氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
初めての挫折を覚えているだろうか。
間京大スケート部員──曳ヶ谷にとって、それは8歳の時の事だった。
『なぁ、あいつ誰?』
──10年前。とある小さな大会にて。
幼い曳ヶ谷は、見慣れぬ少年の姿を見て、周りに尋ねた。
フィギュアスケートという競技は、狭い世界だ。
幼い頃から、スケートを続けていると大体の選手と顔馴染みになる。
皆で少しずつ技を覚え、実力を伸ばしていく。競い合いながら、同じライン上を一緒に進んでいく。
必然的に、大会に出場すると見覚えのある顔が並ぶことになるのだ。
そんな中、突然現れた“新顔”は、妙に目を引いた。
『さぁ?始めたてのやつなんじゃね?』
『ふぅん』
同じクラブらしき他の選手に囲まれ、少し緊張した表情を浮かべている。
一見、どこにでもいそうな少年。
『葉くん、緊張しすぎ!いつも通りやれば大丈夫だよ!』
『ごめん、実叶ちゃん……でも大会ってすごいね、心臓がばくばく言ってる』
聞こえてくるやり取りに鼻を鳴らす。
(女の子に励まされている様じゃ、別に敵じゃないな)
感想なんて、その程度。
目の前の大会で表彰台を狙うためには、倒すべき相手は他にいくらでもいた。
新入りのことなんて、いちいち眼中にはない──
(ここにいる奴らぶっ倒して。今日こそ、優勝してやる)
──はずだった。
『え……?』
わずか1時間後。その認識は覆される。
本当に気にすべき“強敵”は──ほかならぬ、その新入りの少年だった。
《24番 碧芽 葉さん 名城クラウンFSC》
新芽を見守るような温かい視線の中で始まった演技は、やがて観客にざわめきの波を齎した。
『……あの子、誰?あんな子いたっけ?』
『いや、新しく始めた子みたいだけど……それにしてはえらく上手いな』
誰よりも速くリンクを駆け、難しいジャンプで空を飛ぶ。
そこにいたのは、緊張した表情を浮かべる先ほどまでの少年ではなかった。
一度の滑りで、観客を魅了するフィギュアスケーター。
(なんなんだよ、あいつ……!!)
──その直後に滑った自分の演技は、過去最悪だったのを覚えている。
リンクに立った瞬間、向けられる視線の質がいつもと違うのを感じた。
「いつも通りに」と思うのに、手は震え、脚は思うように動かない。
明らかに“あいつ”と比べられている、そんな感覚が全身を支配する。
余計な力が入り、動きはどこかぎこちなくなっていった。
『くそっ!!!』
大会が終わった時──表彰台に、曳ヶ谷の居場所はなかった。
見上げた台の上で、無邪気に笑う新参者の姿。
噛み締めた唇は血の味がした。
曳ヶ谷にとっての苦い幼少期の思い出。
それが、碧芽 葉という少年との出会いの記憶だった。
だからこそ──彼が引退したと聞いた時、心のどこかでほっとしていた。
『……は、はははっ!あいついなくなったのか!せいせいするぜ!!』
周りの同期が微妙な顔を向けるのに構わず声を上げた。
もう越えられない壁として、あんな奴の顔を見なくて済むのだと。
しかし──今年、彼が帰ってきた。
よりにもよって、同じ大学、同じスケート部にやってきた。
(最悪だ)
最初は、嫌悪に近い感情さえあった。
でも、所詮は“天才の残骸”──そう思った。
6年ものブランクがある。もう昔のようには滑れないだろう、と。
だが、現実は違った。
練習を重ねるうちに、曳ヶ谷は気づけば彼の滑りを目で追っていた。
正直、気に食わなかった。
それでも、実戦で結果を残せなければ意味がない。
言い訳するように鼓舞して出場したのが──この西日本学生選手権だった。
──秋、西日本学生選手権の会場にて。
「碧芽のやつ、集中してんな」
「ちっ、うっせえよ。いちいち報告してくんな」
声を掛けてくる同期部員の言葉に、曳ヶ谷は苛立ちを隠さずに顔を歪めた。
観客席からリンクサイドを見つめる曳ヶ谷は、重ねた指をせわしなく動かす。
自身の演技順を待つ葉の姿は静かだった。しかし、その背中に宿る気迫が薄らと見える気がする。
「……」
少し前から、葉の様子が変わったことに曳ヶ谷は気がついていた。
練習中、呼びかけても反応がないほどの集中力。一本一本のジャンプに神経を向ける気迫。
部員の誰よりも追い込んで練習をしている──学生選手権にそこまで賭けるものはないはずなのに。
その練習の勢いは、まるで全日本選手権にでも出場する選手の様だった。
(こいつ、どこ見てるんだ……?)
そう思いつつ、曳ヶ谷はなんとなくその答えに気がついていた。
この男が、高い目標を定めたのだ、と。
これまで何となく技を磨いていた天才が、自分たちを越えた遥か高い頂に狙いを定めたのだ。
「俺さぁ……最近の碧芽見てると、勝てないなって思うよ……」
「あ?何言ってんだ、お前」
同期部員がため息を吐きながら、言葉をこぼす。
「前はさ、3回転ジャンプに苦戦してたから俺の方が上かな?って思ってた……けど、あっという間に抜かされちった」
「……」
「2ヶ月も掛からなかったよ……あいつにとって、俺たちなんて、もう眼中にないのかもな」
部のコーチからも、「優勝候補だ」と太鼓判を押されていた葉の姿が頭をよぎった。
──かつての忌まわしい記憶が、蘇ってくる気がする。
こちらを見向きもせず、あっさりと金メダルを持って笑う小さな姿を。
無邪気に、当たり前の様に君臨している魔王の面影を。
記憶の中の亡霊が、顔を覗かせる。
「……そんな奴じゃねえだろ」
ぽつりと曳ヶ谷は呟く。
「曳ヶ谷?」
「……くっだらねぇ、泣き言言ってんじゃねえよ。ぶっとばすぞ」
弱気な同期に指を突きつけながら、曳ヶ谷は睨みつける。
「てめえはそんなこと言ってる暇があったら、苦手な3回転の着氷ちゃんと決めれる様にしときやがれ、馬鹿が!」
「うっ、きついな……お前は」
才能に胡坐をかいているだけの奴なら良かった。
勝手に想像していたような嫌な性格の奴なら良かった。
けれど、碧芽 葉という男はそんな奴ではなかった。
(確かにお前は、俺たちの事なんてもう見えてねえのかもしれないけどよ)
曳ヶ谷は鼻を鳴らしながら、エッジカバーを外す葉の姿を見つめる。
(それでいい……てめえみたいな天才は、勝手に遠くに行っちまえばいいんだ)
凡人は凡人なりに頑張っている。
この大会に向けた思いは、誰にも負けないつもりで臨んでいる。
けれど、それをいとも簡単に越えてしまうのが──天才ってやつなんだろう。
《10番 碧芽 葉さん ルクス東山FSC/間京大学──》
これが大人になったというものなのだろうか、とため息を吐く。
リンクの中央でスタートポジションを取る葉に、会場が静まりかえる。
(でも、たまにはさ……俺たち凡人の滑りのことも、思い出してくれよな)
少しの寂しさを胸に、曳ヶ谷は観客席に座り直した。
──どこからか声が聞こえた気がした。
俺たちの滑りを覚えていてくれ、と。
(忘れられないよ)
リンクに響く曲の調べと共に、葉は氷を蹴り出した。
名港杯と同じプログラム。身体に染みついた動きは、音楽に合わせて氷上に軌跡を描いていく。
(誰かが噂してたのかな?もしかしたら、まだ疎まれてるのかもな……)
以前よりも、雰囲気が良くなった部活の事が脳裏をよぎる。
徐々に受け入れてくれた同世代の仲間たち。
この西日本学生選手権に向けて、練習を積んだ沢山の部員の姿。
その中には、自分に嫌がらせをしていた曳ヶ谷の姿もあった。
カシュッっと音を立て、ブレードが氷を離れる──3回転アクセル
着氷と共に舞い上がる氷が、照明を受けてキラキラと輝く。
──練習終わりの、大学のリンク。
皆が帰ろうとした支度をする中、一人残って何度も飛び続けていた曳ヶ谷。
転倒して、倒れ込んだまま、くやしさに顔を伏せていた姿がずっと葉の記憶に残っている。
(皆、それぞれ戦ってる)
誰もが、自分の限界を超えようと必死で、この氷の上に立っている。
昔の自分だったら──そのことに気が付いていなかっただろう。
自分の事に必死で、ジャンプを飛べた事が嬉しくて、表彰台の上で誇らしげにいる意味をちゃんと分かっていなかった。
自分が表彰台に乗れるという事は、誰かが表彰台に乗れないという事。
(そんな当たり前の事、分かっていたつもりだったのに)
周りで流れる涙に胸を痛めながらも、彼らの道のりまでわかっていなかった。
高みを見上げる側に回ってみて。自分の劣等感を見つめ直して。
そうして、改めて思う。
ここにいる誰もが──それぞれの劣等感と向き合っている。
恐れを越えて、ここに立っているのだと。
(曳ヶ谷あたりには、また嫌味言われそうだな……)
無自覚マウント野郎だの、いけ好かない奴、とでも言われるかもしれない。
勢いよくコンビネーションスピンに入りながら、葉は鋭く息を吐く。
(でも──)
滑りながら、心の中で呟いた。
回る景色の名で、色々な顔が浮かんでは消える。
曳ヶ谷や、たくさんのフィギュアスケート部の同期たち。
その願いも、努力も、挑戦も。ひとつひとつにドラマがある。
それら全てを踏み越えないと、表彰台には登れない。
(それでも──俺は、君たちを超えていく)
また、誰かから悔しさ以上の感情を向けられるかもしれない。
でも俺は、
まだ見ぬ強敵たちに向けて、その軌跡を研いでいきたい。
決意が葉の胸を焦がす。
想いは熱に。熱は滑りに。滑りは輝きを持って、その姿を照らす。
氷を蹴る。迷いも躊躇いも置き去りにして、ただ高く、遠くへ。
(もう一度、
──スピードが増す。
まるで氷が、彼の意志に応えようと、押し出す力を強くしてくれるかのように。
葉の身体が宙を舞うたび、観客席がざわめく。
重力を逸らすようなジャンプの連続、迷いのない軌道。
それはもはや「ただの復帰した選手」の演技ではなかった。
観客たちは、ただ息を呑んだまま目を見開き、思わず手を握りしめる。
細やかで鋭い足さばきが、氷上に音楽を刻む。
全身で旋律を奏でるように滑るその姿は、まるで演奏者そのものだった。
そして最後のスピン。
加速しながら回転を重ね、その中心で燃えるような想いが、リンクに解き放たれていく。
フィニッシュの瞬間、息をのんでいた空気が一気に解放され──会場は、万雷の拍手に包まれた。
◆
「おーい、スケーター対談の企画書、まだ上がってこないのか?」
数日後、とあるフィギュアスケート専門誌の編集部にて。
狭いオフィスに編集長の声が響いた。
「いやぁ、話題性のある選手を探そうとしているんすけど、3人目がなかなか決まらなくて……」
「はあ?この間、岡崎選手にするって言ってたじゃないか。鯱城選手もダメだったからって」
「連絡したら断られたんすよ。今は練習に集中したいって」
疲れた表情でネットを検索していた若手社員の手がピタリと止まる。
「……あ、これどうっすか?この間の西日本学生選手権でぶっちぎり優勝した選手なんすけど」
「学生選手権かぁ……ん?この名前、見覚えがあるな。昔、“第二の夜鷹”と呼ばれてた子じゃないか?」
向けられたPC画面を見ながら、編集長は顎を撫でる。
選手の大会リザルトを見ながら、その目は面白そうに細められた。
「大学で復帰してたのか……いいじゃないか。“再起した天才”って感じで3人目にぴったりだ」
早速印刷された企画書を、手に取ると少し楽しそうに頷く。
「うん、面白くなりそうだ」
<インタビュー企画案>
「世代の“天才”たちによるインタビュー対談」
インタビュー予定者:
・狼嵜 光(ノービスB/全日本ノービス2連覇)
・鷹堂 凛一(シニア/昨年全日本選手権優勝・特別強化選手)
・岡崎 いるか(ジュニア/昨年全日本ジュニア選手権優勝・強化選手)
・碧芽 葉(シニア/西日本学生選手権優勝・元全日本ノービス4連覇)
原作キャラクターが登場しなさすぎて段々不安になってますが…これでいいのか?悩ましいです…
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