氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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26 黒い靴

「え、合同練習また来ていいって言ってもらったの?」

 

スケート靴の紐を締めていた俺の隣で、司さんが驚きの声を上げた。

それは「引き抜きされるのでは」と焦っているというよりは、どこか羨ましさをにじませた声色だった。

 

そういう素直なところは司さんの美点だ。こういうときに焦るのは、瞳さんの方かもしれない。

 

「はい。鴗鳥コーチから“また来てください”って」

 

「羨ましいなぁ!俺、鴗鳥慎一郎先生の大ファンなんだよ!」

 

瞳を輝かせていう司さんの表情はただのファンのそれだった。

時々、司さんがオタク気質な一面を見せることがある。前にスケーターのWikiの内容暗唱してて、少し怖かったのを覚えている。

 

「軸をズバッと決めるあの4回転が、ダイナミックでめちゃくちゃかっこいいんだよなぁ……!」

 

「司さんと同じくらい背が高いですし、迫力もすごそうですよね。現役時代の演技、生で見てみたかったです」

 

「それで、また行く予定なの?俺から連絡入れとこうか?」

 

「はい、でも月に一度くらいのペースで考えてます。こっちの練習も大事にしたいので」

 

固く靴紐を結び直しながら、そう呟いた。

最近はずっと、4回転ジャンプに挑戦を続けている。

 

クラブに所属する同世代のスケーターたちに、刺激をもらえる時間は確かに楽しかった。

でも今は、地に足をつけて、自分の足元を見つめたい。

 

脳裏に浮かぶ、あのとき一緒に跳んだ選手たちの姿。


 

(早く、俺も──この場所で、4回転を取り戻す)

 

靴紐を締め直して立ち上がると、リンクの冷気が歓迎するように頬を撫でた気がした。

 

「今日もよろしくお願いします、司さん」

 

氷の上に立つと、滑走音が遠くで交差していた。

深呼吸して、いつも通りのウォームアップに入る。

 

基本のクロス。エッジの感覚を確かめながら、徐々に動きにスピードを乗せる。


スリーターン、モホーク、ツイズル──感覚は素直に繋がっていく。

 

(調子は悪くない。氷の感触も良い……)

 

そのまま跳んだトリプルアクセルも、今日は身体が軽かった。


氷を蹴った瞬間、身体がふっと浮かび、滞空中で回転がひとつ、ふたつ、みっつ──着氷も綺麗に成功する。


 

リンクサイドの司さんが、軽くうなずいたのが視界の隅に入った。

 

(……今日は、いけるか?)

 

ぐんと、景色が加速する。

氷をひと蹴りするごとに、風になったかのように身体がリンクを滑っていく。

 

4回転ジャンプ自体は、ノービス時代に跳んでいたのだ。

感覚は、まだ身体が覚えているはず。

 

跳ぶ直前の腕の遠心力。スピードに乗った助走──それらを一点に集中させ、身体を締める。

 

──4回転

 

「くっ……!!」

 

けれど、その瞬間、体の中で何かが噛み合わないと直感する。

踏切の力が、明らかに足りていない。4回転の回転力に届かない。

 

跳んだ身体は、墜落するように氷に叩きつけられ、ドタンと大きな音がリンクに響く。

衝撃で息が詰まるより先に、失敗した悔しさが胸を打った。

 

(3回転までは順調だったのにな……っ)

 

すぐに立ち上がって、もう1度跳び直す。


けれど、結果は同じだ。踏み切りが甘く、沈み、跳び切れない。

 

(イメージと、身体のずれが埋まらない)

 

二度、三度と繰り返しても、いまだに成功の感覚は戻らなかった。

よくない流れだ。

荒い息を吐きながら、背中を伸ばして呼吸を整える。

 

「……葉さん、ちょっと」

 

司さんの声がかかった。

その表情は何かを考え込むように、じっと俺の足元を見つめている。

 

「ずっと気のせいかと思ってたんだけど……その靴、合ってる?」

 

思わず、視線を自分のスケート靴へ落とす。

 

「葉さんの動きを見てて思ったんだけど、4回転の踏切のときに、ほんの少し違和感があるんだ。踏切の力をジャンプに変換するタイミングが少しズレてる。靴が、跳びに耐えきれてないのかも……その靴、いつ替えたの?」

 

そう言われて改めて見ると、靴はかなり使い込まれていて、傷だらけだった。

言われてみれば、思い当たる節がある。

 

氷を捉えたあと、一瞬だけ沈み込むような違和感。

跳びたいタイミングと、靴の反応が、ほんのわずかにズレている感覚。

 

(もしかして、怪我しそうになって……体が無意識に加減していたのか?)

 

「……たしか、高校の時かと。ネットで買った中古の靴です」

 

少し間を置いて答えると、司さんの表情が固まった。

 

「え、それって……ネットオークションとかフリマとか、そういうやつ?」

 

「はい。当時はバイト代の範囲で色々揃えてたので」

 

認めると、司さんは数秒黙ったあと、ため息をついた。

 

「それは寿命だね。それ、高校のときからずっと使ってたんだ……」

 

頷く。自分でもそんなことを忘れていたことに、軽く驚いた。


ブレードは何度も研磨や交換してきたけど、靴本体の寿命について、すっかり忘れていた。

 

普通なら、2年が限界。


トップスケーターなら、数ヶ月単位で交換するという話も聞いたことがある。とっくに、寿命だったのだ。

北海道ではジャンプ練習が出来なかったから、その負担は少なかったのかもしれないが、怪我にもつながる危ない状態にあったのだとぞっとする。

 

(……そんな当たり前のことにも気づけてなかった)

 

北海道で、独り滑っていた頃。俺の隣に、コーチはもういなかった。

身体が大きくなり、ノービス時代の靴が合わなくなったとき、初めて一人で靴を選んだ。

 

サイズが近くて、値段が安くて、子供でも買えるもの。

それだけが、選ぶ基準だった。

 

履いたときの違和感も、体の成長のせいだと思っていた。誰にも相談できなかった。

一緒に氷の上で戦ってくれる、甘えられる大人なんて、もう周りに誰もいなかったのだ。

 

“滑れるだけで十分”。そう思って、黙って氷に立っていた。

 

「……すみません、なんか、ずっとそのままで」

 

「謝らなくていいよ。でも、だからこそ、だよ」

 

「……?」

 

「今の葉さんの滑りには、ちゃんと応えてくれる靴が必要だよ。あの頃とは違う気持ちで、今は滑ってるんでしょ?」

 

その言葉に、静かに頷いた。


 

あの頃は独りだったけど、いまは──こうして、教えてくれる人がいる。

それが、なにより嬉しかった。

 

「よし、じゃあ今度、葉さんに合う靴を一緒に探しに行こう!明日、時間空いてる?」

 

「空いてますけど……え、いいんですか?」

 

「夕方はレッスンがあるけど、それまでは大丈夫!ピッタリのやつ、探そう」

 

柔らかく笑う司さんに、俺は小さく頷いた。

 

 

 

 

 

(く、靴選びって、こんなに難しいと思わなかった……)

 

翌日。

司さんに連れられて、いくつかの専門店をまわったものの結果は芳しくなかった。


 

リンクに併設されたショップ、名古屋市内の専門店──どの店も品揃えは申し分なかったし、スタッフの対応も丁寧だった。

けれど──肝心の“合う”靴が、なかった。

 

「どう?これも微妙?」

 

「……すみません、足首の収まりが悪いです。スケーティングの感覚に影響しそうです」

 

「そっか……うーん」

 

司さんは顎に手を当てて考え込む。

 

「すみません、こだわりすぎてるだけかもしれません」

 

「いや。氷に立つ選手を支えるものなんだから、一番こだわるべきところだよ」

 

そう言って、司さんはスマホを操作しながら、メーカーリストを流し見ていく。

 

「まだ試してないメーカーといえば……あ、そうだ。夜鷹純選手が使ってたやつ、まだ履いてないよね?」

 

メーカーの名前を聞いて、俺は頷いた。

 

「軽さとフィット感のバランスがいいモデルなんだけど、夜鷹選手と同じものを使いたいって人が多くてね。これまで回った店でも、在庫なかったはずだよな……ちょっと電話してみるよ」

 

伝説の金メダリストが使っていた靴であれば、品薄にもなるだろう。

その場で司さんが数店舗に連絡を入れる。
だが、返ってくるのはどこも同じ答えだった。

 

『申し訳ありません、ただいま在庫切れでして……』

 

繰り返される謝罪の声。


電話口から漏れ出るその声を聞きながら、自分でも驚いていた。

 

(こんなに、俺もこだわれるんだな。ついこの間までは靴は“滑れればそれでいい”って思ってたのに……)

 

なのに、いまは心から思う。ちゃんと自分に合う靴が欲しいと。

出遅れている分を早く追いつきたいから。世界を目指すなら、無駄なハンデなんて背負っている余裕はない。

 

ようやく取り扱いがあると確認できたのは、名古屋市内にある老舗のスケート専門店だった。

店内に足を踏み入れた瞬間、どこか見覚えのある後ろ姿が目に入る。

 

「あれ?」

 


奥のソファに座っていた少女が、こちらを振り返った。

 

「……こんにちは」

 

静かな声。整った姿勢。

空気が少し張りつめるようなその佇まいに、すぐに気づく。

 

「狼嵜さん、こんにちは。奇遇だね」

 

「はい。碧芽さんも……靴、ですか?」

 

軽い挨拶のやり取り。


けれど、彼女の表情に浮かぶ笑顔は、どこかぎこちなかった。

 

大人顔負けの社交性で知られる彼女だが、まだ11歳だ。


調子が悪い日や、気持ちが落ち込んでる時もあるだろう。なにか悩んでいるのかもしれない──ふと、そんな考えが頭をかすめる。

 

「うん。色々試してるんだけど、なかなか合うのがなくて。狼嵜さんは?」

 

「そうですか。私は今日は……ブレードの研磨と、靴の調整を少し」

 

カウンターの上に置かれた真っ黒なスケート靴に目をやる。その形に、どこか見覚えがあった。

隣に立っていた司さんが囁く。

 

「……葉さん、あれ」

 

「え?」

 

「狼嵜選手の靴、夜鷹選手と同じモデルのものだよ」

 

細く絞られたつま先。独特なブレードの形状。
それは、夜鷹純が愛用していたモデルとまったく同じだった。

 

(なるほど。狼嵜さんも、夜鷹選手のファンなんだな……)

 

そう思って横を見ると、司さんはなぜか少し意味ありげな目つきで、彼女の靴をじっと見つめていた。

 

「……司さん?」

 

「あ、ああごめんね。そろそろ店内見ようか」

 

俺は店内の陳列棚を見渡すといくつもの靴が整然と並んでいる。

ブランドも、形も、質感も少しずつ違っていて──けれど、どれも“ピン”とこなくて手を伸ばせない。

 

そんな中で、ふと、ひとつの靴に視線が吸い寄せられた。


マットな黒。やや細身のシルエット。つま先の絞りと、独特なブレードの曲線。
特別な印がついているわけでもないのに、妙に印象が残っていた。

 

(……これかもしれない)

 

理由はわからない。ただ、そう思った。

無意識のうちに、その前で立ち止まっていた。

 

「……すみません。このモデル、試していいですか?」

 

そう声をかけてから、鏡の前に腰を下ろす。
手渡された靴は、想像していたよりもずっと軽かった。


硬質な素材なのに、どこか柔らかく、足を包むような輪郭を持っている。

足を通し、レースを締める。
立ち上がった瞬間、足元の重心がすっと収まり、自分の身体と一体になる感覚があった。

 

──これだ。

 

踏み出した第一歩。まだフロアの上なのに、違いは明確だった。

軽いと言うこともあるだろう。これまでの靴とは段違いに足に馴染む感覚があった。

 

「……すごい、これ、めちゃくちゃ軽い。足首のサポートもしっかりしてるし、踏切をもっと勢い良くいけそうな気がする……」

 

声に出すつもりはなかったのに、自然とこぼれていた。

 

(これにしよう)

 

そう思った、そのとき──
背後から、控えめな足音が近づいてきた。

振り返ると、狼嵜さんがこちらへゆっくりと歩いてくる。

調整が終わったのか、手にしたスケートバッグのジッパーをゆっくりと閉じている。


 

目が合うとその唇が一瞬開きかけ、けれどすぐには言葉にならず、一拍置いて──

 

「──あの」

 

わずかに掠れた声。明るい彼女にしては珍しいためらうような声かけ。

帰り際に挨拶に寄ったのだろうか、律儀な子だと思う。

 

しかし、そのひと言に続くものはなく、彼女視線がふと、俺の足元へと落ちた。

自分の履いている黒い靴に目をやって──気づく。

 

「……あぁ、これ、君と同じモデルか。色も一緒だったね」

 

言ってから、自分でも少しバツが悪くなった。


意図せずではあるが、小学生女子とお揃いの靴履いて「お揃いだね」などとのたまってるのだ。

 

(……なんかキモいな、俺)

 

光は一瞬こちらを見て、ゆっくりとまばたきをした。

 

「……そういうの、言うタイプじゃないと思ってました。碧芽さんって」

 

刺すような言葉ではなかった。
けれど、どこか探るような目だった。

その姿は雑誌や公共の場で見る彼女の社交的な雰囲気とは少し異なっていて違和感を覚える。

 

少しだけ、よそ行きの仮面が外れたようなそんな気がする。

 

「……なんか、君、雰囲気ちょっと変わった?」

 

そう問いかけると、光は少しだけ目を伏せて、短く息をついた。

 

「そうですか?私は、何も変わってないと思いますけど」

 

一見いつも通りの冷静な声。けれど、その音は、どこか“閉じようとする”気配を帯びていた。

何か迷いがあるのか、隠したいものがあるのか。これまでの違和感が、徐々に輪郭を形作っていく。

 

少し黙って、それから、俺はゆっくりと口を開いた。

 

「……無理に話さなくてもいいけど。たぶん、いまの君は、ちょっと苦しそうに見える」

 

彼女の瞳が、ふとこちらを向いた。
一瞬だけ、その奥にある揺れが垣間見えた気がした。

 

「……合同練習のとき、ずっと碧芽さんの滑りを見てました」

 

声はわずかに掠れていた。けれど、彼女は努めて平静を装うように、その先の言葉を続ける。

 

「最近、練習してても……芯のところで何かが疼いてるんです。私の滑る意味ってなんなんだろうって。インタビューの時に、碧芽さんが言ってた言葉の意味が、自分でも分からないんです」

 

その言葉に、言いようのない沈黙が降りる。
整った姿勢の奥で、必死にこらえているものがあるのだと、自然と分かった。

 

「……よかったら、少しだけ話さない?」

 

そう声をかけた瞬間、すぐ隣にいた司さんが、気配を読んだように立ち上がる。

 

「靴ももう決まったみたいだし。俺はそろそろリンクの方に戻るよ。夕方からレッスンあるし」

 

そう言って、俺の肩を軽く叩く。

 

「靴のことは、あとでまた話そう。狼嵜選手も、おつかれさま」

 

「……はい。ありがとうございます」

 

司さんは静かに店を出ていった。

 

残された静けさの中で、彼女はほんのわずかに驚いたように目を見開いている。

それから──覚悟を決めた様に、小さくうなずいた。

 

ふたりで店を出ると、街はもう夕方の気配を帯びていた。

風がしんと冷たくなっていて、冬が深まっていく季節の変わり目を感じさせる。

 

並んで歩く。


 

話すでもなく、黙り込むでもなく、すこし探るような距離がそこにあった。

さっきまでの会話の続きを、どこから始めればいいのか。


 

言葉を探す沈黙の中で、ふと横を見る。

迷ったように視線を揺らしながら、それでもまっすぐ前を見る瞳がそこにはあった。




いつもありがとうございます。体調徐々に回復してきました!
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