氷焔の獣ってなんですか? 作:荒島
名港杯初日──初級女子クラス
《12番 結束いのりさん ルクス東山FSC》
いのりにとって、初めての公式戦。
その演技は、シングルアクセルの転倒から幕を開けた。
「……っ」
背中が氷に叩きつけられる衝撃と、客席から漏れるどよめき。
でも──
(……大丈夫っ)
いのりは、氷の冷たさを頬に感じながら、すぐに立ち上がった。
その顔には、笑顔が浮かんでいた。
直前練習のときの失敗の感覚は、まだ体の中に残っている。
ジャンプも、スピンも、何ひとつ思い通りにいかなかった。
それでも、不思議と心は沈まなかった。
『スケートで勝ち負けをやりたい。選手として、メダリストになりたいんだ』
演技前、母に向かって言い切った言葉。
それは、いのりの中で静かに灯る"覚悟の火"になっていた。
『どんな貴方でも、目標まで導くために俺がいる』
リンクへと送り出してくれた司の声も、胸の奥で息づいている。
そして──
何度転んでも立ち上がる、白髪の青年の姿。
あの背中が、力強くいのりを押してくれている。
(風が冷たくて気持ちいい──頭、スッキリしてきた)
会場の空気が、緊張で熱くなっていた思考をすうっと冷ましていく。
鼓動は早いのに、心だけが穏やかになっていた。
次のジャンプを決めると、演技の流れがつながり始める。
ひとつ、またひとつと、丁寧に、慎重に。まるで氷の上に物語を紡ぐように。
"いちごたい焼き作戦"
それは司と決めた戦略。ライバルが2回転ジャンプを飛ぶ中、いのりは2回転ジャンプを捨てて、演技のクオリティで勝負する作戦を取った。
その選択をした直後は、不安や焦りがあった。
でも──
(
司からそう聞かされた時、胸の奥が熱くなった。
あの人もまた、ジャンプの難易度よりも、"演技全てで勝負する"ことを選んだのだ。
3回転ジャンプの感覚が戻り切らない葉は、限られた時間の中でいのりと同じ選択を取った。
すなわち、ジャンプの取得よりも、技の
もちろん、初級クラスとシニアではまったく状況が違う。
男子シニアには3回転ジャンプを跳ぶ選手がいくらでもいる。全国トップ層にもなれば4回転は最低基準だ。
そんな中で2回転中心で挑むのは、並大抵の覚悟ではない。
(私なんかより、ずっと……)
どれほどの覚悟を持って、葉がその選択をしたのか──
いのりには想像することしかできなかった。
それでも、同じリンクで、同じ想いで滑っていると思えるだけで、胸がいっぱいになった。
動きに自然と力が宿っていく。
(最初のジャンプ、失敗しちゃった……このままじゃ、目標の点数に届かない)
ジャンプ構成はすべて終わった。
残されているのは、最後のフライングシットスピン。
──それだけでは、足りない。
いのりの脳裏に、ひとつの選択肢がよぎる。
"ブロークンレッグ"
スピン中、軸を保ちながら上体を逸らし、足を交差させるようにして回る難度の高い派生技。
一度だけ司からその技は、「大会が終わったら、ちゃんと練習しようね」と言われていたものだった。
でもいのりは──こっそり練習していた。
司が、どうすれば高得点につながる構成にできるか、いのりを優勝させてあげられるか、たくさん悩んでいたのを感じていた。
だから少しでも応えたかった。スピンなら、まだ自分にもできる気がした。そう思って、一人でリンクに残って、何度も回った。
『秘密の特訓?かっこいいね』
自主練中、そう喋りかけてくれた葉の声が蘇る。
『俺に、何か手伝えることある?』
隣に立ち、黙って回転のフォームを見守ってくれたあの眼差しが、言葉以上に力をくれた。
──だから、失敗なんてするはずがない。
曲が、ラストの盛り上がりへと向かう。
いのりは一瞬、目を閉じると、全身をスピンに乗せた。
視界がぶれる。遠心力が身体を引く。
でも、軸はぶれない。音楽と意志がひとつになって回っている。
氷の上に、その意志を刻むように。
曲が終わる。
掲げた右手が視界に映る。緊張が解けてきたのか耳の中で鼓動が鳴り響いてる。
天井から視線を下ろすと──司が顔を歪ませて泣いていた。
母と姉が、驚きと誇らしさが入り混じった顔でこちらを見ている。
その少し後ろに、葉がいた。
静かに、でも力強く拍手を送ってくれている。
観客席からも拍手の輪が広がっていく。音がいのりをやさしく包み込んだ。
いのりは、顔を上げ、笑顔で深く一礼をした。
今日この瞬間、1人のフィギュアスケーターがここにいたことを。
氷が、音が、誰かの記憶にそっと刻んでくれますように。
◆
光は、珍しく夜鷹純に逆らった。
「……碧芽選手のSP演技を見てからでも、いいですか」
夜鷹に「夜中のレッスンに向けて早めに帰れ」と言われたとき、光はそう返していた。
名港杯ノービスBを制した今日、すでに彼女の出番は終わっている。
このまま帰って、次の課題に向けた練習に移る──それがいつもの流れのはずだった。
けれど、エントリーリストの中にその名前を見つけた時、光は珍しくコーチの指示に逆らうことを決めた。
「……」
"碧芽"という名を口にした瞬間、空気が少し変わった気がした。
けれど夜鷹は何も言わなかった。視線を落としたまま、静かに背を向けて歩き去る。
(コーチ……怒ったかな?)
そんな思いが一瞬よぎる。
光は観客席の一角に足を運び、人目につかない列に腰を下ろした。
リンクを見下ろすと、氷の上に柔らかなライトが満ちていた。
男子シニアの演技は終盤に差しかかり、実力者たちが次々と滑り出していた。
直前に演技を終えた鷗田選手は、この大会の優勝候補だという。
全日本中部ブロックを制したその実力は本物。
軽やかに跳んだ4回転トゥループが、観客の記憶に焼きついている。
リンクは盛り上がっていた──けれどその歓声の奥に、別の"ざわめき"が生まれているのが光には分かった。
次に呼ばれる、その名前に向けられたざわめき。
かつて、"天才"と呼ばれ、誰よりも氷上を高く跳んでいた選手。
同世代の頂点に立ち、将来を嘱望されながら、ある日突然消えた存在。
光が目指す覇道を先に歩み、理由も語られず、ただ、姿を消した。
その彼が──今、この場所に戻ってくる。
《──碧芽 葉さん ルクス東山FSC》
アナウンスが彼の名を告げた瞬間、ざわめきは一気に広がった。
白髪の青年が、リンクの奥から静かに現れる。その姿に、会場の空気が変わった。
何の装飾もない、ただの歩み。
それなのに、視線が吸い寄せられていく。
姿勢が、所作が、異様なほど整っていた。
氷と一体化するように進むその足取りには、力みも誇示もなかった。
やがて彼はスタートポジションに立ち、ふっと息を整える。
ピン、と張った静寂。
──そして、音楽が始まった瞬間。
空気が一変する。
ブレードが音楽に寄り添い、氷上に滑り出した。
呼吸のように、鼓動のように、音と身体が完全に重なっていく。
2回転のコンビネーション。続くツイヅル。ステップ。
それらはまるで旋律の一部のようで、氷上に音が描かれていくような動きに、光は思わず呼吸を止めていた。
流れるように。美しく。静かに。
観客の視線が、自然と吸い寄せられていく。
けれど──
(……でも)
光は眉を寄せた。
(
かつての彼は、もっと高く跳び、もっと遠くへ飛んでいた。
3回転、4回転を当たり前のように跳んでいたはずだ。
なのに、今はひとつも出てこない。
(跳べなくなったんだ)
言葉にせずとも、理解できた。
身体の成長。重心の変化。バランスの崩れ。
かつての感覚が、まるで別のものになる──それは、フィギュアスケートではありふれた現象だ。
けれど──光は、なぜか目を逸らせなかった。
(なんで……それでも心が動くの?)
ジャンプはすべて2回転。
なのに、そのひとつひとつが美しかった。高さも距離も、3回転と見紛うほどの迫力。
跳ぶ瞬間に宿る"想い"が、深く傾いたブレードから伝わってくる。
スピンの余韻。ターンの静けさ。
すべてに意味があって、言葉にできないなにかが見えてくる。
そこに込められた想いが、氷の粒子のように伝わってくる。
(……似てる)
光は、自分を見ているような錯覚に陥った。
欲しいものに手を伸ばして、一人で滑り続けた時間。
ただ氷と、技術と、自分自身に向き合う日々。
あの孤独な時間を、彼も過ごしていたのだと直感する。
──そして、その"時間"が、今の滑りにすべて刻まれている。
「……っ」
光は拳を握りしめていた。
背筋を伝う汗が、ひどく冷たく感じた。
(……でも、どうして。こんなに寂しいの)
フィニッシュポーズは華やかなはずなのに、心に残るのは静かな切なさだった。
まるで「届かない祈り」のような、儚さ。
本来なら、拍手が沸き起こるはずのその瞬間。
観客の誰もが、声を失っていた。
時が止まったかのような、一瞬の静寂。
そして──
「……っ!」
客席の一角から、鋭い音が響いた。
いのりだった。
感極まったように立ち上がり、懸命に手を叩く。
それを合図に、拍手が一気に広がっていく。
波紋のように、ざわざわと、やがて一つの渦となって会場を包む。
けれど、その中には確かな"温度差"があった。
関係者が集まっている席では、コーチたちの声が低く響いている。
「2回転構成で、ここまで出来るもんなのか……!?」
「スピンとステップ、レベル4ばかりか?GOE、いくつ付く!?」
「ねぇ……彼、本当にブランクあったんだよね?あの完成度……」
一方で、一般の観客席からは別の反応も囁かれている。
「え、あれが天才だって言われてた子?ジャンプ、全然跳んでなくない?」
「2回転ばっかりだったな……でも、なんか綺麗だった。よくわかんないけど……」
その言葉に──心が、軋んだ。
(分からないんだ)
あの滑りの中に、どれだけの時間が込められていたか。
誰にも見られず、ただ一人で滑っていた日々。
氷に刻まれたそれらが、彼の身体を通して語られていたのに。
(……)
光はそっと観客席を離れ、廊下へ出た。
胸の奥に残る、まだ言葉にならない感情を整理したかった。
──夜の練習がある。切り替えなきゃいけない。
(……そうだ。コーチ、探さなきゃ)
さっきの態度で、もしかしたら怒っているかもしれない。
まだ会場には残っているはずだ。目的の演技は見終えたのだから、早く合流しなければ。
廊下を進むごとに、リンクの喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
ほんの数十メートル移動しただけなのに、世界が切り替わったように静かだった。
(……コーチ、見つからないな)
黒づくめの背中を思い浮かべながらしばらく歩いていると──
ふと、前方に白髪の青年の姿が見えた。
(……あ)
先ほどの演技が、胸の奥で静かに揺れた。
すれ違おうとした瞬間、葉の方が立ち止まり、光の方を見て声をかける。
「君、たしか──いのりちゃんの友達だったよね?」
唐突な問いに、光はわずかに瞬きをした。
「……そうですけど、何か」
「いのりちゃん、見かけなかった?ずっと探してて」
光は小さく首を振った。
「観客席にはいたと思いますけど……そこにいなければ、分かりません」
「そっか。どこ行っちゃったんだろう……ありがとう」
葉は思い出したように、光に視線を落とす。
「そういえば──君の演技、すごかったよ。ノービスB優勝、おめでとう」
光は、ほんの少しだけ驚いた。
「演技、見てくれたんですね」
「ノービスのトップの子だもん。気にならないわけないよ」
「ありがとうございます……貴方のさっきの演技も、すごく印象に残りました」
意外な言葉だったのか、葉は照れたように笑って、頭をかいた。
「見てくれたんだ、ありがとう。ちょっと恥ずかしいな」
少しの会話の間。短い沈黙が落ちる。
迷いが、光の唇を震わせる。しかし、開かれた口は言葉を紡いだ。
「……なぜ、戻ってきたんですか」
声は淡々としていた。けれど、その響きには微かに揺れるものがあった。
一見なんでもない問いのようでいて──そこには抑えきれない何かが滲んでいた。
葉は一瞬だけ視線を落とし、少し肩をすくめた。
「まあ……いろいろあったんだよ」
面識の浅い相手に、わざわざ語る話でもない。
葉の言葉には、どこか話を流そうとするような、ごまかしの調子が滲んでいた。
だが──光は、目を逸らさなかった。
まっすぐに、静かに、ただ葉を見つめていた。
「って、それだけじゃ君にはだめそうだね」
葉は少し苦笑すると、光の真剣な眼差しに、静かに口を開いた。
「……本当にいろんなことがあったんだよ。スケートから逃げてた自覚もあるし、怖かったんだと思う。滑ることで誰かを傷つけた気がして、自分がリンクに立つ資格なんてないって──ずっと、そう思ってた」
光は言葉を挟まず、ただじっと聞いていた。
葉は、ふっと小さく笑う。
「でもあるとき、それは違うって言ってくれる人がいたんだ。自分が思ってるより、ちゃんと見ててくれた強い人がいて……それでね、少しだけ、救われた気がした」
言葉を探すようにしながら、続ける。
「少しだけ、自分の過去を認めてみたくなった。逃げてたんじゃなくて、あれも確かに"頑張ってた"時間だったって。だから……今の自分が本気で滑ることで、それを証明したくなったんだ」
小さく照れたように肩をすくめて、言う。
「かっこつけて言えば、"自分への証明"かな。でも、結局は──ただ、もう一度だけ滑りたかっただけかもしれない」
語りながら、葉の表情にはどこか達観したような、そしてほんの少し、恥ずかしさを隠すような照れが混じっていた。
光は、目を伏せたまま、その言葉を胸に落とし込むように黙っていた。
そんな光に、葉の方から問いを返す。
「……君は、スケート、滑ってて楽しい?」
柔らかな声だった。けれど、それはまっすぐで、どこか逃げ場のない問いだった。
光は思わずまばたきし、返事をしようとする──が、言葉が出てこない。
その一瞬の沈黙を察したように、葉は手を軽く振って、微笑む。
「ごめん、難しいことを言いたいんじゃないんだ。ただ──」
言葉を選ぶように、静かに続ける。
「君、勝っても本当に嬉しそうに見えなかった。笑ってるけど、まるで自分の功績じゃないように……そんなふうに、感じたから」
光の胸が、ほんのわずか軋む。
なぜ、この人はそんな見抜くような事を言うんだろう。
けれど、問い返すことも、否定することもできなかった。
葉はそれ以上何も言わず、肩を軽くすくめる。
「……ごめんね、別に答えを求めてるわけじゃないよ」
そう言って、ふっと表情を変える。
「うちのいのりちゃん、まだ初級だけど──いつか君のところまでたどり着くかもしれない」
光がわずかに目を見開く。
「君と、金メダルを奪い合うようなライバルになったら……そのときは、もっと楽しいスケートができるかもしれないね」
その言葉は、まるで光の"孤独"に、そっと触れるようだった。
何も言い返せなかった。
胸の奥で何かがきゅっと締まるのを感じた。
葉はにこりと笑って、軽く頭を下げる。
「じゃあ、俺はいのりちゃんを探してくるね。また」
白髪の背中が、静かに遠ざかっていく。
「……明日のFPも、頑張ってください」
「ありがとう」と去り際に返す青年の姿を、光は黙って見送った。
胸の奥に、ざらりとした何かが残った。
言葉にはできなかったが、それは確かに、葉の言葉によって刻まれたものだった。
※補足:名港杯の日程
1日目(初級女子FS、ノービスB女子FS、シニア男子SP 他)
2日目(シニア男子FS 他)
お気に入り・評価いただいた方々感謝です!感想・誤字報告もいつもありがとうございます!!