氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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04 Calling from...

リンクの監視バイト中。いるかの言葉が、何度も、何度も、頭の中で反響していた。

 

──『今のあんた、滑りは相変わらず綺麗。でも、"本気"がない』

 

あの言葉が、氷の上に染みるように残っている。

 

静かに、鋭く、胸の奥を突いてくる。

時間が経つほどに、その言葉の輪郭はより鮮明になっていった。耳元で何度も囁かれているような、妙な圧力すら感じる。

 

バイト中、俺の意識は氷の上ではなく、ずっといるかの前に立ち尽くしたままだった。

 

(……本当にそうなのか、俺は?)

 

──『証明してみせろよ。昔の碧芽葉が、まだ氷の上にいるってこと──!』

 

あの時、心に残ったのは、言い負かされた悔しさじゃない。図星を突かれた痛みでもなかった。

むしろ──彼女の怒りの奥にある、あの"失望"の眼差しが、何よりも刺さった。

 

(俺は逃げた……確かにそうかもしれない、だけど)

 

思考が巡る中、ふと視線の端に気配を感じて顔を上げる。

 

「葉さん?」

 

司さんだった。不安げな表情でこちらへと近づいてくる。

その少し後ろには、レッスンを終えたばかりなのか、軽く汗ばんだいのりちゃんの姿もあった。

 

「あ、司さん。こんにちは……すみません、ぼーっとしてました」

 

「いや、謝ることじゃないけど……大丈夫?最近ちょっと無理に誘いすぎたかなって、俺も反省してるんだ」

 

司さんは少し申し訳なさそうに言う。表情には気遣いが滲んでいた。

競技復帰の話を何度も持ちかけたことを気にしているのだろう。

俺は首を横に振った。

 

「違いますよ……そのことじゃないんです。司さんに誘われたことは、むしろ嬉しかったですし」

 

「じゃあ、何かあったの?」

 

どう答えるべきか迷った。

クラブメイトでもコーチでもない司さんに、相談する様な話ではないし、自分の中で結論づけるべきだと。

 

でも、司さんのまっすぐな眼差しに、俺はふと、心の奥に沈めていた言葉を引き上げたくなった。

ずっと誰にも言えず、言うつもりもなかったこと。

けれど、今なら──少しくらい話してもいいかもしれない、そう思った。

 

「実は、昔クラブメイトだった子に、偶然会ったんです。その子に、今の俺の滑りを見られて"本気じゃない"って叱られたんです……すごく怒ってました」

 

声に出してみると、少しだけ苦笑がこぼれた。

 

「“証明してみろ”って言われました。昔の俺が、まだ氷の上にいるってことを……って。たぶん、それを見せられる場があるとしたら、名港杯くらいしかないんだと思います」

 

そこで、ふっと言葉を切る。

心に引っかかっているものが、喉の奥でつっかえている。

 

「でも……出るとは言えませんでした」

 

「……なぜ?」

 

司さんの問いは、声を荒げることもなく、ただ穏やかに。

 

「1つは……昔、俺のせいで才能のあった選手が、怪我をしてスケートを辞めてしまったからです。もう1つは……」

 

一瞬、口をつぐんだ。

 

後者──事故のことは、まだ話せない。

言葉にするには、あまりに重すぎた。

 

「……いや。すみません。今はちょっと……言えないです」

 

司さんはそれ以上、無理に聞こうとはしなかった。

ただ黙って頷いてくれたことで、少しだけ話す勇気が湧いた。

 

「昔、同じクラブにいた選手に、ジャンプのコツを教えたんです。飛べないって相談されて、俺なりにアドバイスして……頑張って挑戦するように勧めた」

 

口にすることで、喉が焼けるような感覚がした。

それでも、言わなければ前に進めないと、自分に言い聞かせた。

 

「でもその子は、そのジャンプで怪我をして……足を骨折して、競技を辞めることになったんです」

 

話し終えると、つい大きく息を吐いた。

 

「跳べるようになりたいって、楽しそうに言ってたんです。あの子、本当に楽しそうだった……だから、忘れられないんです。あの顔が」

 

後悔でも罪悪感でもない、もっと深いところにある何かが、心を締めつけていた。

もう何年も前のことなのに、声に出しただけで、胸がひどく痛んだ。

 

骨折した彼女は、リンクには顔を出さず、練習が出来ない日々が続き、そして消える様にいなくなってしまったのだ。

 

司さんは、しばらく黙っていた。

けれど、その静寂の中には否定も、軽はずみな慰めもなかった。

やがて彼は、ぽつりと、静かに言葉を置いた。

 

「前に言っていた"才能を潰した"って話だね」

 

「……はい」

 

「でも、葉さんがその子を傷つけようと思ってしたわけじゃないだろう?……君はその時、その子の可能性を信じて背中を押しただけだ。それは決して間違ったことじゃないよ」

 

司さんの言葉は優しくて、あたたかった。

でも──俺の胸の中の霧は、まだ晴れなかった。

 

「それでも、俺のせいで……」

 

「……葉さん」

 

静かな、けれど凛とした声が耳に届いた。

 

いのりちゃんだった。

いつの間にか、まっすぐにこちらを見ていたその瞳が、強く輝いていた。

 

「それって──お姉ちゃんのこと、ですよね?」

 

喉が鳴る。

 

──結束 実叶

 

かつてのクラブの中で、ひときわ注目されていた選手。

明るくて、優しくて、誰とでもすぐに打ち解ける、天性の"人気者"。

その面影が、脳裏に浮かぶ。

 

「……そうだよ。君のお姉ちゃんの話だ」

 

いのりちゃんは、ふっと目を伏せた。けれど、それは悲しみの仕草ではなかった

 

「お姉ちゃんは、きっと葉さんを恨んでなんかないです」

 

顔を上げたいのりちゃんの瞳が、まっすぐにこちらを捉える。

 

「わたし……なんとなく分かるんです。お姉ちゃん、怪我をした直後はフィギュアスケートの話はしなかったけど、葉さんの話になると……ちょっとだけ、声のトーンが柔らかくなったんです」

 

その言葉が、そっと胸の奥に沁みてくる。

 

「だから、伝えてもいいですか? 葉さんと会ったってこと……お姉ちゃんに」

 

いのりちゃんは、口元をきゅっと引き結びながら言った。

 

突然の申し出に、俺は思わず黙り込んだ。

怖さがじんわりと滲み出てくる。彼女に恨まれていないか、それが気になって仕方がなかった。それだけのことをしたつもりだった。

 

──それは、たぶん俺には耐えられないことだっただろうから。

 

遠い昔、動かなくなった体で天井を見つめていた、あの病室の記憶が蘇る。

暗くて、冷たくて、息が詰まりそうだった時間。

もう二度と戻りたくないと思っていたあの場所の匂いが、ふと背後に立ちのぼった気がした。

 

でも──いのりちゃんの瞳に宿る、真っ直ぐな願い。

それに触れているうちに、わずかに心がほぐれていくのを感じた。

 

「分かった……迷惑にならないなら、伝えてくれても構わないよ」

 

いのりちゃんの顔に、ぱっと安堵の色が広がった。

 

「はい!」

 

その笑顔はとても純粋でまっすぐで、胸に春先の風のようなあたたかさが吹き込む気がした。

 

やがて、司さんといのりちゃんがリンクを離れたあと、俺は整氷前の誘導作業に戻っていた。

手は動いているけれど、頭の中はまだ重いままだった。

 

(……実叶ちゃんを都合の良い理由にしているだけなのか、俺は。本当に逃げていたのか?)

 

そんな疑念が、静かに胸の奥に広がっていく。

 

リンクサイドのガラスにふと目を向けると、そこには自分の姿がぼんやりと映っていた。

 

そこに立っていたのは、かつて“天才”と呼ばれた少年ではなかった。

氷を誰よりも愛していたはずの少年は──いつの間にか、氷を遠ざけている。

 

(……俺は、いったい何を怖がっている?)

 

心の奥に巣食う答えのない問いが、氷より冷たく響いていた。

 

そんな時──

 

「葉さん!」

 

少し弾む声とともに、いのりちゃんが小走りでこちらに駆けてきた。

頬が紅潮し、息を少しだけ弾ませている。

 

「どうしたの?」

 

「あの!お姉ちゃんから連絡が来てて。もしよかったら葉さんの連絡先を教えてもらえませんかって。直接話がしたいみたいなんです」

 

一瞬、時が止まったような感覚がした。

 

(……本当に、連絡を取ることになるなんて)

 

胸の奥で長く閉ざしていた“記憶”の扉が、音を立てて軋む。

けれど、不思議と、拒絶する気持ちは芽生えなかった。

 

それどころか、どこかでずっと──話をしたいと、思っていたのかもしれない。

あのとき言えなかった言葉。言うべきだった謝罪。そして、何より……彼女が、今どんな気持ちで自分を見ているのかを知りたかった。

 

「わかった。それなら、俺の連絡先を伝えてもらっていいかな」

 

「はい!」

 

ぱっと明るくなるいのりちゃんの表情。

その笑顔は、心の奥に吹き込む、確かな追い風だった。

 

──その日の夜。

 

食事を終えた頃、スマートフォンが小さく震えた。

ビデオ通話と表示された名前を見た瞬間、心臓が一度だけ強く脈打つ。

 

「……っ」

 

一度、深呼吸をしてから、俺はゆっくりとタップした。

画面に映し出されたのは、見覚えのある、けれど少しだけ大人びた表情の少女。

 

「葉くん? 久しぶりだね」

 

その声、その微笑みを目にした瞬間、心の奥で深く閉ざしていた記憶が蘇った。

懐かしさと、安心と、そして……張り裂けそうなほどの後悔が、一気に押し寄せてくる。

 

「……久しぶり、実叶ちゃん」

 

ようやく、口にできた言葉。

それだけなのに、声が微かに震えたのが、自分でもわかった。

 

今夜、自分の中で何かが変わる。そんな予感が、確かに胸に灯っていた。




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