も滑ってるじゃん。邪魔しないからさぁ」

 

「うるせぇ。お前がいると、こっちは集中できねぇんだよ!」

 

知らんがな、と思いつつ葉はしれっとリンクへと踏み出す。

 

「あっ、おい!てめっ──!」

 

「もう予定時間、過ぎてるだろ?延長して使ってるだけなら、こっちにも滑る権利あるよね。邪魔しないから」

 

歪んだ表情を横目に、葉は一気にスピードを乗せる。

 

リンクの外周を大きく回りながら、足元の感覚を確かめるようにクロスを刻む。

リンクサイドにいた数人の視線が、自然と一点に集まった。

 

一歩ごとに、氷が静かに鳴る。

 

滑り出した葉は軽くクロスを刻むだけで、リンクの空気が変わった気がした。

傾いたブレードが天井のライトを受けてきらりと光り、滑走の軌跡が氷に美しく刻まれていく。

 

氷が、彼の意のままに身体を運んでいるような──そんな不思議な感覚が見ている者を包む。

 

──と、葉の身体がくんっと一瞬だけ沈んだ。

 

「あっ」

 

誰かの小さな声が、静まり返ったリンクに響いた。

 

大きく助走を取ったわけでもない。バッククロスの勢いそのままに、気がつけば彼の身体は空中にあった。

美しい軸でくるりと一回転──いや、二回転、三回転──

 

三回転アクセル。

 

回り切った軸がわずかに伸び、着氷の瞬間、ブレードが氷を撫でた。

軽やかに、そして伸びやかに、氷上へと着氷する。

 

誰も声を出せなかった。

ただ、その場にいた全員が、"本物"を目撃したのだと、直感していた。

 

「すげぇ……」

 

「あいつ、この間まで苦戦してたよな。もう跳べるようになったってこと?」

 

ざわめきの中、リンクの端からぱらぱらと拍手が上がった。

本人はというと、真剣だった表情を一転、あわてたように両手を振ってやめろとジェスチャーしていた。

 

思わず、笑いが漏れた。張り詰めていた空気がふっと和らぐ。

 

「ちっ」

 

そんな空気の中、苦々しげに葉を睨みつけていた男──曳ヶ谷に、別の部員が近づいた。

 

「おい曳ヶ谷、もうやめとけよ」

 

「は?何だよ。お前だって、あいつ戻ってくるの嫌がってたじゃねぇか」

 

眉間に皺を寄せたまま、曳ヶ谷は睨む。

 

「ああ、思ってたさ……あの頃の“絶望”がまた帰って来たんだからな」

 

そう言った部員は、どこか遠くを見るような目をしていた。

 

「こっちを見向きもしねぇで、あっさり表彰台のてっぺん持っていって。俺たちは、残りの枠を奪い合うしかなかった……あいつがいる限り、ずっとな」

 

「だろ?そんな奴がいきなり消えたと思ったら、今さらひょっこり戻ってきやがって──」

 

「……だから最初は、俺も嫌だった。トラウマが帰ってきたみたいでさ」

 

でもな、と静かに続ける。

 

「俺たちも、もう“子ども”じゃねぇだろ」

 

「……何が言いたい」

 

「凡人が、天才の邪魔してどうすんだよ。みっともねぇだろ、それって」

 

しばらくの間、リンクにはブレードが氷を削る音だけが響いていた。

 

「あのジャンプ、見ただろ……邪魔なんてしても、どんどん上手くなる。あいつ、やっぱ“あっち側”の人間なんだよ」

 

それに、と続けて部員は短く息を吐く。

 

「岡崎も目ぇ光らせてたろ。ちょっとでもいびろうもんなら、すぐ睨みつけられたからな」

 

曳ヶ谷は顔をしかめた。

 

「……めんどくせぇな」

 

呟きながらも、心のどこかで理解していた。

あいつに手を出したところで、敵うわけがない。

才能も、味方も──全部持っていやがる。

 

「……認めねぇよ、そんなの」

 

絞り出すような声に、部員は肩をすくめて去っていく。

本当は心のどこかで、わかっていた。それでも、意地だけは捨てられなかった。

 

(……最初から、あんなふうに突っぱねなきゃもっと楽だったのかもな)

 

残された曳ヶ谷は、しばらく黙ったまま立ち尽くし──

やがて曲かけ用のオーディオの電源を切ると、ぎゅっと拳を握った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「曳ヶ谷」

 

いつの間にか時計の針は進んでいた。

 

名を呼ばれて、はっと顔を上げる。そこには、リンクから戻ってきた葉の姿があった。

飛びきったあとの表情は、どこか晴れやかで、満ち足りたものだった。

 

「氷の上で確認したいこと、見れたから。もう上がるわ……邪魔してごめんな」

 

「は?おい──!」

 

声をかけると、葉は立ち止まり、ふと思い出したように振り返る。

 

「そういえばさ、お前、昔は踏切苦手だったろ……凄い上手くなってて驚いたよ」

 

「……は?」

 

聞き返すしかなかった。

あまりにも予想外の言葉だった。

 

(……なんだよ、それ)

 

胸のどこかが、ぐらりと揺れた。

忘れたはずの過去が、たった一言で引き戻された。

 

──覚えていた。

 

あんなに圧倒的で、自分なんか眼中にもなかったはずの相手が──

あの“魔王”が、ずっと表彰台にすら立てなかった自分のことを、覚えていた。

 

曳ヶ谷は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。

 

(……なんだよ、それ。今さらそんな事言うんじゃねえよ)

 

足が勝手に動く。

去ろうとする葉の背中に、思わず叫んだ。

 

「好き勝手言いやがって!」

 

リンクに、声が響く。

 

「学生選手権!!」

 

驚いた顔で葉が振り向く。

 

「西日本学生選手権!声かかってるんだろ、てめぇも絶対ぇ出ろよ!!」

 

怒鳴るような声だった。でも、そこにあったのは怒りだけじゃない。

叫んだ自分に、曳ヶ谷はどこか居心地の悪さを覚える。

 

(……まだ、全部を認めたわけじゃねぇ)

 

そんな言い訳を心の奥で吐きながら、曳ヶ谷はぎゅっと拳を握った。

葉は目を見開き、そして何かに気がついたかのようにふっと笑った。

 

「……おう!」

 

こみ上げるものを隠すように、葉は小さく笑った。

その笑みは、どこか照れくさそうだった。




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