氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
──数日前。
夜のスケートリンクに、エッジが鋭く氷を刻む音が響いていた。
「光。次までに、全部直しておいて」
照明の少ない、薄暗い氷の上に立つ二つの影。
狼嵜 光と、夜鷹 純。
金メダリストによる秘密のレッスンは、いつもとは少し様子が違っていた。
まるで水面のような氷には、視線が揺れる光の顔が映っている。
「今日はもう終わりだ」
「待ってくださいコーチ……私、まだやれます」
夜鷹の口調は淡々としていた。けれど、その一言は、光の胸に鋭く刺さる。
反論するも、自分でも分かっていた。 “いつも通り”ができていないことを。
踏切のタイミング。空中姿勢。着氷。 一般的に見れば、十分な出来だったかもしれない──だが、それは夜鷹が求める水準には届いていなかった。
静まり返ったリンクに、彼の声だけが空気を裂くように響いた。
「集中してない君に、教えられるものはないよ」
たった一言。
鋭い指摘だった。詰問ではない。ただ、事実を淡々と告げただけ。
光は何も返せなかった。
言い訳できる余地など、どこにもない。
体が重いわけじゃない。怪我をしているわけでもない。
ただ──思考が濁っている。
スケートの中に、余計な何かが入り込んでいる。
原因はわかっていた。
あのインタビュー、そして合同練習で目にした光景。
“滑りで届けたい”──そう言っていた、碧芽葉の言葉。
それを証明するように、明るくなった理凰の表情。
同じようにリンクの上で跳んだ。それだけのはずなのに。
(どうして、あんなふうに滑れるの?)
光は、自分の問いを心の奥で繰り返していた。
勝つために滑る。それ以外を考えることは、甘さだと──そう思っていたはずなのに。
夜鷹が去ったリンク。
ひとり滑り続ける光は、氷の上で息を整えながら、わずかに表情を歪めた。
(……このままじゃ、曲かけ練習にも影響が出る)
夜鷹 純がコーチをする条件は、2つ。
光が出場するすべての大会で金メダルを獲ること。
そして、曲かけ練習で一度も転倒しないこと。
それが破られたとき、夜鷹は光の前から姿を消す──。
(このままじゃ、守れなくなるかもしれない)
「……早く、なんとかしないと」
この胸の奥に渦巻くものを、言葉にして確かめたかった。
彼の言葉の意味を。
そして、自分の中に芽生えてしまった、このわだかまりの正体を。
──カラン、とドアベルの音が鳴る。
「流石に寒いから、どこかカフェでも入ろうか」との葉の提案で、2人は暖房が効いた席に腰を下ろした。
真冬の寒さでかじかんだ手が、テーブル上のカップの温かさでじんわりと柔らかくなる。
光はカップを手に取ったまま、すぐには口をつけられずにいた。
紅茶の香りが、心を少しだけ落ち着けてくれる。長いまつ毛が伏せられた奥で、言葉を探し続けている。
「焦らなくていいよ」
葉は、コーヒーを飲みながら穏やかに言った。
「色々聞きたいこともあると思う。全部、聞くからさ。順々に教えてくれるかな」
問いかけるでも、見透かすでもない。その距離感が光にはありがたかった。
光は、数秒だけ黙っていた。
けれど、やがてゆっくりと顔を上げると、まっすぐに葉を見た。
「私は、フィギュアスケートで“勝つ”ことだけを信じてきました」
でも、と言葉を継ぐ。
「そんな、私の滑りは人を傷つけるばかりだと思ってたんです」
葉は何も言わず、ただ続きを促すように視線を向ける。
カップに手を添えたまま、光はぽつりと呟いた
「理凰が、まさにそうでした。私より先にフィギュアスケートを始めてた彼を、私が追い抜いた時……彼のプライドを大きく傷つけてしまった」
あの時の傷ついた顔を思い出すと、胸の奥がざらついた。
「明るかった理凰が笑わなくなって、スケートを楽しめなくなっていって……それでも、私は“強い選手”になることを目指してたんです」
視線を上げる。葉の目が、真正面から自分を見ていた。
「”強いフィギュアスケーター”っていうのは、そういう寂しさも背負って、それでも前に進める人間なんだって。傷つけたり、寂しく感じるのは仕方がないことなんだって、ずっと思ってました」
自分を納得させるように言い聞かせてきた理屈。 でも、その理屈が最近、少しずつ崩れてきている。
「……でも、あなたは違いました。理凰が少しだけ前を向けたように、あなたは人を傷付けないで、誰かの背中を押すような滑りをしてた」
葉の演技がきっかけで、きっと理凰は変わった。
理凰の両親が声を掛けても、クラブメイトが励ましてもどうしようもなかったのに……それが、どれほどすごいことか光には分かっていた。
「理凰を前向きにしてくれたことは感謝してます。でも、私とあなた……何が違うんですか?」
人を傷付けた
問いかけながら、胸の奥でぐらりと揺れる感情があった。
これは嫉妬なのか、焦りなのか、それとも──憧れなのか。
葉はすぐには答えなかった。
黙ってコーヒーを一口飲んでから、静かに口を開いた。
「なにも違わないよ……俺だって、狼嵜さんと同じで傷付けてた側だった」
「そんなの……嘘です」
「嘘じゃない。ノービスの頃、同じクラブの子に“ずるい”って言われたよ……後から入ってきたのに、そんなすぐに上手くなってずるいって」
光は少しだけ目を見開いた。
「何人かは、結局スケート辞めちゃってさ。何も言えなかった。俺もその子を“傷付けていた側”だった」
その言葉に、光は同じ光景を見ていたことを思い出す。
自分が置かれていた立場を、彼も一度は通ってきたかのようだった。
「でも──俺には、続けてほしいって言ってくれた友達がいたよ。俺の背中を追いかけてやるって言ってくれた子が」
言い切ったあと、葉はふっと息を吐いて視線をカップに落とした。
彼の話は、どこか懐かしさと寂しさが入り混じっていた。誰かを追い越し、誰かに助けられ、それでも滑り続けた人間の声。
「君にも、いるんじゃないかな?君の背中を見て、追いかけたいって思った子が。君が気づいていないだけで、きっとどこかに」
軽く笑うような口調だったが、どこか確信めいて聞こえた。
光は一瞬、返す言葉を失った。けれど、すぐに思い浮かんだ顔があった。
──結束 いのり。
どんなに実力差があっても、真正面から挑んでくる。
怖がることも、ひるむこともなく、黙々と自分の背中を追いかけてくる存在。
(……いのりちゃんは、たぶん、そういう子なんだと思う)
心の中でそっと認める。
けれど、そこでふと別の考えが浮かぶ。
(それ以外にも、いたんだろうか)
気づいていないだけで、自分を見てくれていた子がいたのかもしれない。
ただ言葉にしなかっただけで、いつも練習の視線の先に、自分がいたような子が。
(……)
考えがまとまらない。
答えに辿り着くには、今はまだ材料が足りない。
光は自分の胸に湧き上がった問いに、そっと蓋をする。
「だから、君と俺に違いなんてないよ。ただ自分が背中を押されたことがあったから、誰かにそうなれたら、って思っただけだよ」
あくまでさりげなく──それ以上深く掘り下げるつもりはなさそうな口調だった。
けれど光は、ふと顔を上げた。
「……それって、どんな演技だったんですか?あなたがそう思うようになった、最初のきっかけって」
その言葉に、葉は一瞬だけ考え込むような表情を見せた。
語るべきかどうか、迷っているようだった。
けれど、光の真剣な視線を受け止めると、観念したように小さく息を吐いて口を開いた。
「俺、昔……本当にずっと昔なんだけど、ずっと病院で暮らしてたんだ。外に出ることも、走ることもできなくて。痛みと一緒に、毎日ベッドの上で過ごしてた」
そんな話は今まで聞いた事がなかった。
胸中で驚きながらも、光は黙って耳を傾ける。
「テレビばっかり見てたよ。あれが唯一、外の世界を感じられる窓だったから。ある日、偶然フィギュアスケートの中継を観たんだ。選手の名前も顔も、もう覚えてない。でも──その滑りだけは、今も覚えてる」
その声には、どこか懐かしさと、確信のような静けさがあった。
「ひたすらに、美しかった。世界が煌めいて見えた。毎日が辛かったのに、その時間だけは全部忘れられた……だから、俺も“そんな存在になりたい”って思った。自分の滑りが、誰かの記憶の中に残って、背中をそっと押せたらって」
だから──
名港杯では「スケートに向き合う姿勢」を、岡崎いるかに。
西日本学生選手権では「高みを目指す為の覚悟」を、部の仲間たちに。
葉は、いつも“誰か”に想いを見せるために滑っていた。
「俺がどう映っていたかは、観ている人次第だけどさ……でも、誰かのために滑る時、きっと実力以上のものが出せることもあると思うんだ。人の心を動かすパワーって、そういうところから出てくるんだと思う」
そう言って、少しだけ笑った。
「……これは秘密ね。誰にも話したことないから、内緒にしてて」
光は戸惑いながらも、黙って頷いた。
しばらく、何も言葉が出てこなかった。
(……私には、そんな人はいない。今まで滑ってきて、誰かの顔を思い浮かべたことなんて……なかった)
これまで滑ってきたのは、自分のため。
勝つため。あるいは、与えられた役割を果たすため。
「届ける滑り」という言葉は、頭では理解できても、心のどこかでまだ遠いものに感じられた。
理解できないわけじゃない。
でも、それを感じられる自分になるには、まだ何かが足りない気がしていた。
「……いつか、私にもそういう人が現れるんでしょうか」
無意識に口から漏れた問いは、葉に向けたというより、自分自身へのものだった。
葉はまっすぐに光の目を見て、少しだけ笑った。
「現れると思うよ。自分の滑りを“見せつけたい”って思う人が」
その声はやわらかく、優しかった。
けれど、光の中には、まだ小さなざらつきが残っていた。
(──まだ、全部分かった訳じゃない)
“届ける滑り”。
その考えも、その背景にある痛みも。言葉だけではまだ飲み込めなかった。
でも否定は、できなかった。
理屈じゃない何かが、人を変えることは、確かにある。
──理凰が前を向いたこと。
それだけは、動かしようのない事実だった。
そしてそれを見せたのが、目の前のこの人だった。
「やっぱり、まだ分からないです。でも……話せて、少しすっきりしました」
「そっか……少し役に立てたならよかったと思うよ」
光はわずかに表情を緩めた。 口元には笑みが浮かんでいたが、どこか苦味を含んでいた。
自嘲とも、諦めとも、もしかしたら少しだけ羨望だったのかもしれない。
(……私は誰かのために、私の想いをさらけ出して滑れるのかな)
これまで、ずっとコーチの夜鷹純の言葉通りに滑ってきた。
彼の動きを身体に染み込ませて、彼が作った構成で、彼の指示する内容でジャンプを跳ぶ。
迷いはなかった。彼の指示に従えば、間違いはないと信じられたからだ。
だから、勝てて当然だった。
そう思えるほどに、すべてを預けていた。
──けれど。
(もし、自分のやりたいように滑って、それで勝てなかったら……?)
ただその一つの想像だけで、胸の奥に、ぞくりとした怖さが忍び込んでくる。
光はそっとカップを持ち直し、葉を見つめた。
「……あなたは、強い人なんだと思います」
葉が少しだけ目を開いた。
「“勝てないかもしれないこと”を恐れず、“誰かに届ける”なんて曖昧なものを信じて滑るのは、凄いことなんだと思います……でも、それが通じるのは確かな実力があるからです」
光は紅茶に視線を落とす。
「私は自分の迷いを断ち切れない。だから、決めたんです。あなたの滑りが本物なのか、その信念を私も信じて良いのか……見届けさせてもらいます」
小さな間。紅茶の香りが、ふわりと鼻に届いた。
「でも、もし途中で逃げたり、迷ったまま終わるような人だったら……そのときは、ちゃんと否定してあげます。“やっぱりそれは違ったんだ”って、はっきり言えるように、私は見届けておきたい」
葉は一言も返さなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。
光もそれ以上は言わなかった。
示し合わせた訳でもなかったが、ふたりは席を立った。
──外に出ると、風が少しだけ冷たくなっていた。
川沿いの街灯が、先ほどよりも遠く感じる。
夜の気配が静かに降りてきて、景色全体がわずかに色を失っていた。
ふたりは無言のまま歩き出す。
並んで歩く葉の背中を、光は一歩うしろから見つめていた。
(……あなたの言葉が“本物”なら、私はまた見ることになる。あの時みたいに、誰かの心を動かす滑りを)
けれどもし、それが“ただの偶然”だったとしたら──
あの演技も、理凰の変化も、たまたまの産物だったとしたら。
そんな言葉が、胸の奥に沈んでいく。
心のどこかに、ふたしかな灯のように、残されたまま。
(……その時は、ちゃんと見届けて、ちゃんと否定する)
言葉にはしなかったが、胸の奥に確かに刻まれていた。
それは、信じたいと願う心と、まだ拭いきれない不信との、わずかな境目。
(……だから、私は見てる。あなたが、どこまで滑り続けられるのか。最後まで)
足元で、風が落ち葉を転がしていく。
ふたしかな灯のように、小さな決意が、光の中で静かに灯っていた。
すみませんが、しばらくお休みいただきます。
これまでの文章の粗い部分出てきたので調整や、展開の見直し期間に入らせてください。
いつもありがとうございます。