氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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30 着氷の余韻

 

『オリンピアン密着映像で視線を奪った白髪の選手 “名前のない数秒”が大きな話題に』

 

ニュースアプリに紛れ込んだ一つのネット記事。

 

電車の中、名も知れぬ誰かがタイトルに惹かれて、記事をタップした。

 

◆

 

その日、昼下がりの大須スケートリンクはいつもより浮き足立っているようだった。

 

母親に連れられて司のレッスンにやってきたいのりは、リンクに足を踏み入れた瞬間、空気の違いに気づいた。

人が多い。混雑しているというほどではない。リンクの上にはほぼ普段通りの光景が広がっている。

 

しかし氷の上よりも、むしろ見学スペースやロビー寄りに人の気配が集まっている。

その視線が向く先が、いのりには妙に気になった。

 

「ここでたまに練習してるんだって」


 

「ねぇ、今日は来るのかな」


 

「白い髪の子でしょ?」


 

「四回転の映像、やばかったよね」


 

聞こえてくる言葉の断片で、それが葉を探しているのだとすぐに気がついた。

 

釣られるようにいのりはきょろ、と辺りを見回した。

葉の姿はない。今日の昼はここにいないはずだと知っているから、何故こんなに人がいるのか不思議だった。

 

「あ」

 

その代わりに見つけた大きな背中に、いのりは駆け寄っていく。

 

「司先生!」

 

ロビーで何かを準備していた司は、その声に振り返ると満面の笑みでいのりを迎えた。

 

「こんにちは、いのりさん!今日も笑顔が天才だね!」

 

「えへへ……あ!あの司先生、今日なんでこんなに人多いんですか?変なことでもあったんですか?」

 

そう言って周りに視線を向けるいのりに、司がああと苦笑した。

 

「変っていうか、ちょっとした反響みたいだね」

 

「はんきょう?」


 

「いのりさんは、昨日葉さんが映ったドキュメンタリー見た?」

 

そう言われて、いのりはぱっと顔を上げた。

 

「見てました!!理依奈ちゃんも凄かったですけど、葉くんが本当に凄くて!!」

 

昨夜、いのりは番組が始まってから終わるまで、画面に見入っていた。

鯱城理依奈という若きオリンピアンの次なる挑戦を映し出した、重厚なドキュメンタリー。

 

その途中、大学での練習に密着した映像に映り込んだ葉の姿は、脇役として見過ごすにはあまりに目を引いていた。

 

白い髪。氷の上でひどく幻想的に映るその姿。

繊細な見た目に反して、オリンピックを目指すと言い切ってみせる強さ。

そして、ブランクがあるとは思えないスケート技術。

 

何より、終盤に彼が魅せた四回転ジャンプ。

 

目が離せなかった。

ほんの僅かな時間だったのに、そこだけ画面の重さが変わった気がした。

演出とカメラワーク、そして葉自身の技術がぴたりと噛み合い、その瞬間だけ、画面のすべてをさらっていった。

 

「あれのお陰で、葉さんに注目が集まってるみたいなんだ。フィギュアを見てる人はもちろん、普段あまり詳しくない人たちも映像のインパクトで葉さんを見に来てるみたいでね」


 

「こういうの知ってます!ば……えっと、ばず……??」


 

「『バズってる』だね。瞳さんも同じ事言ってたな。葉さん、夜の貸切練習から来る予定だったけど、ちょうど良かったかもしれない。このタイミングで来たら騒ぎになっちゃうから」

 

司は朗らかに言ったが、その視線の先にはリンクの外で見学しに集まる人たちがいた。

葉本人がいない昼間の時間に、もう見に来る人がいる。予想していた以上の影響を、司は少しだけ気にしていた。

 

一方で、いのりの胸には、こんなにもたくさんの人が見に来ているのだという嬉しさが広がっていた。

髪が白いだとか、雰囲気が綺麗だとか、そういうことよりも氷上で魅せた力が人を動かしているはずだと。

 

「わたし嬉しいです!葉くんの凄さ、ちゃんとみんな見てくれたんだなって思って」


 

「そうだね」

 

司は頷いた。

 

「ま、注目されるのは悪いことじゃないよ。まだ、こ(・)の(・)程(・)度(・)な(・)ら(・)ね(・)」

 

最後のひとことだけ、少しだけ慎重な響きが混じった気がした。

いのりは一瞬だけ首をかしげたが、胸の弾む気持ちのほうが勝って、それ以上は気にしなかった。

 

「さぁ、葉さんも夜に来るけど、まずはいのりさんのレッスンからだよ!今日もよろしくね」

 

「はい!!」

 

そうして靴紐を締め直し、胸のどこかに弾むものを抱えたまま、いのりはレッスンの時間を迎えたのだった。

 

 

◆

 

 

そんな昼間のざわつきを知らないまま夜に大須リンクに姿を見せた葉は、すぐさま異変を身をもって知ることになった。

 

「葉さんだ!来たぞ!」


 

「有名人じゃん!サイン!サインちょうだい!」


 

「ジャンプすごかった!!」


 

姿を現した瞬間、わっと子どもたちが集まってきた。普段から比較的懐かれてはいる。

けれど、今夜の熱量は明らかに一段高い。やいのやいのと一斉に喋りかけられて、葉は思わず両手を上げる。

 

「ちょ、待て待て。一気に来るなって」

 

子供達の保護者の視線もいつも以上によく向けられている。

これがテレビ効果かと実感しながらどうにか子供達を捌いて一息つくと、葉の前へ待ってましたとばかりにいのりが飛び出してくる。

 

「葉くん!こんばんは!」

 

「今度はいのりちゃんか、こんばんは。どうしたの、スマホなんて持ってたっけ?」

 

「これ、お母さんのなの!」

 

手に持ったスマホの画面をいのりは葉に差し出してくる

 

「ねえねえ、これ見て!」


 

「……これ、なに」


 

「葉くんの切り抜き動画!いっぱい保存してて」


 

「嫌な予感しかしないんだけど」

 

画面に映し出されたのは、ドキュメンタリーで滑った映像の切り抜き動画だった。

助走。踏み切り。白い髪が照明を弾くように煌めいて、着氷までが格好良く撮影されている。

 

まるで自分じゃない人物を見るようで、葉は感心した様に頷く。

 

「改めて見るとテレビの人って流石映像のプロだよな。俺、めっちゃ格好良く撮ってもらってる」

 

そんな様子を露知らず、いのりは少し興奮したように動画の感想を話し続けている。

 

「ここのターンのところ、すごく綺麗!あ、このジャンプの動画も保存してて、こっちもお気に入りなの」


 

「いのりちゃん聞いてる?というか元々の映像少ないんだし、ほぼ同じじゃない?これ何本あるの?」


 

「いっぱいあるよ!」

 

悪びれもせず、いのりは次々スワイプして見せてくる。

スロー再生、テロップ入り、着氷直後で止めたものまである。

 

「いのりちゃん?保存しすぎだよ」


 

「だって!」

 

「だって、で押し切ろうとしないで」

 

「だってほんとにすごかったし、みんなびっくりしてたし、私もうれしかったんだもん」

 

一息で言い切られて、葉は苦笑するしかなかった。

このままだと延々に褒め殺しにされそうだった。

 

「……はいはい、ありがとう。俺、ちょっと練習の準備してくるから」

 

やや早口でそう言って、葉は区切るようにその場を離れた──が、逃げた先にも待ち構えている人間がいた。

 

「あ、葉さん!!」

 

司が満面の笑みでタブレットを掲げている。

直前まで見ていたらしい画面に映っているものに、葉は顔を引き攣らせた。

 

「まさか……司さんもですか」

 

構わずにこにこ顔の司はタブレットを葉の方へ向ける。

そこに再生されているのは、やはり散々見せられた例の四回転の場面だった。

 

「見たよ、葉さん〜!!これ会心の出来だったね!!GOE+5でも足りないよ!!」

 

「褒め過ぎです」

 

葉の言葉が聞こえないのか、司は興奮を抑えぬまま、動画を拡大して見せてくる。

 

「ほら、この踏み切り!足元が安定して成果が出てる!高さも出てるし、回転の軸がすぐに作れてて姿勢に余裕を感じるよ!!」

 

「分かりましたって、恥ずかしいなぁ、もう」

 

こうなったらしばらく収まらないかもしれない。

こう言う時は、ヘッドコーチの瞳が止めにくるのに……と葉がその姿を探すもどこにもいない。

諦めた様に葉は素直に褒め言葉を受け止めていたが、「そう言えば」と司が思い出したかの様にトーンを変えた。

 

「名古屋アイスフェスタの件、正式に声がかかったよ」

 

「……え?」

 

名古屋アイスフェスタ。

日本のトップ選手たちと、愛知県のノービスやジュニアの選手たちが共演する、地元のアイスショーだ。

いのりの姉、実叶が昔出演していたことを葉はぼんやりと思い出していた。

 

「もちろん番組の影響だけじゃないと思うけど、今の葉さんなら是非って話が来てる」

 

司はこともなげに言ったが、葉は少し困ったように眉を寄せた。

 

「いや、でも……ああいうのって、日本のトップ選手とか、もっと実績のある選手が出るイメージなんですけど」

 

「だからだよ。そこに呼ばれるってことは、それだけ葉さんが評価されてるってことだよ」

 

まっすぐ返されて、葉は一瞬言葉に詰まった。

 

「……光栄です。俺、出てみたいです」

 

満足そうに司は頷く。

 

「そうやって、少しずつ外からの評価も追いついてきてる。葉さん自身はまだ足りないって思ってるかもしれないけど、もう十分、その先を目指せるところにいる」

 

そして表情をやわらげたまま、司は自然な口調で続けた。

 

「オリンピックでだって、金メダルを目指せるよ。葉さん」

 

「え?」

 

あまりにするっと出てきたその言葉に、葉は思わず聞き返した。

司はタブレットから顔を上げ、当たり前みたいに言う。

 

「行くんでしょう。オリンピック」

 

その単語を聞きつけたのか、少し離れたところにいたいのりが、ぴたりと足を止めた。

葉と司のやり取りに引かれるように、そっと近くへ寄ってくる。

 

司はそんな彼女の気配にも気づいているのかいないのか、ただ静かに言葉を続ける。

 

「もし葉さんが本気でオリンピックを目指すなら、俺はコーチとして葉さんを金メダリストにしてみせるよ」

 

これは確認なのだ、と葉は思った。

持ち上げているだけではない。司の覚悟の籠った瞳は、葉の返事を待っている。

 

「はい」

 

葉は躊躇うことなく頷いた。

逆にその一言が、自分の中の最後の迷いをきれいに断ち切ったような気がした。

 

「……実は放送のあと、地元の母さんから連絡が来たんです。番組でああ言ってくれて、嬉しかったって」

 

幼い頃、スケート大会の帰り道であった交通事故。

重傷を負い、後遺症を残しながらも自分のスケートを応援してくれる母。

 

葉は少しだけ視線を落とす。

 

「どこか引け目を感じてたのは事実です。それに長いブランクのあった選手じゃ、もう間に合わないんじゃないかってどこか怖かった」

 

声は不思議と落ち着いていた。言ってしまえば、ずっと胸の奥にあったものだったからだ。

 

「でも」

 

小さく息を吸う。

 

「フィギュアスケーターとしての夢は、まだ誰かに託せない」

 

司が静かに聞いている。

いのりも、いつの間にかすぐそばで、葉を見上げていた。

 

「俺が叶えてみせます」

 

言い切ってから、葉はまっすぐに司を見た。

 

「俺が、オリンピックに行きます」

 

その一言に、司はゆっくり頷いた。

いのりは何も言わなかった。ただ、その横顔を見つめる目が、ひどく真剣だった。

 

いのりにとって、オリンピックの金メダルは大きな夢だった。母親になりたいと口にしたことはある。

けれど、スケートを始めてまだ一年の自分にとって、それはあまりにも遠い、輪郭のぼやけた光のようなものでもある。

 

だからこそ、葉が「行きます」と迷いなく言い切ったことが、ひどく眩しく見えた。

まだ届かないものを夢見るのではなく、そこへ向かう自分を、ちゃんと信じている声だった。

 

葉はそんな彼女の視線には気づかなかった。

 

「……あれ?」

 

代わりに気づいたのは、リンクの空気がいつの間にか静まっていたことだった。

 

さっきまで自由に騒いでいた子どもたちも、少し離れたところにいた保護者たちも、ほとんどみんながこちらを見ている。

 

「え」

 

一気に恥ずかしさが押し寄せる。

 

「……ちょっと、飲み物取ってきます」

 

ぺこりと頭を下げてそう言い残すと、視線から逃げるように、足早にロビーの方へ向かった。

 

 

◆

 

 

顔が熱い。思っていた以上に、ちゃんと皆に聞かれていたらしい。

 

「恥ずかしいなぁ、もう」

 

小さくこぼしながら顔を仰ぐ。

 

(変に注目されるのは得意じゃないのにな……)

 

ついでに少し外の冷気でも浴びてこようかと入口へ目をやって、葉は足を止めた。

 

ロビーの端で、リンクスタッフの社員が屈んで誰かに声をかけている。

壁際にしゃがみ込むようにしていたのは──

 

「……いるか?」

 

様子がおかしい。

 

バイトへ来たばかりなのか、帽子とマスクで顔の大半は隠れている。

それなのに遠目でも顔色も悪いとすぐ分かった。まるで、身体の芯だけがどこかへ抜け落ちてしまったみたいにぐったりしている。

 

「岡崎さん?大丈夫?聞こえる?」

 

顔見知りのリンクスタッフの呼びかけに、いるかは鈍く頷き返す。

その様子に思わず近くまで駆け寄ると、葉はかがみ込んだ。

 

「おい、大丈夫か?」

 

いるかは、ぼんやりと葉のほうを見た。

だが言葉を返さない。咳込みながら、鈍く反応を返すだけだ。

 

社員が携帯電話を取り出す。

 

「岡崎さん、今日は帰って休みなさい。碧芽くん、岡崎さんのご両親の連絡先って分かる?」

 

分からならかったら岡崎さんの書類探さないと、と事務室を見やる社員に、いるかが自分のスマホを差し出した。

震える手の中では電話帳にある連絡先が表示されている。

 

「ここに掛けて欲しいの?」

 

小さな頷き。

社員は一瞬迷ったがスマホを受け取ると、その場ですぐ発信した。

 

「もしもし、こちら大須スケートリンク事務室です。実は出勤した岡崎さんが今、声も出ないくらい体調を崩していて──」

 

連絡を受けてから、車が来るまでにそう時間はかからなかった。

 

アリーナの外へ滑り込んできた一台を見て、葉は少し意外に思う。

運転席から降りてきたのは、いるかの両親ではなく、コーチの五里だった。

 

大柄な体を揺らしながら、迷いなくまっすぐこちらへ歩いてくる。

五里コーチは、いるかの顔を見るなり短く息をつき、その肩を支えた。

 

傍に付いてきた葉へ気づくと穏やかに笑う。

 

「おう、君か。悪いな、驚かせただろ」

 

その声も、いるかを車へ乗せる手つきも、必要以上に慌ててはいなかった。

落ち着いている。どう対処するべきか、最初から分かっている人間の動きだった。

 

そのことが、かえって葉の胸をざわつかせる。

 

(珍しい事じゃないのか……?)

 

思わず、踏み込んだ言葉が口をつく。

 

「……いるか、何か持病でもあるんですか」

 

五里はただゆっくり首を横に振った。

 

「詳しくは言えない。でも、君が心配してるような持病じゃないよ」

 

その答えに、張っていたものが少しだけ緩む。

それでも、何も分からないまま引き下がれるほど、葉の心配は小さくなかった。

 

けれど、ここから先は自分が踏み込んでいい話ではない。

葉が言葉を飲み込んだのを見て、五里は小さく笑った。

 

「大丈夫、少し休めばすぐによくなる。ただ……こんなこと君に頼むのも筋違いかもしれんが、ひとつ頼みを聞いてくれないか」

 

「……なんでしょう?」

 

何を言われるのか読めず、葉は続きを待つ。

五里は一度、車の中のいるかを振り返ってから、改めて葉を見た。

 

「今度、すこしリンクの外に引っ張り出してやってくれないか」

 

「……え?」

 

意味を飲み込めず、葉は目を瞬かせた。

五里はそんな反応も承知の上で、静かな声のまま続ける。

 

「ここ最近、ちょっと張りつめすぎてるみたいでな。たまには氷のない場所で、少し息を抜かせたい」

 

そこで一度言葉を切り、わずかに困ったように目を細める。

 

「名古屋にいる年の近い連中の中じゃ、あいつは君にいちばん懐いてる。頼ってしまって悪いが……君の前なら、少しは肩の力も抜ける気がするんだ」

 

言われた意味を、葉はすぐには飲み込めなかった。

ただ、車の中でぐったりと座っているいるかの姿だけが、妙に目に焼きつく。

 

「……俺でいいなら」

 

「助かる」

 

五里は目を細め、短くうなずいた。

 

「無理に何かさせようって話じゃない。少し、外の空気を吸わせてやってくれ……頼んだぞ」




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