忠誠に背くのではない。
誇りに従うのでもない。
ただ──氷の将は、静かにそこへ向かう。
敵であるはずの、白髪の女。
あの戦場にあったのは、強さではなかった。
命を差し出せと言えた、覚悟と冷静さ。
その非情に、心を動かされた。
これは戦いではない。
滅ぼす前に、一度だけ、会いに行く。
名前も、顔も、意味も知らず、それでも戦士として惹かれてしまった。
これは、戦士が見た、戦士の物語。
ほんの一度、魂が触れた、その記憶のような。
エ・ナイウルでの戦いを、コキュートスは静かに、冷ややかな視線で見つめていた。
朱の雫が現れたのは、アインズの予言めいた示唆の通りだった。それ自体も驚きではあったが、彼の記憶に焼きついたのは、別の光景だった。
白髪の女──スカマ・エルベロ。
レベルという尺度で言えば、彼女はデス・ナイトの敵ではない。常識的に見れば、即座に圧殺されて終わる存在に過ぎない。
だが、そうはならなかった。
彼女は、実力を超えた戦いを見せた。
仲間の支援があったにせよ、あの拮抗、あの粘りは──戦場に身を置く者でなければ、評価できぬ輝きがあった。
たしかに、朱の雫の一人がデス・ナイトとデス・ウォリアーを屠った。
だが、戦場の制御、エ・ナイウルの民に被害を及ぼさなかった要因を問うならば、その大きな一端はスカマの判断にある。
退路を断たれた最後の局面、彼女は一人の命を道連れにしてでも仲間の時間を稼ごうとした。
自己犠牲を厭わぬ胆力。
そして、「共に死ね」と命ずる冷静な非情。
それは理想や倫理では語れないものだ。
戦場で問われるのは、選択肢の是非ではない。選べるかどうか──その一点だけである。
彼女はそれを選び、口にし、実行しようとした。
その勇気に、誇りに、コキュートスは心を動かされた。
──果たして、自分に同じことができるだろうか?
己は死を恐れない。それは最初から許されていない。
だが、誰かと共に、他の守護者達と共に死ぬという選択を、進んで下せるだろうか。
ナザリックに忠誠を誓う者としてでなく、一人の戦士として──。
いや、己はきっと、共に戦うことを選ばない。
それが戦士としての矜持であり、そして──己の弱さでもある。
戦いの中で「共に死ね」と命じることができなかった。命を預け合う者に、死を命じる覚悟が己にはない。
それゆえに、己は一人で戦う。誇り高く、孤独に。
一人で死ぬという選択肢しか持てない。
それが──スカマ・エルベロとの、決定的な違いなのだ。
コキュートスは気づいていた。
ほんの少しだけ、自分はあの女に惹かれている。
それは恋慕でも、同情でもない。
魂の輝きに対する、純粋な敬意だ。
ナザリックの敵であろうとも、その光がただ消えてしまうのは、惜しい。
ならば、陥落の前に、一度だけ会ってみたい。
そう思い立ち、彼はアインズのもとをまで足を運ぶ。
「アインズ様。王都陥落後、エ・ナイウルへ行ク許可ヲ、頂ケマセンカ」
「ん? どういうことだ、コキュートス。まさか、エ・ナイウルを滅ぼしたいとでも?」
「イエ……アノ女戦士。白髪ノ者──スカマ・エルベロ。モシ生カシテオクコトガ、ナザリックニトッテ益トナルナラバ、ト」
「……ああ、デス・ナイトと戦っていた女か」
アインズは言葉を切り、しばし沈黙した。
それは思考の隙ではない。むしろその逆──彼の中では、膨大な情報が凄まじい速さで整理され、繋がり、意味を持ちはじめている。
今後の戦略、費用対効果と利益、スカマ・エルベロという存在の価値──。
コキュートスはそれを妨げることなく、ただ静かに立っていた。
もし却下されれば、それまでのこと。
この願いは戦略上の提案ではない。戦士として、ただの興味に過ぎない。
だが、それでも彼女の存在は、心に残った。
「……ちなみにだが、なぜお前はその女が“役に立つ”と思った?」
問われて、コキュートスは素直に答えた。
戦力の問題ではない。覚悟、選択、そして魂の光──。
そのすべてに、戦士として惹かれたと。
「……なるほどな」
アインズはわずかに頷いた。そして──一つ、確認するように問う。
「お前、その姿で行くつもりか?」
「モチロンデゴザイマス。偽リノ姿デ近ヅクツモリハアリマセン」
「……ふむ」
再び短く唸るアインズ。
コキュートスは、その沈黙の裏にある思考の奔流を知っていた。
膨大な情報を瞬時に処理し、あらゆる選択肢を天秤にかける──それが主であるアインズ・ウール・ゴウンの知性だ。
コキュートスは、ただ静かにその決断を待つ。
「……よかろう。ならばコキュートスに命じる。貴様が、エ・ナイウルの殲滅を行え。だが、それをどう遂行するかは──貴様に任せよう。私の興味は、その“手段”にある。お前という戦士が、どう誇りと忠義を両立させるのか──見せてみよ」
それは厳命であると同時に、選択の余地を与える命でもあった。
「ハッ。カシコマリマシタ」
「それと──貴様がそこまで拘る相手だ。無意味な存在ではあるまい。貴様が動くに足るだけの価値があるか、確かめてみよ」
「承知イタシマシタ、アインズ様」
こうして、王都陥落後に氷結の将軍コキュートスは、ありのままの姿でエ・ナイウルを訪れる決意を固めた。
それは侵略でも、懐柔でもない。
一人の戦士が、もう一人の戦士に会いに行くそれは侵略という形を取った、個人的な巡礼だった。
気が向いたら始まるかもしれません。