氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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27 見届ける

──数日前。

夜のスケートリンクに、エッジが鋭く氷を刻む音が響いていた。

 

「光。次までに、全部直しておいて」

 

照明の少ない、薄暗い氷の上に立つ二つの影。

 

狼嵜 光と、夜鷹 純。

 

金メダリストによる秘密のレッスンは、いつもとは少し様子が違っていた。


まるで水面のような氷には、視線が揺れる光の顔が映っている。

 

「今日はもう終わりだ」

 

「待ってくださいコーチ……私、まだやれます」

 

夜鷹の口調は淡々としていた。けれど、その一言は、光の胸に鋭く刺さる。

 

反論するも、自分でも分かっていた。
“いつも通り”ができていないことを。

 

踏切のタイミング。空中姿勢。着氷。
一般的に見れば、十分な出来だったかもしれない──だが、それは夜鷹が求める水準には届いていなかった。

 

静まり返ったリンクに、彼の声だけが空気を裂くように響いた。

 

「集中してない君に、教えられるものはないよ」

 

たった一言。

鋭い指摘だった。詰問ではない。ただ、事実を淡々と告げただけ。

 

光は何も返せなかった。

言い訳できる余地など、どこにもない。

 

体が重いわけじゃない。怪我をしているわけでもない。

ただ──思考が濁っている。

スケートの中に、余計な何かが入り込んでいる。

 

原因はわかっていた。

あのインタビュー、そして合同練習で目にした光景。

 

“滑りで届けたい”──そう言っていた、碧芽葉の言葉。

それを証明するように、明るくなった理凰の表情。

 

同じようにリンクの上で跳んだ。それだけのはずなのに。

 

(どうして、あんなふうに滑れるの?)

 

光は、自分の問いを心の奥で繰り返していた。

勝つために滑る。それ以外を考えることは、甘さだと──そう思っていたはずなのに。

 

夜鷹が去ったリンク。

ひとり滑り続ける光は、氷の上で息を整えながら、わずかに表情を歪めた。

 

(……このままじゃ、曲かけ練習にも影響が出る)

 

夜鷹 純がコーチをする条件は、2つ。

光が出場するすべての大会で金メダルを獲ること。

そして、曲かけ練習で一度も転倒しないこと。

 

それが破られたとき、夜鷹は光の前から姿を消す──。

 

(このままじゃ、守れなくなるかもしれない)

 

「……早く、なんとかしないと」

 

この胸の奥に渦巻くものを、言葉にして確かめたかった。

彼の言葉の意味を。

そして、自分の中に芽生えてしまった、このわだかまりの正体を。

 

 

 

 

 

──カラン、とドアベルの音が鳴る。

 

「流石に寒いから、どこかカフェでも入ろうか」との葉の提案で、2人は暖房が効いた席に腰を下ろした。

真冬の寒さでかじかんだ手が、テーブル上のカップの温かさでじんわりと柔らかくなる。

 

光はカップを手に取ったまま、すぐには口をつけられずにいた。

紅茶の香りが、心を少しだけ落ち着けてくれる。長いまつ毛が伏せられた奥で、言葉を探し続けている。

 

「焦らなくていいよ」

 

葉は、コーヒーを飲みながら穏やかに言った。

 

「色々聞きたいこともあると思う。全部、聞くからさ。順々に教えてくれるかな」

 

問いかけるでも、見透かすでもない。その距離感が光にはありがたかった。

 

光は、数秒だけ黙っていた。

けれど、やがてゆっくりと顔を上げると、まっすぐに葉を見た。

 

「私は、フィギュアスケートで“勝つ”ことだけを信じてきました」

 

でも、と言葉を継ぐ。

 

「そんな、私の滑りは人を傷つけるばかりだと思ってたんです」

 

葉は何も言わず、ただ続きを促すように視線を向ける。

カップに手を添えたまま、光はぽつりと呟いた

 

「理凰が、まさにそうでした。私より先にフィギュアスケートを始めてた彼を、私が追い抜いた時……彼のプライドを大きく傷つけてしまった」

 

あの時の傷ついた顔を思い出すと、胸の奥がざらついた。

 

「明るかった理凰が笑わなくなって、スケートを楽しめなくなっていって……それでも、私は“強い選手”になることを目指してたんです」

 

視線を上げる。葉の目が、真正面から自分を見ていた。

 

「”強いフィギュアスケーター”っていうのは、そういう寂しさも背負って、それでも前に進める人間なんだって。傷つけたり、寂しく感じるのは仕方がないことなんだって、ずっと思ってました」

 

自分を納得させるように言い聞かせてきた理屈。
でも、その理屈が最近、少しずつ崩れてきている。

 

「……でも、あなたは違いました。理凰が少しだけ前を向けたように、あなたは人を傷付けないで、誰かの背中を押すような滑りをしてた」


 

葉の演技がきっかけで、きっと理凰は変わった。

理凰の両親が声を掛けても、クラブメイトが励ましてもどうしようもなかったのに……それが、どれほどすごいことか光には分かっていた。

 

「理凰を前向きにしてくれたことは感謝してます。でも、私とあなた……何が違うんですか?」

 

人を傷付けた(自分)と、助けてみせた葉。

 

問いかけながら、胸の奥でぐらりと揺れる感情があった。

これは嫉妬なのか、焦りなのか、それとも──憧れなのか。

 

葉はすぐには答えなかった。

黙ってコーヒーを一口飲んでから、静かに口を開いた。

 

「なにも違わないよ……俺だって、狼嵜さんと同じで傷付けてた側だった」

 

「そんなの……嘘です」

 

「嘘じゃない。ノービスの頃、同じクラブの子に“ずるい”って言われたよ……後から入ってきたのに、そんなすぐに上手くなってずるいって」

 

光は少しだけ目を見開いた。

 

「何人かは、結局スケート辞めちゃってさ。何も言えなかった。俺もその子を“傷付けていた側”だった」

 

その言葉に、光は同じ光景を見ていたことを思い出す。

自分が置かれていた立場を、彼も一度は通ってきたかのようだった。

 

「でも──俺には、続けてほしいって言ってくれた友達がいたよ。俺の背中を追いかけてやるって言ってくれた子が」

 

言い切ったあと、葉はふっと息を吐いて視線をカップに落とした。

彼の話は、どこか懐かしさと寂しさが入り混じっていた。誰かを追い越し、誰かに助けられ、それでも滑り続けた人間の声。

 

「君にも、いるんじゃないかな?君の背中を見て、追いかけたいって思った子が。君が気づいていないだけで、きっとどこかに」

 

軽く笑うような口調だったが、どこか確信めいて聞こえた。

光は一瞬、返す言葉を失った。けれど、すぐに思い浮かんだ顔があった。

 

──結束 いのり。

 

どんなに実力差があっても、真正面から挑んでくる。

怖がることも、ひるむこともなく、黙々と自分の背中を追いかけてくる存在。

 

(……いのりちゃんは、たぶん、そういう子なんだと思う)

 

心の中でそっと認める。

けれど、そこでふと別の考えが浮かぶ。

 

(それ以外にも、いたんだろうか)

 

気づいていないだけで、自分を見てくれていた子がいたのかもしれない。

ただ言葉にしなかっただけで、いつも練習の視線の先に、自分がいたような子が。

 

(……)

 

考えがまとまらない。

答えに辿り着くには、今はまだ材料が足りない。

光は自分の胸に湧き上がった問いに、そっと蓋をする。

 

「だから、君と俺に違いなんてないよ。ただ自分が背中を押されたことがあったから、誰かにそうなれたら、って思っただけだよ」

 

あくまでさりげなく──それ以上深く掘り下げるつもりはなさそうな口調だった。

けれど光は、ふと顔を上げた。

 

「……それって、どんな演技だったんですか?あなたがそう思うようになった、最初のきっかけって」

 

その言葉に、葉は一瞬だけ考え込むような表情を見せた。

語るべきかどうか、迷っているようだった。

 

けれど、光の真剣な視線を受け止めると、観念したように小さく息を吐いて口を開いた。

 

「俺、昔……本当にずっと昔なんだけど、ずっと病院で暮らしてたんだ。外に出ることも、走ることもできなくて。痛みと一緒に、毎日ベッドの上で過ごしてた」

 

そんな話は今まで聞いた事がなかった。

胸中で驚きながらも、光は黙って耳を傾ける。

 

「テレビばっかり見てたよ。あれが唯一、外の世界を感じられる窓だったから。ある日、偶然フィギュアスケートの中継を観たんだ。選手の名前も顔も、もう覚えてない。でも──その滑りだけは、今も覚えてる」

 

その声には、どこか懐かしさと、確信のような静けさがあった。

 

「ひたすらに、美しかった。世界が煌めいて見えた。毎日が辛かったのに、その時間だけは全部忘れられた……だから、俺も“そんな存在になりたい”って思った。自分の滑りが、誰かの記憶の中に残って、背中をそっと押せたらって」

 

だから──

 

名港杯では「スケートに向き合う姿勢」を、岡崎いるかに。

西日本学生選手権では「高みを目指す為の覚悟」を、部の仲間たちに。

 

葉は、いつも“誰か”に想いを見せるために滑っていた。

 

「俺がどう映っていたかは、観ている人次第だけどさ……でも、誰かのために滑る時、きっと実力以上のものが出せることもあると思うんだ。人の心を動かすパワーって、そういうところから出てくるんだと思う」

 

そう言って、少しだけ笑った。

 

「……これは秘密ね。誰にも話したことないから、内緒にしてて」

 

光は戸惑いながらも、黙って頷いた。

しばらく、何も言葉が出てこなかった。

 

(……私には、そんな人はいない。今まで滑ってきて、誰かの顔を思い浮かべたことなんて……なかった)

 

これまで滑ってきたのは、自分のため。

勝つため。あるいは、与えられた役割を果たすため。

 

「届ける滑り」という言葉は、頭では理解できても、心のどこかでまだ遠いものに感じられた。

理解できないわけじゃない。

でも、それを感じられる自分になるには、まだ何かが足りない気がしていた。

 

「……いつか、私にもそういう人が現れるんでしょうか」

 

無意識に口から漏れた問いは、葉に向けたというより、自分自身へのものだった。

葉はまっすぐに光の目を見て、少しだけ笑った。

 

「現れると思うよ。自分の滑りを“見せつけたい”って思う人が」

 

その声はやわらかく、優しかった。

けれど、光の中には、まだ小さなざらつきが残っていた。

 

(──まだ、全部分かった訳じゃない)

 

“届ける滑り”。


 

その考えも、その背景にある痛みも。言葉だけではまだ飲み込めなかった。

でも否定は、できなかった。


理屈じゃない何かが、人を変えることは、確かにある。

 

──理凰が前を向いたこと。


それだけは、動かしようのない事実だった。

そしてそれを見せたのが、目の前のこの人だった。

 

「やっぱり、まだ分からないです。でも……話せて、少しすっきりしました」

 

「そっか……少し役に立てたならよかったと思うよ」

 

光はわずかに表情を緩めた。
口元には笑みが浮かんでいたが、どこか苦味を含んでいた。

自嘲とも、諦めとも、もしかしたら少しだけ羨望だったのかもしれない。

 

(……私は誰かのために、私の想いをさらけ出して滑れるのかな)

 

これまで、ずっとコーチの夜鷹純の言葉通りに滑ってきた。

彼の動きを身体に染み込ませて、彼が作った構成で、彼の指示する内容でジャンプを跳ぶ。

迷いはなかった。彼の指示に従えば、間違いはないと信じられたからだ。

 

だから、勝てて当然だった。

そう思えるほどに、すべてを預けていた。

 

──けれど。

 

(もし、自分のやりたいように滑って、それで勝てなかったら……?)

 

ただその一つの想像だけで、胸の奥に、ぞくりとした怖さが忍び込んでくる。

光はそっとカップを持ち直し、葉を見つめた。

 

「……あなたは、強い人なんだと思います」

 

葉が少しだけ目を開いた。

 

「“勝てないかもしれないこと”を恐れず、“誰かに届ける”なんて曖昧なものを信じて滑るのは、凄いことなんだと思います……でも、それが通じるのは確かな実力があるからです」

 

光は紅茶に視線を落とす。

 

「私は自分の迷いを断ち切れない。だから、決めたんです。あなたの滑りが本物なのか、その信念を私も信じて良いのか……見届けさせてもらいます」

 

小さな間。紅茶の香りが、ふわりと鼻に届いた。

 

「でも、もし途中で逃げたり、迷ったまま終わるような人だったら……そのときは、ちゃんと否定してあげます。“やっぱりそれは違ったんだ”って、はっきり言えるように、私は見届けておきたい」

 

葉は一言も返さなかった。ただ、ゆっくりと頷いた。

光もそれ以上は言わなかった。


 

示し合わせた訳でもなかったが、ふたりは席を立った。

 

──外に出ると、風が少しだけ冷たくなっていた。

川沿いの街灯が、先ほどよりも遠く感じる。

夜の気配が静かに降りてきて、景色全体がわずかに色を失っていた。

 

ふたりは無言のまま歩き出す。

並んで歩く葉の背中を、光は一歩うしろから見つめていた。

 

(……あなたの言葉が“本物”なら、私はまた見ることになる。あの時みたいに、誰かの心を動かす滑りを)

 

けれどもし、それが“ただの偶然”だったとしたら──

あの演技も、理凰の変化も、たまたまの産物だったとしたら。

 

そんな言葉が、胸の奥に沈んでいく。

心のどこかに、ふたしかな灯のように、残されたまま。

 

(……その時は、ちゃんと見届けて、ちゃんと否定する)

 

言葉にはしなかったが、胸の奥に確かに刻まれていた。

それは、信じたいと願う心と、まだ拭いきれない不信との、わずかな境目。

 

(……だから、私は見てる。あなたが、どこまで滑り続けられるのか。最後まで)

 

足元で、風が落ち葉を転がしていく。

ふたしかな灯のように、小さな決意が、光の中で静かに灯っていた。




すみませんが、しばらくお休みいただきます。
これまでの文章の粗い部分出てきたので調整や、展開の見直し期間に入らせてください。
いつもありがとうございます。
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