氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
──話は、いるかとファミレスで会う数日前に遡る。
ある雑誌編集部の控え室。
西日本学生選手権での優勝からまもなく、俺は一つの対談インタビューに呼ばれていた。
企画のテーマは『今を象徴するスケーターたちの対話』。
現在のトップ選手、次世代の注目株、復帰して話題を集めるスケーター。
異なる肩書きを持ちながらも、同じ“氷に立つ者”としての言葉を届けたい、という意図らしい。
集められたのは、俺と狼嵜 光、そして──
そっと控室のドアが開く音に、俺は自然と顔を上げた。
──鷹堂 凛一。
いま、日本男子フィギュア界の頂点に立つ男。
崩れることのない姿勢に、ぶれない視線。
彼は何のためらいもなく俺の前を通り過ぎ、空いていた椅子へと静かに腰を下ろした。
目が合うことはなかった。
視界には入ったはずなのに、俺という存在は彼の中にはないように思えた。
「お前も呼ばれてたのか」
視線も向けず、素っ気なく投げかけられた一言。
それは、ただの確認にすぎないような口ぶりだった。
「えぇ……久しぶりです、鷹堂さん」
なるべく穏やかに返したつもりだったけど、喉の奥が少し乾いていた。
鷹堂さんは短くうなずいたきりで、すぐ手元の本へと視線を落とす。
まるで、俺の存在になんて興味がない。
──出演者の名前なんて、事前に知らされていたはずだ。
それでも、この態度。俺はきっと、彼にとって名簿の“名前”以上のものではないのだろう。
少しだけ、息を吐く。
かつては同じ大会に出場し、氷の上で一度だけ交わったことがある。
けれど、今の俺はその記憶の外にいる。
「戻ってきたんだ」とか「また会ったな」なんて言葉も、一つもなく。
(……俺は、この人にとって“気にも留めないモブ”みたいなものなんだな)
そんなふうに思っていたところへ、控え室のドアがノックされた。
スタッフの女性が、誰かを案内してくる。
「狼嵜さん、こちらで少々お待ちください」
その背後から現れる小さな影。
保護者らしい金髪の女性に付き添われながら、少女──光ちゃんが姿を見せた。
まだ小学生とは思えないほど堂々とした足取りで歩いてきたが、室内の空気に触れた瞬間、ぴたりと足を止める。
鷹堂さんと俺の間に流れていた、無言の雰囲気に気づいたらしい。
一瞬たじろぐような気配を見せたが、すぐに表情を整えて、姿勢を正した。
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げる光ちゃんに対し、鷹堂さんは「ああ」とだけ短く応じた。
それ以上の反応はない。それでも彼女は気にした様子もなく、静かに指定された席へと腰を下ろした。
「こんにちは、また会ったね。全日本ノービス優勝おめでとう」
俺が声をかけると、光は少し顔を上げて目を丸くしたあと、にこっと笑った。
「はい。碧芽さんも……西日本学生選手権、優勝おめでとうございます」
「……ありがとう。ノービスの試合じゃないのに、よく知ってるね」
軽く驚いてそう言うと、光は「はい」とだけ素直に頷いた。
まるで、それが特別なことではないと言わんばかりに。
(いろんな試合を見てるんだな)
そんな勤勉な姿勢もまた、“ノービスの女王”と称される理由のひとつなのだろう。
けれど、彼女の瞳の奥にある興味の色──それは、俺に向けられていたような気がした。
何かを見極めようとするような視線。
だが、次の瞬間には、まるでなかったかのように、その色は消えていた……気のせいだったのかもしれない。
「そういえば……碧芽さんはいのりちゃんと、同じクラブでしたよね?」
話題を変えるように、光ちゃんがふいに尋ねてきた。
「うん。狼嵜さんはいのりちゃんと友達だったんだよね。あの子、最近はすごく練習に集中しててね。バッジテストも3級まで取ってるし、日に日に上達してるよ」
「……そうなんですね」
その言葉に、何故かほっとしたような表情が浮かぶ。
──追われる者として、追ってくる誰かの存在が気になるのか。
それとも、自分と並び立つ誰かを、ずっと待っていたのか。きっと、そのどちらでもあるのだろう。
「そのうち、リンクで一緒に滑ることになるかもね」
そう言うと、光ちゃんは口元をほころばせて、柔らかく頷いた。
「えぇ。私、楽しみに待ってるんです」
控室から案内された先は、真っ白な会議室だった。
壁際にはホワイトボード。中央には四角いテーブルとパイプ椅子が並んでいる。
場所柄か、背後の棚には過去の掲載誌がずらりと詰め込まれていた。
耳に届くのは、ICレコーダーの起動音と、紙が擦れる音だけ。
空気は乾いていて、静かだった。
「では、よろしくお願いします」
インタビュアーの記者が軽く会釈をして、対談が始まる。
序盤は、比較的やわらかい質問からだった。
「今シーズンの調子は?」
「注目している選手はいますか?」
「練習で意識していることなどあれば──」
鷹堂さんの答えは簡潔で、無駄がない。
光ちゃんは、小学生とは思えないほど落ち着いた口調で、ひとつひとつの質問に丁寧に答えていた。
「碧芽さんは、今シーズンから復帰という形になりますよね。久しぶりの大会、いかがでしたか?」
「……そうですね」
一拍、言葉を探して、俺は口を開く。
「ブランクもありましたし、正直、怖さもありました。思い描いた通りに体が動かなくて──あの頃とは、何もかも違うなって」
でも、と言葉を継ぐ。
「それでも……やっぱり、氷の上に立てたことが嬉しかったんです。怖くても、ここに戻ってこられて……少しだけ、自分を取り戻せた気がして」
一度だけ、息を吐く。
「楽しかったです。心から、そう思えました」
俺の言葉に、記者はわずかに目を細めた。
その言葉がどこまで届いたのかは分からないけれど、彼女のペンが一瞬だけ止まり、静かに紙面に触れ直すのを、俺は静かに見ていた。
「ありがとうございます。ブランクがあったにもかかわらず、西日本学生選手権での演技はとても印象的でした」
「いえ……まだまだ課題だらけです」
それでも、褒められたことが嬉しくて、気づけば口元がほのかに緩んでいた。
「では、次のテーマに移らせてください」
記者が手元のメモを軽くめくりながら、口調を整える。
「皆さんにとって──フィギュアスケーターとして大切にしていること、“滑る意味”とは何でしょうか?」
一瞬だけ、場が静かになる。
想定されていた問いではある。
けれど、それぞれが抱える思いの深さが、にわかに場に重みを落とす。
記者の指名を待たずに、鷹堂さんがテーブルに指先を添えた。
誰かの順番を待つ気配はない。
当たり前のように、自分が最初に答えるという静かな自信がそこにはあった。
その横顔を見ながら、俺は無意識に息をひそめる。
光ちゃんは、テーブルの向こうで両手を膝の上に重ね、静かに座っていた。
「──勝つことです」
鷹堂さんの声は静かだった。
抑揚のないトーン。けれど、言葉の芯には揺るぎのない重さがあった。
「勝った者だけが残る。勝った者だけが覚えられる。逆に言えば、どれだけ綺麗な演技をしても、どれだけ努力を積み重ねても──
ペンを走らせていた記者の手が止まり、紙の上でペン先がわずかに揺れる。
「今年のグランプリファイナル。俺はそこで、優勝するつもりです」
一拍置いて、鷹堂さんは淡々と続けた。
「世界に名を刻むのは、一番になった者だけ。滑る意味なんて、あとからついてくる。まず勝たなければ、話にならないと思っています」
言葉の切れ味は鋭かったが、どこか冷静で、ただ“当然のこと”を語っているだけのようでもあった。
彼の言葉が終わった瞬間、俺の頭に、数週間前に見たグランプリシリーズの映像が蘇る。
リンクの上、あのときの彼は──まさに“戦って”いた。
氷を切り裂くような勢いで迷いなく跳び、次々と高難度のジャンプを完璧に決めていく。
そこに宿っていたのは、強烈な執念そのものだった。
(勝利への執着心が、半端じゃない──)
圧倒的。氷上でただひとり、誰にも触れさせない孤高の存在として、支配するように演じていた。
その演技の裏側が少し見えた気がする。
けれど──それは、俺の知っている鷹堂さんじゃなかった。
ノービスの頃、一度だけ彼と競い合った全日本ジュニア選手権。
あのときの彼は、もっと軽やかで、リンク全体に感情の波を響かせるような演技をしていた。
(鷹堂さんは、この6年間で何を得て、何を手放してきたんだろう)
そう思った瞬間、ずっと胸の奥でくすぶっていた違和感が、ようやく輪郭を持ち始めた。
同じリンクで戦っていた彼が、いまや世界の舞台で滑っている。その姿を見て焦る自分がいた。
圧倒的な差を見せつけられて、6年の空白を悔やんでいる自分がいた。
そして──
「勝たなければ意味がない」という彼の言葉に、どこかで共鳴しそうになっていた自分がいた。
だけど、それだけじゃ足りない。
俺が滑りたい理由は、“ただ頂点に立つため”じゃない。
(じゃあ、俺は──どうして滑る?)
記者が、ゆっくりとこちらに視線を向けてきた。
「碧芽さん、いかがですか?」
俺は小さく息を吸い、言葉を探しながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺は、自分の滑りで、誰かの心を動かせるような選手になりたいと思っています」
それはずっと、自分の中に灯っていた小さな願い。
フィギュアスケートを始めた、あの最初の日の純粋な気持ち。
そして復帰を決めたとき、最後に背中を押してくれたのも、この想いだった。
「一度きりの演技でも、見た人の心に何かが残るような。技の正確さや点数だけじゃなくて、もっと深くて強いものを届けられる──そんなスケーターを目指したいです」
気づけば、自然と声に力が込もっていた。
届いてほしいと願っていたのは、観客の心だけじゃない。きっと、自分自身に対しても。
道の途中にいる今、この想いを口にすること自体が、新たな一歩になるような気がしていた。
「……次の大会については、まだ決めきれていません。いま自分がどこに挑戦するべきなのか、もう少し見極めたいと思っています」
言い終えた後、息をひとつ吐く。
本当は、胸の奥には、世界の頂を決めるスケートリンクの光景が静かに残っていた。
──幼い頃、当たり前のように地続きだと思っていた、夢の舞台。
そこに立ちたいと願う理由は、誰かの心に届く滑りをしたいから。
勝ちたいと願うのも、なによりその“届けたい”という想いのために必要なことだからだ。
けれど、その挑戦がいつになるのか──それを宣言するにはまだ、ほんの少しだけ勇気が足りなかった。
「……きれいごとだな」
ふいに、鷹堂さんが口を開いた。
視線は動かない。だが、その言葉は明らかに、こちらを射抜いていた。
「勝ちを通過点にするような考えじゃ、何も掴めない。勝利にすべてを懸けていない者の演技は、観客の心になど届かない」
言葉には揺るぎがなかった。まるでそれが、揺るぎない真理だと言わんばかりに。
──反論の余地すら、最初から与えるつもりはない。
けれど、それでも、黙ったままではいられなかった。
少し胸の奥がざらついた。
「……でも、勝つために滑るだけが、すべてなんでしょうか」
なるべく落ち着いた声で、言葉を返す。
自分自身に対しても同じ問いを向けながら。
「俺は、フィギュアスケートって、勝ち負けがすべてじゃなくても、感動とか、人の心を動かせるものだと思ってて……もちろん、勝ちたいと思っていないわけじゃありません。でも、それだけじゃないって、そう思うんです」
鷹堂さんはしばらく黙ったままだった。
そしてようやく、わずかに視線をこちらへ動かし、真正面から俺を見据える。
「その“感動”は、勝者に対して、見る者が勝手に感じるものだ」
抑揚はないのに、なぜかその言葉の芯だけがまっすぐに胸を打つ。
「どれだけ綺麗な演技でも、どれだけ努力を語っても、負ければ何も残らない。勝った者の物語だけが、記憶に刻まれる。感動なんてのは、勝った奴にだけ許される“余白”だ」
頂点を極めてきた者だからこそ語れる視座。
その言葉には、経験から来る説得力があった。
──それでも、心のどこかに引っかかる。
(本当にそうか?)
ふと、記憶の底からひとつの光景が浮かび上がる。
遠い、前世での記憶──病室のベッドに横たわりながら見た、あるフィギュアスケートの世界大会の中継。
どこの国の大会だったのか。どんな顔や名前の選手だったのか。勝ったのか、負けたのかも、今ではもう思い出せない。
けれど、あのリンクの上を滑っていた一人のスケーターの演技だけは、今も焼きついている。
ただ美しく、ただ強く──心を震わせるほどに。
ああ、世界には、こんなふうに人の心を動かすものがあるんだ。
この人の存在そのものが、どこか希望のように見えた。
──いつか自分も。あんなふうに、誰かの心に触れるような存在になれたら。
それが、かつて寝たきりだった少年が初めて抱いた夢。
だからこそ、自分は今ここに立っている。
迷いは、まだ胸の奥にくすぶっている。
勝利に意味はあるのか。届けるだけで本当に足りるのか──答えはまだ出せない。
けれど、いまこの場で、譲れない気持ちは確かにある。
「……勝ちたいって気持ちは、もちろんあります。でも、俺にとって勝つことは、目的じゃないんです。俺は、人の心に届けるために勝つ道を選びます。ただ勝つだけじゃなくて、“届けるために勝つ”っていう選択をしたいんです」
言い切りながら、胸の奥には小さなざわめきが残っている。
勝負に向き合っていない、甘い発言なのかもしれない。本当にそれが正しいのか、確信は持てない。
けれど、それでも今は、この言葉しか選べなかった。
少しの沈黙が、会議室に落ちる。
「……そんなのは──」
鷹堂さんが、反論しかけたその時──
「なるほど。おふたりとも素晴らしい考えをお持ちですね」
インタビュアーの記者が、穏やかな声で、わずかに張りつめた空気を和らげるように口を挟んだ。
「では、最後に──狼嵜さん。先輩スケーターのお話を聞いて、何か感じたことがあれば、ぜひ教えてください」
静かな空気が、わずかに切り替わる。
視線が一斉に、光ちゃんのほうへ向けられる。
そのなかで、鷹堂さんは何も言わず、ゆっくりと口を閉じた。
その横顔には、感情の色はなかった。
けれど、何かを押し込めるように、瞼が一度だけ静かに伏せられた。
アンケートありがとうございました!
オリジナル展開でもじっくり書いていいよ、と温かい投票が多かったので当初のプロット通り話を進めようと思います。
下手に引き伸ばすつもりはないですが、よければもう少しお付き合いください。