氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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28 Landing X

リンクに着氷の音が響いた。

ザリュッ、と重く氷を抉るようなブレードの擦過音。鈍く響いたインパクトのあと、時が止まったような一瞬の静寂。

 

ぽつり、と誰かが呟いた。

 

「いまの、4回転じゃない?」

 

年が明けた名港ウィンドFSCのホームリンク。

1ヶ月ぶりに合同練習に参加した葉を、鴗鳥コーチを始めとした面々は暖かく迎え入れた。

 

元々、フィギュアスケートの世界は狭い。

多くのフィギュアスケーターは何度も同じ顔を大会で見て、歳を重ねていく。

 

その途中で、挫折したり、別の道を選んだりして、氷から去っていく者もいる。

そういう背中を見送るのは、やはり寂しい。

 

だからこそ。

久しぶりに姿を見せた碧芽葉というスケーターを、もう一度この場所で見られることを、皆どこかで喜んでいた。

 

アップを終え、リンクに上がる葉の姿。

その滑らかな軌跡を、自然と誰もが目で追っていた。

 

前回の練習から、まだ一か月ほど。

どれほど感覚を戻したのか。どれほど成長しているのか。

 

あの鴗鳥慎一郎でさえ、ただ穏やかに彼の様子を見守っていた。

 

 

──だからこそ。

 

葉が何度目かのジャンプを跳んだとき、

彼が4回転を降りてくるとは、誰も想像していなかった。

 

 

着氷、その直後。

誰かの口から零れた言葉はリンク上ですぐ波紋の様に広がった。

 

「……4回転降りた?え、見間違い?」

 

「いやいや待って、前見たとき3Aで苦戦してたよね?」

 

「それっていつだったっけ……んんん、1ヶ月前??」

 

確かに跳んだ。見間違えるはずもない。

ここにいるのは皆が年代に差はあれどフィギュアスケーターの精鋭たち。

宙に描かれた4回転の跡。それは、彼の栄光を知る者の脳裏に同じ言葉を浮かび上がらせた。

 

”天才の復活”

 

そんな畏怖の混じった視線にも気づかず、葉は小さくガッツポーズを取った。

 

(ホームリンクじゃなくても跳べた!)

 

頭の中はこれまでとは明確に違うジャンプの感触で一杯だった。
飛び上がる時の反発力。空中での軸の安定感。着氷時のブレードの吸い付き。

 

どれもこれもが、これまで以上にしっくりと来る。

 

(こんな呆気なく、跳べるようになるなんて)

 

たった1つのジャンプは、いくつもの動きが連続して成功していくことで初めて美しく決まる。

ほんの小さなピースがズレただけで、一気に崩れてしまうものだ。

スケート靴を替えた今、葉はひしひしと感じていた。これまでの靴はもはや全く体ついて来ていなかったのだと。

 

ジャンプの余韻を脚に感じる。

細く長く息を吐きながら、ゆっくりとリンクを一周する。


 

(イメージの動きに、段々身体が追いついてきてる……楽しいなぁ)

 

あの頃よりも重く、しかし力強くなった体で、より高く空を飛べるようになってきている。

理想にはまだまだ遠いがそれでも一歩一歩の達成感が、胸を高揚させ──

 

じぃっ、と。

 

こちらを見つめる金色の双眸に、葉は急に引き戻された気がした。

4回転を跳んだことにまるで何も驚いていないような顔で、それでも、口元にはわずかに笑みのようなものが浮かべて。

 

──あなたなら跳んで当然でしょう。

 

近くを通り過ぎる狼嵜光の顔には、そう書いてある気がした。

 

(なんか……やりづらいな)

 

リンクの上で遠くなる黒髪を見送りながら、葉は息を吐く。

 

『──あなたの滑りが本物なのか。その信念を、私も信じて良いのか……見届けさせてもらいます』

 

先日、光からそう言われてから、今まで以上に視線を感じるようになった。

なんだかずっと審査されているようで落ち着かない。

 

(何をそんなに俺に期待してるんだか)

 

自分の滑りは誰かを傷つけるだけだ、と卑下する彼女だって、素晴らしい選手のはずなのに。

 

居心地の悪さを誤魔化す様に、葉はドリンクを取りにリンクサイドに爪先を向ける。

 

「さっすが元天才少年!思ったよりずっと4回転降りるの早かったな」

 

「理依奈ちゃん」

 

氷から上がる葉を、悪戯っぽく笑う理依奈が出迎えた。


 

「やめてよ。まだ転ばずに降りただけだって。成功率だって安定してないし、もっと頑張らなきゃ」

 

「うちの練習に顔出してくれるのは嬉しいけどさぁ、変なサプライズはやめろよな。若い子が浮き足だって、練習どころじゃなくなってるし」

 

「それは俺のせいじゃないよ」

 

視界の隅の光景を葉は感じていた。

リンクの端でストレッチをしていた年下の選手たちが、ひそひそと何かを話しながら見てくる。

年長のスケーターたちは言葉も出さず、何かを見定めるように目だけがまだこちらを追っていた。

 

「葉のせいだぞ」

 

理依奈が目を細める。

 

「自分が思ってるよりも、注目集めてるって自覚した方がいいからな?周りはもう復帰したてのフィギュアスケーターなんて見てない」

 

「それは……嬉しいね」

 

「おかえり、って言っとくぞ。靴新しくしたお陰?」

 

視線を下に落としながら、理依奈がそう口にする。

つられて足元を見ると、ブレードケースの隙間から刃の輝きを覗かせる真新しい黒いスケート靴があった。

 

「そうだね……かなり使い古してたからさ。流石に合わなくなってたみたい」

 

「ちょっと心配になるくらい年季入ってたから、ようやく替えてて安心安心……ちなみにその靴、なんで光とお揃いなの?」

 

「ぶふっ!!」

 

思わず飲みかけていたドリンクを葉は盛大に吹き出した。

気管に入って咽せる背中を理依奈が笑いながらさすってくる。

 

「けほっ……た、たまたまっていうか。合う靴がそれだったっていうか」

 

「ふーん?たまたまねえ……でもさ、光の様子も最近変わったから気になってさあ」

 

「え?」

 

「光って意外と人と接する線引きするタイプだろ?葉には特にそうだった気がするけど、今日はちょっと熱心になってる気がしてさあ」

 

「……考えすぎじゃない?」

 

「うーん?」

 

理依奈は少し首を傾げたまま、俺の顔をじっと見つめる。

 

「……目そらしてる」

 

「そらしてない」

 

「ほら、そらしてる。何かあっただろ」

 

反論しかけたところで、背後から声がかかった。

 

「なんの話してるんですか?」

 

振り返ると、いつの間にかリンク側からフェンスにもたれ掛かるように光が顔を出していた。


ついさっき離れて行った気がしたけど、と葉が思う間もなく理依奈がひらひらと手を振る。

 

「ちょうど光の話をしてた、ほら葉と靴が一緒だなって」

 

「そうなんです!たまたまお店で一緒になって」

 

「お店?」

 

「スケート靴のお店です。私、ちょっとメンテで持ち込みに行ってて」

 

「へえ……」

 

理依奈からの何か言いたげな視線に、葉は慌てて口を開く。

 

「言っとくけど本当に偶然だからね?たまたま行った店が狼嵜と同じモデル扱っててそこで鉢合わせしたんだよ」

 

「そういう事ねぇ」

 

理依奈はどこか納得してあげたとでもいう様に頷いた。そのときだった。

 

「そうだ!碧芽さん、この間はカフェ誘っていただいてありがとうございました」

 

光の言葉に、葉の反応が一拍遅れる。

 

「お、おい……!」

 

「はい?」

 

無邪気な顔で振り返る光。けれど、その目の奥にはどこか悪戯めいた光が見える。

理依奈の顔を見ない様にしつつ、葉はフェンスの近くまで寄って声を潜めた。

 

「その言い方は……ちょっと良くないかも」

 

「なんでですか?ただの事実を言っただけです」

 

「そ、それはそうなんだけどさぁ……」

 

あまりにもさらりと返されて、葉の言葉に詰まる。

 

自分が社会の目を気にしすぎているだけなのか、と一瞬戸惑う。

事実、葉にとって小学生の女の子をそういう風に見る趣味はない。

しかしその間にも、背中は向けられる理依奈の熱視線で焦げている。

 

多分、懸念は間違っていないはずだ。

年長者として丸め込まれる訳にもいかない、と嗜めるように葉は名前を呼ぶ。

 

「狼嵜」

 

その瞬間、光の目がわずかに細められた。

 

「……前から思ってたんですけど、」

 

少しだけ声のトーンが変わる。どこか不満を抑えたような響きが混じっていた。

 

「なんで私だけ、苗字呼びなんですか?」

 

「……え?」

 

「理依奈さんは“理依奈ちゃん”、理凰くんは“理凰くん”、私だけ“狼嵜”って……ちょっと距離を感じます」

 

拗ねるように口を尖らせる様子は可愛らしいものの、いま言う話かと葉は視線を彷徨わせる。

 

「べつに……ちゃん付けっぽくないと思っただけで、他意はないけど」

 

「じゃあ私も、他の人と同じように名前で呼んでほしいです。呼ばれるたびに私は仲良くない人なんだなって思ってましたから……」

 

寂しそうな表情。演技だ。しかし、金色の瞳に引く気もなさそうだった。


目のまっすぐさに、葉は目を瞑ってため息を漏らす。

 

「わかったよ……光ちゃん」

 

その呼び方に、光はぱっと笑った。
ふっと力が抜けたような表情で、小さく頷く。

 

「ありがとうございます、葉さん」

 

そして、そわそわした表情の理依奈の方へ振り返る。

 

「実は相談に乗ってもらってたんです、ジャンプについて。別のクラブの先輩の話も聞いてみたくって」

 

「お、おう。そうなんだ」

 

頷きながらちょいちょいと手招きする理依奈に、葉は顔を寄せる。

 

「……葉さぁ、光を自分のクラブに引き抜くのはやめろよ」

 

「あ、そっち?やらないから」

 

「あと、いるかに報告しといたから」

 

「ば、馬鹿!変な誤解生まれるからやめて!」

 

声を上げて笑う理依奈に、葉は揶揄われているのだと悟った。

ため息を吐いて、肩を落とす葉に向けて、理依奈が思い出したように手を打つ。

 

「あ、そうだ。言い忘れてた」

 

「ん?」

 

「来週さ、テレビの撮影が入るんだってさ。私の密着取材。部にもちょっと顔出すかもな」

 

「テレビ?」

 

「グランプリファイナル終わったし“次の挑戦”について特集組むらしい」

 

「次の挑戦……オリンピック?」

 

葉の言葉に、理依奈が肩を竦める。

 

「明言はされてないけどさ。ディレクターは期待してるだろうよ、“次もオリンピックで活躍します”って私が言うところ。そりゃあ、もちろん目指すけど」

 

そう言いながら、目を細めて笑った。

その笑みに、ふとした陰りが混ざっていたのは気のせいではない。

 

「──あんたは、どうなの?」

 

その問いに、葉の言葉が止まった。

答えようとした瞬間、喉の奥が詰まるような感覚があった。
息を吸い込むだけで、なぜか胸が重い。

 

(オリンピック)

 

数えきれないスケーターが目指す場所を、葉もかつて意識していた。
復帰してからも頭の片隅には当たり前のように、その言葉があった気がする。

 

けれど、オリンピックへ行く選手とは、過去の実績や国際大会でのポイント、長期的な強化指定選手としての評価で選ばれる。


今季に入ってから復帰したばかりの選手には、その道は存在しないに等しい。

ただし──

 

「……全日本選手権で優勝すれば。代表に選ばれる可能性が一気に開く」

 

それが唯一にして、最短にして、もっとも困難なルート。

 

「理依奈ちゃんが切り開いたやり方だ。でも、その全日本には鷹堂っていう世代最強のスケーターも間違いなくいる」

 

”夜鷹純に最も近い”とも言われる男の背中が、葉の脳裏に過ぎる。

 

理依奈は何も言わなかった。

その沈黙が葉の言葉を先へ押す。

 

「正直……まだオリンピックを目指すなんて宣言は出来ないよ。挑戦と無謀は違う。でも、今日のジャンプで“届くかもしれない”って感触はあった。だから……」

 

葉は一息吸った。

 

「宣言するのは、もうちょっとだけ待っててよ」

 

葉の瞳の奥に、覚悟の光が灯りつつある。

理依奈と光。近くに立つ2人の目が、それを見逃さない。

 

「そっか、先輩として楽しみにしてる」

 

軽く言う理依奈の声は、静かだった。


 

「あ、あと来週の取材よろしくな」

 

一転、冗談めかした口調で、理依奈が付け加える。

まるで悪戯を計画する子供のような表情で。

 

「部活の映像もちょっと撮るって言ってたし、今日みたいなジャンプ、もう一回やっといた方がいいかもよ?」




ご無沙汰してます。アニメ2期最高でしたね。

今後、土日に不定期でまた投稿出来ればと思うので良かったらゆるりとお付き合いください。明日はもう1本投稿予定です。
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