氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
ジャンプに向かうその瞬間、ふと強い視線を感じて──思わずリンクサイドに目をやった。
(なんだろう……なんか、ずっと視線を感じる)
視線の出どころを探してリンクの外を見やると、ストレッチエリアのベンチに座るひとりの少女と、目が合った……気がした。
狼嵜 光。
その表情は読めない。凪いだように静かな顔。
長いまつ毛に縁取られた瞳だけが、まっすぐにこちらを射抜いていた。
(え、めっちゃ見られてる?)
自意識過剰かもしれないと思う。
普段はいない人間がクラブ練習に混じっているのだから、物珍しさで見ているのだろうと。
普通に考えれば、そんなところだろう。
──それとも、俺が彼女を意識しているのか。
ふと、大須のリンクで先日あったやり取りが脳裏に浮かんだ。
『葉くん、光ちゃんと一緒にインタビュー受けたの?』
インタビューから戻ってきたある日、いのりちゃんからそう問いかけられた。
『うん、狼嵜さんからいのりちゃんのことも聞かれたよ』
『え?』
『バッジテスト3級になったって教えてあげたら、一緒に滑るの楽しみにしてるって、言ってたよ』
仲が良いんだなと思いながら彼女の顔を見た時──そこにあったのは、友達の近況を聞いて喜んでいるような表情ではなかった。
何かの決意を固めるような、そんな顔をいのりちゃんは浮かべていた。
『そっか、光ちゃん、そんな風に言ってくれたんだ……』
その瞳の奥に、燃えるものを見た気がした。
「追いつけるように頑張るね」──小さな声が耳に残っている。
(いのりちゃん、狼嵜さんのこと意識してるんだ)
それを知ってから、ただのノービス女王というより、いのりちゃんの“ライバル”だと認識を改めるようになった。
そんな彼女が、見てくる。すごく、見てくる気がする。
(いや、でも接点そんなにないし、気のせいか……?)
首を少し傾けたその時、隣を滑っていたシニアの選手が肩を寄せてきた。
「なぁ、お前さ……ほんとに、インタビューの時、うちの狼嵜のこといじめてないよな?」
「……は?」
あまりに唐突で、意味がわからなかった。
「いや、だってさ。あの子が人のことをあんなガン見してんの、初めて見たよ。お前、何かしただろ」
「いや、全然心当たりないけど……」
疑いの眼差しを向けられるも、ないものはないのだ。
首を振りながら、容疑を否認するとため息を吐きながら、彼は身を引く。
「そういうことにしておくけどさ、心配かけるなよ……ったく、“天才”同士なにか感じるものでもあるのかね」
そんな言葉を置いて、去っていく背中を見送りながら、もやもやとした気持ちを胸に抱えて俺はゆっくりとリンクを回った。
(……気のせいじゃなかったのか)
じゃあ何故?という問いに、答えは返ってこないだろう。
意味のない自問をしている時間はない。今は貴重な合同練習中なのだから。
(……ここの全員にだって、負けてられないし)
視界の端に、他のシニア選手たちの姿が入る。 名港杯では参加していなかった顔ぶればかりだが、その滑りの完成度は高く、勢いもある。
6年ぶりに競技に戻ってきて、自分の中には“名港杯が再出発”という意識があった。 でも、今ここで滑っている彼らは、もうその先──“次のステージ”にいる連中だ。
ジャンプで遅れを取るわけにはいかない。
俺は軽くスピードを乗せて踏切に入った。 3回転トウループ──着氷。
勢いそのまま、ルッツ。流れを止めず、連続ジャンプまで一気に決める。
リンクの外から刺さるような、あの視線を振り払うように。
(でも、なんであんなに……)
問いは浮かぶが、答えは出ない。けれど、わからないままでも──できることは一つだけだ。
滑りに集中する。それだけだった。
俺はもう一度踏み切りに入ると、氷を削って跳んだ。
◆
「お、おつかれさまです……!!」
緊張で少し裏返った理凰の声が、リンク脇で上がった。
水分補給を終えて一息ついていた葉のもとへ、おずおずと理凰が近づいてきていた。
小柄な体をこわばらせながら、しかし精一杯の勇気を振り絞った面持ちだ。
葉はその姿に気づいて、やわらかく微笑んだ。
「おつかれさま。理凰くん、だったよね?さっきは鴗鳥コーチ呼んでくれて、ありがとね」
「い、いえ!!」
理凰は大きく首を振りながら、顔の火照りをごまかすように視線を泳がせた。
「理凰くん、同年代の選手がいないのに頑張ってるよね。遠くから見ていたけど、空中姿勢が綺麗でびっくりしたよ」
「ありがとうございます!でも……碧芽さんの方が、やっぱりすごいです」
それは、理凰の偽らざる本音だった。
脳裏には、シニアの先輩たちに混じって跳ぶ葉の姿が焼き付いている。
浮き上がるようなジャンプ。重力を感じさせない滞空。沈み込みの少ない、柔らかな着氷。
それは、憧れたままの“背中”だった。
いや、むしろ──
(名港杯で見た時よりも、ずっと綺麗になってたな)
数ヶ月前。名港杯のエントリーリストに、見覚えのある名前を見つけたときは、目を疑った。
引退したはずの憧れの選手が、もう一度氷に戻ってきている。
その事実だけでも胸が熱くなったのに──あの演技は、言葉にできない何かを深く心に刻みつけてきた。
今日見たジャンプは、それよりもさらに洗練されていて。
理凰の心を、また打ちのめすように揺さぶった。
「今日は、シニアの先輩たちも、すごく前のめりで……碧芽さんが来てから、なんか空気が変わった気がするんです」
思ったままを言葉にすると、葉は少し照れたように笑った。
「そんなことないよ。俺も、他のみんなや理凰くんから色んなことを学ばせてもらっている。今日はこの練習に参加できてよかったよ」
けれど──その言葉を聞いた理凰の表情が、ふと陰った。
「……俺なんか、何の良いところもないですよ」
ぽつりと落ちた否定の言葉に、葉は怪訝そうに首を傾げる。
「別にそんなことないと思うけどなぁ」
「……俺の才能は、もう頭打ちになっちゃったと思うんです」
視線をそらしながら、理凰は言葉を続ける。
「この間受けたバッジテスト……もう何回目かもわかりませんけど、不合格でした。他の選手にはどんどん追い抜かれて……自分の才能も、枯れちゃったのかなって」
葉は、すぐに言葉を返さなかった。
視線を少し落とし、何かを考えるように、わずかに唇が動く。
その動きに、理凰の背筋が思わずこわばる。
(──また、あの言葉が来るんだろうか)
『そんなことないよ』
『君ならできるよ』
優しいけれど、もう聞き飽きてしまった励ましの言葉。
父も、母も、そう言ってくれる。
でも──その言葉が、今はほんの少しだけ、苦しかった。
きゅっと、胸の奥が締めつけられる。
けれど、葉の口から出てきたのは、まったく違う言葉だった。
「……俺も、今は4回転跳べないよ」
「え?」
理凰は驚いて顔を上げた。
葉は少しだけ肩をすくめ、気恥ずかしそうに笑っていた。
「知ってると思うけど、男子のシニアって、4回転が跳べてようやくスタートラインに立てるような世界だよね。上位の選手たちは、当たり前のように跳んでくる……ブランクでジャンプを失った俺は、そこに間に合ってない」
理凰はゆっくり頷いた。
このリンクにも、4回転を練習しているクラブの先輩は何人かいる。
大会ではまだ成功していないものの、練習では着氷している選手だっていた。
「だから……俺は、たぶん“出遅れてる”側の人間なんだと思うよ」
「そんなこと、ないです!」
思わず声が出ていた。
理凰は前のめりになって、言葉を継ぐ。
「俺、名港杯で碧芽さんの演技を見て、本当に感動したんです。もっとすごいジャンプを跳んでた人もいたけど……でも、一番記憶に残ってるのは、碧芽さんの演技でした!」
葉は静かに目を細める。
嬉しそうで、それでもどこか不思議そうな顔で問いかけた。
「ありがとう──でも、君がそう思ってくれたのって、どうしてだと思う?」
問いかけられた瞬間、理凰の言葉が詰まった。
答えようと口を開きかけて……けれど、言葉が見つからない。
(……なんでだろう)
ジャンプの難易度じゃない。でも、確かに心を動かされた。
思い出すのは、ブランク明けとは思えない滑り。
憧れの人は、かつての翼を失ったはずなのに、リンクの上で──まだ、美しく舞っていた。
──そして、自分はその姿に、落胆を覚えなかった。
そのことに気づいて、理凰はむしろ驚いていた。
(……なんでだろう?)
もう一度、自問する。
名港杯で見たあの演技が、鮮やかに脳裏に蘇る。
ジャンプは戻りきっていなかった。2回転中心という、シニアクラスでは見劣りする構成。
けれど──あの演技には、ひとつも諦めの色がなかった。
その表情には、必ず食らいついてやるという強い意志がにじんでいた。
理凰は知っている。
6年というブランクが、どれほど致命的なものか。
思春期の身体の変化で滑れなくなり、やがて静かに引退していった先輩たちを、何度も見てきた。
そんな中で──もう一度氷に立った彼を、理凰は尊敬するしかなかった。
「……諦めなかったから、ですか?」
理凰はぽつりと、そう呟いた。
自分の中で、まだ答えははっきりしていない。でも、今の気持ちに一番近い言葉だった。
答えを確認するかのように視線を上げた先で、葉はへにゃりと笑って首を傾げる。
「さぁ?」
「え?」
「理凰くんがなんでまだ俺のことをそんな風に憧れてくれているのか、俺に正しい答えなんて分からないよ。でも、君がそう言ってくれるなら……俺は、“諦めないスケーター”でいたいなって思うよ」
「諦めない、スケーター」
まるで自分に言い聞かせるように、理凰はその言葉を繰り返す。
その声を聞きながら、葉は穏やかに続けた。
「もし今、少し伸び悩んでると感じていたとしても……それでも氷の上に立ち続けてる理凰くんは、ちゃんとスケーターだよ」
「……」
「色々あって俺は、一旦スケートやめちゃってたからね……そういう意味では、君の方がずっとすごいと思う」
言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでくる。
何かを返そうとしても、声にならなかった。
返す言葉を見つけられずに黙っていると──葉が少し照れたように笑って言った。
「また今度、理凰くんのスケート、見せてもらってもいい?」
大人に。憧れの人に。
──褒められた。それだけで、胸がいっぱいだった。
けれど、それ以上に。 胸の奥で、何かが確かに動いた気がした。
才能に対するコンプレックスは、きっとすぐには拭えない。 小さな影は、これからもふと顔を覗かせるだろう。
その影を本当に消し去ってくれるのは、来年に理凰が出会う、ある太陽の様なコーチなのかもしれない。
けれど、それでも。
理凰はほんの少し前を向いて、もう一度、フィギュアスケートと向き合おうと思った。
「……はい」
言葉と共に、理凰はまっすぐに頷いた。
光は、その様子をずっと見ていた。
リンク脇で、葉と話す理凰の表情が少しずつほぐれていくのを。
(あんな理凰見るの、久しぶりだな)
ふと、そんな言葉が胸をよぎる。
思えば理凰は、しばらく笑わなくなっていた。
理由なんて、考えるまでもない。光には分かっていた。
──彼の心に影を落としたのは、自分だ。
鴗鳥家に居候として来てから、もう五年近くが経つ。
初めて出会った頃の理凰は、オリンピック銀メダリストの父の話を誇らしげに語る、明るく快活な少年だった。
フィギュアスケートも理凰のほうが先に始めていて、当時は彼の実力のほうが上だった。
だが──夜鷹純に導かれ、夜のリンクで密かに練習を重ねていた光が、それを追い越すのは時間の問題だった。
それでも、彼の笑顔を消してしまうのが怖くて。
しばらくは、本当のことを言えずにいた。
理凰の前で、彼にはまだ跳べないジャンプを初めて成功させたあの日。
その時の彼の顔が──傷つき、泣きそうなその表情が、今も瞼の裏に焼きついている。
(……そうやって、私は自分のフィギュアスケートを“誰かを傷つけるもの”だと思い込んできたのに)
耳に入ってきた、葉と理凰の声。
目の前の光景が、その思い込みを静かに揺さぶってくる。
最近の理凰は、ずっと苛立っていた。
実力が伸び悩み、壁にぶつかっていたのだ。
葉が来ると聞いた時は、少しだけ表情が明るくなったようにも見えたけれど、またすぐ塞ぎ込むだろうと思っていた。
だけど今、理凰の顔には、穏やかな光が宿っている。
心のしこりがすべて消えたわけではないだろう。それでも、前よりも少しだけ前を向こうとしている。
──それだけは、光にもはっきりと分かった。
(あの人の滑りが……理凰の何かを変えたんだ)
葉のスケートには、確かに何かがある。
見ているだけで、話しているだけで、人の心を動かしてしまう──そんな“何か”が。
(……なんだろう、この気持ち)
勝つためだけに滑ってきた。
努力して、勝って、何かを失って、それでも進んできた。
後悔なんてしていない。信じているものは、ぶれていない。
──ただ。
滑りを通じて誰かを救っている。
誰かの希望になっている。
その事実が、どうしようもなく、羨ましくて──悔しかった。
(……)
気がつけば、合同練習は終わりの時間を迎えていた。
「よかったら、また合同練習に来てください」
そう声をかける慎一郎の隣で、葉は穏やかに微笑んでいた。
光は、そっと視線を逸らした。
胸の奥に、言葉にできない痛みが、静かに広がっていくのを感じながら。
その痛みが、何を意味するのか──まだ、自分でも分からなかった。
いつもありがとうございます!感想や評価、お気に入りにいつも助けられてます。
誤字報告も本当にありがとうございます…!!
少し体調崩したので、明日は投稿お休み予定です。