氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
リンクの監視バイト中。いるかの言葉が、何度も、何度も、頭の中で反響していた。
──『今のあんた、滑りは相変わらず綺麗。でも、"本気"がない』
あの言葉が、氷の上に染みるように残っている。
静かに、鋭く、胸の奥を突いてくる。
時間が経つほどに、その言葉の輪郭はより鮮明になっていった。耳元で何度も囁かれているような、妙な圧力すら感じる。
バイト中、俺の意識は氷の上ではなく、ずっといるかの前に立ち尽くしたままだった。
(……本当にそうなのか、俺は?)
──『証明してみせろよ。昔の碧芽葉が、まだ氷の上にいるってこと──!』
あの時、心に残ったのは、言い負かされた悔しさじゃない。図星を突かれた痛みでもなかった。
むしろ──彼女の怒りの奥にある、あの"失望"の眼差しが、何よりも刺さった。
(俺は逃げた……確かにそうかもしれない、だけど)
思考が巡る中、ふと視線の端に気配を感じて顔を上げる。
「葉さん?」
司さんだった。不安げな表情でこちらへと近づいてくる。
その少し後ろには、レッスンを終えたばかりなのか、軽く汗ばんだいのりちゃんの姿もあった。
「あ、司さん。こんにちは……すみません、ぼーっとしてました」
「いや、謝ることじゃないけど……大丈夫?最近ちょっと無理に誘いすぎたかなって、俺も反省してるんだ」
司さんは少し申し訳なさそうに言う。表情には気遣いが滲んでいた。
競技復帰の話を何度も持ちかけたことを気にしているのだろう。
俺は首を横に振った。
「違いますよ……そのことじゃないんです。司さんに誘われたことは、むしろ嬉しかったですし」
「じゃあ、何かあったの?」
どう答えるべきか迷った。
クラブメイトでもコーチでもない司さんに、相談する様な話ではないし、自分の中で結論づけるべきだと。
でも、司さんのまっすぐな眼差しに、俺はふと、心の奥に沈めていた言葉を引き上げたくなった。
ずっと誰にも言えず、言うつもりもなかったこと。
けれど、今なら──少しくらい話してもいいかもしれない、そう思った。
「実は、昔クラブメイトだった子に、偶然会ったんです。その子に、今の俺の滑りを見られて"本気じゃない"って叱られたんです……すごく怒ってました」
声に出してみると、少しだけ苦笑がこぼれた。
「“証明してみろ”って言われました。昔の俺が、まだ氷の上にいるってことを……って。たぶん、それを見せられる場があるとしたら、名港杯くらいしかないんだと思います」
そこで、ふっと言葉を切る。
心に引っかかっているものが、喉の奥でつっかえている。
「でも……出るとは言えませんでした」
「……なぜ?」
司さんの問いは、声を荒げることもなく、ただ穏やかに。
「1つは……昔、俺のせいで才能のあった選手が、怪我をしてスケートを辞めてしまったからです。もう1つは……」
一瞬、口をつぐんだ。
後者──事故のことは、まだ話せない。
言葉にするには、あまりに重すぎた。
「……いや。すみません。今はちょっと……言えないです」
司さんはそれ以上、無理に聞こうとはしなかった。
ただ黙って頷いてくれたことで、少しだけ話す勇気が湧いた。
「昔、同じクラブにいた選手に、ジャンプのコツを教えたんです。飛べないって相談されて、俺なりにアドバイスして……頑張って挑戦するように勧めた」
口にすることで、喉が焼けるような感覚がした。
それでも、言わなければ前に進めないと、自分に言い聞かせた。
「でもその子は、そのジャンプで怪我をして……足を骨折して、競技を辞めることになったんです」
話し終えると、つい大きく息を吐いた。
「跳べるようになりたいって、楽しそうに言ってたんです。あの子、本当に楽しそうだった……だから、忘れられないんです。あの顔が」
後悔でも罪悪感でもない、もっと深いところにある何かが、心を締めつけていた。
もう何年も前のことなのに、声に出しただけで、胸がひどく痛んだ。
骨折した彼女は、リンクには顔を出さず、練習が出来ない日々が続き、そして消える様にいなくなってしまったのだ。
司さんは、しばらく黙っていた。
けれど、その静寂の中には否定も、軽はずみな慰めもなかった。
やがて彼は、ぽつりと、静かに言葉を置いた。
「前に言っていた"才能を潰した"って話だね」
「……はい」
「でも、葉さんがその子を傷つけようと思ってしたわけじゃないだろう?……君はその時、その子の可能性を信じて背中を押しただけだ。それは決して間違ったことじゃないよ」
司さんの言葉は優しくて、あたたかった。
でも──俺の胸の中の霧は、まだ晴れなかった。
「それでも、俺のせいで……」
「……葉さん」
静かな、けれど凛とした声が耳に届いた。
いのりちゃんだった。
いつの間にか、まっすぐにこちらを見ていたその瞳が、強く輝いていた。
「それって──お姉ちゃんのこと、ですよね?」
喉が鳴る。
──結束 実叶
かつてのクラブの中で、ひときわ注目されていた選手。
明るくて、優しくて、誰とでもすぐに打ち解ける、天性の"人気者"。
その面影が、脳裏に浮かぶ。
「……そうだよ。君のお姉ちゃんの話だ」
いのりちゃんは、ふっと目を伏せた。けれど、それは悲しみの仕草ではなかった
「お姉ちゃんは、きっと葉さんを恨んでなんかないです」
顔を上げたいのりちゃんの瞳が、まっすぐにこちらを捉える。
「わたし……なんとなく分かるんです。お姉ちゃん、怪我をした直後はフィギュアスケートの話はしなかったけど、葉さんの話になると……ちょっとだけ、声のトーンが柔らかくなったんです」
その言葉が、そっと胸の奥に沁みてくる。
「だから、伝えてもいいですか? 葉さんと会ったってこと……お姉ちゃんに」
いのりちゃんは、口元をきゅっと引き結びながら言った。
突然の申し出に、俺は思わず黙り込んだ。
怖さがじんわりと滲み出てくる。彼女に恨まれていないか、それが気になって仕方がなかった。それだけのことをしたつもりだった。
──それは、たぶん俺には耐えられないことだっただろうから。
遠い昔、動かなくなった体で天井を見つめていた、あの病室の記憶が蘇る。
暗くて、冷たくて、息が詰まりそうだった時間。
もう二度と戻りたくないと思っていたあの場所の匂いが、ふと背後に立ちのぼった気がした。
でも──いのりちゃんの瞳に宿る、真っ直ぐな願い。
それに触れているうちに、わずかに心がほぐれていくのを感じた。
「分かった……迷惑にならないなら、伝えてくれても構わないよ」
いのりちゃんの顔に、ぱっと安堵の色が広がった。
「はい!」
その笑顔はとても純粋でまっすぐで、胸に春先の風のようなあたたかさが吹き込む気がした。
やがて、司さんといのりちゃんがリンクを離れたあと、俺は整氷前の誘導作業に戻っていた。
手は動いているけれど、頭の中はまだ重いままだった。
(……実叶ちゃんを都合の良い理由にしているだけなのか、俺は。本当に逃げていたのか?)
そんな疑念が、静かに胸の奥に広がっていく。
リンクサイドのガラスにふと目を向けると、そこには自分の姿がぼんやりと映っていた。
そこに立っていたのは、かつて“天才”と呼ばれた少年ではなかった。
氷を誰よりも愛していたはずの少年は──いつの間にか、氷を遠ざけている。
(……俺は、いったい何を怖がっている?)
心の奥に巣食う答えのない問いが、氷より冷たく響いていた。
そんな時──
「葉さん!」
少し弾む声とともに、いのりちゃんが小走りでこちらに駆けてきた。
頬が紅潮し、息を少しだけ弾ませている。
「どうしたの?」
「あの!お姉ちゃんから連絡が来てて。もしよかったら葉さんの連絡先を教えてもらえませんかって。直接話がしたいみたいなんです」
一瞬、時が止まったような感覚がした。
(……本当に、連絡を取ることになるなんて)
胸の奥で長く閉ざしていた“記憶”の扉が、音を立てて軋む。
けれど、不思議と、拒絶する気持ちは芽生えなかった。
それどころか、どこかでずっと──話をしたいと、思っていたのかもしれない。
あのとき言えなかった言葉。言うべきだった謝罪。そして、何より……彼女が、今どんな気持ちで自分を見ているのかを知りたかった。
「わかった。それなら、俺の連絡先を伝えてもらっていいかな」
「はい!」
ぱっと明るくなるいのりちゃんの表情。
その笑顔は、心の奥に吹き込む、確かな追い風だった。
──その日の夜。
食事を終えた頃、スマートフォンが小さく震えた。
ビデオ通話と表示された名前を見た瞬間、心臓が一度だけ強く脈打つ。
「……っ」
一度、深呼吸をしてから、俺はゆっくりとタップした。
画面に映し出されたのは、見覚えのある、けれど少しだけ大人びた表情の少女。
「葉くん? 久しぶりだね」
その声、その微笑みを目にした瞬間、心の奥で深く閉ざしていた記憶が蘇った。
懐かしさと、安心と、そして……張り裂けそうなほどの後悔が、一気に押し寄せてくる。
「……久しぶり、実叶ちゃん」
ようやく、口にできた言葉。
それだけなのに、声が微かに震えたのが、自分でもわかった。
今夜、自分の中で何かが変わる。そんな予感が、確かに胸に灯っていた。
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