氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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06 滲む6年間の空白

「あれ、葉さん?どうしたの?今日は確かアルバイトの日じゃなかったよね?」

 

入り口からやってきた司さんは、リンクサイドに座る俺に意外そうな表情を浮かべた。

司さんを待ち構えていたような構図。その表情には戸惑いの色が浮かんでいた。

 

いるかに名港杯への参加を告げた翌日、俺は大須スケートリンクにやって来ていた。

 

「こんにちは。待ち伏せみたいで、すみません……司さんに話があって」

 

立ち上がり、一歩だけ彼に近づく。彼の目をしっかり見つめた。

 

「……ルクス東山FSCに、入らせてもらえませんか?」

 

司さんは一瞬、目を見開き、次の瞬間にパッ!と顔を輝かせた。

ただ、その瞳の奥に、わずかな戸惑いが滲むのが見え隠れしていた。

 

「本当に!? めちゃくちゃ嬉しいよ!俺は大歓迎だけど……それって、スケートに戻る決心がついたってこと?」

 

期待のこもった問いに、俺は申し訳なく思いながら首を横に振った。

 

「……いえ。そこまでは、まだ。だけど──“名港杯”には出ようと決めました。今の自分が、スケートとどこまで向き合えるのか……確かめたくて」

 

「名港杯……!それってつまり、前に話してくれた昔のクラブメイトとの件だね」

 

司さんはすぐに察したようだった。俺は軽く頷く。

 

「スケートへの気持ちがどれだけ強かったのか、俺の本気を証明したいんです──何より俺自身が、確かめたい。だから、このクラブで練習させてもらえませんか」

 

「もちろん!どんな形であれ、葉さんがまた滑ってくれて本当に嬉しいよ!ようこそ!ルクス東山FSCへ!!」

 

差し出された司さんの手を、俺は強く握り返した。その温もりが、心に静かな勇気をくれた気がした。

 

「ああ、そうだ!」

 

司さんが思い出したように言う。

 

「明日の夜、クラブの全体練習があるんだけど……葉さんも来る?」

 

「えっ、まだ正式加入もしてないのに、いいんですか?」

 

「大丈夫!!瞳先生も、みんなも喜ぶよ!!」

 

時間が限られている中、早く練習できるのは助かる。

俺は静かに、けれどはっきりと頷いた。

 

──だが、翌日の夜。ロッカールームに立った俺の顔には、強張った笑みが浮かんでいた。

 

(……俺、このクラブでやっていけるかな)

 

クラブの貸切練習に顔を出した俺を待っていたのは、想像よりもずっと若い雰囲気だった。

集まっているのは、自分よりずっと年下の小中学生ばかり。

遠巻きに見ている保護者たちの視線も、どこか探るようで、落ち着かない。

 

「ちょっと、あれ碧芽くんよね?ほら、ノービス時代に全日本4連覇してた子」

 

「あ、知ってる!"天才少年"とか言われてた子じゃない!」

 

「推薦で全日本ジュニア優勝して……確か将来のオリンピック候補だったんじゃ──」

 

保護者たちの囁きが、遠慮なく耳に入ってくる。

 

その反応はありがたいはずなのに、居心地の悪さばかりが募っていく。

今の俺は、かつての"天才"ではない。それは、もはやただの過去の名前だ。

 

(……というか、あの時、いのりちゃんの陰口言ってた保護者もいる気がするし……うわぁ、気まず)

 

そんなことを思いながら立っていると、ヘッドコーチの瞳さんが手を叩いて皆の注意を集めた。

 

「今日は新しくクラブに入る碧芽 葉くんが来てくれました。みんな、仲良くね!」

 

「ブランクあるから、皆と一緒に頑張って行ければと思ってます。よろしくね!」

 

「「「よろしくお願いします!」」」

 

元気いっぱいの子どもたちの挨拶に目を向けると、無垢でまっすぐな瞳がこちらを見つめていた。

見渡してみても、自分と年が近い子はいない。

ここにいるのは、俺を知らない"新しい時代"のスケーターたちだ。

 

練習が始まると、子どもたちが一斉に俺の周りを囲んだ。

 

「ねぇねぇ、なんのジャンプ跳べるの?」

 

「試合出てたんでしょ!なに出たの!教えてー!」

 

その純粋な好奇心に、思わず心が軽くなった。

 

「ちょちょっと、一気に言われても答えられないよ。とりあえず順番に!」

 

振り回されながらも、気づけば自然に笑っていた。

──もしかしたら、こういう場所でなら、もう一度フィギュアと向き合えるかもしれない。

 

と、そこへ司さんが近づいてくる。

 

「葉さん、ちょっといい? 名港杯のプログラムの件なんだけど……」

 

「あ、はい」

 

「もう二ヶ月しかないけど、構成はどうする?なにか希望はある?」

 

期間がないためか、司さんが少し心配そうに尋ねる。

俺はすぐに頷いた。

 

「実は、ジュニアクラスに上がった時に使う予定だったプログラムがあります。SPもFPも。まだ身体が覚えてると思うので、それをベースに、シニア用にアレンジしていこうと思ってます」

 

「え、あの頃のを……今でも覚えてるの?」

 

驚きの声を上げたのは司さんだったが、その横で、黙って話を聞いていた瞳さんが初めて口を開いた。

 

「……それはすごい記憶力ね。でも、本当に大丈夫?」

 

彼女の声は柔らかいのに、どこか鋭さがあった。

 

「普通なら、6年のブランクで振付なんて身体から抜けてるはずよ。しかも体格も変わってるでしょう?重心移動や筋力の配分。全部、根本から違ってるはずよ」

 

瞳さんは淡々と告げる。

確かに、そうだ。でも俺ははっきりと言った。

 

「……それでも、あのプログラムだけは、ずっと滑り続けてたんです」

 

「独学で?」

 

「……はい。大学に進学する前で名古屋(こっち)に戻ってくる前、北海道にいたときも、ずっと……何度も、何度も」

 

誰に見せるでもなく、あのプログラムを一人で滑り続けていた。

北海道の氷の上に立ち、空っぽになった心の中にその曲を流し、滑っていた。

 

──あれは捨てきれない"未練"だった。そして、人を傷つけたにも関わらず残っていた唯一の支えでもあった。

 

瞳さんはしばらく黙っていたが、やがてふっと微笑んだ。

 

「……なるほど。だったら、覚えているのも当然ね。自分のためだけに滑ってたのね」

 

「はい」

 

「でも、それを"大会用"に戻すとなると話は別よ。今の身体で、ゼロから作り直すつもりで臨んで」

 

瞳さんの口調は、あくまで冷静。でも、その言葉は、確かな"現実"だった。

 

「ジャンプ、スピン、演技全体。昔のようにはいかないわ。むしろ──あの頃以上のものを目指さなきゃいけない。すべてをやり直す覚悟がいるわ」

 

「…分かってます。でも、やります。やりたいんです」

 

先生はしばらく俺を見つめ、そして微笑んだ。

 

「いいわ。司くんはいのりちゃんも見てるし、葉くんは私と司くんの二人でしっかりサポートするから」

 

「……ありがとうございます!」

 

心からの声が自然と出た。やっと一歩前に進めると胸が昂った。

 

でも──ジャンプの練習に入ると、現実はその冷たさを容赦なく突きつけてくる。

 

「っ!!」

 

リンクの隅で、一人黙々と繰り返す。踏切、空中姿勢、着氷。

北海道でほとんど跳んでいなかったジャンプ練習。

 

3回転ジャンプに挑戦する中でサルコウは、まだ感覚が残っていた。着氷の感覚もかつての記憶からそこまで狂っていない。

だが、それ以外の3回転は、ひどい有様だった。

 

ループ、フリップ、ルッツ……

踏切のタイミングがわずかにずれ、体の軸がブレる。 跳び上がる前にミスると分かってしまう。

自分の感覚と実際の動きが、噛み合っていない

 

それでも跳んだ。失敗した。悔しくて、また跳んだ。

 

6年前と違うのは、今の自分の体が"少年"ではないということだ。

かつて得意だった感覚が、まるで裏切るように自分から離れていく。

 

何度転んだか分からない。 膝をつき、息を切らし、立ち上がって、また跳ぶ。 失敗するたびに、身体ではなく"記憶"が軋んでいく。

 

(くっそ、跳べたはずのジャンプなのに……)

 

苦しい。けれど、それでも跳ばずにはいられなかった。

氷の上でしか埋まらない喪失感が、確かに俺を突き動かしていた。

 

 

 

 

いのりは今日の貸切練習中、ちらちらと葉の滑りを目で追っていた。

 

もちろん、自分の練習にも集中しなければいけない。

だけど──リンクの反対側で彼が滑り始めるたびに、どうしても目が奪われてしまう。

 

(やっぱり、葉さんって……すごい)

 

彼が滑り出した瞬間に空気が変わる。

 

静かに加速し、クロス数回で一気にトップスピードへ。

ストロークは無駄がなく、ステップは水を流すように滑らかで──

スピンではまるで軸に吸い込まれるような正確さと美しさを見せた。

 

(こんなふうに滑れるようになるには……どれくらい練習すればいいんだろ)

 

けれど、その一方で──

 

「っ!!」

 

ドタン、と氷に体が叩きつけられる音がリンクに響く。

葉が小さく苦しそうに息を吐くたびに、いのりは無意識に体を強張らせた。

 

(……ジャンプ、苦戦してる)

 

何度も、何度も、彼は転んでいた。

でも、そのたびに黙って立ち上がる。

周囲の視線にも、誰の言葉にも左右されず、ただ氷と向き合い続けていた。

 

(私なんかよりずっと上手い人でも、あんなふうに戦ってるんだ)

 

あんなにスケートが上手い人が転んで、悔しそうな顔をして、それでも何度も跳んで──

その背中はただのすごい人じゃなくて、"本気で戦ってる人"のそれだった。

 

(わたしも、がんばらなくっちゃ!!)

 

その背中に、少しでも近づきたいと思った。

 

けれど──

いのりの気持ちは、練習後半の曲かけ練習で、一気に沈んでしまった。

 

「ふ、振り付けが上手くできない……」

 

リンクサイドのベンチに腰を下ろすと、いのりはしょんぼりと身を縮こまらせた。

 

実際に曲に合わせて滑り始めると、足はうまく動かないし、体はこわばってしまう。

頭の中で想像していた演技より、まだまだ劣っている現実に打ちのめされそうになる。

 

(司先生みたいに、綺麗に滑りたいのに……)

 

小さくため息を吐いてうつむいていると、ふいに優しい声が耳に届いた。

 

「お疲れ。……いのりちゃん、ちょっと疲れた?」

 

顔を上げると、葉が汗を拭きながら、隣に腰を下ろしていた。

 

「わ、葉さん……」

 

「なんか顔、しょんぼりしてたから」

 

「ううん、疲れたっていうか……曲かけ、全然うまくいかなくて……」

 

いのりが俯いたままぽつりとこぼすと、葉は静かに頷いた。

 

「そうか……実はね、俺も最初の曲かけの時はほんとひどかったよ。跳べるはずのジャンプは出来ないし、振付も途中ですっぽ抜けるし……」

 

そう言って、葉は恥ずかしそうに笑う。

 

「え、葉さんでも……?」

 

「もちろん。ある程度慣れたと思っても時々間違えちゃってたしね」

 

いのりは驚いたように目を丸くした。

今日の滑りからは、そんな姿はとても想像できなかったから。

 

「だからいのりちゃんの気持ち、すごく分かるよ。なりたい姿があるのに、現実が追いついてないとさ……それだけで、自分が全部ダメに思えちゃったりする」

 

「……はい」

 

「でもね、そうやって落ち込んでるのは"上手くなりたい"って気持ちの裏返しだ。悔しいってことは、ちゃんと前に進もうとしてるってことだから……だから、いのりちゃんも、きっと上手くなれるよ」

 

その言葉は、葉自身がジャンプが跳べないギャップに立ち向かっているからこそ、いのりの胸に染み込んでいった。

彼の姿を見ていて、それがただの慰めの言葉だとは思えなかった。

 

「葉さんは……優しいんですね」

 

「えっ?いや、そんなことないよ」

 

照れ臭そうに頬をかく葉を見ながら、いのりは思い出していた。

 

──光と一緒にスケートリンクを滑った日。クラブの保護者たちに陰口を叩かれて、悲しくて泣いていた時。

 

 

『遅く始めたって、世界に行ける子はいます。子どもが頑張ってる姿、否定するようなことは……大人には言ってほしくないです』

 

 

そう言って、自分のために声を上げてくれたのは、他でもない葉だった。

 

「……あの時も、葉さんはわたしのこと、庇ってくれましたよね」

 

唐突にこぼれたいのりの言葉に、葉がきょとんとする。

 

「え?」

 

「ロッカー室で、クラブのお母さんたちに……その、色々言われてた時。葉さん、ちゃんと文句言ってくれてました」

 

「ああ……うん。あれか」

 

思い出したように葉が笑い、少し恥ずかしそうに頭をかく。

 

「大人気なかったよね。ついムキになって」

 

「そんなことない、です……すごく嬉しかったんです!わたし、何も言えなかったから」

 

いのりは、小さく、けれど確かな声でそう言った。

 

「司先生とはちょっと違うけど……葉さんも、わたしにとって安心できる人なんです……お兄ちゃんがいたら、こんな感じなのかなって」

 

言ってから、少しだけ恥ずかしくなっていのりは俯いた。

 

(なんでだろう。昔、一緒に遊んでくれたからかな。それとも、お姉ちゃんが葉さんのことを"すごい人だよ"って言ってたから?)

 

「わたし……いつか、葉さんみたいに滑れるようになりたいです」

 

その言葉に、葉はふっと微笑んで頷いた。

 

「きっと、なれるよ。焦らなくていい。いのりちゃんのペースで、一歩ずつな」

 

優しくて、どこか力強いその言葉に、胸の奥が温かくなる。

 

「……あの、葉さん。困ったら……また相談してもいいですか?」

 

「もちろん!司さんが嫉妬しない程度だったら、いつでも」

 

司さん練習中凄い褒めてくれるし熱量すごいよね、と笑う葉にいのりもつられて笑った。

 

(まだうまくできないことばっかりだけど……)

 

葉がベンチから離れていった後も、いのりはずっと胸の中に残るその温かさを抱きしめていた。

 

(私も、がんばろう)

 

悔しい。その気持ちはまだ続くだろう。けど、本気で挑む彼の大きな背中が見守ってくれる気がした。




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