氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
「氷の反射強いから一応レフ板準備しておいて」
「鯱城さん、すみません。次のテイクについてなんですが」
早朝の間京大学のリンク。
普段は聞き慣れない言葉が、あちこちで飛び交っている。
それは、俺が知るいつもの早朝練習とは違う光景だった。
「さすが、テレビの取材って感じ」
大型のバンが駐車場には停まってるし、リンクサイドには三脚が立ち、見慣れない照明が置かれている。
ケーブルが床を這い、数人の大人が資料を手に動き回っている。
テレビ局の取材クルー。今日は、理依奈ちゃんのドキュメンタリー取材が入る日だ。
事前にそう聞いてはいたけれど、実際に機材が入ると、リンクの広さが少しだけ縮んだように感じる。
(人が多いせいもあるんだろうけど)
周囲を見渡すと、朝練の参加者自体もいつもより多いことに気づく。
固定メンバー以外の姿もちらほら見える。その中には、曳ヶ谷の姿もあった。
「今日はやけに早いな」
近付いて声をかけると、曳ヶ谷はじろりと目を俺に向けた。
「ふん、たまにはな。こんなの滅多に見れないしよ」
「テレビなんて大会でも来るだろう。そこまで珍しいか?」
「はっ、あれは地方局だろ。今回は全国区の特集なんだ。ちょっと浮ついたっていいじゃねえか」
そう言って、顎で機材の方をしゃくる。
「親に言ったら録画するってよ。万が一映ったら面白いだろ?」
「映るのかなぁ」
「知らん。でもゼロじゃない」
「まぁ、映ったとしても背景の一部だよ。今回の主役は理依奈ちゃんだ」
視線をより人が多いリンクサイドの一角へ向ける。
理依奈ちゃんがコーチと並んで、スタッフと話している。
いつもと変わらないトレーニングウェア姿なのに、やっぱり見え方が違う。
ただの女子大生ではない。前回のオリンピック出場者で、今回も代表候補の一角。
オリンピックへの期待を背負っている、注目のフィギュアスケーターだ。
当たり前のように向けられる期待を、当たり前のように受け止めている。
周囲の空気は、わずかに熱を帯びているように感じた。
カメラが入る理由は、きちんと彼女の側にある。
ストレッチをしながらその様子を眺める。
俺たちがいるリンクの端は、いつも通りの冷たさだ。
曳ヶ谷は理依奈ちゃん達の方をチラチラ見ている。
「曳ヶ谷、気にしすぎ」
「お前は平常運転だな」
「映る理由もないし。いつも通り、目立たないように端っこで練習してるさ」
「その髪色でよく言うぜ。目立ってるぞ、きっと」
軽く言われて、無意識に白い髪に触れる。
光に透かすと少し反射している様にも見える。
幼い頃に真っ白になったこの髪が目立つのは、もう慣れている。
けれど、その程度でわざわざテレビに映すほど、スタッフも暇じゃないはずだ。
聞くところによると、密着は大学だけではないらしい。
所属クラブや、先日のグランプリシリーズにも同行していたという。
かなり本格的なドキュメンタリーになりそうだった。
リンクサイドに目をやると、ひときわ大柄な男が立っている。
熊みたいな体格に黒いコートを羽織り、腕を組んで全体を見ている。
スタッフが近づいては短くやり取りを交わし、また散っていく。
(ディレクター、かな)
ぼんやり見ていると、ふと視線が重なった気がした。
一瞬。けれどすぐに、彼は別の方向へ目を向ける。
見られてた、なんて思わない。たまたまだ。
自意識過剰。そんな風に自嘲しているとコーチの声が響く。
「よし、始めるぞ。今日はカメラも入るが、各々普段通りにしてくれ」
「皆さん、今日はよろしくお願いします」
部員の挨拶が一斉に返される。
それからしばらくして、カメラの赤いランプが点いた。
視界の隅でそれを見ながら、そっと氷に乗る。
エッジの感触はいつも通りだ。
クロスを踏み、時折ターンを入れ、基礎練習をこなしながら身体を温める。
ただ、背中のどこかに小さな意識が残っていた。
カメラは理依奈ちゃんを追っている。助走、踏み切り、着氷。寄りの画。モニターを覗き込むスタッフ。
当然の流れだ。
それでも、たまにレンズがこちらをかすめる時がある。ほんのわずかな時間。
(大会とは違って変な感じがするな。やっぱりいつも通りにはいかないか)
呼吸を整えて、エッジを倒し直す。
今日の朝練は、少しだけ人が多い。ただ、それだけのことだ。
氷の上にはいつも通りの無数の線が引かれていく。
朝練は、続いていく。
◆
朝練がひと区切りついた頃、リンクサイドから声がかかった。
「そこの白髪の君。ちょっとだけ時間もらえる?」
「俺ですか?」
「そうそう。鯱城選手の同じ部員の子だよね?軽くインタビューお願いしたくて」
エッジを止め、氷を降りる。
ブレードカバーを付けた瞬間、近くで曳ヶ谷が不満げに鼻を鳴らした。
「ほら見ろ」
扉を抜けると、冷気がすっと引く。
廊下はリンクよりいくらか暖かく、ガラス越しに白い氷面が帯みたいに伸びていた。
その先、ロビーの隅にはいつの間にか椅子とカメラが据えられている。
「練習中すみませんね、お名前聞いてもいい?」
座るとすぐにマイクが差し出された。
「あ、はい。碧芽です。大学一年です」
「碧芽さん。鯱城選手について、部員からの印象を伺えればと思いまして」
「はぁ」
(そういうの、もっと仲のいい子が聞かれそうなもんだけど)
いるかの顔が浮かぶ。
ただ生憎、今日は来ていない。彼女自身も有名だし、変な取材に捕まらないよう、わざと避けたのかもしれない。
そんな俺の考えを知ってか知らずか、インタビュアーは終始柔らかな笑みを崩さない。
「鯱城選手とは同じリンクで練習されていますが、彼女はどのような存在ですか?」
「……すごい選手だと思っています。勝負所で決め切る強さも、メンタルも。昔から」
「昔から?大学の部員になる以前から面識が?」
「小さい頃スケートはやってたので、その時に少し」
そうなんですね、と頷くインタビュアーの背後に大きな人影がいるのにふと気付く。
視線を上げると、さっきの大柄な男──ディレクターと思われる人物が、腕を組んで立っていた。
遠目では分からなかった強面が、距離の分だけはっきり見えてしまい、喉がわずかに渇く。
「じゃあ、前回鯱城選手がオリンピック出場を決めた時も、近くで見ていたんですか?」
「いえ……その頃は、フィギュアから離れてました。今年からまた始めたんです」
「なるほど、復帰組なんですね」
言い方は柔らかい。なのに、なんとなくラベルを貼られた感覚が残った。
「鯱城選手の活躍を間近で見て、どう感じますか?」
「嬉しいです。近くで、ああいう姿を見られるのは」
「数年後のオリンピックに向けて期待も高まってますよね。近くで見ていて、変化は感じますか?」
「リンクの上は、いつも通りに見えますよ。でも、やっぱり二度目のオリンピック出場は意識してるはずだと思います」
インタビュアーは頷いたまま、言葉を継ぐ。
「さすが鯱城選手、という感じですね。同じフィギュアスケート部の一人としても誇らしいでしょうし、オリンピックに向けて頑張ってほしいですよね」
「そりゃあ……」
そこで、不意に言葉が詰まった。
同じ部員として頑張って欲しい?
そんなの決まってる。当たり前だ。
けれど──それをそのまま口にした瞬間、自分の中の何かを手放す気がした。
”復帰組”
そう言われた時から、薄く、けれど確かに感じていた。
”君は正道のフィギュアスケート選手ではない”
そう言外にそう決めつけられているような感覚。
頑張って欲しい。応援している。
どちらも大事な言葉だ。そう言われて嬉しい人の方が多いだろう。
でも、それはどこか、自分では届かない場所へ”夢を託す側の言葉”でもある。
(頑張って”欲しい”じゃない)
少し戸惑ったようにこちらを見るインタビュアーに、悪気なんてない。
この人から見たら、俺は理依奈ちゃんと同じ部にいる、ただの部員の一人でしかない。
有名な選手でもない。
いま世間で広く知られるような実績があるわけでもない。
一部の人だけが知っている昔の栄光だけが、埃を被って残っているだけ。
それでも──俺だって、フィギュアスケーターだ。
オリンピックなんて縁がないと、無意識に決めつけられている。
その事に、ほんの僅かでも怒りを感じている自分がいる。
そんなプライドがまだ残っていることに、俺自身が驚いた。
「……一緒に、頑張るんです」
顔を上げる。
「俺だって、オリンピック目指してますから」
一瞬、場が止まった。
次の瞬間、カッと顔が熱くなるのを感じる。
完全に出しゃばった発言だった。インタビュアーはきょとんとして、場は変な空気になっている。
(は、恥ずかしい……)
我に返って、慌てて謝ろうと思った、その時。
「一旦止めて」
低い声が割って入った。
大きな手がカメラの前に翳され、ディレクターがずいっと前に出る。
何事かと固まる俺の目の前で、その強面が少しだけ屈み、視線の高さを合わせてきた。
「申し訳ない。うちのスタッフ、あまりスケートに詳しくなくてね。失礼な物言いをした……碧芽 葉くん」
「え?」
目を瞬かせる俺の背後で、インタビュアーが混乱した声を上げる。
「え、ディレクター……?」
「まったく。事前に渡していた部員リスト、ちゃんと目を通してなかったな……お前は後で俺のところ来い」
やれやれと手を額に当てながら、ディレクターがこちらを見る。
「ノービスの頃の君の演技、昔に見た事がある。個人的には、君が復帰してくれていて嬉しいよ」
笑いかけてくる顔は、思ったより愛嬌があった。
怒られると身構えていた肩の力が、少し抜ける。
「あ、ありがとうございます。知ってもらえてたなんて」
「この前の西日本学生選手権でも優勝してたね。懐かしい名前だったから、すぐ分かった」
外見に見合わずフィギュアスケートに詳しいのは、さすが業界の人間だからなのか。
「どうだろう。良かったら少し滑ってるところ撮らせてもらっていいかな」
「俺を、ですか?鯱城さんじゃなくて」
「彼女と同じ場所で頑張ってる部員の画も欲しいんだ。君なら申し分ない」
「……分かりました」
その程度なら、と頷きを返す。
促されるままにリンクに戻ると、曳ヶ谷が妙な顔でこちらを見ていた。
(そんな顔で見るなよ。俺だってなんでこんな事になってるのか、いまいち分かってない)
カメラを向けられる先で、ゆっくり氷に乗る。
先ほどの基礎練習の続きのように滑り出し、少しずつスピードを上げていく。
反復練習のように何本か流したところで、見ていたモニターからディレクターが顔を上げた。
「碧芽くん、ジャンプいける?」
投げかけられた声に、頷き返す。
リンクの上を大きく使いながら、さらに速度を乗せていく。
(何を跳ぼう。安全に3回転で流すかな)
そう思った瞬間、リンクの端にいる理依奈ちゃんと目が合った。
その口元がわずかに上がる。顎をしゃくる。
その意味はすぐ分かった。
(……半端な真似するな、ってことか)
すっと、腹の底が静まる。
ついさっき、カメラの前であんなことを言ったばかりだ。
その直後に、みっともなく手を抜けるはずもない。
加速。
景色が飛んでいき、顔に当たる風が強くなる。
氷の上を線が引き裂いていく。ブレードの下で、細かい粉雪が尾を引いて散る。
身を返し、エッジを倒す。
足首が沈んで、膝がしなる。
身体の芯が、一点に集まっていく。
次の瞬間。その溜め込んだものを一気に解き放った。
氷が鋭く鳴る。
世界が、ふっと軽くなる。リンクの音が遠のく。
空中を。どこを向いているかも分からない高速回転の中。
感覚だけが自分のいる位置を教えてくれる。
一、二、三──四。
着氷。
パッと、削られた氷が宙を舞った。鈍い衝撃の後、音が長く、硬く、リンクに伸びた。
まるでリンク全体が息を止めたみたいに静かだった。歓声はない。
けれども、目を見開いているディレクターと──悪戯が成功したみたいに笑う理依奈ちゃんの顔が、やけにくっきり見えた。
息を吐きながら戻ってくる途中で、遅れてもうひとつのの存在を思い出す。
リンクサイドのカメラ。
その赤いランプは、しっかりと点っていた。
さっきまで、ただの背景を写すように俺を撮っているだったはずなのに。
いま、そのレンズは──明確な意思を持つように、こちらを向き続けていた。
評価、コメント等変わらずありがとうございます!