氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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19 もう1羽の鷹

西日本学生選手権が近づいてきている。

 

夏から始まったフィギュアスケートのシーズンは、すでに各地で熱戦が繰り広げられ、涙と汗、そして栄光がリンクを巡ってきた。

 

全日本選手権の地方ブロック大会、ジュニアグランプリシリーズ、いのりちゃんが出場した西日本小中学生選手権。

そして今、世界が見守る──ひとつの戦いの幕が上がろうとしていた。

 

「グランプリシリーズ、いよいよ開幕だね」

 

クラブの貸切練習がある夜。

大須スケートリンクのロビーでは、にぎやかな声が飛び交っていた。

 

貸切時間が来るのを待つ間、休憩室のテレビ画面を司さんやクラブの皆で見入っていた。

 

色とりどりの国旗とともに直前練習を始める選手たち。

 

「理依奈さん、今日出るんだっけ?男子フリーの後だよね?」

 

隣に座る司さんがそう声をかけてくる。

 

「はい。いるかがグランプリファイナルを逃したので、代わりに勝ち取ってやるって言ってました」

 

「岡崎選手は惜しかったね。表彰台には入っていたんだけど……」

 

「あいつ2位と3位だったのに、グランプリファイナルに行けないんですから……厳しい世界ですよね」

 

大会直後に送られてきたメッセージには、怒りと悔しさがにじんだ文章が長々と綴られていた。

来年はリベンジする。そんな端的な文章は彼女らしい。

 

そんな会話をしている横から不安そうにいのりちゃんが顔を覗かせる。

 

「あの、葉くん。いるかちゃん大丈夫かな? 最近こっちのリンクにいないから」

 

「大丈夫だよ。あいつは、怒りをバネに猛練習してるだけだから」

 

怒りに燃えるいるかは、既に切り替えて練習に打ち込んでいる。

開催が近づいている全日本ジュニア選手権に向けて、彼女はギアを上げていた。

 

「全日本ジュニアが終わったら、たぶんまたこっちにも顔出すさ」

 

「そっかぁ、よかった」

 

「いのりちゃんこそ、足は大丈夫? 今日もお休みかと思ってたんだけど」

 

いのりちゃんは先日、西日本小中学生選手権でシンスプリントを発症してしまった。

夏休み期間中は、本格的な氷上練習を控えていたと聞いている。

 

今日のクラブ貸切練習は、確かしばらくぶりの参加になるはずだった。

 

「うん!司先生とも相談して、少しずつ滑り慣らすことにしたんだ」

 

「まだ本格的にいのりさんは滑れないけどね。でもお医者さんからも“少しずつ練習していい”って許可が出たから」

 

「だから、今日からいっぱい練習するんだ!」

 

「い、いのりさん?少しずつね、少しずつ」

 

しばらく氷上練習が出来なかった反動からか、いのりちゃん息を荒くして目を燃やす。

彼女は今シーズン、大会出場は控え、バッジテストの級取得を目標にしているという。

 

司さんはいのりちゃんが無茶しないようにハラハラしている。

まぁ、司さんの言うことなら、いのりちゃんもちゃんと耳を傾けるしきっと大丈夫だろう。

 

「俺も頑張らないと……西日本学生選手権も、もうすぐ迫ってるし」

 

そう口にすると、司さんがこちらに視線を向けた。

 

「葉さん、大会に向けて気負ってなさそうだね」

 

「できることはやってきたつもりです。3回転ジャンプも少しずつ安定してきていますし、大会では出し切るだけです」

 

積み重ねたことを、ただ氷の上に置いてくるだけ。無理に気負うことはない。

司さんが笑う。

 

「葉さんなら、きっと勝てるよ」

 

「……そう言ってもらえると嬉しいです」

 

「名港杯は2回転ジャンプ中心の構成だったけど、それでもFSで140点近く出していた。今回は3回転ジャンプ中心になるから、点数はもっと出るはずだ」

 

名港杯──俺が6年ぶりに復帰した、最初の大会。

あの日の氷の感触も、緊張に支配された会場の空気も、まだ鮮明に思い出せる。

 

「西日本学生選手権はFS1本勝負の大会だ。優勝スコアは例年だいたい140点前後だって聞いているから、普通に滑れば、優勝には手が届くと思う」

 

司さんは静かに続ける。

 

「それに今回は、鷗田選手も出てこない」

 

「……渉人くんは全日本選手権に向けて、今回の大会は回避するって聞いてます」

 

渉人くんは例年よりも早く行われた全日本の中部ブロック大会を勝ち抜き、第2予選である西日本選手権の出場権を得ていた。

西日本選手権へ体力を温存するため、今回の大会は回避したと聞いている。

 

出場選手のリストを見ても、渉人くんを超える選手がいるようには見えなかった。

 

(少しずるいけど……この大会で優勝出来たら、少しはフィギュアスケートに復帰した成果が出たって思ってもいいんだろうか)

 

ブランクは埋まりつつある。

ジャンプを取り戻しつつあるし、未練だったジュニア時代用のプログラムも完成している。

 

6年間で努力を重ねてきた他の選手に、俺は追いつけているのか。

そんな心の焦りに区切りをつけるタイミングとしてはちょうどいいのかもしれない。

 

勝てれば、自分がちゃんと戻ってこられているという証になる。

きっとどこかで、それを求めていた。“他の選手と並んでいる”って言える何かを。

 

(でも──()()()()()()()?)

 

勝つことに意味がないとは思っていない。

 

けれど、それだけでいいのかという疑問が、ふと胸の奥に滲んだ。

理由はうまく言葉にできなかった。ただ、何かが引っかかる。

 

それをぐっと飲み込んで。自分を戒めるように口を開く。

 

「でも、氷の上に絶対なんてありませんから」

 

「そうだね。ライバルがいなくたって、氷は気まぐれだ。何が起こるかなんて、誰にもわからないよ」

 

「……ですね」

 

《これより、男子シングル・フリースケーティングがスタートします》

 

テレビからアナウンサーの声が響いた。

それに釣られるように、大須のロビーの空気も盛り上がっていく。

 

画面には、出場する海外の強豪たちが姿が次々と映し出される。

 

「わ、わぁすごい……みんな足が長くて頭ちっちゃい……」

 

外国人選手のスタイルの良さに、いのりちゃんが感嘆の声をあげる。

 

「注目選手ばかりだよ。世界ランキング上位の強者たちだね」

 

第一滑走者として滑り出した選手も、よく知られたベテラン選手だった。

 

華やかな振付、洗練された所作、衣装の一振り、腕の伸び。

氷に刻まれるエッジの跡さえ、目を奪われるようだった。

 

「華やかだな……」

 

日本はフィギュアスケートの強豪国だが、海外勢にも強い選手は多い。

この舞台で戦う彼らの姿に、少しだけ胸がざわつく。

 

確かに、世界は遠い。

けれど、ただ憧れて見上げるだけの場所じゃない。

手を伸ばせば、いつか届く。そう信じたいが……

 

(なんだろう、この焦燥感は……)

 

トップ選手達の演技を見届ける中で、やけに胸が疼く。

 

 

《続いて登場するのは、日本が誇る絶対的エース!!》

 

 

そんなアナウンサーの声が聞こえると大須のロビーの雰囲気が変わった。

それまで見ていなかった人まで、テレビの側へ寄ってくる。

 

画面の中では、広々としたリンクに、ひとりの男が滑り出してきていた。

 

黒一色の衣装が、まるで夜の静寂のように周囲を支配している。

氷の上の空気ごと彼のものになったかのようだった。

 

──鷹堂 凛一

 

現在の日本男子フィギュアスケートの頂点。

 

(鷹堂さん……)

 

俺にとっても、強烈に記憶に刻まれている存在。

 

ノービス時代、推薦出場した全日本ジュニア選手権で、一度だけ対決したことがある。

 

ぎりぎりの僅差で勝ったあの大会。

その鷹堂さんが不調を抱えていたと知ったのは、優勝に喜んでいた後のことだった。

──なんとか勝てたことに喜んでいた幼い俺は、冷水を浴びせられたかのような気持ちになったのを今でも覚えている。

 

俺にとって、苦い思い出が残った大会の記憶だ。

 

(あれから7年──ちゃんと演技を見るのは初めてだけど、あの頃よりも、ずっと研ぎ澄まされているはず)

 

テレビ越しでも、リンクの空気が張り詰めていくのがわかる。

重く、深く、静かに──誰もが息をのんでその動きを見守っていた。

 

「……」

 

始まりは突然だった。

 

荘厳なクラシック音楽による幕開け。

黒い影はひと蹴りで氷を駆けた。ぐんと伸びるその一歩だけで、レベルの高さが伝わってくる。

 

姿勢の制御、クロスの精度、すべてが磨き込まれている。

これまで滑っていた海外のトップ選手が、見劣りする気さえする。

 

(これは……)

 

1本目のジャンプ。

高く舞い上がったのは──4Lz(4回転ルッツ)3T(3回転トウループ)のコンビネーション。

 

「……高さ、えぐ」

 

誰かのつぶやきが、静かなロビーに響いた。

 

踏切から着氷まで、一切のよどみがない。

爆発的な跳躍力に、研ぎ澄まされた制御。

 

“鷹堂凛一”──その静けさを感じさせる名前からは想像もつかないほど、苛烈なジャンプ。

 

攻めに攻めた構成。

リスクがちりばめられたプログラムのはずなのに、彼はそれをすべて力でねじ伏せていく。

 

「めちゃくちゃかっこいいけど……」

 

「これで足持つのか……こんな構成、絶対無理だよ……」

 

スケートを知る者だからこそわかる、その異様さ。

流れるような美しさではない。

力と気迫で、氷を叩きつけるような滑り。

 

滑るたびに、空気がどんどん張り詰めていく。

それは観客の意識を置き去りにして進んでいくような滑りだった。

“勝つため”だけに、すべてを積み上げたような構成。

誰かに見せるためじゃない。

誰かと比べるためでもない。

 

──ただ、勝つために。魅せるための演技ではなく、その演技は──“力”そのものだった。

刻まれる一歩一歩が、まるで世界に向けて鷹堂凛一という存在突きつけてくるようだった。

 

(あれから……こんなに遠くなってたんだ)

 

7年前、たった一度だけ戦った相手。

あのときは、たしかに勝った。

でも、それは彼のコンディションが悪かった。

 

けれど、それでも──たしかにあのときは、まだ“競っていた”。

同じリンクにいて、同じラインに並んでいた。

少なくとも、そう思っていた。

 

それが今、どうだ。

 

今の俺から見た彼は、まるで別の競技をしているかのような存在だった。

どこを切っても隙がない。何一つ、粗さがない。

ただただ、圧倒的な強さで、すべてを封じていた。

 

(……俺が止まってた6年間で、鷹堂さんはこんなにも進んでる)

 

それが、今の差だ。いや、それだけじゃない。

あそこにあるのは、勝ちに懸け続けた男の、重みだ。

 

テレビ越しの観客たちも、その異様な熱量をひしひしと受け取っていた。

会場の温度がどんどん張り詰めていくのが、画面越しにも伝わってくる。

 

すべてのリスクを背負い、なお成功させる。

常軌を逸している。氷の上には絶対はない、という運命を覆す存在。

 

(これが……鷹堂 凛一というフィギュアスケーター……)

 

演技が終わった瞬間、リンクには静寂が落ちた。

次の瞬間、爆発するような拍手と歓声。

 

「これは……すごいな」

 

隣の司さんが、低くつぶやいた。

驚き、憧れ、畏怖──すべてが混ざったような声色だった。

 

俺も、ただ呆然と、その姿を見つめるしかなかった。

気づけば、拳に強く力が入っていた。

 

(……俺も、あそこを目指していたはずだった)

 

グランプリシリーズの実況が続いていたが、もう耳には入ってこなかった。

目の前に広がっていたのは、かつて憧れていた世界の舞台。

テレビの中の景色なのに、目の前に突きつけられているような現実だった。

 

──そうだ、俺は。

 

遠い昔の前世の記憶。病室のベッドで偶然見ていた世界大会。

それがオリンピックだったのか、グランプリファイナルだったのかも思い出せない。

ただ、リンクの上で滑っていたフィギュアスケーターの姿だけが、鮮烈に脳裏に焼き付いている。

 

名前も顔も思い出せない。

けれど、彼の滑りは、確かに俺の心を動かした。

 

リンクに戻ってからは「もう一度滑る」ことで精一杯で、いつしかその想いは、遠くに押しやられていたのかもしれない。

でも今、こうして“あの場所”を目にしてしまった以上、もう誤魔化せない。

 

(……遠い)

 

──あの頃は、信じていた。

 

まだノービスだった頃。

実叶と、いるかと三人で、いつかオリンピックで金メダルを取ろうって、無邪気に笑い合っていた。

 

自分たちの滑りの、その先に。

夢の延長線上に、当たり前のように“世界”が続いていると、疑いもせずに思っていた。

 

──でも。

 

気がつけば、その約束を思い出すことも少なくなっていた。

進む道を見失っていた俺は、夢の輪郭すら、どこかに置いてきていたのかもしれない。

 

(俺が“戻ってこれた”ことに満足してたら、何も始まらない)

 

西日本学生選手権。

 

もう間もなくやってくる、その大会に俺は出場する。

世界大会などとは比べものにならない。大きなライバルたちもいない。学生たちがしのぎを削る、いわばローカルな大会に。

 

(……俺は……この大会で、何を目指してるんだ)

 

優勝。ただ、1番になること。

 

だけど──それだけで、いいのか。

 

ジャンプの感覚は戻ってきた。練習環境も整ってきた。

けれど、もし今の自分が「学生大会で優勝できればそれでいい」と考えているなら──

 

それは、“今の自分の価値を証明したいだけ”なんじゃないか。

安心したいだけなんじゃないか。

 

俺は、6年分出遅れている。

だからこそ、もっと前を見なきゃいけない。

 

自分の殻に閉じこもって、限られた世界だけを見ていても──

きっと、あの高さには辿り着けない。

 

(大会の優勝スコアは、おおよそ140点台……でも、そんなもんでいい訳ないだろ)

 

今の俺の自己ベストを大きく更新するつもりで、この大会に挑む。挑まなきゃいけない。

 

今の自分の限界を超えていく。その覚悟で臨まなきゃ、意味がない。

 

「……司さん、すみません。少し席を外します」

 

貸切練習の時間までは、まだしばらくある。

けれど、じっと座っていることが出来なかった。

 

「鷹堂選手のスコア、もうすぐ出るよ?」

 

「すみません。すぐに戻ります」

 

リンクサイドへ出ると、冷気が全身を包み込んできて、心地よさすら感じる。

 

リンクでは、まだ別のクラブが練習を続けていた。

跳躍音、エッジを刻む音、コーチの掛け声が響いている。

 

目を閉じた瞬間、先ほどの鷹堂さんのジャンプが、まだ脳裏に焼き付いていた。

 

──俺も、あそこまで行く。いつか、超えてみせる。

 

静かに、ゆっくりと息を吐いた。

いつの間にか熱くなっていた心は、すでにあの氷の上に立っていた。




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