氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
シゴォ──ッ……
「フィギュア滑る子なんて、こっちじゃ珍しいねぇ」
7年前──北海道のとあるスケートリンク。受付に腰掛けた老年の女性が、ぽつりと呟いた。
まばらな一般客の中で、氷上を舞うその少年の姿は目を引いた。小学生か、中学生に上がったばかりか──幼さを残す細い身体で、氷上を流れるように滑っていく。
その動きは、成熟していないはずの体に不釣り合いなほど洗練されていた。まるで、氷の上を浮いているように見えるほどに。
「アイスホッケーかスピードスケートばっかりやってる
「名古屋から越してきたらしいよ。聞いた話だと」
受付の横に立つ常連の中年男性が言うと、女性は「やっぱりね」と頷いた。
「それでかい。見ない子だとは思ったんだよ」
常連客の言葉に相槌を返しながら、視線は自然と小さな姿を追ってしまう。
華があると言えばいいのだろうか、リンクの片隅で滑っているだけなのに、周囲の視線を自然と引き寄せる。
不思議な存在感だった。まるでスポットライトの下に立っているかのように、そこだけが浮かび上がって見える。
「それにしても、指導者もいないのに、なんであんなに滑れるんだろうね……」
「……本当にそうだな。普通なら、誰かに見てもらわなきゃ身につかないような動きばっかりだ。見よう見まねにしては精度が高すぎる……」
ふと、リンクを滑っていた少年が、ターンの後に身体の傾きを確認するようにエッジを踏み直した。
その姿は、まるで"誰かに見せているつもりで"滑っているかのようだった。
「ねえ、あの子、時々立ち止まって、スマホで何か見てるでしょ?」
「滑りの動画らしいよ。自分の?それとも、有名選手の模倣かね」
「真似してるんだとしても、あんなに再現できるのかい……」
確かに少年の動きには、洗練された何かの“型”が感じられる──けれど、わずかに癖のあるステップのつなぎ、ジャンプ直前の準備動作のぎこちなさなどに、成長する体と技術が噛み合っていないかのような"粗さ"が垣間見えた。
まるで、正解のない道を一人で模索しながら、遠くにある理想を必死に掴もうとしているような──そんな滑り。
「でもね、あの子……いつもひとりで来るんだよ。お母さんらしき人も見かけたことがないし。最近じゃ、髪がどんどん白くなってきてて……ちょっと、心配でねぇ。家庭の事情とか……あるんじゃないかって」
「……ああ。あの子、事故でお父さんを亡くしたって、聞いたよ」
「……そうなのかい」
小さな背中を見つめる視線に、自然と静けさが宿る。
「お母さんも重傷だったらしい。画家だったけど、両腕に麻痺が残って、実家のあるこっちに引っ越してきたって」
「……そりゃあ、色々あっただろうねぇ」
スーッ、と少年がリンクの中央を横切る。滑りに迷いはない。心の奥に何があったとしても、それを一切感じさせない静謐な美しさ。
むしろ、悲しみを吸い込んでなお光るような──そんな滑りだった。
けれど、滑るたびに、その背中は少しずつ寂しげになっていく。
そして──その髪が、雪のように真っ白に染まったのはそれから間もなくのことだった。
◆
「はぁ?スガキヤ来てクリームぜんざい頼まないとか正気か!?てかなんで、ラーメンじゃなくてたこ焼き食ってんだよ」
「俺、あの三又スプーン苦手なんだよ。というか、ラーメンの後にソフトクリームってどうなのよ?」
「はぁ、碧芽……お前にはがっかりだよ、しょっぱいと甘いの至高の組み合わせ知らねえとか情弱か」
大学の友人がそう言ってソフトクリームを頬張る横で、俺は苦笑しながらジンジャーエールを啜る。
ここは名古屋市内にある大型ショッピングモールのフードコート。アルバイトもない平日の大学帰り、珍しく軽く遊ぼうかということで友人と訪れていた。
服を見たり、ゲームセンターで遊んだり……少し前の自分なら、こんな大学生らしい時間を過ごすなんて想像もしなかった。
「まぁ、碧芽って北海道からこっち来てんだっけ?なら仕方ないか……もうこっち慣れた?」
「生まれは
「お袋の味みたいなもんかぁ、いいなぁ。北海道ではなに好きだったの?」
「セイコーマートのお惣菜かなぁ」
「……お前んちのばあちゃん、泣いてるぞ」
お前……あのフライドチキンやおにぎり食べた事ないから、そんな事を言えるんだ、と思いながら北海道での暮らしを少し思い出す。
人口が少ない過疎地域にいたから誰かと遊ぶ機会なんてあまりなかった。
なにせ同世代の友達が本当に少なかったし、中学校なんて小学生と一緒で確か全部で20人くらいだった。
そんな雑談しながら、過ごしていると友人がふと思い出したように顔を上げた。
「これ食い終わったらどこ行こうかと思ってたけどよー、ここの隣にスケートリンクあるよな?」
言われて思い出すのは、ここを訪れる時に見かけた隣の大きな施設。
このショッピングモールは、珍しいことにスケートリンクが併設されていたはずだ。
「ああ……確かにあったな」
「ちょっと行こうぜ。次どこ行くか迷ってたけど滑ってみたいわ」
「ええ」
「ダメ?お前、スケートリンクでバイトしてるくらいだから、滑れるでしょ?初心者にも教えてよ」
……そうだった。こいつにはバイト先の話を軽くしたことがある。
過去、フィギュアスケート選手だったことは周りに話していないが、バイトのことくらいいいだろうと伝えたのは失敗だっただろうか。
「別にいいけど。転んでも知らないぞ?」
やれやれと肩をすくめながら、席を立つ。
スケートリンクへ向かう途中、ふと目に入ったポスターは2ヶ月後にある大会の名前が大きく記載されていた。
──"名港杯"
最近、少し雑談する様になった司さんといのりちゃんからその名前は聞いていた。いのりちゃんが直近の目標にしている大会。
フィギュアスケートの初級からエントリー可能な、地方大会。
彼女はあそこで優勝して、大人に応援してもらえるよう才能を示したいらしい。
『わたしが本気で滑ってるって。凄い選手になれるかもって、お母さんにも期待してほしいんです』
そう語っていた小さな背中が、やけに大きく見えた。
(そういや俺も……)
──あの大会、出ないか誘われたんだった。
あの後も、司さんはまだ本気で誘ってくれた。
ノービス時代に取得したバッチテストは7級。
出場するだけならどの大会でもシニアの枠で出場できる。
けど、6年間も競技から離れていた人間が、どこまでやれるのか。正直、今の演技じゃ現役選手に勝つことは難しいだろうと思う。
(それに、俺は大会は……)
少し気を重くしながら訪れたスケートリンクは、平日の夕方前にしては空いていた。
いくつかのクラブの練習もここでしているだろうし、もう少し混んでいるかと思っていたのに予想外のことだった。
「それじゃあ!お前の滑りも拝見させてもらおうか」
「期待されるほどのもんじゃないよ」
そう言いながら、スケート靴を借りてリンクへと足を運ぶ。
大股でずんずん進む友人を心配していたが、氷の上での一歩目で思いきり転んで、「痛ぇ!」と叫んでいた。
「おーい! うわっ、ちょ、待って! 止まり方教えてってば!」
友人がよろよろとリンクで立ちあがるやいなや、スルスルと流されるように進んでいく。
転ばないように手を広げ、氷に置いた足を滑らせるたびに大騒ぎ。
仕方なしに助けに行くと、ぶーぶーと文句が飛んできた。
「なんでお前はそんなに滑るのがうまいんだよ!」
「慣れだよ。最初は誰でもそう。お前だってそのうち出来る様になるって」
立たせながらコツを教える。ブレードのどこに重心を乗せるか。足はどう使うか。
とは言え、初心者には難しい。普段使わない筋肉を酷使した結果、友人はすぐに息が上がり、リンクから上がっていった。
「し、信じられねえほど筋肉がプルプルする……ちょっと休憩してくる!……もうお前、1人で滑ってこい!」
(こういう時、一人だと寂しいんだよな……)
言うなれば一人で海水浴に行っている様な心細さがある。
周りはカップルや親子がほとんどで、和気藹々と滑っている中で1人というのは些か寂しい。
とはいえ突っ立ってるだけなのもあれなので、俺は少しだけリンクの中央へと滑り出した。
背筋を伸ばし、最初はゆったりと滑っていただけだったが、少しだけスピードを乗せて、ステップを刻む。
カウンター、ロッカー、ブランケット──氷を撫でるように刻まれるライン。静かな氷面に、俺だけの軌跡が残っていく。
ジャンプはしない。あくまで控えめにゆったりとクロスを踏んでいく。
それだけでも──やっぱり楽しい。
抑えながら滑ったが、それでも目立っていたのか、何人かがリンクサイドからこちらを見ていた。
子ども連れの家族の前を滑ると、手を叩いている子どももいる。
(……少しはしゃぎすぎたか)
少し恥ずかしい。周りの視線に気づき、スピードを緩めたときだった。
「まさかとは思ったけど、やっぱり……スケート辞めちゃった天才さまじゃん」
不意にかけられた皮肉混じりの声に振り返ると、睨みつけるような鋭い視線が突き刺さった。
肩まで伸びた黒髪に、不機嫌そうな冷たい目。高校生くらいの少女が、俺の前に立っていた。
かすかに残る幼い頃の面影に俺は口を開く。
あの頃の、リンクで一緒に練習していたクラブメイトの女の子。熱心で、よく実叶ちゃんと、俺の後ろをついて滑っていた──
「……いるか?」
「そ。岡崎いるか。忘れてた?……まあ、そんなチャラついた白髪頭になってたら、私のことも忘れて当然か」
少し口元を歪める彼女に、俺はなんとか笑顔を浮かべる。
「そんなことないよ。びっくりしたけど、ちゃんと分かったよ。いるか……ずいぶん大きくなったな。前はこんなに──」
「うっざ。年寄りみたいなこと言わないでくれる?」
懐かしさで緩んだ笑みが、一瞬で固まる。
その口ぶりは、あの頃の素直で無邪気だったいるかとはまるで別人だった。
昔はまだ可愛げがあったはずなのに……実叶ちゃんや俺のジャンプを見て凄い凄い言ってたいるかはどこへ行ったのか。
久々の再会を素直に喜んでいたのは、どうやら俺だけのようで目の前の彼女はだいぶ機嫌が悪そうだった。
「あんた、いつ名古屋に来てたわけ?競技復帰したの?」
「……いや、してない。今は、趣味で少し滑ってるだけだよ」
「──は?」
一瞬、静かだった。けれど、そのあとにくる言葉には明らかに棘があった。
「……"趣味"? 何それ、冗談?」
鋭く細められた目に、苛立ちが露わになる。
「……そっか。天才さまはやっぱり、もうスケートなんてどうでもよくなっちゃったんだ」
「いや、そんなわけないだろ。俺は、今もスケートが好きだよ」
「なら趣味……って。あんた、自分がどんな選手だったか、わかってる?」
めらりと眼差しの中に怒りが燃え上がったようだった。
その言葉に、思わず言葉を詰まらせた。
「ねえ、知ってた? あんたがいなくなった後、クラブじゃみんな騒いでたんだよ。"あの碧芽葉が突然辞めた""なんで?"って。理由も言わないで──ある日、ぱったりいなくなってさ」
胸の奥が、ずきりと痛む。
「……ごめん。俺にも、色々あって──」
「"色々"って何? 何も言わずに、スケートもクラブも全部放り出して消えるようにいなくなるのが"色々"? ふざけんなよ……!!」
だんだんと彼女の声音は熱を帯びていく。目の奥に、怒りと──戸惑いのようなものが混じっていた。
「私、ずっと待ってたんだよ。"また一緒に滑ろう"なんて言うから。いつかあんたが戻ってくるって、何か事情があったんだろうけど、そのうちまたリンクに立つって──そう思ってたのに」
吐き捨てるように続けるその声が、微かに震えているのに気づいた。
「でも、久しぶりに会ったあんたは"趣味で滑ってるだけ"だって……最悪っ!!」
俺は、何も言えなかった。
「昔のあんたはさ、本気だった。毎日リンクの誰よりも早く来て、遅くまで一番練習して、誰も届かないようなジャンプ跳んで……あれだけ輝いてたのに──なんで、その"あんた"を捨てたの?」
怒気は頂点に達していた。けれどその怒りは、どこかで迷い、喪失感に似たなにかに変わっていった。
「……今のあんた、滑りは相変わらず綺麗。でも"本気"がない。本気だったはずの人が、なんとなく滑ってるだけって、見てるだけでムカつくんだよ……!」
目を伏せたその顔に、あの頃の小さないるかの面影が残っていた。
「いや、違う。なんとなく滑ってる事なんて……」
「違うって言うなら……証明してみせろよ。昔の碧芽葉が、まだ氷の上にいるってことを──!」
刺すような言葉が続く。
「出来ないなら、リンクに上がるな!!」
怒鳴るように言い放ち、肩で息をする彼女の瞳に、怒りと──悲しみが滲んでいた。
理不尽な物言いだ、と咄嗟に反論したくなる自分がいた。
けれどその強い言葉の裏に、ずっと言えずにいた感情を押し込めてきたんだろうということが、彼女の目を見れば分かってしまって──何も言えなかった。
──"証明"。その言葉が、胸の奥に刺さる。
逃げていたつもりなんてなかった。
スケートは、今でも好きで。日々の生活の中で、リンクに立てるだけでありがたいと思っていた。
でも──あれだけ強く言われてなお、何も返せなかったのは、心のどこかで、自分でも"何か"から目を逸らしていた自覚があったからだろう。
(でも、どうすればいい?)
彼女に、"今の自分が本気だ"と伝えるには、何をすればいい。
──見せるしかない。言葉じゃなく、滑りで。
"名港杯"
司さんに、何度か出てみないかと声をかけられた大会の名前が頭をよぎった。
いのりちゃんも目標にしている大会。エントリーするだけなら、過去のバッジテストの級で問題ない。
リンクに戻ってからずっと避けてきた「正式な舞台」。
だけど──
(あそこで滑れば、"証明"になるのか……?)
考えるほどに、心の奥がざわつく。
そうだ、もし今の自分に"証明"出来るものがあるとしたら、それはあの場しかない。
不特定多数の目に晒される場所。かつて、自分が消えたその"続きを見せる場所"。
(……でも、)
思考が一気に引き戻される。
フィギュアスケートの大会──それは、自分にとって"あの事故"の記憶と地続きのものだった。
あの日の大会帰りに、俺は父を亡くし、画家だった母は麻痺を抱えて夢を諦めた。
俺の白くなった髪は、あの日の記憶の残り火のように、今も生々しく残っている。
(……フィギュアスケートが、全部のきっかけだった)
自分の夢を追いかけていたその結果が、家族を巻き込み、傷つけた。
本当に、またあの場所に……競技の舞台に、立っていいのか?
──そんな資格、自分にあるのか?
胸の奥にずっと沈めていた問いが、急に浮上してくる。
あの頃、何もできなかった自分。
戻れない時間。償えない痛み。
それが怖くて、結局、俺は──
「……」
なにも言葉にできなかった。
「……は。ははは。まあ、そうだと思ったよ。口だけの人には、もう何も期待しないから」
その言葉を残して、いるかは背を向けた。
ゆっくりと遠ざかっていくその背中に、呼び止めたい衝動が一瞬だけ湧いた。
でも、声は喉の奥で掠れて消えた。
──氷の上で、証明する舞台は示されている。
でも、まだ答えは見えてこない。
氷の上には──ただ、沈黙だけが残っている。
※いるかの練習場所は、捏造設定です。
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