氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
年の瀬の気配が濃くなり始めた、大学のスケートアリーナ。
練習を終えて帰ろうとした時、ロビーのソファに何かが落ちているのに気が付いた。
よく見てみれば、それは我が部が誇る特別強化選手──
「……おかえり。帰国は今日だから、こっち来るのもう少し先じゃなかったっけ?」
「ただいまぁー」
正確には、グランプリファイナルを終えて帰ってきたばかりの理依奈ちゃんだった。
日本代表選手を示すジャパンジャージ姿のままで足を投げ出し、どこかぐったりとした様子でソファに沈んでいる。
「ちょっと必要なものあって、ロッカーに置きっぱなしの荷物だけ取りに来たんだけどぉ、このソファを見てついつい……」
「時差ボケで眠いんだろうけど、ここじゃなくて帰って寝てよ」
普段から飄々とした雰囲気のある彼女だが、流石に世界大会は疲れたのか半分溶けかけている。
「もう少ししたら、荷物拾って帰る」
「ダレすぎでしょ……お疲れさま。俺も大須のクラブの子たちと一緒に、テレビで演技観てたよ」
その言葉に、理依奈ちゃんは少しだけ目を開けた。
「ありがと。みんなで観てたのか」
「うん。ジュニアの子もノービスの子も、目をキラキラさせて観てた。誰かが『理依奈ちゃんみたいになりたい』って言ってたよ。流石の演技だった」
「へへへ、嬉しいな……けど、ちょっと照れる」
彼女がふっと照れ笑いするのを見て、俺も自然と口元が緩んだ。
ソファに身を沈めたまま、その気だるげな視線がこちらに向けられる。
「あれ、大須ってことは……クラブって、今も名城クラウンだっけ?」
「ううん。ルクス東山っていう別のところでお世話になってるよ」
「へぇ……あそこ、アイスダンス強いところじゃなかったっけ?小中学生ばっかりの」
「よく知ってるね」
「まぁねえ」
会話をしていると少し目が覚めてきたのか、理依奈ちゃんが姿勢を起こす。
「それさ、練習やりにくくない?周り子供達ばっかりって事だろ?」
「んー、正直なところ、練習自体はそこまで困ってないよ。別に合わせる必要もないし、自分のメニューは自分で組んでるし」
「ふーん?ほんとか?」
理依奈ちゃんは疑うように片眉を上げて笑う。俺は苦笑いしながら、正直なところも打ち明けた。
「……まあ、たまにジェネレーションギャップはあるよ。ゲームの話とか全然通じないし。俺が子供の頃に遊んでたハードの話しても、『それってレトロゲーですか?』って真顔で返ってくるし」
「わっかる~それ!てかそれ、私も傷つくやつ!」
思いがけず盛り上がってしまい、ふたりで軽く笑い合った。
「でも、そういうのはともかく、スケートに関してはそこまで問題ないと思ってる。俺自身は、ね」
ただ──そう言いかけて、言葉を濁す。
司さんの顔が頭をよぎった。あの人は俺の練習をずっと見てきていて、時々、こんなふうに言っていた。
『ごめんね。葉さんにとって、もう少し同世代の人がいる環境だと、“張り合い”があるかもしれないけど、うちはシニアの人がいないから』
俺が物足りなく感じてると思ってるのかもしれない。実際のところ、そんな自覚はないけれど。
「ま、なんていうか……俺は大丈夫でも、コーチの方が気にしてるっぽい。今の環境が、俺にとって物足りないんじゃないかって」
「そっか……」
理依奈ちゃんは、それ以上何も言わず、少しの間だけ黙っていた。
「じゃあさ、一回うちのクラブ来てみない?合同練習とかで」
「……え?」
「男子選手も何人かいるし、ほぼシニアだ。葉にとっても刺激になると思うし、あっちにとっても、葉みたいな選手が来たら張り合いが出るだろ」
正直、他のクラブに混ざって練習する機会には興味がある。
フィギュアスケート部とは違う、他クラブのシニア選手の練習。その提案は魅力的だった。
「でも……そんなの勝手に決めていいの?理依奈ちゃん、コーチじゃないでしょ」
「うん、だから勝手に言ってるぞ?引き抜いてるわけじゃないし、慎一郎先生だったら多分許してくれるって」
「多分かい」
「ダメでも怒られはしないだろ……多分だけど」
彼女はいたずらっぽく笑った。
呆れながらも、その大雑把な感じが懐かしくて、俺は胸の中で小さく息をついた。
「ちゃんと、俺の方からも話は通しとくよ……理依奈ちゃんのクラブってどこだっけ?」
彼女は、にやりと笑うと少し得意げに言った。
「“名港ウィンドFSC” 名古屋で一番勢いあるクラブだよ……まあ、私の影響も大きいけどな?」
名港ウィンドFSCのホームリンクは、大須から数駅隣の一角にある。
他クラブにお邪魔するとなると、冬の寒さとはまた別の緊張が、肌をかすめていた。
(思ったより、とんとん拍子で話がまとまったな)
正面玄関をくぐりながら、OKサインを出す司さんと瞳さんの姿を思い出す。
2人のコーチに話を持っていくと、名港ウィンドFSC側に連絡してすぐに調整してくれたのだ。
『葉くん、向こうのクラブに引き抜かれないでね』
瞳さんは冗談混じりにそう言っていたが、その視線の圧を隠し切れていなくて──ちょっとだけ怖かった。
(……そんな気ないですって)
早めに着いたつもりだったが、すでにリンクでは何人ものスケーターがストレッチやアップを始めていた。
勢いのあるクラブらしく、リンクの空気そのものがどこか張り詰めていて、跳び交う声にも少しだけ熱がこもっていた。
「さすが、強豪クラブって感じだな……さてと、鴗鳥コーチ探さないと」
ヘッドコーチである鴗鳥慎一郎コーチと、練習前に落ち合う予定だったが、その姿はまだ見当たらない。
少し早すぎたか、とロビーを所在なく彷徨っているとリンク外の通路から、金髪の少年がやって来るのが見えた。
小柄な身体に、トレーニングウェア。小学校高学年くらいだろうか。
「あ、すみませんー。君、名港ウィンドの子?」
声をかけると、少年は一瞬立ち止まり、警戒した目でこちらを見上げた。
「……誰ですか?」
その反応は、不審者に向けるような眼差し。
「あぁ、ごめんね。実は、今日合同練習しに来た者なんだけど……鴗鳥コーチに会う約束をしてて、どちらにいらっしゃるかな?」
その名前を出した途端、少年の表情がぱっと変わった。
疑い深そうにこちらを探っていた瞳が、きらりと輝く。
「えっ、もしかして……碧芽 葉さん、ですよね?」
思わぬ反応。ぱちりと目を瞬かせる。
「……そうだけど」
「あ、あの俺、碧芽さんのノービスの動画、何回も観てました!あ、俺、理凰っていいます。鴗鳥 理凰」
理凰と名乗った少年は、目を輝かせながら一気に距離を縮めてきた。
その熱に少し面食らいながらも、純粋な憧れの眼差しを向けられて、少しのむず痒さを感じる。
(鴗鳥ってことは、素直に考えればヘッドコーチの息子さんかな……)
そわそわとした様子で身体を揺らしていた彼は、ふいにハッとしたように。
「そうだ、ちょっと待っててください!お父……コーチ、呼んできます!」
「え、いや場所だけ聞ければ……いないし」
理凰くんは「すぐ呼んできます!」と父を探しに走り去った。
残された俺は、リンクのざわめきを耳に感じながら、彼の後ろ姿を見つめていた。
いのりちゃん世代の子達は、基本的に昔の俺のことを知らない。
一度は引退した選手だし、活躍したのももう6年前。
だから、こんな子が自分に憧れの視線を向けてくるのは新鮮だった。
──俺はまだ憧れられる存在で、いられるんだろうか。
そんな即答ができない問いが、心をかすめる。
少し視線を伏せてロビーのタイルを見つめていると、どっしりとした足音が耳に届いた。
のしのし、と重たく床を踏みしめるような音。その先に現れたのは、大柄な白髪の男性だった。
鴗鳥 慎一郎。
オリンピック銀メダリスト。同期が次々と引退する中、28歳まで現役を貫き、執念で銀メダルを手にした偉大なスケーター。俺にとっても、憧れの存在のひとりだった。
(生で見ると、背たっか……)
司さんと同じ185cmくらいだろうか。この身長で跳ぶジャンプはさぞ迫力があるだろうと想像してしまう。
「初めまして、鴗鳥です。今日はようこそ」
「碧芽です。本日はよろしくお願いします。他の皆さんと滑れること楽しみにしてました」
その分厚い手と握手を交わすと、挨拶も早々にリンクサイドに案内される。
中に入ると一歩踏み込んだ瞬間、一斉に視線が向けられる。
「あいつ……碧芽、じゃないか?」
「練習に来るって聞いてたけど、随分変わったな」
「今年の全日本、なんで出てなかったんだ?」
声は小さいが、確かに聞こえてくる。
ノービス時代に自分と戦った見知った顔の数々。俺が競技を離れていた6年の間、氷の上で戦い続けてきた人たち。
向けられる視線と込められた感情。
一瞬だけ、フィギュアスケート部で受け入れられなかった時のことが頭をよぎった。
「おい」
そんな中で1人の選手が声をかけてくる。
「……なに?」
「お前、この間鷹堂さんとインタビュー受けたんだってな……ずるいぞ」
「へ?」
なんの話だ、と思う間もなく他の選手も次々に声掛けてくる。
「そうだそうだー!最近復帰したってだけで、ちゃっかり呼ばれやがって!」
「あの人は、俺たちの憧れなんだからな!」
「というかお前、うちの狼嵜のこといじめてないだろうな?大事なうちの麒麟児なんだぞ!」
「つーか、なんでお前ブランクあるのに、もう3回転飛んでんだよ!」
……受け入れられないかも、なんて杞憂だったな。自然と笑みが浮かぶ。
一緒に表彰台に登った選手、長野合宿で切磋琢磨した旧友。
緊張と対抗心の奥に、あの頃と変わらない仲間たちの温度があった。
「ったく、久しぶりに会ったと思ったら、えらい丸くなった顔してんじゃん……せっかく来たんだ。名港ウィンド流のしごきは厳しいから覚悟しろよ、葉」
「……望むところだよ。よろしく」
この氷の上で、どんな日になるかはわからない。
けれど、今は──悪くない始まりだった。
◆
今日の練習は、心臓の音がいつもよりもうるさい。
いや、違う。あの人──碧芽 葉に出会ってからずっと、落ち着く暇なんてなかった。
鴗鳥 理凰は、そっとリンクの上にいる葉を見つめた。
──彼は理凰が目指す姿そのものだった。
11歳で3
選抜された少数精鋭しか招かれない長野合宿で毎年、大会シード権を与えられ、
8歳から12歳までの全日本ノービス選手権で4連覇を達成。
ノービス時代にこの実績を全て達成したのは、フィギュアスケート史上、ただの2人。
夜鷹純と、碧芽葉だけ。
理凰は、父の慎一郎が保管していた映像を繰り返し観ていた。
幼い葉が、全日本ノービスのリンクで華麗に滑っている姿を。
「すごい!すごいな、この人!」
そんな画面の中でしか見たことのなかった人が、現実に目の前にいて、一緒に練習をしている。その事実だけで、足元がふわふわするような気がしていた。
けれどリンクに入った瞬間、興奮は別のものに変わった。
同じクラブのシニアの選手たちの視線。冗談っぽく笑っていたけど、目だけは本気だった。
あれは、練習の空気じゃない。試合前、氷上で火花が散る寸前の目だった。
ジャンプ。スピン。スケーティング。 シニアの選手はそのどれもが長い年月の中で洗練されていて、力強い。
このリンクにいるシニアの選手たちは、あの人と"同じ場所で戦ったことがある"人たちだ。負けて、それでも滑り続けて、ようやくここまで来た。
だからこそ。
目の前に再び現れた“かつての王”に、彼らは言葉ではなく──滑りで返そうとしていた。
そんな、熱を持って輝きを放つシニアの先輩たち。
そんな姿に理凰の顔に陰が落ちる。
(俺は……そんな風になれない)
オリンピック銀メダリストを父に持ち、恵まれたフィギュアスケートの環境がある。
それなのに、理凰はこのところスケートに伸び悩んでいた。
この間も、6級のバッジテストに落ちた。もう何度目か分からないくらい挑戦している試験だった。
不合格の文字が並んだ受験履歴を見るたび、心がじわりと沈んでいく。
(光は、あっという間に俺を追い抜いていったのに)
視線を向けた先。
リンクサイドの隅に腰掛けているひとりの少女──狼嵜 光。
同じクラブメイトであり、家族同然に育った人であり、そして”天才少女”と呼ばれるフィギュアスケーター。
後ろで束ねた長い黒髪。 その下の端正な顔立ちは誰とも視線を交わさず、ただリンクの一点──葉の動きを、じっと追っていた。
「……光?」
もう5年近くの付き合いになる。理凰は光の表情をだいたい読み取れるつもりでいた。
でも、今日の光は──どこか違って見えた。
葉の滑りを見ている目が、いつもみたいに冷静じゃない。焦っているわけでも、圧倒されているわけでもない。 何かを、まだうまく受け止めきれずにいるような……そんな揺れが、そこにはあった。
こんな光は、あまり見たことがない。
「先輩たちが言ってたインタビューで、なにかあったのかな……」
理凰の呟きは、冷たい空気に吸い込まれるように、静かにリンクに消えていった。
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