氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
港の方へ向かう電車の窓に、ぼんやりと自分の顔が映っている。
黒縁のメガネに、つばの深いキャップ。 変装なんて呼べるほど上等なものじゃない。
けれど、最近の様子を思えば、何もしないよりはマシだった。
「やっぱり、それダサい」
隣から飛んできた声に顔を向けると黒いマスクの向こうで、いるかがこっちを見ていた。
「悪かったな」
「だって似合ってないし」
手厳しい言葉に肩をすくめる。自分でも似合っていないのは分かっていた。
今日は、いるかと外に遊びに来ていた。
練習がオフの日に、どこか行かないかと俺から誘ったのだ。
(というか、遊びに出かけること自体久しぶりかも)
競技に復帰してから、生活の大半はリンクの上にあった。
大学に顔を出しても、出席確認だけ済ませてそのまま部活のリンクへ向かう。
オフの日だって、家で他の選手のスケートの動画を見て終わることがほとんどだ。
そんな俺が、わざわざ遊びに行こうとしている。
だから隣のいるかが、探るような目を向けてくるのも当然だった。
「なんで今日誘ったわけ?」
ぶっきらぼうな声は、けれど少しだけ掠れていた。
つい先日、いるかが体調を崩してバイトを早退した時のことが、まだ頭の隅に残っていた。
あの時、迎えに来た五里コーチの言葉も。
『ここ最近、色々あって少し気が滅入ってるみたいでな。たまには氷のない場所で、少し息を抜かせたい』
そう頼まれたのを思い出す。
『名古屋にいる年の近い連中の中じゃ、あいつは君にいちばん懐いてる。頼ってしまって悪いが……君の前なら、少しは肩の力も抜ける気がするんだ』
(懐いてる?こいつが?)
そんなことを思いながら、いるかの顔を見る。
怪訝そうに眉を寄せる彼女に、五里コーチの勘違いだろうと頭を振った。
「あんたから滅多に連絡しないくせに。なんで急にどっか行こうとか言い出すなんて変じゃん」
「そんなことないだろ。この間だって、バイトのあと心配で連絡したし」
「たまたまでしょ」
はぁ、とため息をつかれる。
「コーチの差し金?」
核心を突かれて、俺は一瞬言葉を止めた。
その反応だけで十分だったのだろう。いるかは呆れたみたいに眉を寄せる。
「やっぱり」
「……半分はそうだよ」
「半分?」
「確かに五里コーチにも言われた。でも、もう半分は俺がいるかのことが心配だったから。誘いたくて誘ったんだ」
いるかの目がわずかに見開かれる。 マスク越しでも、口の形が「は?」になったのが分かった。
「きも」
「ひどい、大事な後輩の心配しちゃダメなのかよ」
「んん……大げさ」
喉の調子が悪いのか、言葉に引っかかりながら、いるかはふいと顔を背けた。
「いいだろ。お互い、少しくらい気晴らしが必要そうだったし」
俺がそう言うと、いるかは返事の代わりに小さく鼻を鳴らした。
会話するうちに、目的地である名古屋港水族館が見えてきた。
誘った時、いるかが「魚が見に行きたい」と指定した場所だ。
水族館へ向かう人の流れに混じって歩いていると、入口が見える頃にはちらちらと視線が増えてくる。
途中、すれ違いざまに誰かの目が一瞬こちらを向く。
時折、こそこそ話す声まで耳に入ってくる。
「バレてんじゃん。その変装」
「気のせいだろ」
「そんなわけないでしょ」
いるかが半目で言う。
「ほんと見られるようになったし、有名人は大変だね」
「……そうだな」
あのドキュメンタリーの後、俺は少し有名人になった。
白い髪のフィギュアスケーターという見た目が、物珍しかったのか取材の依頼も増えた。
インタビュー、写真撮影の打診。スポンサーがついている以上、全部を断るわけにもいかない。
もちろん、応援してくれる声もある。 けれど、好意だけが増えたわけじゃなかった。
《顔だけじゃん》
《成績が伴ってないのに持ち上げすぎ》
《売り出し方が露骨》
そういう声は、ネットにいくらでもある。 そういう文字を見るたびじわじわ心が傷つくのを感じた。
「なんか疲れてない?」
いるかが唐突に言った。
反射で「別に」と返しかけて、やめる。
「……まあ、ちょっとな」
そんな弱音が口から落ちたことが、自分でも少し意外だった。
いるかただ俺を見て、それから前を向いて口を開く。
「あんなの、勝手に見てくるだけ。気にするだけ無駄無駄」
言い方はぶっきらぼうだった。けれど、その一言だけで、少しだけ肩の力が抜けた。
入館ゲートを抜けると、目の前に真っ青な水槽が広がっていた。久しぶりに訪れた薄暗い館内に気分が高揚しつつ、案内板をじっと見る。
「どこから回る?」
「順序通り適当に。最後、イルカのとこ行く」
簡潔にそう言ってずんずん歩いていく背中を追いながら、変わらない姿に小さく笑った。
薄暗い館内は水槽の光だけが道を照らしていて、人の顔は影に溶ける。クラゲが漂い、魚が流れていく空間は穏やかで心地いい。
「そういえば」
いるかが前を向いたままぽつりと言った。
「なんでオリンピック目指すって話、私に教えてくれなかったわけ?」
「あ」
言われて思い出す。まだノービスだった頃、いるかと実叶ちゃん、そして俺。
『いつか、三人でオリンピックの金メダルを獲る』
同じクラブにいた頃に交わした、他愛もない子供らしい約束の1つ。
実叶ちゃん含めて交わしたそれは、彼女にとって大切な思い出なのだ。
「テレビで見るまで、私何も知らなかったんだけど」
だからだろう。俺がオリンピック目指すと一言も言わなかったのが気に食わないらしい。
肩越しに不機嫌そうな眼差しがこっちに向けられる。
「あ、いや、あれはなんて言うか……言うタイミングなかったんだよ」
「嘘つけ」
「いや、ほんとに」
「なんで理依奈さんが知ってて、私だけ後なんだよ。なんだかんだ長い付き合いだろ」
不満そうなその言葉に軽く頭を下げる。
「悪かったよ。ほんとに」
「悪いと思ってるなら、最初に言え」
「死んでも次は最初に言うよ」
「ほんと?なんか適当言ってない?」
「悪かったって。今日はいつも以上に突っかかってくるな……なんだよ、拗ねてるのか?」
そう言うと、いるかは少しだけ目を細めて、小さく鼻で笑った。
「調子乗んな、ばか」
◆
昼食。フードコートを避けて入ったレストランには、外の港の光がよく入った。
店内にある大型の水槽を横目に、テーブルの上にはいわゆる“水族館っぽい”メニューが並んでいる。
「……それ、なに頼んだんだっけ?」
俺が尋ねると、いるかが包み紙に包まれたハンバーガーをしげしげと眺めた。
その顔にあるマスクは顎まで下ろしている。
「シャークバーガー」
「シャークバーガー……サメ?」
「白身っぽい感じ。美味い」
「いるかはなんでも食べられそうだな」
はぐはぐとハンバーガーを食べるいるかが、目だけで抗議する様にこちらを見てくる。
「ゲテモノ食べてるあんたに言われたくない。なにそれ?」
「え、ワニのコンフィ」
目の前のプレートに乗っているのは、小さいながらも立派なワニの手。
メニューのインパクトに惹かれてつい頼んでしまった。コンフィなだけあって肉はとても柔らかい。
「頭大丈夫?」
「ワニだぞ、頼むでしょ」
「やばいでしょ」
「でも、こういうの嫌いじゃないだろお前。一口いる?」
「……いる」
差し出されたワニの肉を、いるかは少し躊躇したように見ていた。
が、覚悟を決めたのか、えいやと一口に食べ切る。
「美味い?」
「ん。……鶏肉っぽい。悪くないかな」
「だろ?」
少し緩んだいるかの顔を見ながら、食べ進める。
水槽の中を泳ぐ小さな魚を時折見ながら、久しぶりにスケート以外のことでゆっくり出来ている気がする。
(こうして人と向かい合ってゆっくり飯を食うのも、なんだかんだ久しぶりかも)
スケートの話をしていない時間なんて、最近はほとんどなかった。
綺麗に空になった皿を前にそう思った時だった。
ふと近くの席から、ひそひそとした声が続いているのに気がついた。
「ね、やっぱそうじゃない?」
「マジで?え、やば……」
視線が合った瞬間、女の子二人組の片方が慌てたように目を逸らした。
そのテーブルの上のスマホが、こちらに向いている。
向いている、というより──さっきからずっと、こっちを撮っていたらしい。
俺がそれを理解するより先に、向かいのいるかがぴたりと動きを止めた。
「おい」
低い声だった。女の子たちの肩がびくっと揺れる。
いるかは背もたれから体を起こし、真っ直ぐそのスマホを見た。
「今、撮ってただろ」
掠れているのに、声だけが妙に鋭い。
「いや、あの碧芽さん、ですよね?私たち応援してて」
「だから?」
いるかの眉がぴくりと動いた。
「応援してたら盗撮していいわけ?」
「別に変なふうに使うつもりじゃないし……ただ記念っていうか」
「記念?」
その一言だけで、空気が冷える。
「飯食ってるとこ勝手に撮っといて?」
「だって有名なんだし、それくらい――」
そこで、俺は口を開いた。
「応援はありがたいです」
二人の視線が、いるかから俺に移る。
「でも、勝手に撮るのはやめてもらえますか。今日はプライベートで来てるし、連れもいるので困ります」
できるだけ落ち着いて言ったつもりだった。 けれど二人は顔を見合わせ、まだ納得しきっていない顔をしている。
「……でも、ちょっとくらいならよくないですか?SNSとか上げないし」
「そういう問題じゃないだろ」
いるかが即座に刺す。
「本人が嫌だって言ってんの。聞こえた?」
「なんでそんな言い方――」
「消せ」
短い一言だった。
「今ここで。すぐ消せ」
張り詰めた空気の中、片方が慌ててスマホを操作する。
削除画面を確認してから、ようやく俺は息を吐く。
「ありがとうございます」
二人は居心地悪そうに立ち上がり、小さく頭を下げて去っていった。
「最悪」
いるかが吐き捨てるように言う。
その背中を見送っても、しばらく店の空気は元に戻らなかった。
さっきまで、ただ変なメニューで笑っていただけの時間が、ひどく遠くなっている。
「行くか」
そう言うと、いるかは無言で立ち上がった。 椅子を引く動作にも、苛立ちがまだ滲んでいる。
レジを済ませて外に出ても、いるかは一度も俺の方を見なかった。
◆
レストランから水族館に戻っても、いるかは歩みを止めなかった。
人の流れを縫うように進む背中には迷いがない。向かう先が決まっているみたいだった。
「いるか」
呼びかけても返事はない。
そのまま少し歩いて辿り着いたのは、巨大な水槽のあるエリアだった。 ガラスの向こうで、重い水の塊が静かに揺れている。薄暗い空間の中で、光だけが青く滲んでいた。
ここが目的地らしい。
いるかは迷いなく水槽の前まで進み、そこでようやく足を止めた。
水槽には一頭のイルカが、ゆっくり弧を描いて泳いでいく。
彼女の瞳はじっと、水槽を泳ぐイルカだけを写している。
俺が隣に立っても、いるかはしばらく黙ったまま、水槽の中だけを見ていた。
「……さっきみたいなの、葉は平気なわけ?」
やがて、低い声が落ちる。
イルカがものすごい速さで水槽を横切っていく。 ようやく口を開いてくれた言葉に、俺は小さく首を振った。
「別に平気じゃないよ」
そう言って、水槽前の階段に腰を下ろす。 横を軽く叩くと、いるかは何も言わずに隣へ座った。
「勝手に撮られるのも嫌だし、珍しいもの見るみたいな目で見られるのも、正直しんどい」
「じゃあ、なんであんなのにまで気を遣うわけ」
棘のある声だった。
怒っているのは、さっきの二人に対してだけじゃない。 ああいう相手にまで礼を言って、感情を飲み込もうとした俺にも腹を立てているのだと分かった。
「気を遣ったっていうか……」
ガラスの向こうを泳ぐイルカを目で追いながら、息を吐く。
「応援してくれてる人がいるのは、やっぱり嬉しいんだよ。そういうのまで、まとめて嫌いにはなりたくないし」
「盗撮してくる奴まで?」
「それは嫌だよ。いるかが言ってくれなかったら、俺から止めてた」
そこで一度、言葉を切る。 水中から飛び上がったイルカが、数瞬後、泡と共に着水した。近くの子どもたちがわっと声を上げる。
ガラス越しに広がった白い気泡が、水槽いっぱいに散っていく。
「ただ、まぁ」
その泡を見ながら、続ける。
「ただの流行りのキャラクターみたいに扱われるのは、嫌なんだよな。俺のこと、別によく知らないだろうに」
口にした途端、胸の奥の重さが少しだけ形を持った。 勝手に面白がられて、勝手に期待されて、勝手に値踏みされる。正直ストレスだ。
「だからさ」
泡がほどけていくのを見ながら、俺は言った。
「俺のスケートで、そういう人も本当に俺のこと好きになってもらいたいと思って」
言ってから、少しだけ息を吸う。
「外見でも、話題性でも、入口は何でもいい。でも、そこで終わるのは嫌なんだ。ちゃんと滑りを見て、好きになってもらいたい」
それに、と続ける。
「いるかなら、そうするかなって」
しばらく返事はなかった。 青い光が、いるかの横顔を淡く照らしている。やがて、彼女が水槽を見たまま口を開いた。
「……ずるいね」
「え?」
「ちゃんと好きにさせたい、とか。見方を変えたい、とか」
掠れた声は低かった。 怒っているようにも聞こえるのに、その奥に噛み殺したものが混じっている。
「葉は、腹立ってもどっか冷静で、ちゃんと次どうするか考えてる」
そこで言葉が途切れる。 水槽の向こうで、イルカがゆっくり旋回した。
「でも、私はああいうの見てるとめっちゃ腹立つ」
短く息を吐く。
「人のこと、好き勝手決めつけて、自分の都合で押しつけてくるの、ほんと無理」
その言い方は、さっきの盗撮相手だけに向けるには少しだけ重すぎた。
「放っとけばいいって分かってるのに、いちいち引っかかるし……そんなのに振り回されてる自分が、一番だるい」
俺はすぐには返さなかった。 青い水の向こうを大きな影がゆっくり横切っていくのを見てから、静かに言う。
「それ、さっきの2人だけの話じゃないだろ……なんかあった?」
いるかの肩が、ほんのわずかに強張る。
「……家でも、似たようなもんだから」
思わず視線を向ける。けれど、いるかは水槽を見たままだ。
「ちょっと勝ったくらいじゃ足りない、もっと上見ろって。どうせまた誰かと比べて、なんでできないのって言うし……こっちが具合悪くてもお構いなし」
掠れた声は低くて、妙に平坦だった。 怒っているというより、何度も同じものを飲み込んできた声だった。
「私がどこまでやってきたかとか、何考えて滑ってるかとか、あの人ら別に見てないんだよ」
そこで一度言葉を切ってから、少し苦そうに付け足す。
「結局、自分が外で自慢できる娘ならいいだけ」
”あの人ら”というのが、いるかの両親の話なのはなんとなく察しがついた。
自分でも少し言いすぎたと思ったのか、いるかは小さく息を吐いた。
「……なのに、いちいち腹立つのがだるい。今さらまともに受け取るだけ無駄だって、分かってるのに」
俺は少しだけ迷ってから、短く返した。
「そっか」
それだけしか言わなかった。水槽の中を泳ぐイルカを見たまま続ける。
「そういうのは、一人で抱え込むなよ」
少し間を置いてから、言葉を重ねた。
「人って、そんな強くできてないし、助けてくれる人は多い方がいい……俺も、フィギュアに復帰する時にそう思った」
それから、いつもより少しだけ真面目な声で言う。
「だから、愚痴でも八つ当たりでもいい。辛くなったら、俺にも電話しろ。いくらでも聞いてやるから」
その言葉が落ちたあと、しばらく、青い水みたいな静けさが続いた。 やがて、いるかが小さく息を吐く。
「……また軽く言っちゃって」
「軽くないって」
「どうだか」
ぶっきらぼうな言い方だった。 でも、さっきまでみたいな刺々しさは少し薄れていた。
少し間が空く。 水槽の向こうで、二頭のイルカが同じ軌道をなぞるように泳いでいく。
いるかはその背をしばらく目で追ってから、ぽつりと言った。
「……さっきの話」
「ん?」
「滑りを見て、ちゃんと好きになってもらいたいって言ってたじゃん」
俺は少しだけ目を瞬く。 さっきまで自分のことを話していたくせに、いるかはもう何事もなかったみたいな顔で、水槽の方を見たままだった。
「話題性とか外見とか、そんなので寄ってきた奴らも」
マスクの奥で、少しだけ口元を尖らせる。
「ちゃんと、葉の滑りしか見えなくしてやってよ」
一拍置いて、吐き捨てるみたいに付け足す。
「話題性とか外見とか、そんなの全部どうでもよくなるくらい」
その言い方が、さっきまでとは少し違って聞こえた。いるかの声には、ようやく少しだけ熱が戻っていた。
こちらを挑発するような、発破をかけるようないつもの声色。俺は思わず笑ってしまう。
「元からそのつもりだよ」
本当に全部ひっくり返せる保証なんてどこにもない。
まだフィギュアスケート選手として演技を認めてもらえた訳じゃない。
けれど、いるかの発破はいつだって俺の背中を押してくれる。それだけでやる気が出る気がした。
と、その時──服の裾を、くいっと小さく引かれる。
振り返ると、小学校低学年くらいの女の子が、すぐ後ろに立っていた。
少し離れたところでは、その母親らしい女性がこちらに気づいて、慌てたように足を止めている。
水槽の光を受けて、女の子の丸い目だけがきらきらしていた。
「あのね、テレビでおにいちゃんみたよ」
小さな声でそう言って、女の子は少しだけ息を吸う。
「ジャンプ、すごいきれいだった。またみせてね!」
それだけ伝えたかったのか、返事をするより早く女の子は照れたみたいにくるりと踵を返した。
母親のところへ駆け戻って、そのまま小さく手を振る。
母親が申し訳なさそうに会釈して、二人は人の流れの中へ紛れていった。
その背中を見送りながら、俺は胸の奥から不安が少し剥がれた気がした。
滑りを見てくれた小さな観客が、ちゃんといた。
それだけで、今日のところは少し救われた気がする。
「あんな小さい子も応援してくれてるんだし、頑張らないとな」
「……もっと小さい頃から応援してたんだけどな」
隣で、いるかがぼそっと言った。
「ごめん聞き逃した。何て言った?」
「別に」
いるかは立ち上がる。 青い光がその背中をかすめて、すぐに離れた。
「ねぇ……ほんとに、電話していいわけ?」
少しだけ間を置いて訊かれたその言い方が、妙に慎重で、俺は変に笑いそうになる。
「当たり前だろ。愚痴でも文句でも、いくらでも聞くよ」
「軽い。でも……ありがと」
そう言うと、いるかは少しだけ黙って、それからマスクを指先で直した。
かすれた声だった。
でも、それがちゃんと本音だってことくらいは分かる。
「どういたしまして」
俺も立ち上がって、水槽を一度だけ振り返る。
さっき弾けた泡は、もうどこにも残っていない。何事もなかったみたいに、青い水だけが静かに揺れていた。
帰り道。 目の奥には無遠慮に向けられた好奇の視線が残っていて、胸の重さもなくなったわけじゃなかった。
それでも、さっきよりは少しだけ呼吸がしやすい。水槽の青が優しく照らしてくれているような気がした。
◆
その夜。
どこかの部屋で、キーボードの音だけが淡々と鳴っていた。
画面の向こうに並ぶのは、古い大会写真と、当時の記事の断片。 葉の写真。見出し案。煽り文。
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”元天才”、”交通事故”、”悲劇の過去に迫る”
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