「……私は彼女に、何もできない……」
セミの声がけたたましく響く、夏真っ盛りの8月。
私はいつものように、彼女の病室を訪れる。
「フクキタル、調子はどう?」
そう声をかけながら、病室のドアをくぐる。
けれど彼女は、私に気づく様子もなく、ただ「トレーナー」との会話を続けていた。
「トレーナーさぁん! 見ててください、きれいに作りましたよぉ!」
彼女は、ぐしゃぐしゃに丸めた折り紙を掲げ、得意げに笑う。
「トレーナーさぁん! 撫でてください!」
「うあぁ! 乱暴ですよ、トレーナーさぁん!?」
「えへへ……でも、うれしいです……」
その病室にいたのは、「脳内のトレーナー」と会話を続ける、一人の壊れたウマ娘だった。
マチカネフクキタルがおかしくなったのは、彼女がある大会で優勝した直後のことだ。
彼女の専属トレーナーが、トラックに轢かれて急死した。
彼女はどう見ても手遅れなトレーナーの前で、ずっと座り込んでいたという。
そこまでなら、担当トレーナーを失った悲劇のヒロインで終わるはずだった。
だが、現実を受け入れられない彼女は、心の中に「最愛のトレーナー」を作り上げてしまったのだ。
彼女の瞳からは光が消え、そこに映るのは脳内のトレーナーだけ。
かつて現役時代に輝きを放っていた髪はぼさぼさに乱れ、すべての美しさを失っていた。
カウンセリングやヒーリング治療、PTSDの療法まで、あらゆる手が尽くされた。
けれど、どれも彼女からトレーナーから引き離すことはできなかった。
家族や親しい友人さえ彼女の痛々しい姿に耐えきれず、この病室を訪れる人は一人、また一人と減っていった。
やがて時は過ぎ、ここへ来るのは私一人だけになってしまった。
私は窓際に立ち、彼女の様子を眺める。
眺めることしかできない自分の無力さを嘆き、涙を流したこともあった。
だが、その涙さえ、今では枯れ果てていた。
ここにいるのは、かつて栄光の道を歩んだウマ娘の「残滓」でしかない。
それでも私が通い続けたのは、彼女がいつか自分を取り戻してくれると信じたかったからだ。
私のことをライバルと呼んでくれた、輝くような笑顔の彼女がもう一度見たかった。
どれほど彼女がトレーナーと会話を続ける姿を見つめていただろう。
夕暮れに染まる窓を見ながら、病室を後にしようとしたその瞬間、
「スズカ……さん?」
世界が止まったような気がした。
ずっと聞きたかった彼女の声が、今はなぜか死ぬほど恐ろしい。
ゆっくり振り返ると、そこにはわずかに瞳の光を取り戻したマチカネフクキタルがいた。
「スズカさんですよね……ス、スズカしゃぁん……」
彼女は滂沱の涙を流し、赤子のように顔をくしゃくしゃに歪めていた。
「フクキタル……」
枯れていたはずの涙が頬を伝う。私は急いで彼女に駆け寄る。
「よかった、気づいた――」
「なんで…」
彼女は私の言葉を遮るように彼女は言う。
「なんで死んじゃったんですかぁ?」
ああ…そうだ…
その言葉に、私はすべてを思い出した。
私はレース中の怪我が原因で死んでいたのだ。
彼女との再戦を誓ったにもかかわらず。
その約束も果たせずに。
「お姉ちゃんも、スズカさんも、それにトレーナーさんまで……
どうして私の大切な人たちはみんな……みんな……死んじゃうんですか……?」
「なんで」「どうして」と泣きじゃくるフクキタルを抱きとめようと手を伸ばす。
だが、その手は彼女をすり抜けてしまう。
「ごめんなさい……フクキタル、ごめんなさい……」
私の声は彼女には届かない。
数分泣き続けた後、彼女はまた脳内のトレーナーとの会話に戻っていった。
自分の精神を守るため、暗い檻の中へ。
いや、彼女の心はとうに死んでいる。
一度目は憧れの姉の死、二度目は超えると誓った私の死、そして三度目は……。
「……私は彼女に、何もできない……」
私は誰にも届かない嘆きを、病室で一人こぼし続ける。
私もまた、「残滓」に過ぎないのだから。