氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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05 証明への一歩

──10年前。

スケートを始めたばかりの、ある日のこと。

 

「おかあさん、わたしもうスケートやめる……!」

 

「あいつばっかり……ずるいよぉ」

 

練習が終わったばかりのリンクには、いつもと違うざわめきが漂っていた。

 

目に飛び込んできたのは、クラブメイトの子どもたちの姿。

まだ練習着のまま、リンクサイドに駆け寄って、そこに待っていた保護者たちに泣きついている。

 

「あんなの、えこひいきだよ!」

 

「葉くんばっかりすぐ跳べるの、絶対おかしいよ」

 

涙混じりの声が、氷の上に響いた。

保護者たちは戸惑いながらも、子どもたちの背をそっと撫でている。

 

「そうよねぇ、みんな頑張ってるのにね……」

 

「先生もちょっと褒め方が偏ってるんじゃないかしら……」

 

保護者たちの小さなささやきが、リンクの端々に落ちていく。

誰かのため息が、やけに大きく聞こえた。

 

(……おれ、何か悪いことをしたのか?)

 

俺より早くスケートを始めた子たち。

一緒に練習して、励まし合うはずの仲間たち。

だけど、いま彼らの視線が、まるで"敵"を見るようにこちらを向いていた。

 

リンクの中央では、若いアシスタントコーチが困ったように頭を掻いていた。

 

「いや、でも葉くんは飲み込み早いし、頑張りやさんだからさ──」

 

その言葉は、子どもたちの怒りをさらに刺激してしまった。

 

「おれたちだって毎日頑張ってるよ!」

 

「葉くんだけ特別扱いしてるじゃん! わたしの方がずっと前から滑ってるのに!」

 

怒りと悔しさに染まった泣き声が、リンクを包んでいく。

 

(……どうしよう)

 

無力感に、ただ立ち尽くすしかなかった。

彼らの悔しさや焦りは、はっきりと理解できた。

 

──『葉は、たまに大人みたいに賢いね』

 

母が時折、口にしていた言葉が頭をよぎった。

他の子に比べて、コーチの指導内容をすぐに飲み込めている自覚はあった。

それがきっと"アドバンテージ(前世の記憶がある)"のせいだということは、自分自身が誰よりもよく知っている。

 

だからこそ、俺は人一倍、練習をしたつもりだった。

朝練には一番乗りで来て、黙々と準備運動をして、何度も転んでは立ち上がった。

コーチの言葉を、何度も何度もなぞるように繰り返した。

 

『あいつ、才能があるだけでしょ』

 

『あの子は何でもできて当然』

 

そんなふうにだけは、思われたくなかった。

誰かより恵まれている自覚があるからこそ、自分には他の子以上の努力をする義務があると、そう信じていた。

 

(……それなのに)

 

耳の奥に、子どもたちの泣き声がこびりついて離れない。

 

頑張っているのは俺だけじゃない。みんな必死に氷に向かっているのは分かっている。

俺だって、同じくらい努力しているつもりだった。じゃないと、ここに立っている資格すらないような気がしたから。

 

けれど──

 

(これじゃあ、おれは誰かを傷つけるために滑ってるみたいじゃないか……)

 

何のために滑っているんだろう。急に分からなくなった。

 

ただ、氷の上で自由になりたかっただけだ。

 

自分の滑りで誰かが笑顔に出来たら、勇気づけられたらいいと思っていた。

遠い昔──病室のベッドの上で、俺がいろんな選手の活躍に勇気づけられていたように。

 

初めて見たフィギュアスケート。

氷の上を自由自在に舞うその姿は、まるで風の精みたいで。見ている人みんなを笑顔にしていたように。

 

(……おれも、あんなふうに滑りたかっただけなのに)

 

自分の滑りが、こんなにも誰かの心を傷つけてしまうことに気づき、足元の氷がひどく冷たく感じられた。

 

(滑るのが……怖くなりそうだ)

 

心が凍りかけた、そのとき。

 

「ちょっと待ってよ!」

 

リンクの縁から、はっきりとした声が響いた。

 

──実叶ちゃんだった。

 

彼女は、小柄な体でスケート靴を軽やかに鳴らし、子どもたちや保護者たちの前に堂々と立つ。

 

「それって、変だよ!」

 

凛とした声に、周囲の視線が一斉に実叶ちゃんへと向けられる。

 

「葉くん、毎日すごく早く来てるよ。わたし、知ってるもん。コーチが来る前からリンクの前で待ってて、誰よりも準備してた」

 

はっとしたように視線を落とす子がいた。

 

「ずっと練習してたよ。転んでも何回も立ち上がって……諦めたところなんて、一度も見たことない」

 

彼女の声が、リンクの中で澄んだ音色のように響く。

 

「葉くんが早く上達したのは、才能だけじゃない。ちゃんと努力してたからだよ」

 

実叶ちゃんのまっすぐな言葉に、誰もが口を噤んだ。

 

「……わたしだって、ずっと羨ましかったよ。だって、わたしの方がずっと前から滑ってたのに、どんどん先を行かれてたんだもん」

 

その言葉に思わず目を伏せる。

 

「本当は、すごく悔しかった。泣いちゃったことだって、いっぱいあるよ」

 

でも──と、実叶ちゃんは続けた。

 

「でも……"ズルい"なんて言ったら、ずっと負けたままだと思ったの。私はあきらめない。悔しいから追いついて、いつか追い越してやるって思ってる」

 

その言葉に、泣いていた子が涙を拭い、誰かがそっと視線を逸らした。

 

「葉くんは、ズルくなんてないよ」

 

俺は──その場でただ立ち尽くしていた。

 

彼女の声が、自分の凍りかけた心をゆっくりと溶かしていくのが分かった。

 

(俺のこと、ちゃんと見てくれている人がいる……)

 

その時初めて知った。

 

──たった一人でも。

 

自分の努力を"ちゃんと見てくれている"人がいれば、それだけで心は前を向けるのだと。

 

 

 

 

──現在

 

通話が繋がるまでのほんの数秒が、まるで永遠のようだった。

画面がぱっと明るくなった瞬間、思わず息を飲んだ。

 

「……葉くん?久しぶりだね」

 

彼女の声が耳に響いた。柔らかく、優しい声だった。

 

画面に映った実叶ちゃんは、昔の面影を残しつつ、ずっと大人びて見えた。

部屋の奥には陽が差し込む大きな窓が見えた。穏やかな日差しに包まれ、実叶ちゃんは太陽の下で微笑んでいた。

 

「……久しぶり、実叶ちゃん」

 

喉がカラカラに乾いて、かすれた声が出た。

 

「本当に久しぶりだね。のんちゃん(いのり)から聞いて、びっくりしたよ。まさか葉くんが、また名古屋に戻ってるなんて」

 

「ああ……」

 

何を言えばいいのか分からず、視線を泳がせる。

そんな俺を見て、実叶ちゃんがふわりと笑った。

 

「葉くん、私に謝ろうとしてる?」

 

胸を鋭く突かれた気がした。

 

「……うん」

 

実叶ちゃんの表情が少しだけ切なくなる。

 

「葉くんの気持ちは、のんちゃんから聞いた。ずっと責任感じてたんだって?」

 

「……当然だよ。俺は君に無理な挑戦させて、そのせいで君の未来を奪ったんだから……」

 

俺は小さく息を吐きながら、ずっと心に押し込めていた言葉を、ようやく口にした。

 

「あの頃の実叶ちゃんは、みんなの太陽みたいな存在だった。クラブの中でも外でも、君にはファンが大勢いたし……みんなが君の将来を楽しみにしてた。ノービスで中部ブロックを制した後も、誰もが君ならもっと凄い舞台で活躍するって信じてた」

 

実叶ちゃんは静かに俺を見ている。その瞳には深い慈しみがあった。

 

「それに、君の才能がもっと花開く日を、誰よりも楽しみにしてたのは……きっと俺だったんだ」

 

言葉にして初めて気づく。

俺は、実叶ちゃんがただのクラブメイトだったから苦しんでいたんじゃない。

 

──彼女は、特別だった。

 

誰よりも明るくリンクの中心にいた彼女に、いつしか惹かれていた。

それが子供じみた憧れではなく、自分にとって初恋だったのだと、今になってようやく気付く。

可笑しいくらい遅すぎる、気付きだった。

 

笑える話だ。その時にはもう中身はいい歳をした大人だったというのに。

 

「君が怪我をした時、もっとちゃんと見ていればって何度も思ったよ。君が、あの日リンクから消えた時、俺は──」

 

そこで言葉が詰まる。

言葉にすればするほど、胸の奥が痛んだ。

 

「──俺は、自分の手で大切なものを壊してしまったって、ずっと思ってた」

 

実叶ちゃんは少し俯き、小さく息を吐いたあと、ゆっくりと首を振った。

 

「葉くん、違うよ」

 

「……え?」

 

「私はね、葉くんに謝られたいなんて、一度も思ったことないよ。あのジャンプに挑んだのは自分で決めたことだから」

 

彼女の声には迷いがなかった。

 

「葉くんに背中を押してもらったこと、心から感謝してる」

 

「でも……君は引退して……」

 

「引退は確かに寂しかったけど、それは別の話。あの挑戦自体には、今も後悔してないの」

 

彼女の声が、より力強くなった。

 

「それに葉くん、知ってる? 引退してから私、たくさん新しいことを経験できたんだよ!新しい友達もいっぱい出来たし、今はこうしてカナダに留学だってしてて、私はすごく充実してるんだ!」

 

画面の中でそう語る実叶ちゃんの表情は輝いていた。

彼女のその笑顔は、昔と変わらない、あの日のリンクの光景そのままだった。

 

「だからね、私にとってスケートは素敵な思い出になったんだよ。大切な友達も作れたし、今はとても幸せなんだよ」

 

「実叶ちゃん……」

 

彼女の言葉が、胸に沁み込むようだった。

俺がずっと心の奥で感じていた重い罪悪感が、初めて溶け始めるのを感じた。

 

「それにね、葉くん……私は葉くんが滑っている姿が本当に大好きだった。氷の上での葉くんはいつも本当に輝いてた。あんなに真っ直ぐフィギュアに向き合ってる人、他に見たことなかった。だから──」

 

彼女の目が、かすかに潤んでいるのが見えた。

 

「だから、葉くんがもし私のせいでスケートから遠ざかっているんだとしたら、それは悲しいことだなって。私は葉くんに自分の人生を楽しんで欲しい。やりたいことをやってほしいんだよ」

 

画面の奥で、実叶ちゃんの声が優しく響いた。

 

「だって、葉くんは私にとっても、()()だったから」

 

俺の胸が熱く震えた。

 

──自分は彼女を傷つけたと思っていた。

でも実叶ちゃんはずっと、俺を肯定してくれていたのだ。

 

氷の上で過ごした日々が鮮やかに蘇る。

あの時、苦しい練習でも彩りと共に駆け抜けられたのは、確かに実叶ちゃんがいたからだった。

 

(俺は、君がいたからあの頃の俺でいられたんだ……)

 

画面の実叶ちゃんは、俺が自分の気持ちに気付いたことを察したかのように、照れたような微笑みを浮かべた。

 

「もう、謝らないでね」

 

実叶ちゃんの声は優しく、柔らかかった。

 

「ありがとう」

 

ようやく俺は、自分の心に素直に笑いかけることができた。

長かった苦しみが、実叶ちゃんの言葉によってゆっくりと消えていく。

もう、逃げなくていい。自分の心にも、過去にも。

 

俺はまた氷の上に立てる気がした。

 

(一歩、進める気がする──)

 

そんな俺の決意を、実叶ちゃんは優しく見守ってくれているようだった。

実叶ちゃんとの通話を終えたスマホの画面が暗くなったあと、俺の胸は静かな熱に満たされていた。

 

──『葉くんは私にとっても、太陽だったから』

 

実叶ちゃんのその言葉が、ずっと心に残っている。

自分が誰かにとってそんな存在だったということが、素直に嬉しかった。

 

ずっと実叶ちゃんに対して抱えていた罪悪感が消え去り、自分の中にあった小さな迷いもひとつ消えた気がする。

けれどそれでも──心の中にあるもうひとつの重い鎖は、まだ外れてはいない。

 

(競技として戻ることはまだできないけど……)

 

それでも氷の上で、もう一度だけ自分の限界を試したい。

誰かの目に触れる場所で、本気で向き合ってみたい。

 

実叶ちゃんがくれた言葉が、俺の背中を押していた。

 

 

 

 

翌日の夕方。大学の講義を終えると、俺はあるスケートリンクへ向かった。

 

「いるか」

 

リンクサイドで靴ひもを結んでいたいるかは、俺の姿に気づくと僅かに眉を寄せた。

 

「……なに?」

 

どこか突き放すような声。それでも俺は軽く微笑んで返す。

 

「謝りに来たんだ。この間は悪かったよ、中途半端な態度取って」

 

俺の言葉に、いるかは少し驚いたような表情を見せたが、すぐにいつものように鋭い目つきに戻った。

 

「今さら何の用?」

 

その口調には相変わらず棘がある。でも、今はそれさえもどこか懐かしく思えた。

 

「お前に言われて、ずっと考えてた」

 

「なにを」

 

俺は一拍おいてから口を開く。

 

「お前が言った通り、俺はフィギュアスケートから逃げた。それは事実だし……今も、完全に競技に戻ろうとは思えない」

 

いるかが眉をひそめ、静かな怒りを宿した視線を向けてくる。その視線を逸らさずに、言葉を紡ぐ。

 

「でも、スケートに向き合うことからも逃げてるつもりはない。"名港杯"で──俺がどれだけスケートに本気か、証明してみせるよ」

 

「……は?」

 

しばらく黙った後、いるかは鋭い視線を向けてくる。その目は、ただの疑いじゃない。

どこか怒りに近い温度を帯びていた。

 

「ちょっと待ってよ。競技に戻る気もないくせに、大会だけ出て"本気"とか言って……都合良すぎんじゃない?」

 

いるかの声音には明らかな苛立ちがあった。

正論だ。俺もそう思う部分はある。けれど、それでも言わなきゃいけないことがある。

 

「確かに、競技に戻る覚悟はまだ決めきれない。でも──滑っていたいって気持ちは、ずっと消えてなかった」

 

言葉を選びながら、それでもまっすぐに彼女を見る。

 

「目立ちたいとか、誰かに勝ちたいとか、そんなのじゃない。でも止めようとしても、身体が氷を求めていた──それが本気じゃないなら、俺はもう何も言えない」

 

なんて伝えにくい感情だろう。俺は、自分の言葉に思わず苦笑する。

でも、それが"今の俺の全部"だった。

 

いるかはしばらく何も言わなかった。けれど、その眼差しは揺れていた。

苛立ちの中で、何かを探るように。

 

「……戻れない理由って、何?」

 

低い声。その問いは、彼女の生き方のように真っ直ぐだった。

 

「気まぐれって感じじゃないんだよ、あんた……なにかあるでしょ、言えない理由が」

 

意外と鋭い。いるかの問いに、俺は一瞬だけ唇を噛んだ。だが、首を横に振る。

 

「今は……話せない。でも、軽い気持ちじゃない。それだけは信じて欲しい」

 

いるかは目を細めたまま、俺を見ていた。その視線の奥で、何かが揺れている。

 

「正直、あんたの言ってること、やっぱり分かんない。大会出たくらいで証明になるわけない。でも──」

 

言いながら、彼女はふっと視線を逸らす。

 

「本気なら、ちゃんと見せろよ。結果出すくらいの気持ちで滑んなよ。じゃなきゃ、許さない」

 

その言葉には、いつものような棘があった。でも、その奥に──ほんの少しだけ、期待の色が見えた気がした。

 

「ああ。それだけは約束する」

 

俺は頷く。いるかは視線を戻さず、靴ひもの確認に目を落としながら、ぽつりと呟いた。

 

「……ちょうど調整必要だったし、私も"名港杯"出る」

 

「え?」

 

思わず聞き返すと、彼女は靴ひもの確認からほんの一瞬だけ、視線をこちらに流した。

 

「……だから、ちゃんと見せなよ。中途半端な滑りだったら──マジでしばくから」

 

そう言って立ち上がると、彼女はそのままリンクへ滑り去っていった。

小さくなる背中を見送りながら、俺は胸に手を当てる。

 

(分かってるよ。出るからには、勝つ)

 

──競技に完全復帰する覚悟は、まだ出来ていない。

 

でも、それがどんなに小さな一歩だったとしても。

 

(競技選手じゃなかろうが──俺は"自分の気持ち(本気)"を氷の上で証明したい)

 

実叶ちゃんと、いるかの言葉。

その両方があったからこそ、俺は今このリンクに立てている。

 

「……よしっ」

 

俺は静かに息を吐き、リンクの上に視線を落とした。

 

氷は、何も言わずに、ただ静かにそこにあった。

でも今なら、その静けささえも優しく感じられる気がした。




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