さやかは良い子なんだ。
ただ、状況が最悪だっただけ。
薄暗い夕暮れ、見滝原中学校の屋上に一人佇む暁美ほむらの姿があった。
西に沈みかける太陽が打ち捨てられた校舎の影を長く伸ばし、建物の輪郭をぼんやりと茜色に染めている。
肌寒い風が黒髪をなびかせる中、彼女は遠くを見つめていた。
その紫色の瞳は、いつものように覚悟と諦念を湛えている。
空を見上げるほむらの思考は、常に同じ軌道を周回していた。
「あとどれくらい」
「今回は何が変わるのか」
「まどかを救えるのか」
幾度となく繰り返してきた時間の輪の中で、彼女の心はますます頑なになっていく。
「またここで一人?ほんと、あんたって変わってるよね」
振り返ると、いつの間にか美樹さやかが立っていた。
青い髪が夕日に照らされ、いつもの活気ある声色とは裏腹に、どこか疲れた様子が見て取れる。
学生鞄を肩にかけ、少し息が上がっているのは、走って戻ってきたのだろう。
「何か用?」
冷たい声で応じるほむら。その声には不要な感情の欠片も混じっていない。
これが彼女の防壁だった——余計な接触を避け、余計な痛みを増やさないための。
「別に。帰ろうと思ったら忘れ物に気づいて。あんたこそ、こんな時間まで何してんの?」
さやかは首を傾げながらも、警戒心を隠そうとしない。
彼女にとって暁美ほむらとは、まどかの周りを不気味に回る、理解できない存在だった。
「考え事。」
「いっつもそうやって突き放して。みんな心配してるんだよ? 特にまどかなんて…」
さやかは言いかけて口をつぐんだ。まどかの名前を出すと、ほむらの表情が微妙に変わることを、彼女は何度か目撃している。
風がさやかの言葉を攫い、二人の間に沈黙が広がる。そのとき、さやかのバッグから小さな音楽プレーヤーが滑り落ちた。バッグを急いでまとめたのだろう、きちんと閉められていなかったのだ。
「あっ!」
青白いプレーヤーが床に落ちる寸前、銀色の閃光が走った。
反射的にほむらが時間を止め、落下する瞬間をかろうじて捕らえる。
周囲の景色が青紫色の世界に変わり、風も音も止まった。
その異空間の中でほむらだけが動き、落下途中で静止したプレーヤーに手を伸ばす。
ほんの数センチの差だったが、彼女はそれを掴み取った。
時間が再び動き出すと、ほむらの手の中にはさやかの大切なプレーヤーがあった。
「え...?」
さやかの目が丸くなる。彼女の反応は毎回同じだ——驚き、困惑、そして警戒。その全てを何度も見てきたほむらは、何も言わずプレーヤーを差し出す。
「上条恭介」
ほむらはさやかが聴いていた曲の名前を口にした。プレーヤーには再生中だった曲名「上条恭介・ヴァイオリンソナタ・リサイタル」と表示されている。
「ええ!? 見たの!? もうっ、人のプライバシーよ!」
顔を赤くするさやかに、ほむらは珍しく小さな笑みを浮かべた。
それは皮肉でも嘲笑でもなく、少女時代の趣味の共通点を見つけた純粋な反応だった——ほむらが自分でも忘れかけていた感情。
「彼のCDも持ってる。」
「...え? あんたが? ウソ...」
信じられない表情のさやかに、ほむらはただうなずいた。クラシック音楽への思いは、数多のループを経ても変わらない希少な趣味だった。長い病院生活の中で、音楽だけが彼女の心を慰めてくれた時期がある。それは眼鏡をかけた頃の、まだ世界に絶望していなかった暁美ほむらの記憶だった。
「どの曲?」
急に興味を示すさやかに、ほむらは短く答える。周囲に誰もいないのを確認してから、心を許した瞬間だった。
「ベートーヴェンのバイオリンソナタ第9番。」
「クロイツェル...」
二人の目が合う。さやかの目には驚きと、ほんの少しだけ親近感が浮かんでいた。
「まさか、上条くんとの関係、知ってたの?」
さやかの問いにほむらは黙っていた。何度も目にした彼女の願い、失望、そして絶望への道のり。全てを知りながら、無力だった時間の迷路に閉じ込められた自分。そのことを告げたところで、さやかを救えないことをほむらは知っている。いや、ほむらの介入がかえって状況を悪化させる可能性さえある。
「...知らなかった」
沈黙の後に続いた嘘。その嘘は苦く、でも必要なものだった。
「そう...」
さやかは空を見上げた。彼女の青い瞳に映る茜色の空には、小さな星が一つだけ瞬いていた。
「なんか、急にお腹空いたよ。ねえ、どうせ家に帰っても一人でしょ?」
「...それが何か?」
ほむらの声は冷たいが、以前ほど鋭さがない。何百回もの時間軸で、彼女たちは常に衝突してきた。それは避けられない運命の一部だった。しかし今日は、どこか違う空気が流れている。
「カラオケでも行かない? ヒマ潰しに」
ほむらの驚いた表情にさやかは明るく笑った。その笑顔には、まどかに見せるような無邪気さと、杏子に向けるような挑戦的な色が混ざっている。
「べ、別にあんたと仲良くなりたいとかじゃないからね!ただ、今日は仁美もまどかも忙しくて... それに」
さやかは言いよどみ、視線を逸らす。一瞬だけ、彼女の表情に孤独の影が差した。上条恭介と仁美の関係を知り、傷ついているのだろうか。その痛みは既に始まっているのか。ほむらは考えた。
「いいわ。」
ほむらの予想外の返事に、さやかは言葉を失った。彼女は目をしばたたかせ、まるで幻聴を疑うような表情を浮かべる。
「ほ、ホント? 冗談?」
「時間の無駄だとは思うけど...今日は特別ね。」
ほむらはさやかを一瞬見つめた後、先に階段へ向かう。その背中は小さく、けれど凛として見えた。
「お、おい!待ってよ!」
さやかが慌てて追いかける。その足取りには、ほむらが見せた予想外の一面に対する好奇心が込められていた。
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ネオンサインが瞬く繁華街の一角、小さなカラオケボックスに二人は入った。店内は週末にしては比較的空いており、学生服姿の彼女たちはすぐに個室に案内された。
角のソファに座ったほむらは、窓の外を見つめている。まだ日は沈みきっていないが、街は既に夜の装いを整え始めていた。見滝原市のこの一角は、平凡な日常と、魔女の巣くう異界の境界線だった。
さやかはメニューを手に、異様なテンションで説明を始める。
「ここのパフェ、マジうまいんだよね!まどかと仁美とよく来るんだ。あ、このミックスジュースもすごいよ。あとポテトも…」
彼女の饒舌さは、少しばかりの気まずさから来ているのかもしれない。二人きりで出かけるなど、これまで想像もしなかった状況に、さやかは自分を落ち着かせようとしているように見える。
「そう」
ほむらの返事は相変わらず素っ気ない。だが、その声には以前ほどの鋭さがなかった。彼女はさやかの話す姿を観察していた。時に感情的になり、正義感に燃え、そして自分を追い詰めてしまうこの青い髪の少女。何度も彼女の最期を目にしてきた。そのたびに感じる無力感と後悔が、ほむらの心を少しずつ蝕んでいった。
「もう!いつもそうやって素っ気ないんだから。今日はせっかくだし、もっと笑顔見せなよ。ほら、こう!」
さやかが自分の頬を両手で引っ張り、滑稽な笑顔を作る。その後、彼女はほむらの頬をつついた。その馴れ馴れしさに少しだけ表情を緩めるほむら。
「...バカね」
その言葉は、以前よりも柔らかかった。
接客係の女性が飲み物とフードを運んでくると、さやかは迷わず大きなパフェに手を伸ばす。チョコレートとフルーツが豊富に盛られた甘い誘惑を、彼女は子供のような笑顔で見つめる。
「一口どう?」
彼女がスプーンを差し出すが、ほむらは軽く首を振る。
「さっきから気になってたんだけど…」
「何?」
「あんた、本当に中学生? なんか大人びてるというか…年上に見えるんだよね」
ほむらは静かに微笑んだ。何度も同じ時を生きる中で、彼女の精神年齢は実際の年齢をはるかに超えている。それは言葉にできない体験だった。
「気のせいよ。」
「そうかなぁ」
さやかは首を傾げながらも、その話題は諦めたようだった。
「歌うの?」
「当たり前でしょ!カラオケきて歌わないなんて犯罪だよ」
さやかがリモコンを操作し、ポップな曲を選び始める。画面には様々なジャンルの曲が並んでいるが、彼女は迷わずJ-POPの人気曲をスクロールしていく。
「あ、クラシックもあるけど... あんまりカラオケ向きじゃないかな」
「大丈夫。」
ほむらはそれだけ言って、さやかの選曲を静かに待った。普段から他人との交流を最小限に抑えている彼女だが、今日は何故か違った。もう何十回とループを繰り返す中で、いつもとは異なる展開に一瞬の希望を抱いている自分がいた。まどかを守るという大きな目標の前に、こんな小さな変化が何の意味を持つのか。それでも、ほむらは今この時間を受け入れようとしていた。
「じゃあ、これで!」
明るいアニソンのイントロが流れ始める。さやかが立ち上がり、マイクを手に情熱的に歌い始めた。
「♪僕らは今の中で〜最高の思い出を刻むの〜」
さやかの歌声は予想よりもはるかに良かった。意外な音程の良さに、ほむらは少し驚く。歌詞の一つ一つに込められた想いが、さやかの表情から伝わってくるようだ。彼女の歌い方には、どこか切ない情熱がある。それはきっと、上条恭介への思いが反映されているのだろう。
目を閉じ、全身で音楽を感じているさやかの姿に、ほむらは思わず見入ってしまう。この少女の中にある純粋さと情熱は、いつか彼女を破滅へと導く要素でもある。しかし今この瞬間、それは輝くばかりに美しい。
曲が終わると、さやかは少し照れくさそうに笑った。頬を赤らめ、少し息が上がっている。
「へへ、どうだった?」
ほむらは小さく頷いた。言葉にはしなかったが、その肯定的なジェスチャーにさやかは満足げな表情を見せる。
「ほら、次あんたの番!」
曲が終わり、さやかはほむらにマイクを突き出した。
「私はいい。」
「えぇー!そんなの許さないよ。ほら、みんなちゃんと歌うのがカラオケのルールでしょ!」
ほむらはためらう。何百というループの中で、彼女がリラックスして歌を歌ったことはほとんどなかった。いつも緊張の連続で、心を開く余裕などなかったのだ。
「ねえ、これ歌ってよ。絶対似合うから。」
さやかが選んだのは、ゆったりとしたバラード。画面に表示されたその曲名を見て、ほむらは僅かに目を見開いた。彼女が病院にいた頃、何度も聴いていた曲——まだ世界に絶望していなかった時代の思い出の一つ。
(どうせ、この時間軸でも...)
ほむらの心の中に去来する思い。いつも同じ結末に向かうループの中で、こんな時間が意味するものは何か。ワルプルギスの夜は確実に訪れ、まどかは魔法少女になる危険と隣り合わせで、さやかはいずれ絶望に沈む。その全てを知りながら、今この瞬間を楽しむことに意味はあるのだろうか。
それでも、彼女はマイクを取った。
「え、本当に歌うの?」
さやかの驚いた表情に、ほむらは小さくうなずく。
「一度だけよ。」
イントロが流れ始め、ほむらは目を閉じた。記憶の中を漂う感情の残響が、少しずつ彼女の中で形を成していく。
驚くべきことに、ほむらの歌声は繊細で透明感に満ちていた。眼鏡をかけていた頃の名残、穏やかで優しい響きが部屋を満たしていく。その声には、幾度となく繰り返してきた時間の痛みと、それでも諦めきれない希望が混ざり合っていた。
「♪輝く明日を信じていたい〜 傷ついても立ち上がれる強さを〜」
さやかは目を見開いていた。いつもクールなほむらからは想像できない歌声。それは、どこか儚げで、でも強さを秘めた声だった。声と言葉に想いを乗せることの力を、ほむらもまた知っていたのだ。
曲が終わると、沈黙が二人を包んだ。ほむらは少し恥ずかしそうにマイクを置き、さやかの反応を伺う。
「...すごいじゃん。なんか、全然違う人みたい。もっと早く知ってれば…」
「昔は...違う人だった。」
ほむらの言葉に、さやかは首を傾げる。その発言の意味を理解しようとするかのように、彼女は眉を寄せる。
「どういうこと?」
「何でもないわ。」
ほむらが再び心を閉ざそうとするのを感じ、さやかは急いで話題を変える。
「ねえ、あんたって他に何か趣味とかあるの?いつも何してるの?」
「…魔女を倒す準備。」
「それは趣味じゃないでしょ!もっとこう、普通の女の子っぽいことないの?」
ほむらは少し考え込む。時間軸を巡り続ける中で、彼女は「普通の女の子」であることを忘れてしまった。目標のためだけに生きる機械のようになっていた。
「特にないわ。」
「そっか…」
さやかの表情に、一瞬だけ同情の色が浮かぶ。それを見たほむらは、不思議な気持ちになる。今まで彼女はさやかと対立することはあっても、理解し合おうとした記憶はほとんどない。
「あっ、じゃあこの曲は二人で!盛り上がるやつ!」
さやかは気まずさを打ち消すように、明るく次の曲を選ぶ。
「待って。」
ほむらがリモコンを手に取り、曲を選び直す。画面をスクロールし、他のカテゴリーに進む。彼女の指が止まったのは、あまり人気のないインディーズのセクションだった。
画面に表示されたのは、「Fate」というタイトル。
「えっ、この曲知ってるの? 結構マニアックじゃん」
「一度だけ、歌った記憶がある。」
別の時間軸で、さやかとまだ友達だった頃のこと。眼鏡をかけ、三つ編みだった頃のほむら。まだ世界に絶望していなかった頃、まどか、さやか、マミと共に過ごした短い幸せな時間。ほむらの胸に、幾重にも重なる記憶の痛みが走る。
イントロが流れ始め、二人は同時にマイクを取った。
最初は互いに遠慮がちだったが、サビに入ると二人の声が奇妙な調和を見せ始める。
さやかの力強い声と、ほむらの繊細な声が絡み合い、まるで長年歌い慣れた関係のように響き合っていた。
歌詞がほむらの胸を刺す。
運命と選択、循環する時間の中で彼女が求め続けるもの。
さやかは単なる歌として歌っているだろうが、ほむらにとってはあまりにリアルな言葉だった。
最後のサビでは二人の声が一つになり、小さな部屋を感情で満たした。
歌い終わると、二人は思わず顔を見合わせて笑った。ほむらの笑顔を見たさやかは、一瞬言葉を失う。
「あんた、笑うと全然違って見えるね...綺麗」
「...うるさい。」
ほむらはそっぽを向いたが、その表情は以前ほど冷たくなかった。耳まで赤くなり、彼女は慌てて飲み物に手を伸ばす。
「そういえば、あんたって彼氏とかいるの?」
ほむらはジュースを飲みかけて咳き込んだ。さやかは心配そうに背中をさすってくる。
「そんな…時間はないわ。」
「えー、モテそうなのに。何人か好きな人いるでしょ?」
ほむらの心にはただ一人、鹿目まどかの姿しかなかった。
それは恋ではなく、もっと深く、もっと複雑な感情だった。魂の底から湧き上がる、守りたいという強い思い。
「いないわ。」
「そうなんだ…」
さやかは少し考え込む表情を見せた後、また明るく話し始める。
「あたしね、好きな人がいるんだ。でもなかなか上手くいかなくて…」
ほむらはさやかの表情を見つめた。彼女の目には迷いと希望が混在している。
上条恭介への思いが、彼女をどこへ導くのか。
それを知っているほむらは、何と声をかければいいのか分からなかった。
「ねえ、ほむら」
「...暁美、でいいわ」
「いやいや、仲間なんだからほむらでいいじゃん。あのさ、もしかして...」
さやかの真剣な表情に、ほむらの背筋が凍る。何かに気づかれたのか?彼女は時間操作の能力を使うべきか一瞬考える。
しかし、さやかの次の言葉でその警戒は溶けた。
「もしかして、まどかのこと...」
「な、何言ってるの?」
慌てるほむらにさやかはにやりと笑った。その笑顔には悪戯を思いついた子供のような輝きがある。
「当たりー!あんた、まどかのこと好きでしょ?友達として」
「...」
ほむらの頬がわずかに赤くなる。それは否定でも肯定でもなく、もっと複雑な感情の表れだった。まどかが彼女にとって何を意味するのか、それは言葉では表せない。
「あたしたちと、もっと一緒にいればいいのに。まどかも喜ぶと思うよ」
ほむらは黙って飲み物を口に運ぶ。
まどかとどう接するべきか、それはいつもほむらを苦しめる問題だった。
距離を置けば置くほどまどかは彼女に興味を持ち、近づけば近づくほど危険に晒すことになる。
それは残酷なパラドックスだった。
彼女の沈黙を見て、さやかはさらに畳みかける。
「ねえ、明日も一緒にカラオケ来ない?みんなでさ。マミさんも誘って。あんたの歌、みんなにも聞かせたいし!」
その言葉に、ほむらは一瞬時間がゆがむような感覚を覚えた。
明日。
そして明後日。
そしていつかワルプルギスの夜が来る。
全ては決まったレールの上を走っているはずなのに、今日という日は確かに違った色を持っていた。
「...考えておく。」
さやかは満足そうに笑い、次の曲を選ぶ。
その表情は純粋に楽しそうで、魔法少女やソウルジェム、魔女の恐怖から遠く離れた、普通の中学生のものだった。
「それじゃあ、まだまだ歌うよ!次は......」
ほむらは
小さくため息をつきつつも、微かな笑みを浮かべた。別の時間軸になっても変わらない、さやかという少女の明るさ。
それを見ていると、少しだけ希望が生まれる気がした。
* * *
時間は思った以上に過ぎ、二人は夢中でカラオケを楽しんでいた。
ほむらの氷のような壁は徐々に溶け、さやかのエネルギッシュな存在が、長い間凍りついていた彼女の心に小さな風穴を開けていた。
「まさか、あんたがこんなに歌うなんて思わなかったよ」
さやかはソファに身を預け、ほむらを見つめる。
冷たい完璧主義者だと思っていた暁美ほむらという少女の新たな一面を発見した喜びが、彼女の表情に現れていた。
「あなたに付き合っただけよ。」
その言葉とは裏腹に、ほむらの表情は柔らかかった。彼女自身も、このような時間を過ごせるとは思っていなかった。
それは彼女の中に残っていた、普通の少女としての部分が息を吹き返したようだった。
「そういえば、マミさんってどう思う?」
「え?」
「なんか、あんたとマミさん、すれ違ってるっていうか…」
さやかの意外な質問に、ほむらは少し考え込む。巴マミとの関係は複雑だった。
彼女を尊敬しつつも、その理想主義がいかに危険か、それを幾度となく目の当たりにしてきた。
シャルロッテとの戦いで命を落とす姿も、あまりにも多く見てきた。
「巴マミは…強くて優しい人よ。だからこそ、危ない。」
「どういうこと?」
「強さと優しさを両立させようとするから…彼女はいつも孤独と戦っている。」
ほむらの言葉に、さやかは目を見開く。
それはマミがいつも隠そうとしている部分、さやかですら気づいていなかった側面だった。
「そこまで見抜いてたんだ…」
「見抜いたわけじゃないわ。ただ…」
ほむらは言葉を濁す。「何度も彼女の最期を見てきたから」とは言えない。
「あんた、本当は優しいんだね。」
さやかの言葉にほむらは答えない。かつて彼女は確かに優しい少女だった。しかし今の彼女は、ただまどかを救うためだけに存在する。その目的のためなら手段を選ばない、冷徹な存在に変わってしまった。それでも、深層に眠る優しさは完全には消えていなかったのかもしれない。
「勘違いしないで。私はただ…効率的に魔女を倒したいだけよ。感傷に浸っている暇はないわ。」
そう言うほむらの表情は、いつもの冷たさに戻りかけていた。しかし、今日のさやかは引き下がるつもりはなかった。
「嘘つき。さっきまで歌って笑ってたのは誰?ほむらだって、ほんとは寂しいんでしょ?」
その言葉に、ほむらはわずかに目を見開いた。まるで心の奥深くを覗かれたかのような感覚。彼女はさやかから目を逸らし、再び窓の外に視線を投げる。街の灯りが増え、完全に夜の装いとなった見滝原市が広がっている。
「...寂しいとか、そんな感情は忘れたわ。」
さやかはほむらの横顔を見つめ、静かに息を吐いた。何か言いかけたが、やめたようだ。代わりに彼女は、またリモコンを手に取る。
「じゃあ、今度はバラードを2人で歌おうよ。この曲とか、どう?」
穏やかなイントロが流れ始め、二人は再びマイクを取った。今度はより静かな曲で、互いの声が寄り添うように重なり合う。ほむらは自分でも驚くほど素直に歌っていた。さやかの存在が、彼女の緊張を少しずつ解きほぐしているようだった。
歌い終えると、さやかが軽くほむらの肩に触れた。
「ねえ、今日は楽しかった?」
ほむらは戸惑いを見せた後、小さくうなずく。
「ちょっとだけ。」
「よかった!それじゃあまた今度、みんなで来ようね。マミさんも誘おう!」
さやかの屈託のない笑顔に、ほむらは胸が締め付けられる思いがした。このまま彼女が幸せでいられたら。このまま普通の女の子として、歌って笑って、恋をして…。しかし、それは叶わぬ願いだと知っている。
「さやか、あなたはどうして…魔法少女になりたいの?」
思わず問いかけると、さやかは少し驚いた表情を見せる。そして真剣な顔になる。
「憧れてるから…かな。マミさんみたいに、強くて美しくて、人を守れる人になりたいんだ。あたしには何もないから、せめて誰かの役に立てたらって…」
ほむらの胸が痛む。あまりにも純粋な願い。しかし、その願いが、さやかを奈落へと導くことを彼女は知っている。
「それだけ?」
「...上条くんのためっていうのもあるかも。彼の手が治れば、またバイオリンが弾けるから。でも、それはまだ誰にも言ってないんだ。あんたが初めて。」
さやかの告白は、信頼の印だった。ほむらは何と応えればいいのか分からず、ただ黙ってうなずいた。言葉では伝えられない警告、どれだけ叫んでも届かない警鐘。
「あのさ、なんで聞くの?あんた、魔法少女になる前はどうだったの?どんな願い事したの?」
質問の矛先が自分に向いたことで、ほむらは硬直する。その答えをさやかに伝えるべきか迷う。しかし、今日という日は特別だ。少しだけ、本当のことを話してもいいかもしれない。
「私は…弱くて、誰の役にも立てなかった。ずっと病院にいて、友達もいなかった。そんな私に、手を差し伸べてくれた人がいたの。」
ほむらの目に、遠い記憶の中のまどかの姿が浮かぶ。保健室で出会った、微笑みかけてくれた少女。その優しさが、彼女の世界を変えた。
「その人を守りたくて、魔法少女になった。でも…結局守れなかった。」
ほむらの声は冷静だったが、その目には言い表せない痛みが宿っていた。
「その人って…」
さやかは何かを悟ったように、言葉を濁す。
「もう過去のことよ。今は、ただ魔女を倒すことだけを考えている。」
ほむらは素早く話題を切り替えた。これ以上深入りすれば、さやかに危険が及ぶかもしれない。彼女の記憶をめぐる真実は、この時点では明かすべきではなかった。
さやかはそれ以上追求せず、次の曲を選び始めた。しかし、彼女の目には、ほむらへの見方が変わったような光が宿っていた。
* * *
カラオケの時間は予想以上に長く続いた。二人は歌うだけでなく、魔法少女としての経験や学校での出来事、好きな音楽や映画について語り合った。それは普通の女の子同士の会話、日常の中のささやかな幸せの時間だった。
マミとの出会いについて語るさやかの表情は生き生きとしていた。上条恭介の演奏会の思い出を話すときは、頬を紅潮させ、目を輝かせる。そんな彼女の姿を見ていると、ほむらは胸が痛んだ。これほど輝いている少女が、やがて魔女へと堕ちていくのだから。
「ねえ、もう時間だね。」
部屋の隅のデジタル時計は、23時を指していた。さやかは少し名残惜しそうに立ち上がる。
「送るわ。」
ほむらの突然の申し出にさやかは驚いた。
「え?大丈夫だよ。あたし、平気だから。」
「夜遅いし、危ないわ。魔女の気配がする日だもの。」
さやかはほむらの言葉に、少し困ったように笑った。しかし、彼女の様子からは、その申し出が嬉しかったことが伝わってくる。
「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。」
二人はカラオケ店を出て、夜の見滝原を歩き始めた。街灯が照らす道は、昼間とはまた違った表情を見せている。商店街はほとんど閉まり、行き交う人も少なくなってきた。
「楽しかった?」さやかが尋ねる。肩を並べて歩く二人の間に、数時間前とは比べものにならない親密さが生まれていた。
「...ええ」ほむらは小さく頷く。その表情は穏やかで、瞳にはわずかな柔らかさが宿っていた。
「まさか、あんたとこんなに話せるなんて思わなかったよ。最初はほんとにクールでさ、近寄りがたかったんだけど…実はいい人だね。」
さやかの率直な言葉に、ほむらは少し恥ずかしそうに視線を逸らす。彼女はもう、最初に出会った時のような完全な防壁を張ってはいなかった。今日という日は、確かに何かが変わった日だった。
「よーし、じゃあ今度は絶対みんなで来ようね!まどかも誘って、ほむらの歌声を聴かせなきゃ!」
ほむらは答えなかったが、心の中では願っていた。この時間軸でだけは、全てが違う結末を迎えるように。まどかが魔法少女にならず、さやかが絶望せず、マミが命を落とさないように。そんな奇跡があるのならば…。
「さやか。」
突然ほむらが立ち止まり、さやかの名を呼んだ。彼女の声音には、これまでにない真剣さがあった。
「どうしたの?」
「もし…魔法少女になる機会があっても、よく考えて。願いの代償は、想像以上に大きいわ。」
さやかは首を傾げ、ほむらの真剣な表情を見つめた。
「なんだよ、急に。大丈夫だって、あたしはちゃんと…」
「本当に大切なものを守りたいなら、時には願わないことも必要よ。」
ほむらの言葉は謎めいていたが、その真剣さはさやかにも伝わったようだ。彼女は少し考え込む表情を見せた後、軽く笑った。
「ほむらって、本当に不思議な人だね。でも…ありがと。心配してくれてるんだよね?」
二人は再び歩き始める。街の灯りが彼女たちの影を長く伸ばし、風が少し冷たくなっていた。
さやかのアパートが見えてきたところで、二人は足を止めた。
「ここまででいいよ。家はすぐそこだから。」
「そう。」
ほむらは少し離れた場所から、さやかが無事に建物に入るのを見届けるつもりだった。しかし、別れ際、さやかが不意に振り返った。
「ねえ、ほむら。」
「何?」
「今日は本当に楽しかった。また一緒に歌おうね。約束だよ?」
ほむらは少し躊躇った後、小さくうなずいた。約束という言葉が、彼女の胸を締め付ける。それが果たせるかどうか、彼女には分からないから。
「さよなら、さやか」
別れ際、ほむらは初めて彼女の名前を呼んだ。さやかは少し驚き、それから満面の笑みを浮かべた。
「またね、ほむら!」
さやかは元気よく手を振り、アパートへと駆け込んでいった。その背中は小さく、けれど力強く見えた。
ほむらはその姿を見送りながら、今日という日を心に刻み込もうとしていた。無数のループの中で、こんな一日があったということを。
二人は反対方向へ歩き出す。ほむらは一度だけ振り返り、さやかの姿が消えた建物を見つめた。
(どうか、今度こそ...)
小さな奇跡が起きることを願いながら、ほむらは星空を見上げた。今日のような日が、この先も続くことはあるのだろうか。さやかの笑顔が、このまま失われずにいることはあるのだろうか。
祈りにも似た想いを胸に、ほむらは夜の闇へと消えていった。明日からまた、まどかを守るための戦いが待っている。しかし今夜だけは、少しだけ違った世界の可能性を信じてみたいと思った。
* * *
それから数日後、見滝原中学校の昼休み。屋上で一人昼食を取っていたほむらの耳に、階段を駆け上がってくる足音が聞こえた。
「ほむらー!」
ドアが勢いよく開き、さやかが飛び込んできた。彼女の手には何枚かのチケットが握られている。
「何?」
「ほら、これ!上条くんのリサイタルのチケット!特別に譲ってもらったんだ!」
さやかは興奮気味に説明する。彼女の目は輝き、頬は少し紅潮している。
「それで?」
「みんなで行かない?まどかも仁美も、マミさんも誘うつもり!あんた、クラシック好きって言ってたじゃん!」
ほむらはその申し出に、一瞬言葉を失った。これもまた、新しい変化だった。別の時間軸では、さやかが上条恭介のリサイタルに招待することはあっても、彼女が声をかけられることはなかった。
「...行けるかどうか分からないわ。」
「えー、忙しいの?魔女退治?」
「そうとも言えるわね。」
さやかは少し不満そうな表情を見せたが、すぐに明るい笑顔に戻る。
「じゃあ一応取っておくね。来られたら来てよ。あ、まどかも呼ぶから、会いたければ来なきゃ損だよ?」
その言葉にほむらは少し赤くなる。さやかはくすくす笑い、ほむらのリアクションを楽しんでいるようだった。
「あっ、もうチャイム鳴るよ!じゃ、教室で待ってるね!」
さやかは風のように去っていく。その後ろ姿を見送りながら、ほむらは小さなため息をついた。
こんな日々が続くのだろうか。さやかがソウルジェムを濁らせることなく、上条恭介のリサイタルを純粋に楽しめる日が来るのだろうか。
ほむらは空を見上げた。雲一つない青空が広がっている。あの夜、カラオケで歌った曲の一節が、彼女の心に甦る。
もしかしたら…今度こそ、時間の糸が違う方向に織りなされるかもしれない。
ほむらは立ち上がり、校舎に戻る。今日も、まどかを守るために。
そして今回は、できればさやかの笑顔も守るために。
チケットの日付は、ワルプルギスの夜が来る前だった。