えーんママ―ッッ!!やっぱりお家に帰りたいよーッッ!!!
初めは人間の事を見下していた一反木綿ですが、とある人間との出会いが彼の心に変化をもたらして……?一反木綿は何のために産まれ、何のために生き何の為に死ぬのか……これはとある妖怪の長ーい人生を描いた一反の物語。
もしよろしければ、彼の人生をどうかご一緒にお見守り下さい。
むかーし昔のその昔、洗濯1つ行うにもゼンマイ仕掛けの便利なカラクリなど存在せず、全てを人の手が扱っておりましたそんな時代。
人で賑わう城下町には、荷品を運ぶ馬々の軽快な足取りと共に百姓共の笑い声が溢れています。
ところがそこへ。
ひゅらーり、ひゅらり。
「おいお前ぇ、あれ見てみぃ!」
「あんれ、夜着かや?」
「いやいや夜着にしてみれば細すぎるばい」
「そいじゃあ蒲団かぁ?」
「どこのもんか知らんが、気の毒なこったなぁ」
田植えに勤しむ夫婦がふと上を見上げれば、なんと一反はあろうかという大きな布が空を舞っているではありませんか。
容易には取り換えのきかぬ蒲団が風に流されるのを遠目に目撃し、夫婦はいとも哀し気な感情を抱いたそうな。
しかし案ずることなかれ。
ひとたび陽が落ちて、それでも未だにその布が宙を彷徨っているのならば夫婦が確認すべきは家屋の戸が一寸の隙間も無くピッチリと閉じられていることであろう。少しでも隙間を見せつければ、そ奴はどこからでも入り込んできてしまう。
慢心することなかれ。
ーその白き妖に、愛する者の人魂を連れていかれたくないのであれば…………。
「吾輩の名は一反木綿である。」
吹き荒れる木枯らしを肌に感じ、背後から照らされた月明かりによって透けた右拳を握り締めつつそう呟いた。
……うん、今のは中々良い口上では無かっただろうか。
目出度い旅立ちの夜に、己の存在を再確認するよう自慢げに頷く己の姿は端から見てどう映っただろう。滑稽に見られたか、のうそこの烏よ。
しかしそんなことはどうでも良い。
「さあ、今宵はどの肉を味わうか…ふふふ…」
何故なら今この俺には為すべき定めがあるのだから。この強風に身を委ねてサーフィンに興じること?確かにそれも好きだが……違う違う、そんな生易しいものでは無いぞ。そう、その定めとはズバリ。
「愚かなる人間どもに万死を!!」
藁ぶきで造られたちっぽけな家屋群を見下ろしジュルリと舌なめずりをする。半刻後の胃袋の様子を想像してしまえば涎が止まらぬようだ。
人間を捕食する、という行いに大した意味は無い。
山の獣は熟々とした草葉を食し、人間はその獣共を飼育しまた喰らう。我々とて同じだ。充分に肥えた人間を喰らい生を持続する、ただそれだけのありふれた食物連鎖の関係。空も飛べぬし面倒な調理などしてやらなくては胃袋の一つもまともに満たせぬ、そんな脆弱かつ圧倒的な劣等種であるこいつらをこの一反木綿様が有難ーく食してやろうというワケである。
とはいえ、だ。
闇雲に人里へ降り立ちいざ実食! という訳にも行かぬのがどうにも歯痒いところである。一匹一匹は大したことも無いが、寄り集まれば竜をも焼き尽くす大炎になるのが人間の恐ろしいところ。数は何にも勝る、とかいうやつだ。手始めにそこの小屋に一人で暮らす老父でも狙って前菜を食すとするか……紙の様に細い腕を組んでそう考えた時である。
「待ってぇーーーーーーっ」
「む?」
夜空に響いた子供の声を耳に入れはたと下を向けば、おおいるではないか。適度に脂が付いて食べ頃の実に旨そうなメスの人間が。
どうやら強風に煽られ飛んだ敷き物を追ってこの畦道に走ってきたようだ。せめて二匹掛かりでなら逃げの目もあったろうが……運の無い小娘よ。
その子供の愚かしい行動に内心憐れみを恵んでやりつつ……風と共に身体の動きを加速させ、瞬く間に標的の目の前まで移動して見せる。
目の前に佇む、一見して何の害も無さそうである純白の布切れ。あっと目を見開いたその小さな隙さえ見せてしまえばもう終いだ。
尾の先を首に巻き付け一瞬で窒息死させる。食事に、生きることに力など必要ないのである。と内心ほくそ笑む。
そうして小娘の首に身体を巻き付けた………
筈、であったのに。
「あ、やっと見つけたー! 」
「は?」
掴まれた。
身体を、こう、ガシッと。締め付けようとした尾っぽはすんでのところで小娘の首筋に触れず、代わりに尋常でない力でその動きを封じられていた。
身体が動かない。
比喩などでは無く、枷でも嵌められたかの如く本当に動けぬのだ。無論力加減などしよう筈もない。
焦燥。
この時の俺の心に覆い被さった感情はそれであった。この世に産まれ堕ち早数10年。両親に笑顔で送り出してもらった数週間前の記憶が迸る。
冗談では済まぬ!!
こんな小娘一人に完封されるなど冗談では済まされぬと躍起になって暴れまわる此方の様子も何処へ吹く風。
小娘は意気揚々と、掴んだ手を緩めぬまま灯りへ向かって走り始めてしまったのだ。
「おっとうの蒲団、飛ばされてしもた時は焦ったの」
どうやら、本物の蒲団だと勘違いしている様子だった。人間とは思えぬ凄まじい怪力でみるみる身体が引き摺られていく。
うつ伏せになった顔面に向かって猛スピードで飛来する砂粒に砂利を耐え忍ぶだけで此方は限界だ。
まともな抵抗など出来ようも無く、あっという間に家屋まで連れられてしまった。庭が付いた、そこそこに立派なものだ。
「おっかあー、蒲団拾ってきたー」
「おぉ、あんがとなぁ。そいじゃあまた干しといてくれぇ」
それからの仕打ちと言ったら、まあ酷いなんて言葉で言い表せるもんでも無かった。まず、引き摺られて砂まみれになった身体は洗浄の為タライに付けられ丹念に水分を含ませられる。紙でできたこの身体にとっては言うまでも無く、それは毒だ。
(なんちゅう仕打ちだ、濡らされたら飛べもしなくなってしまう)
おまけに水漬けが終われば今度は天日干しだ。脇腹の辺りに留め具を挟まれ、竿の上に固定される。この留め具のまあ何とも痛いこと痛いこと。
小娘が家に入り明かりも消えたところで脱走を企てたが、この貧相な腕力で留め具を外すことなど到底敵わなかった。うんともすんとも言わぬ留め具から手を離し項垂れる。今ばかりは、この軽量特化の肉体を恨みつつも……憎たらしいぐらいに眩い星々を散らす夜空へ向かってため息をついた。
(数刻前までは心躍らせていたというのに……たかが小娘一人)
一反木綿は涙など流さない。……ただ、その代わりに身体から滴る水滴音だけが静かに。それでいて、規則正しく水打つのを聞きながら。
しかし、一反木綿がこのような屈辱的な目に遭うのもそう奇々怪々な話では無かった。何故なら小娘その性を『雷電』と言った。そう、且つては信濃の国で天下無双の伝説を象った最強の相撲取り、雷電為衛門の子孫であったのだ。彼のその人並みを外れた大怪力は時代を超えて後世へと継がれてゆき……江戸の時代に蘇りし村一番の怪力女がその小娘であった。
それに捕まってしまえば、かの一反木綿と言えど太刀打ちなど出来よう筈もない。が、そんなことを一反木綿は知る由も無く……
あまりの激痛により、一反木綿は終ぞひと時たりとも睡眠を貪れず朝を迎えたのである。
「あー! また飛んでってしもうたよ…」
「あんれまぁ」
(ひ、酷い目に遭った……)
全くもって、地獄に等しい一夜であったが何とか生き永らえたぞ! 昨日に比べればさして強い風が唸っている訳でもないが故に、多少の無理はあったかもしれぬが……俺を取り込もうと、留め具を外した隙を縫って飛び出してやったのだ。正しくして悪魔が如き一家であった。
去り際に絞め殺してやろうとも思ったが、まともに睡眠も摂っておらぬこの身体では上手くいくか分からぬ。逃げるが先と判断しての逃走だった。
暫く飛んで行ったところで土の上にへたり込む。どこぞの家の庭かも分からなかったが、何より襲い来る睡魔に対し瞼を開いているのが限界だったのだ。
腰を痛めつけていた留め具から解放された安堵も助力し、俺はその場で眠りについてしまったのだ………
そこへ歩み寄る、また別の影があったことにも気付きはせずに。
「おや、良い半紙……」
ピチョリ、ピチョリ…………
何やら小気味の良い水音が聞こえる。ヌメリとした感覚と共に、身体に湿り気が増していくのが夢うつつながらも理解出来た。
朧気ながらに意識が覚醒していけば、眼前に映ったのは見知らぬ天井。
そして無邪気な顔で俺の身体を囲む子供達……
(…………何故!?)
おかしい、俺は確か土の上で眠りこけて……
「にしてもこんなええ紙、よう見つけたな先生!!」
「いんやぁ、運良く庭に転がっとって得したばい。吉書初めにはもってこいだのぉ!!」
そういうことか…………!!!
遅ればせながら、子供とその先生と呼ばれた男の会話から己の現状を察することが出来た。
ここは寺子屋。書初め用の半紙として体よく利用されたということだ……!!
ベトベトと容赦なく擦り付けられる、不快な墨の感覚に歯軋りしながら怒りを募らせる。
この者達は、この俺を一体誰だと心得ているのか。俺は一反木綿だ、お前ら下等生物を一方的に搾取し続ける、一反木綿様だぞ!!!
今すぐ全員絞め殺してやろうかと思ったがまだ早い。夜が更けるのを待ち、一匹ずつ一匹ずつ……
嬲るように、凄惨な呻き声を堪能しながらブチ殺してやろうと。飛び出しそうになる尾っぽを宥めて懸命に待った。
ぺとぺと。
半刻が過ぎても子供らの手が止まる気配はない。もうしばし。
ぺとぺと。
更に半刻が過ぎても動きは止まぬ。もうしばし…………墨の気持ち悪い感覚にも慣れ始め、気を抜いていたそんな時だった。
気を張り続け、ともすれば避け得た事態だったのかもしれぬ。天井のシミの数を呆けて数えていれば、とある幼子が声を発したのだ。
「なあ先生、こん紙長くないかや?」
「んだなぁ、切るか」
は?
その直後、身体を迸ったのは痛烈な刺激。
ジョキンと、鉄の鋏で尾っぽを切断されたことによる激痛が全身を駆け巡った!
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いッッッッッ!!!!!
未だかつてないほどの痛みに脳味噌が破裂するのかと思った。仰け反りそうになる身体を必死に抑えるので精いっぱいで、時の流れなど数えられるべくも無い。俺は一反木綿だぞ!!?? 人間なんぞよりもずっと、ずーっと偉いのに、どうして俺がこんな目に遭う必要がある!!!??
次に気が付いた時には日も暮れ、寺子屋の中に人の影は無かった。
痛む身体を抱えて、彷徨うように飛ぶ。
数刻ばかり移動したところで、とある河原にと到着した。人っ子一人見えぬ辺境の山奥だ。
風のせせらぎによって揺れる木々の葉鳴りを耳に入れつつも、川へと身を入れその身体を清める。最早白い箇所の方が少なくなってしまった、人里の子らによって弄ばれた墨汁をそぎ落とすためだ。
老婆が、夜着にこびり付いた垢を落とすが様に水を揉み込み擦り落としていく。
ジャブジャブ、ジャブジャブ。
「……何とも愚かしいことよ…」
川水の鏡面に反射せし己の顔面を見つめて嘆いた。
何とも、何と滑稽な姿であろうか。人を喰らってやると、下等生物だと嘲っておいて何たる様であろうか。身体にこびり付いた汚れを必死に洗い流す己の姿があまりに惨めで、あまりに可哀想で。一反木綿の顔に泥を塗ったその事実が悔しくて悔しくて、涙が出そうだった。
…………最早、最早あの恐ろしい生き物に近付いてやろうなどという強い意志はとうに叩き折られていた。
俺にはまだ早かったのだ。
げに寂しく、それでいて小さく一言、ポツリと呟いた。
「……帰ろう」
里へ帰り、両親に謝ろう。
俺は終ぞ人間の一人も殺せなかったばかりか、あわや一反木綿の命と同義であるその身体を千切られてしまったこと。
自慢の白布を醜い純黒に汚されてしまったこと。
人間が心底恐ろしく、使命を全うできる気も起らないこと。
優しく旅立ちを支えてくれた両親であればきっと、快く迎え入れてくれて……
そう、甘く考えていたのが間違いだった。
「何故っ、帰って来たッッ!!!」
「………………え」
バシーンッ! と、乾いた音が響いて俺はその場に倒れ込んだ。実の父に叩かれたと気付くのには時間が掛かり、茫然として父の姿を見上げる。
その顔面に取り付けられた両目は今までに見たことが無い程に吊り上がっており、その白布は血泉に浸かったが如く真っ赤に染め上がっている。
こちらが口を開くのも待たずに、父は罵詈雑言を浴びせにかかる。
「人っ子一人殺せなかっただとっ、この間抜けが!! 悔しくないのか道連れにしてでもその魂を喰らってやろうという気概は無いのかっ、もうお前にはガッカリだ!!」
「ちょ……ちょっと待っ…」
「そもそもとしてっ、お前は昔から軟弱者だった!!風に煽られる羽虫一匹も見殺しに出来ず、どこまで腐った軟弱な性根を持っとるんだお前は!!!」
「出ていけッ!!!一反木綿の面汚しがッ、もう顔も見たくない!!!!!」
父はそこまで一息に吐き出すと、呼吸を荒らして吠えるように威嚇を行った。
突然の排斥を言い渡され、此方の心はついていけない。せめて弁明を、と震える声で会話を促すも一切が無意味であった。
「せ……せめて母さんに…」
「アイツはお前に会いたくないそうだ。一反木綿の面子を潰した『出来損ない』のお前にはなッッ!!!!!」
唯一の頼み綱であった母にすら見放され、泣きそうだった。否、既に涙が零れていた。
それでも尚、でも、でもと食い下がれば蒸気の唸るやかんを見せつけられた。一刻も早く里を離れねばこの熱湯を浴びせると。その言葉が皮切りだった。かつての優しい父は、もういないのだ。
「あ、あああああああああああッッッッッ!!!!!!」
脱兎のごとく里を飛び出る。里の者達に石を投げつけられ、いくら泣き喚こうがそれを配慮する者など何処にもいない。
今まさに、俺の居場所は何処にも無くなってしまったのだ。
そこから何十年飛び続けただろうか。
雨が降った。
雷が鳴った。
雹が降った。
いくら身体がずぶ濡れになろうと、土砂に塗れようと飛び続け……とうとう、力尽きてしまった。
行き着いたのは、どこぞの洞穴のようであった。最早、指先一つもまともに動かせない。
(俺もここまでか…………)
薄れゆく意識の中で、里での光景を思い出す。
幼馴染のみっちゃんにたっくん、昔よく遊んだな……
父さん、母さん、不孝者でごめんなさい……
そんな過去の思い出を回想している時のことだった。
「クゥン……」
「…ん…?」
気付けば俺のすぐそばに横たわっていたのは、見知らぬ犬っころ。自分と同じように、目の前の豪雪に凍える体は僅かにかじかんでおり……力無く脱力してしまった体からは、もう先も長くないようだと考察することが出来た。
平時であれば、気にも留めぬただの畜生一匹の姿。ただ、この時の自分にはどうにもその犬に向けて哀愁を感じずにはいられなかった。…いや、これは同所と言うやつだろうか。
「…………一人ぼっちだな。俺も、お前も……」
一反木綿は、残り僅かな力を振り絞りシュルリと身体を動かしました。その対象は犬に向けたもの。人の命を奪うばかりであった一反木綿の身体は、子犬の体をローブの様に優しく包み安らかな温もりを与えたのです。
どうしてそうしたのかは、一反木綿自身にも分かりませんでした。ただ、何となく。今宵ばかりはそうして過ごしてやりたいと思ったのです。洞穴の外では未だに激しい豪雪がびゅうびゅうと息吹を鳴らしています。
いつ止むかも分からぬその雪を前に、子犬と一反木綿の二匹は。
ゆっくりと。長い長ーい、眠りについたのでした。
…………その顔を覗いた蜘蛛が言うには、二匹の寝顔はとても幸せそうだったと。そう家族に告げ口していたそうな。
***
「シロ、お手。」
「ワン!」
「そうじゃそうじゃ、ええ子じゃのぅ」
次に目を覚ました時に、俺は見知らぬ爺さんのふんどしになっていた。
何故、どのような経緯があって現状に落ち着いているのかは俺の知ったことでは無い。ただ一つ言えるのは、これが世に聞くあの『転生』とかいうやつではないことだ。千切られた尾っぽの感覚は未だに残っているし、何よりこうして目の前を走り回る子犬は紛れもなく、あの洞穴で出会ったその者であろう。
……というか、中々に奇妙な話である。
本来なら衣服の内に隠されるべくであるふんどしだが、今こうして外の様子が一目瞭然に分かるのは何故であろうか。本来なら闇に覆われている筈の視界が、何故…………
「あーもうまた三坂の爺さん徘徊しとる」
「ほれ、アンタの家はこっちだろ!その植え込みは厠じゃねぇって」
上方を見やれば、近隣の者達が困ったような顔をして老人に近寄りその行動を諫める。ふんどし一丁で上には何も纏わず、自分の敷地でもない他人の植え込みで用を足そうとする老人の姿は端から見ても内から見ても変質者にしか映りはしない。
そう、実はこの老人、盛大にボケていた。
数年前に女房に先立たれて以来、町に繰り出してはこう繰り返す奇行を止められるのも今に始まったことでは無いと聞く。
少し前までであれば、こういった身寄りのない老人などというのは格好の標的…………なのではあったが、今の自分に人間を襲ってやろうなどという度胸は湧かない。幾ら時が流れようとも心の傷が癒えることはなく、ただただ爺さんの小便を受け止めるだけの生活を送っていた。
「なぁ爺さんよ、アンタがよく食っとるその『お米』とかいうんは旨いのかい」
「儂の爺様の代からずっと食ってきたんじゃぞ、当然じゃ。お前も食うか、シロ?」
「ワン?」
ただ、何も変化が無いと言えば噓になるだろう。
ふんどしとしてジッとしていることに飽きた俺は、その内に爺さんとの会話を始めた。ボケた爺さんはこの声が股下のふんどしから出るものだとは思いもしないようで、己の飼い犬と会話をしているつもりになっているようだ。
桜が芽吹いた頃に、爺さんの好みを知った。
「なぁ爺さんよ、おっ死んじまった婆さんはどんな人だったんだい?」
「婆様は鬼のようにおっかなかったのう……」
「ほほう、そりゃあ恐ろしい。閻魔と比べればどっちが怖いかの」
「…せめて儂は長生きしてやらんと、婆様にひっぱたかれてしまうなぁ。のうシロ?」
「……ワワン」
秋の葉が散った頃に、今は亡き婆さんの人柄を知った。
シロも爺さんも、余りある白髪が目に付いた。
「なぁ爺さんよ。……アンタにとってシロはどんな存在だったかの」
「あ奴は家族だ。……参った、幻聴が聞こえるのー…」
それ以外に言葉は要らねえよと、爺さんは手を合わせるのをやめて話を締めた。
ふんどしになって何度目かも分からぬ雪を眺めながら、爺さんにとってのシロを知った。
「なぁ爺さんよ。いい加減、その古臭いふんどしも買い替えてやればどうだい?」
「汚れも染み付いておるし、夜着に使うにも長すぎて不便だろう。町に出れば上物を幾らでも買えように」
「何を言う、シロ」
「今でもこうして儂の小便を一手に、頑張って健気に引き受けてくれておる。多くは望まん」
「それだけで、良いんじゃよ」
静かに落とされたその言葉が、何故だかぽっかりと暖かく胸の内に染み込んだ。
何枚目かも分からぬ桜の花弁が散った日のことである。
春の温かさを感じた。
しかしそんな生活も、それ以上は平穏に続かずに。
とある一人の来訪者によってそれは覆された。
「……い。おい……!」
「…………?」
「こんなところで何してる同胞…!!」
爺さんも寝静まった深夜。
身体を揺さぶられることに気が付き目を覚ますと、そこに居たのは自分とは別の一反木綿。見たことのない顔だった。
突然のことに困惑していると、彼は此方を心配するように話し出す。
しばし話を続ければ、此方の腑抜けた現状に腹を立てたようだった。とは言っても、俺には人間に立ち向かう勇気などとうに無い。その為の武器でさえも……
「人間に捕まったのか……!?何故やり返さない!!」
「…無理だ。身体も千切られ、一反木綿ならぬ0.7反木綿となってしまった今の俺では……」
「……?何を言っている?」
身体を千切られ武器も失ってしまった哀しみを涙ながらに話したが、それに対する彼の反応はこちらの予想に反するものだった。
至極不思議そうな顔で、まるで俺の話を理解できていないような顔を返してくるのだ。
「ど、どういうことだ……」
「知らんのか……?お主のその身体も、人魂を喰らえば元に戻るのだぞ。親に教わらなかったか」
眉唾にも聞いたことのない情報を聞かされぽかんと呆ける。……両親は、そんなことも教えられぬほどに俺を嫌っていたのか……
顔を俯かせ、失意に沈む俺を不憫に思ったのか彼は大きく声を張り上げとある提案を持ちかけてきた。
「…………よし」
三日月形に持ち上げられたその口角から放たれしは、正しく血肉を喰らい人の魂を無慈悲にあの世へ連行していく。
紛うこと無き、妖の呪詛であった。
「ならば、私がこのジジイの首を絞めて人魂をご馳走してやろうではないか。なぁに、遠慮はいらん。ここで出会った縁だ」
「……な、何じゃお前は!!?ッ、ぐぅッ……!!」
我々の話で目が覚めたのか、意識の覚醒した爺さんが苦しそうに呻く声を背中で黙って聞く。
……これで良いのか?
爺さんの魂を食って、身体を元に戻して。この一反木綿に着いて行けばタダで人の魂を食い続けることだって出来るかもしれない。そうすればその内人間も怖くなくなって、父さんにも会えるように…………
…そうだ。
そうだ!
人間どもを駆逐する、それこそが俺の指名。一反木綿として、この世に産まれてきた意味だ……!!!
己を奮い立たせるように前唇を噛んだ。
刻が経つにつれて、爺さんの抵抗は激しくなっていく。立ち上がって首を搔きむしるように暴れ回り、その衝撃であちこちの家具が音を立てて壊れた。
「ぐ、ううぅッッ…………!!」
「チッ。しぶといジジイだな……!!」
「……………………たま、るか」
そんな折だった、ポツリと漏らすように爺さんが言葉を零した。最早そんな体力、残っている筈も無いだろうに。
「死んで、堪るか…………!!」
一反木綿が力を強めても爺さんは倒れない。どころかむしろ、より大きな声を張り上げたのだ。
「儂だけでも長生きっ、すると………!!婆様に、シロに!!」
「約束したんじゃぁっ!!!!!」
「う、あああああああああああああッッッッッ!!!!!」
「!?何をしている、お前!!」
考えるよりも先に、身体が動いていた。
爺さんの首を開放させるべく、相手方に掴み掛かって妨害する。しかしながらに永らく現役を務めたであろう彼との力の差は歴然で、呆気なく引き離されて地面に投げ捨てられてしまう。それでも諦められず、何度でも、何十回でも戦いを挑んだ。
爺さんは白目を剝いておりとうに意識が無い。
「ッ……!!人間と暮らして同情でも移ったか!!この裏切り者めッ!!!」
とうとう怒り袋が破裂したのか、向こうは爺さんへの攻撃を取り止めこちらに向かって猛突進してくる。その表情が、数十年前。俺を勘当した父の姿に重なった。……しかし、同情だと? 馬鹿を言え、俺は一反木綿だ。そんなものに、俺が……
らしくもない行動だった。人間風情にビビり散らしていた俺がどうしてこんな、同胞を裏切るような真似を。同情で無ければ何だと言うのだろう。この感情は、一体…………
ーそれだけで、良いんじゃよ。
……嗚呼。……そうか。
シロと爺さん、三人で過ごした日々を回想すれば涙腺が決壊した。溢れる感情に歯止めがきかなかった。
そうだ。そうなんだ。俺は、俺は。
それだけで良いと、そう言ってくれた爺さんが。出来損ないだと排斥された俺を。
「認めてくれたのが、嬉しかったんだ!!!!!」
互いの拳が交わりそうになった、その刹那。運命のいたずらか、はたまた神のご啓示か。
争いによって不安定になっていた灯りから、蠟燭が一本落下した。
その火は相手の一反木綿に燃え移り……
「あちゃちゃちゃちゃッッッ!!!!!」
紙で出来たその体をよく燃やした。こうなれば溜まったものでは無い、木目の上で悶え苦しむ彼の苦しみを想像してゾッと肝が冷えた。
火を消すことに精一杯の一反木綿は、何をしようとしていたのかも忘れ遥か彼方の空へ逃げて行ってしまったのだ。
「覚えてろーーーーーッッッッッ!!!!!」
こんな小心的な捨て台詞、ただ一つを置き土産にして。
眼前の脅威が消え去ったことに安堵しつつ、俺はハッとして爺さんの元へ駆け寄った。
しかしそこで待っていたのは、耐え難い絶望。
「息が、ない」
ピクリとも爺さんは動かずに。眠ったように心臓を止めていた。
…………駄目だ。
「駄目だ爺さん……!!」
心臓に全体重を掛け蘇生を試みる。
10回。
「頼む……」
息はない。
20回。
「爺さんッ……!」
息はない。
100回。
「アンタは生きなきゃ駄目だ!!!」
もう駄目かと思ったその時であった。絶望に心が染め上げられたその瞬間。
「ゲェホッ!!ゲホッ、ゲホッ…………!!」
爺さんが、息を吹き返した。100回目の奇跡であった。
心臓に手を当てた瞬間に再び涙が零れた。
「…………………………………………良かった」
「…生きてる………………」
***
結局爺さんはあの十数年後まで生き続け、108の齢で大往生を迎えた。
子供も友達もおらず、あの夜の事件さえ誰にも信じてもらえなかったボケ老人の爺さんは葬儀も挙げてもらえない。この一反木綿の身一つで催せというのも無理な話だ。…………ただ、当の本人はそんなこと最初からどうでも良かったらしい。
幸せな夢でも見るかのように眠る、この顔を見ればすぐに分かった。彼はどうやら、最期の最期まで自分と話しているのはシロの幻覚だと思っていたようで。愛犬への感謝だけを告げてあの世に旅立っていった。
放置され臭くなってきた死体には、それを貪ろうと家中のハエ共がたかってきている。あと少しもすれば近隣の者が弔ってくれるだろう。
………今この瞬間が旅立ちの時なのだと、俺は悟った。
一反木綿は涙など流さない。空は晴天だが、この家の中では不思議なことに雨が降っているようで、俺の身体をしとしとと濡らした。
戸を開け数十年ぶりの外の世界へと飛び出す前に、爺さんの体を一瞥。
「…世話になったッ!!!」
蒼い大空に向けて飛び立った。
……一反木綿である自分は、あの夜一度死んだのだ。これからの生を生きるのはただの木綿として。
あの激闘で更に短くなってしまった己の身体を労わりつつ決意を胸に込める。
人の為に生きようと。
そう、爺さんが認めてくれた自分に成れるように。
ある時、俺は大河に流される織布となった。
「……大丈夫だぞ、犬! 俺の身体にしがみ付いてれば溺れたりなんぞ……」
大雨で氾濫した濁流に、一匹の犬っころが流されるのを見たからだ。身体に水が染み込みズンズンと重くなっていくのを覚悟しながらも捨て置けずに川へ飛び込んだ。犬一匹を抱えて飛び立つ力など残されていない。上に立つ犬も体を震わせて限界が近付いてきているようだ。
あまりの流れの速さに陸へと上がれず苦心していたそんな時だった。
「ポチっ!!」
「ごめんなさいっ、私がもっと近くに居れば……!!」
ザバリと身体を引き上げられ激しく息を吐いた。心配するように犬を抱きしめるその少女はさしずめ飼い主といったところか。犬も弱弱しい鳴き声を出し少女の頬を舐めている。
そんな感動の再会に安堵していると、彼女の視線は此方へ向けられた。
「あなたが助けてくれたのね……さぁポチ、帰りましょう。飛び出してきたことお母様に謝らなくっちゃ」
無論、此方の正体が一反木綿だと知る由もない女の言葉はただの比喩であったのだろうが。そのまま俺の身体は犬の毛皮に巻かれ女の家まで連れて帰られた。ふと目を横にやれば、黒い煙を立てて轟音と共に走る巨大な鉄の獣の姿が見える。
人間はいつの間にか、俺が空を飛ぶより早く移動する術を身に付けていた。
「ユカコ、頑張ったな……!!」
「ありがとう、あなた……」
とある寝具の上にて。額に汗をいっぱいに溜め込んで辛そうにする女を、夫だと名乗る一人の男が涙ながらに褒め称えた。
聞くところによれば人の出産というのは、我々の身体を切り裂くのと同義な痛みを伴うと言う。何とも恐ろしい話よ。
喜楽渦巻く病院の一室で、俺は赤ん坊の温もりをその身一心に受け止めているところだった。
ある時、俺は赤ん坊に巻かれるおくるみだった。
その時に、長いからと。再び身体を幾ばくか切断されたがそんな痛みももう慣れっこだった。
一反もあった俺の身体は気付けば半分ほどにまで縮んでいたのだ。だがそれも構いはしなかった。
人の成長と言うのは、俺たち長い刻を生きる一反木綿にとってはあまりに早いものである。
赤ん坊はあっという間に成長し、おくるみは不要な存在となっていった。
窓から吹き込む風を感じれば、再び旅立ちの時だ。
「あっ!!ずっと大切にしてたのに……」
「…また買えばいいさ」
「…………かぁ……さ」
「ッ、喋った、喋ったよ!!」
「おお!」
それからも何十年、何百年と一反木綿は人の為に飛び続けました。
時には、人の身体を暖める毛布に。
またある時には、子供が濡れぬよう人知れず雨受け皿に。
またまたある時には、冬の寒さに凍える女学生のマフラーに。全ては人の役に立ちたい、ただ一心の、それだけの想いの強さで。
一反木綿、子泣き爺に小豆婆。かつての妖怪が人里を恐怖に陥れたのも今は昔の話。
人間はとうとう、鉄の鳥に乗って青空を我が物顔で闊歩できるようになったあまりか、その果てには宇宙への進出までも果たしたと言う。
妖怪の時代はこの22世紀、現代において完全なる幕を閉じたのだ。
雨垂れ滴るアスファルトの路面に、力無く倒れるこの木綿も同様であった。
(あぁ……ここまでか)
一寸、また一寸と人によって刻まれた一反木綿に残された身体はもう一尺を切っていた。
魂が、尽きようとしていた。一反の白布が一反木綿の人生であったのだ。
木綿は静かに目を瞑る…………その傍らで。
「あらあら。勿体ない」
***
「はい。あまり無茶はしないのよ、サトリさん?」
「はーい!保健室の先生ありがとー!」
保健室のドアがピシャリと閉じられ、その女子生徒は再び元気いっぱい走り出した。
…最期の一反木綿は、包帯になった。
二の腕から伝わる仄かな温かさを感じつつ、一反木綿は回想します。本当の本当に、最期の刻が近付いていました。
…なぁ爺さんよ。
俺はこの人生の中で、どれだけ人の役に立てただろうか。
アンタが認めてくれたように、人の役に立てただろうか。
ちっぽけな力でも、胸を張って威張れる木綿に成れただろうか。
俺は……
包帯を付ける女子生徒が、誰ぞに駆け寄るところで一反木綿の視界には白が広がっていきました。
「サトリさん、その腕平気なの?」
「おー。全然平気ー!……ふふっ」
「?どうしたのさ急に笑って……」
「……いやー。何だかさ…」
「……あったかい」
……ああ、そうか。
俺は、生まれてきて良かったのだな。
死の間際に広がった一つの感情を胸に、一反木綿は笑顔で涙を流しました。
人の魂を喰らってばかりの、残忍な生き方をしていては決して得られなかったであろうその暖かな胸の温度。
一反木綿には一寸の後悔もありませんでした。
それだけで、良いんじゃよ。
優しい爺さんの声がすぐ近くで聞こえてきました。
彼の名前は一反木綿。
人の為に産まれ、人を愛し、人の為に生き続け。その生涯で何者の命も奪いはしなかった。
世界で一番、いっちばんに優しい。
ただの木綿だったのです。