私が住むこの場所は、人が狂っていく土地――何気ない隣人の引っ越しから、一目惚れをし、大きく人生を狂わされた紲星あかりの独白。結月ゆかりとは、結局なんなのか?

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第1話

 本日はお集まりありがとうございます。こうしてお話の機会をいただくことができて、私の心の内はなんとも複雑でございます。こうして人前でなにかを話す経験もなければ、社会にも出てない木っ端な一人の女が、なにを喋られるか、自分でも心細い思いですが、できないなりに、語らせていただこうかと思います。

 ここに来たばかりの方もいらっしゃるようですから、そちらの説明から入りましょうか。

 私の出身はここ――日本の東の方の、田舎とも言えず、また都会とも言えないような、緑と道路がそれぞれ少しずつある場所でした。土地には本来、様々なものが存在し、少しずつある、なんて言葉はおかしいのでしょうが、私の住んでいるこの場所は、そういう言葉しか似合わないような、こじんまりとしたところだったのです。

 第一に、畑がありませんでした。道路は小さく、寂れた商店街があり、逆に砂利道で覆われた誰かの私有地や、廃車の残骸など、田舎を思わせるものはなにもないのでした。

 そしてかつ、ビルもなければ便利な百貨店やデパートもなく、小さなチェーンのスーパーが、ぽつぽつと点在するくらいでした。

 見るものが何も無いところだ、と地元民が言っているのをよく耳にします。しかし、そうはいっても、それは郷土愛からの自虐であり、どんな貶めの言葉の中にも、ささやかな誇りがあるはずだ、とお思いでしょうが、それが私の住む場所の最大の難点でして、誰一人、この場所を好いていないのです。生きるのに不自由はしない、しかし娯楽は多くなく、自然を感じられるわけでもない。そして、ここにだけ存在する独特の空気――それが、なにかと人を苛むのです。なんと言えばいいのかわからないのですが、この場所に住む人は、どこかしら、狂っていくのです。それは躁や鬱ではありません。認知症や更年期障害ではありません。病気やその他ではないのです。ただ、人として大切ななにかが、一月二月と経つたびに濁っていくような感覚があるのです。

 私はそれを、ある年齢の日に、自分は透明な血を毎日浴びているのだ、と言いました。この言葉はいい得て妙で、幼かった私は、この得も言われぬ独特の空気感を、よく表現していました。そう……この街の空気は、どこかしらに死の臭いが漂っているのでした。屠殺場のようにビビッドではなく、病院のように静かで落ち着いてもなく、葬式場や火葬場や墓地のように、清潔で悼む雰囲気でもない――不穏なシーンだけがずっと続くフィルムのように、すべてがなにか不吉なことの前触れである。そんな空間でした。

 そんな街ですから、当然去っていく人は多いのです。代わりに、不思議ですが、来る人も多い。それはネット上でまことしやかに囁かれている、変な口コミによるものでしょうか。それとも、地方と都会を繋ぐ中間点として、たまたま住みよいと勘違いした人が迷い込むのでしょうか。あるいは、どちらもでしょうか。わかりませんが、そうしてこの街では人が常に流動していって、その流動がまた、この地にやるせなさを生むのでした。不毛の地で、周りの人間はどうせいつか去る人……けっして治安は悪くない、ですがどうにも流れものだけが集まる街であり――残る人は変人が多いのです。

 私、紲星あかりが十六歳のときでした。

 春に隣に越してきた、私を狂わせた元凶の、結月ゆかりと弦巻マキという人物について、お話します。

 

 こう言ってはなんですが、私はこの地で珍しい、生まれてからここに住み、そして他の場所を知らない人間でした。生まれたときから透明な血を浴び続け、そして現在に至るまで、生きのびている数少ない人間でした。その理由は両親がこの血に対して耐性を持っていてかつ変人であり、同じく私もそうだったのに違いないと思います。私はこの血を理解し変に思うこともできましたが――別段、気は狂わなかったのです。

 そんな私の周囲に映るのは、転校と転校生の多いクラスや、辛気臭い顔の教師たちばかりです。隣人という概念は存在しませんでした。なにせ、すぐにみんないなくなってしまうことを学習しているので、いちいち覚えないのです。

 ある春の日でした。私は外でくぐもった日光にあたって萎びているたんぽぽを遠くに見て、退屈に石ころを蹴飛ばしながら散歩をしていました。今はスマートフォンで世界の動向をいくらでも知れる時代ですが、この地の外で楽しそうに過ごしている人を見ると嫉妬してしまうので、情報源をなるべく絶ち、絵描きやアニメの再放送や、ゲーム機や、そういうもので退屈な日々を満たしていたのです。そうして散歩の帰り道、私の家の近くで、穏やかな色合いが目印の、トラックが停まっているのを見つけました。私は今までそれを何度となく目にしてきたので、それが引っ越し業者であることがすぐにわかりました。

 トラックから二、三人の人が降りてきてそれぞれ整列して木造の玄関の前に立ち、インターホンを押しました。私はそこまで見たところで、興味を失いかけ、しかし帰ってもとくに楽しいことは待っていない、夕飯もまだだし、と、暇つぶしと見飽きた光景の中で小さいせめぎあいをした末、石ころを蹴ってその様子を眺めることにしたのでした。

 玄関から出てきた人は、奇妙な二人組みでした。大学生くらいでしょうか、私から見れば大人びた女性と、とても小さくて、痩せぎすの、白い肌の病人みたいな女の子でした。女の子とはいえど私よりいくばくか年は上のように見えましたが――しかし、高校生であるにしろ、大学生であるにしろ、その人が不健康極まりない人だということはわかりました。

 私は幼心に、あぁ、またか、と思いました。この地の特別な噂を聞きつけて、死に至る病や寿命にまで至る病を持った人たちが、救いを求めてここに来るのは珍しくなかったのです。そういった人は、たいてい、一ヶ月から一年ほどでみんな居なくなるので、誰もが曖昧な哀れみと無関心を振りまいて、彼らをそっとしておくのでした。

  私はいたたまれない気持ちになって、家へと帰りました。家に帰っていつも通りの午後を過ごし、明日の日曜日はどうやって暇を潰そうか、そればかり考えて、やがて眠りました。

 翌日、その二人組のうちの一人、金髪の大人びた女性が私の家を訪ねてきました。母が相手をしているところを遠目に覗いていたら、その女性は私の姿を捉えて、「お子さんですか」と母に聞いていました。

「ええ。十六歳です」

「一番かわいい年頃ですね」

 そう言って彼女はニコッと笑うと、私の目をまっすぐ見て手をふるのでした。私は背丈の大きい彼女を警戒の目で見て、それから頭を下げて奥の方へと下がっていきました。

 私は、別段人付き合いが苦手なわけではありません。また、その女性に嫌悪感を示したわけでも、哀れと思ったわけでもありません。彼女の笑顔と手を振るその仕草が、あんまりにも上品でいて、綺麗だったものだから、身内外とそんなコミュニケーションを経験したことのあまりない私の、心の中はかき乱され、その上で一番浅く表出したのが警戒だった、というだけのことでした。私は、そのとき彼女のことをすでに気に入っていたのです。

 奥に行く瞬間、振り向きざまにもう一度、彼女の顔をちらりと覗きました。彼女は以前、私のことをかわいらしい存在と見なしていて、それからしばらくの間、母と会話をしていました。

 あんな人がいるんだ。と思いました。こんな何も育たない不毛の地で、あんなにひだまりみたいな人がいるんだ。

 私は夕飯時に、「隣の人、なんて名前の人だった?」と気のなさそうに聞きました。本当は興味津々だったけれども、それを知られるのは、私にとってこの上ない恥だったからです。

「弦巻さん、って言ってたね」

「弦巻」

「どれくらい居るかは聞いてなかったけれど。もう一人、連れがたの――家族でも、友人でも、恋人でもない人が、ここに来たいと言ったんですって」

 あの痩せぎすの人か。と私は合点しました。また、家族でも、友人でも、恋人でもない――ならばなんなんだろう? それはつまり、他人ってことじゃないか。とも思いました。憐憫かしら、それとも、ビジネスかしら……わからないので、私の思考は同じところをぐるぐる回り、これは、直接会って、聞いてみなければならない、と思いました。

 それから母は、弦巻さんの話は一切話しませんでした。避けているわけではありません。もとよりこの場所では、隣人にかける熱量など、それくらいのものだからです。母のその無関心さに私は驚きました。

 私だけが、彼女に魅了されていたのか。愕然としました。あの人の中の果てまで明るい人間性は私だけを暖めていたのです。

 何度もあの笑顔を思い出しました。あの人の感受性は、私のアンテナにビビッと刺さっている。幼少の人間というのは、才能や、優しさや、その他の価値に付随したなにかを見せられると、盲信してしまうものですから。恋は盲目というけれど、それは違うと思います。幼い人間性が、みな盲目なのではないかしら。

 

 

 そして別日、私は弦巻さんの住む隣の家をとうとう訪ねたのです。なるべく可愛らしい洋服を来て、家にあったりんごを数個持っていき、少しばかり古びた木造の民家の前、私はどきどきしながらインターホンを押しました。ドアを挟んだ向こうの空間から、玄関へと近づいてくる人の気配があって、破裂しそうな心臓を必死に留めながら、私はじっと立っていました。

「はい、なんでしょうか。……あぁ、こんにちは」

 出てきた弦巻さんは私の顔を見るなり、顔をほころばせて、私の来訪を嬉しがっているようでした。それはあるいは、大人なりの社交辞令かもしれません。しかしそのときの私は、彼女のその笑顔から、私は彼女に好かれているのかもしれない、という淡い期待をたしかに抱いたのです。私は緊張で締まる喉元をなんとか操って、たどたどしい声をあげながら、彼女に木製の果物籠を手渡したのです。

「これ、引越し祝いです」

 彼女は一瞬きょとんとした顔をして、それから、私に「どうも。……立派な人なんですね」と私に優しい言葉をかけてくれました。

「引っ越しの具合は、どうですか」

「ええ、なんとかあらかたの家具は配置できました。まだ何個か、小物のダンボールが残っていますが、明日、明後日には、片付くだろうか、といった次第ですね」

 そうですか、と私が答えたきり、空気は会話の終わりを醸してきました。私は居心地の悪さを感じながらも、もう少し彼女と話していたくて、つい咄嗟に、

「お連れのかた、良くなるといいですね」

 とそう口走ってしまったのでした。これはいけない、と口を閉じたあとに私は思いました。病気の話は、人によってはタブーであると、私はこれまでの経験で学んだはずなのに。私は目を伏せて、「すいません」と会話から逃げようとした矢先に、彼女は少しおかしそうに笑いました。

「あぁ、いえ。ゆかりのことでしょう。彼女は病気ではないですよ。食べることを好かないので、少し痩せていますが――一般的にみれば、普通の女の子とかわりません」

 私はその言葉に驚いたと同時に、さきほどの過ちが救われたような気分になりました。しかし――あの結月と呼ばれた女性は、病気ではなかったのか。ならばなぜこの街へ? 疑問はやみませんでしたが、私達はとうとう会話の切れ目に到達してしまい、自ずと別れるように仕向けられました。私は別れ際になってから、おずおずとこう聞きました。

「あの、これからたまに、遊びに来てもいいでしょうか」

「うん? ゆかりのことが気になったのかい。いいですよ、いつでもいらしておいでください」

 本当に気になったのはあなたのことなんですと言いたい気分でしたが、それは私の青い羞恥心が許しませんでした。そうして家に帰り、私はしばらくぼうっとしていました。私を子供だからとおざなりな態度を取られなかった喜びや、彼女との会話の中にふと現れた素の喋り方や、彼女たちへの疑問や、そしてまた会えるという嬉しさが色とりどりに頭の中を駆け回り、妙に気が逸っては、落ち込んだり、元気が出たりを繰り返して、落ち着かない一日を過ごしていました。

 

 そうしてまた少しの時間が経ったころ、暖かい昼下がりに、私は再びマキさんの家を訪ねたのです。彼女は暖かく私を出迎えて――私を家に入れてくれました。

 人の家を訪ねるのが初めてだった私は、とてもわくわくしました。自分の家と他人の家では、法律が違うかのように感じられるのです。それはキッチンに携えてある食器棚の並びや、冷蔵庫の静かな稼働音や、自分の家とは違う独特の匂いがそうさせているのに違いない、と思いました。私にとって異様であるこの不思議な生活感は、彼女たち二人にとっては普遍であり、それでもって私がもしここに長いこと住むようになったとすれば、私もまたこの空気に馴染み、私がこの家にとって普遍になり、この家も私にとって普遍になるのだろうな、とも感じました。

 リビングに通されました。ニスの塗られたヒノキの床材が使われている、その空間は二人がけのソファに小さなテーブルがあり、それから窓際に、暖かな陽光を浴びたイーゼルが置いてありました。そのイーゼルに備えられたキャンバスに筆を走らせているのが、この間に見た痩せぎすの少女、結月ゆかりでした。私は彼女の趣味が絵描きだとは思いませんでしたので、びっくりしてしまいました。

 お客さんだよ、とマキさんは結月ゆかりに向けて言いました。えぇ、と彼女は一言言ったきり、こちらに一度も目を向けず、絵を書いているのでした。

「すまないね、彼女はこういう人で」

 マキさんが悪びれて私に言いました。

「芸術家肌の方なんですか? 絵を描くこと以外は無頓着、みたいに」

「いや、」

 マキさんは私の言葉に、少し苦い顔をして、

「ううん、その話はよそう。それより折角来てくれたのだから、ソファに座ってゆっくりしていってください。今、お茶とお菓子をお出ししますからね」

「ありがとうございます。お茶を沸かしている間、結月さんとお話してもよいでしょ

うか。……いえ、絵を描いてるんですから、お邪魔でしたよね」

「ゆかりは、あまり気にしませんよ。でも、きっとあなたのほうが嫌な気分になってしまうから、お話するのはもっと彼女のことがわかってからにしてやってください。テレビはありませんが、雑誌ならいくつか揃えてありますから、適当にどれか読んでいただいても構いません」

 マキさんはにこやかに私にそう告げると、キッチンへと向かっていき、小さなケトルでお湯を沸かすようでした。結月ゆかりという女の子とも話せないのであれば、私はマキさんがお茶を入れる一部始終……柔らかに急須に分けられる茶の葉や、湯気たつ水分を操り、もくもくと胃袋に入るものを用意しているマキさんの姿をじっと見ていたかったのですが、私にとって一番恥なのは、そういった欲求を我慢できない女の子だと思われることでしたので、私はマキさんが申したように、慎ましく、しとやかに、インテリアやファッションの雑誌を眺めることにしたのでした。

 しばらくして、カラーページの中でビビッドに物欲と琴線を刺激する色合いやキャッチコピーに疲れてきた頃、マキさんは「お待たせ」という声とともに私の前にティーカップを置きました。そうして、あらかたお茶会の準備ができたあと、マキさんは私が座っている二人がけのソファ、つまるところは隣に腰を下ろしたのです。

 私は気が気ではありませんでした。もともと身長の高くない私がより一層縮こまってしまうのがわかりました。それを気取られてはいけないと思い、背筋を正そうとすると、しかし私の健気な勇気はたちどころにへし折れて、私は俯いてしまいました。それを変に思われないように、子供らしく、お菓子やお茶に気を向けているかのように振る舞いました。

「この街は、変なところですね」

 マキさんが言いました。

「そうですね。来る人はみんな、そう言います。……しかし、来る人だけじゃありません。昔から住んでいる人も、みんな変だと言います。私ですら、変だと思いますもの。生まれてからずっとここにいて、他の土地を知らない私でも」

「なにか、特別な言い伝えがあるとか?」

「いいえ、ありません。だって、何かが言い伝えられるっていうのは、それが極端に好かれているか、極端に嫌われているかのどちらかですもの。この街は、誰も好いていない。そして、嫌ってもいないのです。嫌うだけの価値が、ないのですね。だって離れていけば後腐れなく普通の生活に戻れるのだし、それでも留まりたいと思うだけのものが――焦燥、葛藤、精神を引き付けるだけの価値が、ここにはないのですから。もっとも、インターネットが普及した今では、この変な空気に噂が尾ひれをつけて、あることないこと、書かれているようですが。それもごく最近のことです。昔から、この場所は、ゆるやかに忘れられる、流れ者の街なんです」

「なるほどね。……うん。なるほど。」

「なにか納得がいくことがありましたか?」

「うん。実はね、この場所に来たいと言い出したのは、他でもない、ゆかりなんだけれど」

 マキさんが目を向けた先、結月ゆかりはこちらに目もくれず、じっと絵を書いていました。そのキャンバスは私達に背を向けるように置かれていて、ずっとどんな絵を書いているのか、私には確かめようがありませんでした。陽光を浴びる結月ゆかりを私は見つめながら、キャンバスに直に陽が当たっているけれど、いいのかしら、と曖昧な疑問を浮かべました。

「ゆかりが、ここに来たいと言った理由が、ようやく少しわかった」

 マキさんは落ち着いた雰囲気を醸しながら頷いて見せたので、私は当初からずっと疑問に思っていたことを、彼女に訪ねました。

「あの、弦巻さんは、働いていらっしゃるんですか? とてもお若く見えるのに、二人きりで、こんな場所に越してくるものだから不思議に思ってしまって」

「えーっとね。前年までは大学生でした。同時に、相場師もやっていて、そのとき、ゆかりと出会って、それからは色々やめて、二人きりで暮らしているんです」

「大学も、お仕事も? それはすごい決断ですね。大人は顔をしかめるのでしょうけれど、私はそういう逃避行に憧れる年ですから、羨ましくなってしまいます。それだけ、出会いが衝撃的で、彼女が大切な人になった、ということですか?」

「うん……いや、それはちょっと違うんです。私とゆかりはそんなに仲がいいわけでもないんですよ。嫌いあっているわけでもないですけどね」 

「ええと、では、何故、一緒に?」

「何故……難しいな、なんと言えばいいのか……」

 マキさんが困ったように首をかしげているのを、私は混乱しながら見ていました。何故と聞かれて困ることがあるでしょうか?

「たとえば、あかりさん、あなたはこれまで大きな挫折を経験したことがありますか」

「挫折……? 勉強したのにテストの点が奮わなかったり、また苦手科目がいつまでたっても苦手科目であることとか、それくらいですかね」

「そんなんじゃいけません。もっともっと、人生に打ち付けられた大きな楔のような、一生かかってもどうにもできない大きな壁に、竦んだことはありますか」

「ええと、おそらく、ないと思います」

「それなら、わかりません」

 そう言葉を断絶したマキさんに、私は少しショックを受けながらも、しかしマキさんもなにか思うことがあるらしいと判断しました。そのときマキさんは――自分でもまだまとめきれていない難問に向かっているときのような、そういった歯切れの悪さが、言葉の端に紛れ込んでいたからです。 

「私は、もっと知りたいです、マキさんや、結月さんのこと」

「変わった人ですね」

「変わっているこの街の、さらに変わり者なんです。私は友達とか、尊敬できる人とか、そういうものに、憧れていたので」

「あかりさんは、良い人ですね」

 そういってマキさんはやわらかに私の頬を撫でました。私はその反応に、私のことを子供扱いして、まるで意中にないという内面を感じました。それでもなお、マキさんに優しく触れられた頬はじんと熱を帯び、頬が僅かに紅潮するのがわかりました。今はまだこれでもよいと、私は静かに息を吐きました。

 

 私はその後なんどもマキさんの家を訪ねました。いつでも一緒に暮らしている二人は、私をいつも暖かく迎えてくれて、私はそれが嬉しかったのです。私とマキさんの絆は段々と強いものになり、また結月ゆかりの人間性と、マキさんの特異な執着が、少しずつわかってきました。

 結月ゆかりは、絵描きではないのです。楽器も弾きます。数を解きます。文章を書き、朗読して、料理を作っては食べ、眠り、起きればまた何かをします。

 そして、結月ゆかりは、どの方面に置いても、まったく、才能を持っていないのです。絵も、音楽も、計算も、文章も、朗読も、料理も、眠ることも、特別なものを持っているわけではありませんでした。特別に下手でもありませんが、特別にうまくもありません。普遍の象徴かのように、それは私に無関心の情を常に抱かせました。何を見ても聞いても、特に感慨は湧きませんでした。

 それなのに、マキさんは精を出して彼女の世話をするのです。一日のルーチンはすべて決まっていました。朝6時に起床。結月ゆかりを起こさないように、静かな清掃――窓ガラスの拭き掃除、風呂場のメンテナンス。8時に朝食作りで、ビタミンとミネラル、タンパク質と適量の炭水化物を意識した7パターンをサイクルしています。半になると結月ゆかりが起きてきて、マキさんの手によって歯磨きが行われます。それが終わるとマキさんは彼女の体を支えて、あまり動かない彼女の血流を良くするために、まず右腕を手に持ち、ゆるやかに後ろへ伸ばして、ストレッチするのです。次に左腕を伸ばし、次に鎖骨を開き、次は肩甲骨を寄せるようにして伸ばしたら上半身が終わり、次は足のストレッチ、背中を優しく押して前屈、ふくらはぎをゆっくりと揉んでいきます。二十五分ほどで全身を伸ばし終えると朝食に入り、朝食の間は二人で食事を摂るなんてことはせず、彼女は、親鳥のように、結月ゆかりへスプーン一杯ずつの食物を、スープを、優しく口へ運ぶのでした。その整然とした一連の動作といったら。結月ゆかりが当然のように口を開き、マキさんは当然のように両手の代わりを務めるのでした。それが終われば結月ゆかりの髪をやさしく梳かし、整え、日替わりに服を着せては、人形のように可愛らしい見た目にします。そうすると結月ゆかりは昼食まで自由時間となり、マキさんは家中を掃除し始めます。昼食前には結月ゆかりの体重と血圧を計り、その数値によって献立やストレッチのプランが少し変化するようです。

 マキさんの過剰に完璧な奉仕労働は、完全なる無償によって行われていました。彼女は、結月ゆかりからお金をもらっているわけでも、承認をもらっているわけでも、なんでもないのです。なんでこんなにも、闇雲に、彼女に奉仕しているのでしょうか、それとなく聞いたことはなんどもありますが、彼女は毎回困ったように、首をかしげて、曖昧に笑うのでした。

 私はそのとき、マキさんの心の内をあれこれ憶測を飛び交わせては、彼女を理解しようとしていました。マキさんが彼女に奉仕する理由は――あのとき言っていた、挫折に関係するものだろう、と見当をつけて、私は考えます。

 奉仕とは、そもそもなんでしょうか? 社会や上の者のために、私欲を捨てて働くこと、と辞書に書いてありました。何故、マキさんは自分を捨てたのでしょうか? この土地に、若くして二人きりで、それなりに裕福に暮らしているほどの世渡りができるほどの恵まれたものがあって、それを捨てた意味とは?

 挫折、とは、才能や出身の不適格によって生ずるものだと私は思います。なにか彼女の中で、どうしても足らない部分があり――それを埋めようとして結月ゆかりの下で生きることをに決めたのでしょうか。しかし、マキさんは社会的に随分成功しているようでしたし、また芸術に打ち込んでいるようでもなく、そして結月ゆかりにはなんの才能もあるように見えないのも謎でした。

 一切が闇の中でした。結月ゆかりにはなにがあるのでしょうか。弦巻マキにはなにが足りないのでしょうか。

 

 私はその日、午後の安らかな時間を過ごしていました。この頃になると、私はマキさんのルーチンワークを随分手伝うようになっていました。最初は、マキさんが嫌がるだろうか、と不安になりながらおずおずと手伝ってもいいですか、と聞いたのがはじまりでした。私の予想と反して彼女は快諾して、私はつい驚いてしまいました。

 そして手伝い始めてから、私は彼女のこのルーチンワークがいかに効率化され、また美意識の最上限を満たそうと考えられているかが、身にしみてわかりました。浴室の汚れは、カビ、ぬめり、皮脂汚れ、水垢にわけられ、それぞれが手順に沿ってきれいに削ぎ落とされていく一連のルーチン、朝食の時間は昨日の結月ゆかりが何時に食べ終えて、何時に就寝したかを軸に前後すること――それも、箸をおいた時間ではなく、消化が終わった時間を基準に測り、布団に入った時間ではなく、脈拍の変化を参考に意識を失った時間を基準にしているのでした。

 人を世話することへの、その圧倒的なまでの徹底ぶりから、私は結月ゆかりは本当に病気ではないのかしらとたびたび疑いました。けれどもマキさんは相変わらずの優しい笑顔で、「彼女は健康だよ。これは私の性格上のものであって、趣味みたいなものだから」と笑うのでした。その笑顔と完璧に調整されたこの家を、私は居心地良く思いました。私はマキさんと、結月ゆかりへの理解が進むとともに絆のような好意が構築されていると感じるようになりました。私はマキさんの家に頻繁に出入りしましたが、彼女は親しき仲にも礼儀ありだとか、そういった踏み込みすぎたがゆえの嫌悪感を私に一度だって見せたことがなく、それどころか日頃、「こんなに仲良い人ができたのは久しぶり」とか「あかりさんは柔和で、優しい雰囲気を持っているから、あなたがここに来ると部屋の中まで明るくなるね」などすら言われ、そうしてその言葉は真実味を帯びているのでした。この家の中は完璧に調整された家でありましたが、私がこの家に入っても、異物として見られることはなく、家族のように、暖かく迎え入れられていたのです。

 晴れ間の午後、日光が庭の緑の植物たちに瑞々しく反射して、そこから香る植物特有のあの匂いが、夏の始まりを告げていました。家の清掃作業があらかた済んだあと、午後四時半までやることのなくなった私達は、二人でソファに座り、またなにかの絵を描いている結月ゆかりを眺めながら、談笑していたのです。

「不思議な人ですね、結月さんは」

 と私はなんの気なしに言うと、

「不思議というか、変な人だよ」

 とマキさんは笑いました。

「こうしてみると、人形のようにも思えてくるときがあるよ。人間の形をした、オートマチックな機械の体。どんなときでも、怒りもせず笑いもせず、悲しみもせず、なにも拒まず、なにも追わない」

 私はそのときのマキさんの言葉に、先日、お風呂場で結月ゆかりの体を洗うマキさんの光景を思い出しました。

 

「午後5時半だ。ゆかり、お風呂に入ろう」

「はい」

 少し前まで、マキさんと結月ゆかりのその会話は、私が家に帰る合図でもありました。それからの夜にもまた色々なルーチンがあるようでしたが、時間もちょうどいいのと、同性とはいえ人の裸体を見ながら、どこをどう洗っていくかなどを見られるのは、いかがなものだったからです。

 しかし、興味はありました。あの徹底しているルーチンを作り上げたマキさんの、人の体を洗う完璧な所作を見てみたいと思ったことがなんどもあります。そうしてその日、私は、「あの、」と二人の会話に割り込み、しかしやはり恥が勝り、なにも言い出せずにいるのでした。

「あかりさん、気になるのはわかるけど……」

 とマキさんは寂しそうに笑い、私を窘めたので、私はやはりだめか、と諦めたところで、

「構いませんよ」

 と、結月ゆかりは一言、私とマキさんに告げたのでした。

「良いのかい、ゆかり」

 とマキさんは驚いた様子で、問い返し、けれども結月ゆかりはそれ以上言葉を発することなく、振り向きもせずお風呂場へと歩いていきました。

 残された私達二人はお互いを見合いながら、それならと納得して、タオルや洗面器などを用意して、彼女のあとを追いかけたのでした。

「濡れてもいい服を用意しているから、それに着替えたほうが良い。私が使っているものの予備だから、少し大きいかもしれないけれど」

 脱衣所で、マキさんの指示に従いながら服を着替えて、私達二人は結月ゆかりが待っている風呂場へと入りました。

「掃除のときにも思っていたんですけれど、この家、お風呂が広いですよね」

「もともと、家族世帯を重視した物件だったみたいだね。むしろここを選んだ理由の一つに、お風呂場が広いこともあったんだよ」

 人の体を洗うには、十分なスペースが必要だったからね。お風呂場だけじゃなくて、他のあらゆる部屋もそうだけれど、二人だからってあんまりミニマムな家を選んでしまうと、かえって都合が悪かったりするんだ。これはいろいろ、失敗もあってこの考えに至ったんだけれどね、とマキさんは喋りながら、すでに椅子に座って洗われるのを待っている結月ゆかりの、なめらかな毛髪を、二度三度撫でさすっていました。コンディションを確認しているのかしら、と私はそのとき理解しました。

 結月ゆかりの髪はそれほど長くありません。ショートボブを基調とした髪は暗くおとなしい印象を与えていて、それが人を意に介さない彼女の理念によく沿っているのですが、手入れのしやすさの面でそうなっているのかしらと思ったあとで、この完璧主義のマキさんがそんな怠惰な理由で髪型を決めているはずもないか、と考え直しました。

 マキさんがシャワーの温度を確認して、「髪を洗っていくからね」「どうぞ」といった応酬のあと、お湯によって彼女の短い髪が、しとりと縮んでいくのがわかりました。水気をたっぷりと含んだ髪の毛は、マキさんの緩やかな手の動きによって、根本から毛先へ、毛先から外へ、纏った一日分のあぶらを、水とともに落としていくのでした。

 頭皮を優しく揉むように洗っている間、結月ゆかりは目を瞑っているようでした。それは単に目に水が入らないようにしているからでしょうけれど、このとき私には、この行為が一種の洗礼のようにも思えてきて、なんだか、儀式めいて、特別なことのように見えたのでした。

 蜂蜜のようなシャンプーの液を手に取り、そこから泡だて器できめ細かい泡を作ったマキさんは、それを揉み込むように結月ゆかりの髪をまとめあげました。水で流され、コンディショナーで整えられ、さらに水で流される最後まで、結月ゆかりはずっと目を瞑ったままで、マキさんの「これで髪は終わり」という言葉で、ようやく目を開きました。

「次は体を洗っていくよ」

 彼女は頷きました。マキさんは先程と同じようにボディソープの液をまた泡立てたあと、その手のひらで彼女の体を撫で洗い始めました。

「スポンジなどは使わないのですか?」

「あれは肌を傷つけすぎる。時間をかけて、素手で洗うのが一番、きれいになるよ」

 私は頷いて、結月ゆかりの病的なほど白い肌に、さらに白い泡が纏わりついていく様子をじっと見つめていました。こうして裸体になるとわかることでしたが、彼女は服を着ていたときよりもさらに細く、あちこち骨ばっていて、その白い肌の内側に鮮血が巡っているとは到底思えないほどでした。マキさんが彼女の体を洗う姿は、洗体というよりは整備に近く、マキさんによって洗われる彼女の体は、人体というより樹木に近いのです。

 百日紅の木に似ている、と、私は思いました。猿ですら登れないと言われるほどのすべすべの白い幹。子供の頃に、木の肌を撫でたときの感触が、記憶の中でふと蘇り、懐かしい思いにさせられました。

 私が彼女の体に官能を感じなかったように、マキさんの如何なる所作にも、体を洗う以上の他意はどこまでもありませんでした。マキさんのてのひらは、彼女の体の、全身、どんな場所すらもゆっくりと撫でていきましたが、その行為は、その行為以外の意味を、最後まで持ちませんでした。

 そうして私は確信したのです。マキさんは結月ゆかりを、本当に恋愛として愛しているわけではないのだと。

 

 そんなことを急に思い出して、私はいよいよわからないのです。マキさんが結月ゆかりを育てる意味とは。

 馴れ初め、というものを知らねばならない、と私は思いました。しかしマキさんも、結月ゆかりも、そこまでのことは一向に語らず、黙秘を続けているのだから、こちらもそれにたいして傍若無人に問いただすわけにも行きませんでした。

 私の中で燻る疑問と、弦巻マキの、自己犠牲でもなくシステマチックでもない笑顔。私は言うべき言葉がいよいよ見つからなくなって、穏やかな沈黙ばかりが夏の日光に捧げられていました。

「なにか、食べていくかい?近頃は随分助けてもらっているから、お礼がしたいもので」

 マキさんはそういって、キッチンの方へと歩いていきました。おかまいなく、と私は言葉をかけようとしましたが、冷蔵庫を開けようとしたマキさんの体が、ふいにふらっとバランスを失い、転びはしなかったものの冷蔵庫に手をかけて、少しの間じっとするものだから私は心配になりました。

「貧血ですか?」

「わからない……なんだろう、ちょっとめまいがして。疲れてるのかな」

 そう返した彼女のこめかみの周辺に――私は呪いの一筋を見たのです。

 彼女の頭部付近の空間が、ぴかぴかと瞬いていました。光がきらめいているのが見えました。空間を捻じ曲げ、精神を犯し、体を破壊する、残酷な血流をみたのです。

 呪いだ。と私は悟りました。彼女はこの地に降り注ぐ、透明な血――人避けの呪いに、体を痛め、狂い始めたのだ、とわかったのでした。

 

 

 ――これまで出会った人間とこれから出会う人間達すべてに共通している点、それはいつ出会ってもいつ別れても皆他人であることです。いずれは誰もが過ぎる人……それがこの地にずっと住んできた私への教育であり、宗教であり、処世術でした。こういった信念は、他人に依存しない思考を生み出します。

 ここで勘違いをする人がいます。私のような人間を、人を信じられない自分籠もりの寂しがりと認識する人がちらほら出てくるのですね。それは間違いだと言わざるを得ません。私だって、好きな人間と、嫌いな人間はいます。

 それでは、私のような人間が普通の人と決定的に違う点はなにかと言うと、いつでも別離を想定して感情を抱くということなのですね。好きな人がいても、別れるなりに好きになるのです。嫌いな人も、いずれ別れるからと嫌いになるのです。

 それは言わば、こんな言葉の強さとして表せるかもしれません。好きな人がいても、愛している人がいるわけではなく、嫌いな人がいても、殺したい人がいるわけではない。これが私の幼い頃からの刷り込みであり、常識だったのですね。

 そうして、今思えば、私はマキさんのあの過ごし方に、シンパシーを感じていたように思います。マキさんにとって、結月ゆかりは、なんだったのでしょうか。それはすでに、彼女自身が引っ越しの挨拶で言っていたのです。

 家族でも、友人でも、恋人でもない人と。

 私はそれを、つまり他人じゃないか、と結論づけて。

 そうしてそれは、まったく間違ってないのでした。

 あの奇妙なまでの献身ぶりと、私の神経に根付いた生き方が、たまたま相似を見つけて、私はあの人にどんどんとのめり込んでいきました。

 そうして自分の中で矛盾を産むことになります。信念に反して、別れたくない人ができた、と。

そして皮肉にも、私はその後、再三、マキさんをこの地から追い出そうとなんども説得したのです。自己矛盾に自己矛盾を重ねて、私は愚かにも自分の軸を折ってしまいました。

 続きを話しましょう。

 この地に足を踏み入れたものは、段々と狂っていくのです。狂い方は人それぞれで、どんなに個性がないと自分を嘆いている人でも、この地にくれば自分らしい狂い方はなにかを知ることができるでしょう。段々と、土に埋まっていく人。幻覚、妄想、疑心暗鬼、浮遊、なりかわり、神隠し、この地にはなんでもあります。しかしながらその狂気は、とてもとてもゆるやかに進行していくものだし、たいてい、自覚できるのです。本能が指し示すのですね。ここは人が住む場所ではないと。

 マキさんにかかった呪いは幻覚と身体感覚の不整合でした。彼女はなにか強い光のエネルギー……いわば虫眼鏡で太陽を覗いたような、危険な光が、ときおり見えるようになったのでした。それは本人にとっては本当に強い幻覚で、それがやってくるとたちまち、立っていることも難しく、その場にへたりこんで、俯くことしかできなくなるのです。

 これが病気のたぐいではないと言い切れるのは、その幻覚は、他人が俯瞰して見えるものだったためです。マキさんが幻覚を見ると、マキさんの目の周辺の空気が、パチパチと瞬きます。線香花火のように、カメラのフラッシュのように、ショートした電気回路のように。それは現実世界では到底まみえることができないような、幻想的なものでした。あるいは、モラルが欠けている人間がその姿を見ることがあれば、アートだとか、そういったことを言ったかもしれません。

 そんな呪いが発現したあと、マキさんはどうなったでしょうか。

 驚くべきことに、彼女はどうもしませんでした。いままでどおりの生活を、続けようとしたのですね。朝に起き、掃除をして、朝食を作り、結月ゆかりの身体と身だしなみを整え、測り、計算し、行動に移す生活を続けたのです。

「このままここにいれば、おしまいには、死んでしまいます」

そういって、どうにか彼女の安全を願う私に、マキさんは、

「でも、ゆかりはここを出たくないみたいだから」

 と笑って返すのでした。

 始めはこの地にかかっているこの血のことを信じていないのだと思っていました。病院に行ってみれば、食事に気をつければ、寝る前のストレッチを、保温を、ひたすら徹底すれば。そんな健康療法でどうにかなるものだと思っているのだろうと勘違いしていました。私はどうにか信じてもらおうと、過去に人の言葉を信じず、とうとう狂って死んでしまった人たちのことを話しました。いいですか、ここで死んだって、誰も弔ってくれません。別の土地にいけば、全部嘘だったかのようになくなります。だからどうか、ここではないどこかで、体を大事にしてください――と。

 ですが、すべてはのれんに腕押し、私の懇願はすべてひらりと受け流されました。私は憤って、悲しくなって、泣きわめいては、どうして信じてくれないのですか、とそう言いました。

 そして、

「疑ってなんかないよ」

 という彼女の表情に、いつもと違う色が混じっていたのを、私は見つけたのでした。それは間違いなく――寂しさの感情なのでした。

 この命の瀬戸際で、ずっと良心の表情を振りまいていた彼女は、ここに来てこの上なく切ない顔をするのでした。

 先程、私のことを自分籠もりの寂しがりやと勘違いするものがいる、とお話しましたが、いうなれば、マキさんは本物の寂しがりやの表情をしているのでした。誰も、自分を理解するものはいない、という諦念を抱えた、流れ者の表情でした。だから、私はそこでやっと察しました。マキさんはすべてを知っているうえで、ここに残ろうとしているのだと。

 なぜ、と私は思いました。あなたにとって結月ゆかりはなんなのですか。大切でもないんでしょう。恋い焦がれているわけではないんでしょう。それでどうして、自分を犠牲にして、命まで投げ捨てるのですか。それでなぜ、自分は一切の犠牲を払っていないような素振りを見せるのですか。あなたの信念は、過去は――なんなのですか! 

 しかしその疑問を、その今際ですら躊躇ってしまう私がいました。こんな当たり前の疑問を、あえてまだ言わないマキさんの、その葛藤、あるいは諦めを、私は察しているからでした。それを問いただすことは……彼女の、なにか核となる、とてつもない深い闇をつついてしまうことになると、私は直感していました。彼女の、すべてを後ろ向きに許している表情は、私のあらゆる決心を鈍らせたのです。

 生活は続いていきました。生活が続くと同時に、命の灯火は少しずつ、小さくなっていきます。マキさんは毎日結月ゆかりを世話し続けました。私は、次第に結月ゆかりに怒りを持つようになっていきました。結月ゆかりは、この期に及んでも、マキさんが急にふらついても、床に伏しても、目のそばの光がスパークして部屋中を明るく染め上げても、どこ吹く風、私の心配など存在しないかのように、絵を描き、音楽を聞き、食事を取り、眠るのですから。

 しかしいずれも無意味でした。弦巻マキと結月ゆかりの関係性は、二人の関係性だけですべて閉じており、私が口を挟める隙はどこにもないのでした。今までそう感じたことなどなかったのに、ここに来て私はどうしようもなく部外者だと実感したのです。

 

ある日、マキさんはとうとう歩けなくなり、入院することになりました。医者はこの地の呪いを信じていない新参で、休んでいればじきによくなると、空虚な安心を私達に預けました。

「具合はどうでしょうか」

 私は毎日見舞いに行きました。

「ゆかりは、どうしてる?」

「いつもどおりですよ。私が代わって、ある程度の家事をやっています」

「ごめんね。私もはやく元気になって、あの家にもどらないと」

「この場所に居る限りは、そうはなりません。歩く方向が違うのですから。わかっているじゃないですか。おそらく、もう長くはないんだと思います。こうなるまで、ここに居た人は、じきに――」

「あはは、そっか」

「どうして、笑っているんですか」

「早く家に、戻らないとなあ」

 マキさんの目のそばには、ずっと光がぱちぱちと瞬いていました。その瞳は天井をせわしなく泳いでいて、おそらくは、もう私の表情も見えていないのだろうと悟りました。

「こんな……こんな終わり方をする人生に、なんの意味があるんですか。生きようと思えば、生きることができるんですよ」

「意味!」

 マキさんが急に私の言葉に食いつくものだから、私は驚きました。そのうろたえを気配で察知したのでしょう、マキさんは息を整え、数拍の沈黙の後、私に問いました。

「あかり。あなたは私のことが好きなのか?」

「……はい、そうです」

「それは、何故?」

「何故……えっと」

「ちゃんとした大人に見えたからか、愛想が良かったからとか、笑顔が素敵だったからとか、性格が似ていたとか……色々考えつくことはあるけれど。そのうちのどれかかな?」

「……そうですね。そんな感じ、ですけど」

「つまり、私になにか……価値を感じていたんだね」

「価値って……そんな言い方は、酷いと思います」

「では、そうではないと?」

「いえ……否定するわけではありません。仰ることは正しいと、思います」

「うん」

 マキさんは天井を仰いで、

「愛されるっていうのは、一体どういうものなんだろう」

 と、独り言のように言いました。

「母は、私が幼いときに死んでしまって――」

 それは実際に、独り言でした。私はマキさんの言葉をじっと聞いていましたが、マキさんは数度苦しそうに呻いたあと、一言だけ、

「さみしい」

 と言い、それから口を閉じました。しばらく私はそれを見つめていて、はっと気づき、彼女の肌に手を触れさせました。

 彼女はすでに、息を引き取っていました。

 私はマキさんの手を握って、息を殺して泣きました。こんな死に方があるでしょうか。最後の最後で、「さみしい」と残して、誰にも理解されないような表情を振りまいて死ぬようなことがあっていいでしょうか。世界の不整合を感じました。私は、このどこにも行きばのない怒りを、やるせなさ、みじめさを、胸いっぱいに押し込んで、それを決して吐き出すことができず、泣きました。声をあげて泣くことができませんでした。彼女の死はそういったビビッドで凄惨なものではなく、静かに、寂しく、病室を満たしていました。

 

 

 法的な手続きにより、彼女の身元は紹介されたようでしたが、彼女の葬式は開かれませんでした。不思議なことに、あんなに優しい人だったにもかかわらず、彼女には大切と言えるほどの家族や、学友や、同僚などの人々が、存在していなかったようなのです。私はなんて薄情な人たちばかりなのだろう、としばらく憤ってましたが、少しの時間の後、これはマキさん身がそう仕向けたに違いない、と考えるようになりました。

 ようするに、偽悪なのですね。ながれものだけが集まるこの街で、よくわからない少女と二人きりで暮らすには、社会的なものすべてが障壁となることは間違いないですから。だから、わざと人から失望されるように、蔑まれるように、「あいつはもう終わりだ」と思われるように、仕向けた。――これらはすべて私の妄想でしかありませんが、それでもマキさんは、そういう人だったのだと思います。

 だって、あんなに優しく完璧な人は、私、他に見たことがありませんから。人が離れていく理由にも、相応の優しさと悲しみがあるはずなのだろうと、私は思います。

 マキさんの遺体は静かに焼かれ、この地の無縁墓地にひっそりと埋められることになりました。私は心中が落ち着いてきたあと、毎日そこに向かうようにして、墓石に向かって話すこともなく、じっとそのあたりで静かに埋まっている土や石を見つめていました。

 マキさんの呪いとの戦いは、数旬のあいだ続いていたので、その間に夏や秋は過ぎ去り、この墓地はすっかり冬模様、空気が凍りつきそうな、しかし寒いわけではなく、たださみしい、悼みだけが存在する場所になっていました。

 私はずっとその場に立ち尽くして、唯一つぐるぐる考えることがありました。

 マキさんの人生に、なんの意味があったのだろう?

 そう考え続けて、ひとつ気がつきました。それは彼女がこの世を去ったことにより、私はいっそう、彼女のことが好きになっているということでした。しかしそれはけっして満たされることのない好意で、好きであるからこそ、もうなにも言葉を返すことのできなくなった彼女に、掛ける言葉が見つからないのでした。私は彼女との時間を、人生と死後を、自分の価値観で清算してはいけないと考えました。彼女の死をへんに良く思ったり、また嘆いたり、教訓にしたりしてはいけないと思いました。彼女の死は死のままで、彼女の無念は無念のままで、それは彼女だけが持つ一番の宝物であり、私がそれを奪ってはいけないと考えたのです。

 私は、彼女の死が無価値であったことを確かめるように、墓地へと向かい、なにも手にすることなく家に帰るのでした。十六歳の冬。私は高校を出たあとの進路を、親からやんわりと尋ねられたりしていました。

 

 彼女の死に意味はないと結論づけたあとにも、私の心にはたしかな怒りが存在していて、その矛先は一点、すべて結月ゆかりへと向いていました。私はマキさんが死んでから、彼女の家には出向かいませんでしたが、ある日に、生活能力のない彼女が、マキさんを失ってどれくらい不便な生活をしているか見てやろうという気持ちになって、彼女の家を訪ねたのです。

 インターホンのベルをならすと、彼女は音もなくドアを開けて、その顔を見せました。おおよそ好意的ではない私の表情をみて、顔色一つ変えずに、「どうぞ」と一言そういって、ドアを開けたまま奥へ引っ込んでいきました。私はあとをついていって、家の中を見回しました。

 家の中は、きれいに片付けられていました。マキさんがこの家を掃除して回っていたときほどではないにしろ、マキさんが入院している間、私がここへ来て家事をやっていたときと同じくらいか、むしろそれ以上に清潔で、それぞれのものがあるべき場所に収められている印象を受けました。時刻は十二時半でした。結月ゆかりは食事の途中だったようで、そこにはマキさんが昼によく作っていた鶏肉を中心とした料理と、その他漬物、サラダ、汁物など、食事に必要なものはすべて揃っていました。

 一人静かに食事を進める結月ゆかりを見て、私は驚きました。はじめのうちは、新しく養ってくれる人を見つけたのかしら、と思ったのですが、じきにそうではないことがわかりました。食事を終えた彼女は、滞りなく食器をきれいに洗い、お風呂の掃除をして、それから自分の体重と血圧を計り、家中を掃除しているのです。私はその間、すっかり自分の体に習慣化していた彼女の生活を手伝おうとする気持ちを押さえつけて、ただ見ていましたが、彼女は私やマキさんが行っていた彼女のための生活を、完璧ではないにしろスムーズに、すべて自分で行っているようなのでした。

 結月ゆかりの目や、表情、仕草には、悲しみも、怒りもありませんでした。彼女の目の前にあるのは、今日やるタスクのことだけであり、そこに付随する健康や、達成感、辛いことを忘れようとする感情の上書き作業などはなにもありませんでした。

 そうして、「彼女はうまく生きることができる」という現実を突きつけられるたび、私は心臓が破られそうになりました。私の中で、まだ一つ、誇りがあったのですね。マキさんが、彼女の生活を誰よりもうまくサポートしているという気持ち、庇護しているという達成感、結月ゆかりは弦巻マキに依存しているという心の中での証明が、すべて瓦解したのでした。

 そうして、私は結月ゆかりが住んでいる家を飛び出して、我が家に帰り、布団の中に丸まって、マキさんのことを考えました。

 結月ゆかりにとって、弦巻マキは、なんでもない人だったのだと、私は実感しました。結月ゆかりにとって、弦巻マキを含んだあらゆるものは、無価値だったのです。

 弦巻マキは、なんのために生きてきたんだろう?

 私は、もっとマキさんといろんなことを話せばよかったと後悔しました。彼女が嫌がっても、彼女のことをもっと聞いておけばよかった。

 後悔というのは、なんの生産性もないくせに、ひどく気分を安定させるものなのです。後悔は、自分の罪を認めたわけでもないのに、正しい行いをした自分を過去に投影することができるからですね。私は後悔しました。そしてその結果に、私はひとつ決心が欲しい気持ちになって、志を作り、明日から頑張ろうと、いやに前向きな気持を持つことにしたのでした。

 弦巻マキが何を思って結月ゆかりのそばに居たのか、自分が納得できるまで、彼女の傍にいよう。私はそう決めました。そう決めてからのあとは、すっきりとした心持ちで、穏やかに眠ることができました。

 

 私は弦巻マキの生活をなぞるように、彼女の家へと赴きました。結月ゆかりが起きてくる前に、静かに窓を拭き、朝食を作りました。日が登る頃に、結月ゆかりを起こすと、彼女は眉一つ動かさずに、私を一瞥すると、ストレッチをするべく私に体を預けました。

 冬の気温が部屋中を縛っていたものですから、結月ゆかりの体はがちがちに固まっていて、私はそのぶん、念入りにやさしく、彼女の体をほぐしていきました。これほど硬直しているのならば――朝食のあと、一度入浴を挟んだほうがいいかもしれない、と思い立ち、彼女が食事を取っている間にお風呂場の掃除を済ませました。

 私がどんな葛藤を抱いていても、ルーチンはすべて規定通りに行われるのは、なんだか気分がいいものでした。私のやっていることがすべて無意味だったとしても、結月ゆかりになんの影響も及ぼさないとしても――この行い、それ自体が、私を穏やかな世界に連れて行ってくれるように感じました。

 始めは土日だけ、彼女の家に向かっていましたが、日々、彼女の体調を慮るに連れ、私の中で、もっと完璧にこなしたい、という気持ちが高まってきました。それは平日の朝にはじまり、それから学校が早く済んだ日、年の暮と新年、春休み、親と喧嘩をした日、徐々に私の生活は私から結月ゆかりへとシフトしていきました。

 両親や教師から、進路はどうするんだ、ということばかり聞かされました。好きな人がいるのはいいことだけれど――という言葉とともに。

 私はその言葉を聞くと、陰険な笑いがこみあげました。価値だ。と思いました。好きな人がいることは価値だ、進路を決めるのは自己の価値を引き上げるためだ、とも思いました。

 私がやっていることは、崇高なことでも、乙女心でもないんだ、と叫びたい気持ちになりました。私がやっているのは――もっともっと、意味のないことなんですよ、と言ってやりたかった。しかし……あぁ、価値は価値、やはり自分がこうして結月ゆかりのもとへ行くことにも、相応の不安があり、不安があるからこそ、私はこの生活から、段々と逃れられなくなっていきした。

 そんな不生産な生活がだんだんとエスカレートしていき、夏。私は学校へ行くことをやめ、結月ゆかりの家で暮らすことにしました。その頃になると両親は呆れ返り、実質的な勘当を言い渡され、私は晴れて自由になりました。

 真の愛とは、無価値に属するものなのではないかしら、と私は感じました。だって、私の両親は、私が両親をぞんざいに扱い、なんの価値もない生活に身をやつしたら、とうとう私を見捨ててしまった。それは私の中に家族という鎖があって、娘が立派な人になったら嬉しいし、変な人間になってしまったら嫌だ、という気持ちがあって、ようするに私の中に価値を見出していたかったからなのです。そしてそれは、あらゆるものに応用が効く理論ではないだろうか。友人も、恋人も、みんなみんな価値があるから嬉しいし、家族も友人も恋人も、存在するだけで価値になる。

 愛情を含んだコミュニケーションは、そのすべてに後ろめたい取引が潜んでいる。みんなはそれを隠しているだけではないだろうか?

 それを踏まえると、結月ゆかりとの生活は、私に安寧をもたらしました。彼女にとって私はなんでもない人間であるけれど、存在を認めてはいる。それが心地良かったのです。

 しかし、無価値だからこそ良い、という結論にも、私は至りませんでした。それもそのはずで、無価値に価値を見出してしまったら無価値は無価値ではなくなるからですね。だからこそ、私の生活において私は満たされることはありませんでした。仮初めの安寧であり、蜃気楼のような愛情を密かに抱いて、生きていったのです。

 機械的なルーチンと感謝されない私、生産性のない完璧な生活。結月ゆかりという少女。私はその生活において満たされるものはありませんでしたが、ただ、安らかでした。なにも解決はしないどころか、ゆるやかに社会から排斥されているのは間違いないのに、それでも、ここは安全地帯でした。朝起きて、掃除、朝食作り、ストレッチ、血圧と体重測定、入浴、夕飯――生活、生活、生活。

 人生が死ぬまでの夢であるならば、この夢のままでもいいのではないか、と思いました。いくら人生の中で価値を追い求めたって、すべては塵になるのですから。この考えはおそらく、マキさんも持っていたのではないかしら。こうして彼女の死後ですら、結月ゆかりと私が滞りなく生きていけるほどの財産を築き上げ、そうしてあらゆる価値から離れていった人。彼女の人生はなにもわかりませんでしたが、こうして彼女の生活をなぞったことで、彼女の中に存在した、葛藤や安寧や、人生に一生つきまとう難題、孤独と寂しさが、わかるようになっていったのです。

 そうして、私はある日、自分が結月ゆかりを大切に思っていることに気づきました。家族だと思っているわけではありません。健やかに生きてほしいとも、なにか立派な人になってほしいと思うわけでもありません。ただこの日々を続けるだけの、そのままのあなたで居てほしいという気持ちが、私の体を満たしていることに気づいたのです。この気持ちが社会的にどう捉えられるかは知りませんが、私は、結月ゆかりに、誰のことも考えず、自分の生活だけを過ごす、自己中心的な考えをもったままで居てほしいと願ったのです。

 そう気づいてから、私は一生、彼女のもとで暮らそうと決意しました。

 その次の日、いつも通り家を掃除してから、朝食を作り、彼女を起こしに向かうと、彼女が布団に居ないことに気が付きました。私は変に思って家中を探し回り、家の中にいないとわかると外に出て、結月ゆかりの姿を探しました。

 結月ゆかりは庭にもいませんでした。代わりに、庭の隅、家を区切る小さな塀の内側に小さい木が生えているのを私は見ました。

 さらさらとした幹。しなやかな体。細い枝先。百日紅の木でした。

 私はその木をひと目見て、その木が結月ゆかりであったものだとすぐに理解しました。呪いのせいでこうなったのかもしれない、とにわかに思いましたが、私は喪失感に苛まれたり、悲しんだりすることはありませんでした。

 私にとって、結月ゆかりがどういう姿を保っていようと、どうでもよかったのです。

 私はその日から、大幅にルーチンを変えました。少量の水を用意し、肥料を与え、幹を拭いて、枝葉の剪定をするようになりました。周りの人間は、とうとう気が狂ってしまったと憐憫の情で見ましたが、そのときの私には、すべてどうでもよく見えました。樹木になった結月ゆかりは、以前の結月ゆかりより、よっぽど結月ゆかりであるように見えました。――あぁ、存在はするけれど無害であることの象徴として、樹木になるのは、それこそ完璧ではないかしら、と思いました。

 ルーチンをこなしていく日々の中で、私の周りには、次第に人が増えていきました。とある日に、どうしてみんな集まってくるのですかと聞いたところ、この木の周りに居ると、この呪いがいくばくか楽になる気がする、とみんなそう口を揃えて言うのでした。

 そうして人は増えて、増え続け――できるだけ多くの人がこの安息の地を享受できるよう、家は解体され、小さな公園になりました。私はずっとこの木を世話し続けるうちに、人から慕われるようになり、今日にこうして、みなさんに過去を話すようにまでなりました。

 一つ最後に言っておきたいのは、私は誰が認めようとも、認めずとも、ずっとこの木を世話していただろうということです。この木に呪いを解く力がなくても、――結月ゆかりや弦巻マキに、価値があろうとなかろうと、彼女たちとともにずっと暮らしていただろうということです。

 そしてそれは、解決策でも、悟りでも、真理でもありません。弦巻マキも、私も、ずっと道の途中でした。未だに解決に至っていない深い深い謎です。私も彼女もずっともがいていました。愛するということはどういうことか、愛されるということはどういうことか、ずっと考えていました。

 しかし、もがいていることにすら、価値はありません。すべては必要のないものでした。世間を知らない私がいうのもなんですが、もしみなさんが、胸を張って今の自分は幸せだと言えるのなら、やはり真理はそこにあって、私やマキさんの捉えた真理の蜃気楼は、まさしく蜃気楼なのではないかしら。オアシスを見ることがない人生は、虚しいが虚しさの中にも、少しの救いがあるような気がしていて、その救いさえ幻覚、蜃気楼であったとしても――あったとしても……

 いえ、私はこの先の言葉を言いません。話はこれで終わりましょう。ここで教訓めいたことを言ってしまえば、それは私やマキさんの人生を否定することになりますから。どうか皆様、お気をつけて。呪いが溜まらないうちにまた来てください。私とゆかりは、ずっとここにいます。あなた達が怪物になっても、私達はずっとここにいますから。


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