氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
夏の気配が、街の空気にゆっくりと混ざり始めていた。
名港杯当日の朝。
大会前のリンクは、まだ静けさに包まれている。
冷たい空気のなか、整氷を終えたばかりの氷面は、一面の鏡のように滑らかで、わずかな光を反射してきらめいている。
売店のシャッターが開く音。スタッフの軽い足音。遠くから聞こえる、子どもたちの笑い声。
観客として訪れたなら、この場所に緊張が漂っているとは気づかないかもしれない。
けれど、地方大会とはいえ、スケーターたちにとっては紛れもなく"本番"だ。
控室へと続く廊下に目を向ければ、スケート靴の音、スタッフの呼びかけ、保護者のざわめき。
氷の上に立つ前から、もう試合は始まっている。
その一角に、ひときわ静かな存在がいた。
廊下の隅で、黙々とストレッチをこなすひとりの青年。
白い髪が目を引くその後ろ姿を、司はしばらくの間、黙って見つめていた。
「葉さんの衣装姿を、こうして大会で見られるのは……いったい何年ぶりになるんだろうな」
誰に向けたわけでもない独り言が、司の口をついた。
かつてノービスの頂点に立ち、"将来の金メダリスト"とまで称された天才スケーター。
リンクを離れていた彼が今、6年ぶりにこの氷の舞台に戻ってきた。
目を凝らすと、その背中には試合前特有の緊張感は感じられる。だがそれ以上に、静かで揺るがぬ意志が、そこにはあった。
(ああ……挑戦者なんだな、今日の葉さんは)
そう思わされるのは、あの目を見れば一目瞭然だった。
この一ヶ月間の練習で何度も見てきた、"挑戦者の目"。
自然と、司の脳裏に葉がクラブ入りしてからの日々が蘇る。
──葉が本格的にリンクへ戻ってきたのは、まだ一ヶ月前のこと。
だというのに、彼の滑りは"戻ってきていた"。
……いや、それは"感覚を取り戻しつつある"という言い方よりも──"進化"していた。
ストロークは滑らかで、ステップは日ごとにしなやかさを増し、スピンはまるで軸に吸い寄せられるように正確だった。
通常、数ヶ月かけてようやく戻る感覚を──葉は、日単位で取り戻していった。
(……やっぱり、すごい選手だよな)
これはお世辞でも、誇張でもない。
指摘すれば即座に反映し、時には指摘の前に自分で答えを出す。
まるで自分自身の滑りを俯瞰し、冷静に見直しているかのように。
"理想の演技"が彼の中にはじめから存在していて、
それをなぞるように体が動いている──そんな錯覚さえ覚えた。
(俺が指導する意味、あるのか……?)
そんなことすら、一瞬、司の頭をよぎった。
けれど──
(いや、そうじゃない)
彼がここまで来られたのは、才能だけじゃない。
氷の上に立つたび、何度も転び、汗まみれになりながら、何度でも立ち上がっていた。
"才能"という言葉だけでは、到底片づけられない。
その影には、間違いなく努力と執念があった。
(選手が頑張ってるのに、俺が迷ってる暇なんてない!)
気がつけば、司の方が喰らいつくように指導していた。
彼の熱量に押され、言葉にも視線にも自然と力がこもっていた。
しかし本音を言えば──
(あと1ヶ月……いや、あと2週間でも多く練習出来ていれば)
息を吐きながら上体を起こす葉を見つめながら、司は歯噛みする。
シニアクラスでは、三回転ルッツやフリップのような高難度ジャンプは“当たり前”だ。
この大会も、決して甘くない。
準備期間の短い葉にとっては、間違いなく厳しい戦いになる。
それでも、彼は「それで勝ちたい」と言った。
本気の滑りだと"証明"するためには自分にできるすべてを懸けて──優勝する滑りを見せなければいけないのだと。
(だったら、俺は信じるしかない!!)
この一ヶ月、彼が見せた努力と執念は本物だった。
司はその努力と執念に敬意を表していた。
葉の視線が上がり、ひとつ息を吐いたその瞬間。
静かだった空間に、ひときわ大きな声が響いた。
「葉!!」
葉の肩を叩いたのは、背の高い青年だった。
筋肉質な体格に、どこか抜けた屈託のない笑顔。その表情には、場慣れした自信のようなものが滲んでいた。
声に顔を上げた葉は、目を丸くする。
「渉人くん!?」
「やっぱりお前か!エントリーで名前見て、まさかなと思ったけど……間違いなかったな。久しぶりだ」
("渉人くん"……そうか、彼が鷗田 渉人選手か)
鷗田 渉人──間京大学のフィギュアスケート部に所属している、シニア選手。
大学2年生という年齢から考えると、葉とはノービス時代の旧知なのだろうと司は推察した。
「久しぶり。俺もエントリー見て気づいてはいたけど、まさかすぐ会えるなんて思わなかった。渉人くんは変わらないね」
「こっちは探すのに苦労したんだぞ。いつの間に名古屋戻ってきてたんだ……フィギュアスケート、またやる気になったのか?」
少しだけ声を潜めて、渉人がそう尋ねたのが司の耳にも届いた。
葉は、一拍置いて首を横に振る。
「いや、競技で本格復帰する訳じゃない。ただ……もう一度、滑ってみたくなったんだ」
その答えに、渉人はほんの一瞬だけ寂しげに目を細めた。
けれど、すぐに笑顔を取り戻す。
「そうか。でも、また滑ってくれるなら俺は嬉しいよ……あの頃の同期も少なくなった。俺は今、間京大学のスケート部で滑ってるんだ」
「間京大学?俺も今年からそこの1年生だよ」
「後輩じゃねえか。そっか、お前も間京か……その割にキャンパスで見かけた事なかったぞ、授業出てるのか?」
疑いの眼差しに、失敬なという顔を浮かべる葉。
「まぁいい。後輩なら今度、部活にも遊びに来い。先輩面させろよ」
葉が苦笑する間もなく、渉人はすでにスマホを取り出していた。
「ほら、連絡先。今登録するから。逃げんなよ」
「え、いや……分かった、分かったって」
無理やり連絡先を押しつける渉人を見ながら、司は心中でつぶやく。
(鷗田選手──彼が、この大会の優勝候補だ)
事前に調べたデータが脳裏に浮かぶ。
昨年、彼は中部ブロックを勝ち抜き、全日本選手権に出場している。
名港杯の出場者の中で、間違いなくトップクラスの実力者だ。
過去の友人が、いま立ちはだかる最大のライバル──
それでも、演技前の二人の空気は穏やかで、懐かしさと少しの照れが混ざっていた。
「今日は手加減しないからな。お前の滑り、楽しみにしてる」
「こっちこそ」
そんな短いやり取りの後、渉人は軽く手を上げて去っていった。
(……葉さんと、昔からの仲なんだな)
そんな面影を重ねながら、司はそっと目元を拭った。
──と、その時。司は周囲のざわめきが高まるとともに、空気がぴりりと張り詰めるのを感じた。
「あんたさ、何ぼーっとしてるわけ?そんなんで大丈夫?」
鋭く響いた声。そこにいたのは、ひときわ目を引く少女だった。
青みがかった黒髪、鋭い眼差し。司はその顔を見てすぐに気づく。
(岡崎いるか選手──!?)
フィギュアスケート連盟が、選抜する有望な選手たち──"強化選手"として将来を嘱望されているスケーター。
そこにいたのは、ジュニアクラスの中でもいま特に注目されている若手選手だった。
(彼女も名港杯に出場するのか……)
だが、それよりも驚いたのは、彼女の態度だった。
葉に向かって、まるで"昔からの知り合い"のように話しかけている。
「あんだけ啖呵切ったくせに、失敗しないでよね」
「なんだよ、気にして声掛けに来てくれたのか?」
「は? 変な勘違いすんな。くそみたいな滑りしたら、絶対許さないって言ってんの」
言い返す葉に、いるかの口調は変わらない。
だが、その目の奥には、期待の色が滲んでいるように見えた。
(まさか──葉さんの元クラブメイトって、彼女のことだったのか……!)
司の胸に、にわかに浮かぶ不安。
ジュニアクラスのトップ選手に、自身の滑りを証明することの難しさ。
だが、その懸念は、葉の落ち着いた様子を見た瞬間、すぐに霧散する。
「お前の演技も楽しみだよ。最近の滑り、まだちゃんと見たことなかったから」
葉の言葉に、いるかの表情がわずかに揺れる。
「……なら、ちゃんと目に焼き付けろよ。見逃したら承知しないから」
堂々とした宣言だった。彼女の目に、確かな闘志と誇りが宿っていた。
司はその光景に、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(……みんな、本気なんだ)
過去の関係も、年齢の差も、関係ない。この氷の舞台に立つ者として、ただ純粋に、真剣に。
司が見ている目の前でいくつもの氷との戦いが繰り広げられている。
「目、逸らさないよ」
葉が小さく応えると、いるかは口元を歪めながら、リンクの方へと歩いていった。
残されたのは、少しだけ騒がしくなった空気。時刻は段々と大会の開始へと近づいていた。
「葉さん」
「あ、司さん、すみません気遣わせちゃいましたね」
「ううん、大丈夫!葉さんに色んな知り合いがいるって分かって良かったよ!」
「はは、気が強い人ばっかりですけどね……でも皆、いい人たちです」
懐かしそうに言いながら、葉は笑った。
「そろそろいのりさんの公開練習の時間だから、俺は移動するけど葉さんはウォーミングアップ続けててね!」
「了解です。もう少しストレッチやったら、俺もいのりちゃんの様子見に行きます」
司はうなずき、リンクへ向かって歩き出す。
その背を振り返ると、葉は静かにストレッチに取り掛かっていた。
その姿に、迷いも気負いも見えない。
変わらぬ背中に、胸を撫で下ろしながら司は思う。
(……この大会は、葉さんにとって本当に厳しい戦いになる)
いのりのもとへ向かう足が、自然と速くなる。
(彼のプログラムは──
(シニアクラスのレベルを考えれば、3回転が当たり前。4回転も跳ばれることを考えるなら、普通は勝ち筋なんてない構成だ)
それでも、葉はその選択をした。
(……無謀じゃない。あれは、あえて覚悟の構成だ)
司の胸に去来するのは、ほんのわずかな不安と、それを上回る期待。
あの静かな決意を見てしまった今──もう、言葉はいらない。
(……俺にできるのは、信じることだけだ)
この選択の意味が正しかったのかどうか──その答えは、やがて氷の上で示される。
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