氷焔の獣ってなんですか?   作:荒島

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08 名港杯(上) まだ名前のない共鳴

名港杯初日──初級女子クラスFS(フリースケーティング)

 

《12番 結束いのりさん ルクス東山FSC》

 

いのりにとって、初めての公式戦。

その演技は、シングルアクセルの転倒から幕を開けた。

 

「……っ」

 

背中が氷に叩きつけられる衝撃と、客席から漏れるどよめき。

でも──

 

(……大丈夫っ)

 

いのりは、氷の冷たさを頬に感じながら、すぐに立ち上がった。

その顔には、笑顔が浮かんでいた。

 

直前練習のときの失敗の感覚は、まだ体の中に残っている。

ジャンプも、スピンも、何ひとつ思い通りにいかなかった。

 

それでも、不思議と心は沈まなかった。

 

『スケートで勝ち負けをやりたい。選手として、メダリストになりたいんだ』

 

演技前、母に向かって言い切った言葉。

それは、いのりの中で静かに灯る"覚悟の火"になっていた。

 

『どんな貴方でも、目標まで導くために俺がいる』

 

リンクへと送り出してくれた司の声も、胸の奥で息づいている。

 

そして──

何度転んでも立ち上がる、白髪の青年の姿。

あの背中が、力強くいのりを押してくれている。

 

(風が冷たくて気持ちいい──頭、スッキリしてきた)

 

会場の空気が、緊張で熱くなっていた思考をすうっと冷ましていく。

鼓動は早いのに、心だけが穏やかになっていた。

 

次のジャンプを決めると、演技の流れがつながり始める。

ひとつ、またひとつと、丁寧に、慎重に。まるで氷の上に物語を紡ぐように。

 

"いちごたい焼き作戦"

 

それは司と決めた戦略。ライバルが2回転ジャンプを飛ぶ中、いのりは2回転ジャンプを捨てて、演技のクオリティで勝負する作戦を取った。

その選択をした直後は、不安や焦りがあった。

 

でも──

 

()()()()()()()()()()()()()って……)

 

司からそう聞かされた時、胸の奥が熱くなった。

あの人もまた、ジャンプの難易度よりも、"演技全てで勝負する"ことを選んだのだ。

 

3回転ジャンプの感覚が戻り切らない葉は、限られた時間の中でいのりと同じ選択を取った。

すなわち、ジャンプの取得よりも、技のGOE(出来栄え点)PCS(演技構成点)でのボーナス得点を狙いに行く作戦。

 

もちろん、初級クラスとシニアではまったく状況が違う。

男子シニアには3回転ジャンプを跳ぶ選手がいくらでもいる。全国トップ層にもなれば4回転は最低基準だ。

そんな中で2回転中心で挑むのは、並大抵の覚悟ではない。

 

(私なんかより、ずっと……)

 

どれほどの覚悟を持って、葉がその選択をしたのか──

いのりには想像することしかできなかった。

それでも、同じリンクで、同じ想いで滑っていると思えるだけで、胸がいっぱいになった。

 

動きに自然と力が宿っていく。

 

(最初のジャンプ、失敗しちゃった……このままじゃ、目標の点数に届かない)

 

ジャンプ構成はすべて終わった。

残されているのは、最後のフライングシットスピン。

 

──それだけでは、足りない。

 

いのりの脳裏に、ひとつの選択肢がよぎる。

 

"ブロークンレッグ"

 

スピン中、軸を保ちながら上体を逸らし、足を交差させるようにして回る難度の高い派生技。

一度だけ司からその技は、「大会が終わったら、ちゃんと練習しようね」と言われていたものだった。

でもいのりは──こっそり練習していた。

 

司が、どうすれば高得点につながる構成にできるか、いのりを優勝させてあげられるか、たくさん悩んでいたのを感じていた。

だから少しでも応えたかった。スピンなら、まだ自分にもできる気がした。そう思って、一人でリンクに残って、何度も回った。

 

『秘密の特訓?かっこいいね』

 

自主練中、そう喋りかけてくれた葉の声が蘇る。

 

『俺に、何か手伝えることある?』

 

隣に立ち、黙って回転のフォームを見守ってくれたあの眼差しが、言葉以上に力をくれた。

 

──だから、失敗なんてするはずがない。

 

曲が、ラストの盛り上がりへと向かう。

いのりは一瞬、目を閉じると、全身をスピンに乗せた。

 

視界がぶれる。遠心力が身体を引く。

でも、軸はぶれない。音楽と意志がひとつになって回っている。

 

氷の上に、その意志を刻むように。

 

曲が終わる。

掲げた右手が視界に映る。緊張が解けてきたのか耳の中で鼓動が鳴り響いてる。

 

天井から視線を下ろすと──司が顔を歪ませて泣いていた。

母と姉が、驚きと誇らしさが入り混じった顔でこちらを見ている。

 

その少し後ろに、葉がいた。

静かに、でも力強く拍手を送ってくれている。

 

観客席からも拍手の輪が広がっていく。音がいのりをやさしく包み込んだ。

 

いのりは、顔を上げ、笑顔で深く一礼をした。

今日この瞬間、1人のフィギュアスケーターがここにいたことを。

氷が、音が、誰かの記憶にそっと刻んでくれますように。

 

 

 

 

光は、珍しく夜鷹純に逆らった。

 

「……碧芽選手のSP演技を見てからでも、いいですか」

 

夜鷹に「夜中のレッスンに向けて早めに帰れ」と言われたとき、光はそう返していた。

名港杯ノービスBを制した今日、すでに彼女の出番は終わっている。

このまま帰って、次の課題に向けた練習に移る──それがいつもの流れのはずだった。

 

けれど、エントリーリストの中にその名前を見つけた時、光は珍しくコーチの指示に逆らうことを決めた。

 

「……」

 

"碧芽"という名を口にした瞬間、空気が少し変わった気がした。

けれど夜鷹は何も言わなかった。視線を落としたまま、静かに背を向けて歩き去る。

 

(コーチ……怒ったかな?)

 

そんな思いが一瞬よぎる。

光は観客席の一角に足を運び、人目につかない列に腰を下ろした。

 

リンクを見下ろすと、氷の上に柔らかなライトが満ちていた。

男子シニアの演技は終盤に差しかかり、実力者たちが次々と滑り出していた。

 

直前に演技を終えた鷗田選手は、この大会の優勝候補だという。

全日本中部ブロックを制したその実力は本物。

軽やかに跳んだ4回転トゥループが、観客の記憶に焼きついている。

 

リンクは盛り上がっていた──けれどその歓声の奥に、別の"ざわめき"が生まれているのが光には分かった。

 

次に呼ばれる、その名前に向けられたざわめき。

 

かつて、"天才"と呼ばれ、誰よりも氷上を高く跳んでいた選手。

同世代の頂点に立ち、将来を嘱望されながら、ある日突然消えた存在。

 

光が目指す覇道を先に歩み、理由も語られず、ただ、姿を消した。

その彼が──今、この場所に戻ってくる。

 

《──碧芽 葉さん ルクス東山FSC》

 

アナウンスが彼の名を告げた瞬間、ざわめきは一気に広がった。

白髪の青年が、リンクの奥から静かに現れる。その姿に、会場の空気が変わった。

 

何の装飾もない、ただの歩み。

それなのに、視線が吸い寄せられていく。

 

姿勢が、所作が、異様なほど整っていた。

氷と一体化するように進むその足取りには、力みも誇示もなかった。

 

やがて彼はスタートポジションに立ち、ふっと息を整える。

 

ピン、と張った静寂。

 

──そして、音楽が始まった瞬間。

 

空気が一変する。

 

ブレードが音楽に寄り添い、氷上に滑り出した。

呼吸のように、鼓動のように、音と身体が完全に重なっていく。

 

2回転のコンビネーション。続くツイヅル。ステップ。

それらはまるで旋律の一部のようで、氷上に音が描かれていくような動きに、光は思わず呼吸を止めていた。

 

流れるように。美しく。静かに。

 

観客の視線が、自然と吸い寄せられていく。

 

けれど──

 

(……でも)

 

光は眉を寄せた。

 

()()()2()()()()()()()

 

かつての彼は、もっと高く跳び、もっと遠くへ飛んでいた。

3回転、4回転を当たり前のように跳んでいたはずだ。

 

なのに、今はひとつも出てこない。

 

(跳べなくなったんだ)

 

言葉にせずとも、理解できた。

 

身体の成長。重心の変化。バランスの崩れ。

かつての感覚が、まるで別のものになる──それは、フィギュアスケートではありふれた現象だ。

 

けれど──光は、なぜか目を逸らせなかった。

 

(なんで……それでも心が動くの?)

 

ジャンプはすべて2回転。

なのに、そのひとつひとつが美しかった。高さも距離も、3回転と見紛うほどの迫力。

跳ぶ瞬間に宿る"想い"が、深く傾いたブレードから伝わってくる。

 

スピンの余韻。ターンの静けさ。

すべてに意味があって、言葉にできないなにかが見えてくる。

そこに込められた想いが、氷の粒子のように伝わってくる。

 

(……似てる)

 

光は、自分を見ているような錯覚に陥った。

 

欲しいものに手を伸ばして、一人で滑り続けた時間。

ただ氷と、技術と、自分自身に向き合う日々。

 

あの孤独な時間を、彼も過ごしていたのだと直感する。

 

──そして、その"時間"が、今の滑りにすべて刻まれている。

 

「……っ」

 

光は拳を握りしめていた。

背筋を伝う汗が、ひどく冷たく感じた。

 

(……でも、どうして。こんなに寂しいの)

 

フィニッシュポーズは華やかなはずなのに、心に残るのは静かな切なさだった。

まるで「届かない祈り」のような、儚さ。

 

本来なら、拍手が沸き起こるはずのその瞬間。

観客の誰もが、声を失っていた。

時が止まったかのような、一瞬の静寂。

 

そして──

 

「……っ!」

 

客席の一角から、鋭い音が響いた。

いのりだった。

 

感極まったように立ち上がり、懸命に手を叩く。

 

それを合図に、拍手が一気に広がっていく。

波紋のように、ざわざわと、やがて一つの渦となって会場を包む。

 

けれど、その中には確かな"温度差"があった。

 

関係者が集まっている席では、コーチたちの声が低く響いている。

 

「2回転構成で、ここまで出来るもんなのか……!?」

 

「スピンとステップ、レベル4ばかりか?GOE、いくつ付く!?」

 

「ねぇ……彼、本当にブランクあったんだよね?あの完成度……」

 

一方で、一般の観客席からは別の反応も囁かれている。

 

「え、あれが天才だって言われてた子?ジャンプ、全然跳んでなくない?」

 

「2回転ばっかりだったな……でも、なんか綺麗だった。よくわかんないけど……」

 

その言葉に──心が、軋んだ。

 

(分からないんだ)

 

あの滑りの中に、どれだけの時間が込められていたか。

誰にも見られず、ただ一人で滑っていた日々。

氷に刻まれたそれらが、彼の身体を通して語られていたのに。

 

(……)

 

光はそっと観客席を離れ、廊下へ出た。

胸の奥に残る、まだ言葉にならない感情を整理したかった。

 

──夜の練習がある。切り替えなきゃいけない。

 

(……そうだ。コーチ、探さなきゃ)

 

さっきの態度で、もしかしたら怒っているかもしれない。

まだ会場には残っているはずだ。目的の演技は見終えたのだから、早く合流しなければ。

 

廊下を進むごとに、リンクの喧騒が少しずつ遠ざかっていく。

ほんの数十メートル移動しただけなのに、世界が切り替わったように静かだった。

 

(……コーチ、見つからないな)

 

黒づくめの背中を思い浮かべながらしばらく歩いていると──

ふと、前方に白髪の青年の姿が見えた。

 

(……あ)

 

先ほどの演技が、胸の奥で静かに揺れた。

すれ違おうとした瞬間、葉の方が立ち止まり、光の方を見て声をかける。

 

「君、たしか──いのりちゃんの友達だったよね?」

 

唐突な問いに、光はわずかに瞬きをした。

 

「……そうですけど、何か」

 

「いのりちゃん、見かけなかった?ずっと探してて」

 

光は小さく首を振った。

 

「観客席にはいたと思いますけど……そこにいなければ、分かりません」

 

「そっか。どこ行っちゃったんだろう……ありがとう」

 

葉は思い出したように、光に視線を落とす。

 

「そういえば──君の演技、すごかったよ。ノービスB優勝、おめでとう」

 

光は、ほんの少しだけ驚いた。

 

「演技、見てくれたんですね」

 

「ノービスのトップの子だもん。気にならないわけないよ」

 

「ありがとうございます……貴方のさっきの演技も、すごく印象に残りました」

 

意外な言葉だったのか、葉は照れたように笑って、頭をかいた。

 

「見てくれたんだ、ありがとう。ちょっと恥ずかしいな」

 

少しの会話の間。短い沈黙が落ちる。

迷いが、光の唇を震わせる。しかし、開かれた口は言葉を紡いだ。

 

「……なぜ、戻ってきたんですか」

 

声は淡々としていた。けれど、その響きには微かに揺れるものがあった。

一見なんでもない問いのようでいて──そこには抑えきれない何かが滲んでいた。

 

葉は一瞬だけ視線を落とし、少し肩をすくめた。

 

「まあ……いろいろあったんだよ」

 

面識の浅い相手に、わざわざ語る話でもない。

葉の言葉には、どこか話を流そうとするような、ごまかしの調子が滲んでいた。

 

だが──光は、目を逸らさなかった。

まっすぐに、静かに、ただ葉を見つめていた。

 

「って、それだけじゃ君にはだめそうだね」

 

葉は少し苦笑すると、光の真剣な眼差しに、静かに口を開いた。

 

「……本当にいろんなことがあったんだよ。スケートから逃げてた自覚もあるし、怖かったんだと思う。滑ることで誰かを傷つけた気がして、自分がリンクに立つ資格なんてないって──ずっと、そう思ってた」

 

光は言葉を挟まず、ただじっと聞いていた。

葉は、ふっと小さく笑う。

 

「でもあるとき、それは違うって言ってくれる人がいたんだ。自分が思ってるより、ちゃんと見ててくれた強い人がいて……それでね、少しだけ、救われた気がした」

 

言葉を探すようにしながら、続ける。

 

「少しだけ、自分の過去を認めてみたくなった。逃げてたんじゃなくて、あれも確かに"頑張ってた"時間だったって。だから……今の自分が本気で滑ることで、それを証明したくなったんだ」

 

小さく照れたように肩をすくめて、言う。

 

「かっこつけて言えば、"自分への証明"かな。でも、結局は──ただ、もう一度だけ滑りたかっただけかもしれない」

 

語りながら、葉の表情にはどこか達観したような、そしてほんの少し、恥ずかしさを隠すような照れが混じっていた。

光は、目を伏せたまま、その言葉を胸に落とし込むように黙っていた。

 

そんな光に、葉の方から問いを返す。

 

「……君は、スケート、滑ってて楽しい?」

 

柔らかな声だった。けれど、それはまっすぐで、どこか逃げ場のない問いだった。

光は思わずまばたきし、返事をしようとする──が、言葉が出てこない。

 

その一瞬の沈黙を察したように、葉は手を軽く振って、微笑む。

 

「ごめん、難しいことを言いたいんじゃないんだ。ただ──」

 

言葉を選ぶように、静かに続ける。

 

「君、勝っても本当に嬉しそうに見えなかった。笑ってるけど、まるで自分の功績じゃないように……そんなふうに、感じたから」

 

光の胸が、ほんのわずか軋む。

なぜ、この人はそんな見抜くような事を言うんだろう。

 

けれど、問い返すことも、否定することもできなかった。

葉はそれ以上何も言わず、肩を軽くすくめる。

 

「……ごめんね、別に答えを求めてるわけじゃないよ」

 

そう言って、ふっと表情を変える。

 

「うちのいのりちゃん、まだ初級だけど──いつか君のところまでたどり着くかもしれない」

 

光がわずかに目を見開く。

 

「君と、金メダルを奪い合うようなライバルになったら……そのときは、もっと楽しいスケートができるかもしれないね」

 

その言葉は、まるで光の"孤独"に、そっと触れるようだった。

 

何も言い返せなかった。

胸の奥で何かがきゅっと締まるのを感じた。

 

葉はにこりと笑って、軽く頭を下げる。

 

「じゃあ、俺はいのりちゃんを探してくるね。また」

 

白髪の背中が、静かに遠ざかっていく。

 

「……明日のFPも、頑張ってください」

 

「ありがとう」と去り際に返す青年の姿を、光は黙って見送った。

 

胸の奥に、ざらりとした何かが残った。

言葉にはできなかったが、それは確かに、葉の言葉によって刻まれたものだった。




※補足:名港杯の日程
1日目(初級女子FS、ノービスB女子FS、シニア男子SP 他)
2日目(シニア男子FS 他)

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