長髪ボクっ娘チョロイン、TS浅野学秀概念 作:お前の母ちゃんシュブ=ニグラス〜!
春先らしい、温暖になった太陽の下。凡庸な少年が、街道に一人。
人を待っているのか、もう十分以上微動だにせず立ち尽くしている。
退屈気な瞳。真横を向いた視線の先は、陽光を湛える駅前とは対照的な、仄暗い階段。
無機質な蛍光灯の光に誘われるように、大勢の人間が吸い込まれていく。
地下四十メートルの小世界へ降りていく事に、何一つの迷いもない、という顔で。
何気ない日常の一幕。感慨などは抱かなかったが、興味が湧いた。
椚ヶ丘の名前が刻まれた看板をくぐり、斜めに口を開けた階段へ足を踏み入れる。
地上と地下の気圧差によるものだろうか、吸い込まれるような風が吹いていた。
金属製の手すりが鈍く、蛍光灯を反射する。階段の奥は暗く、そして深い。
吞み込まれて行った人達に倣うよう、重い足音を立てながら彼は下っていく。
…………そしていつしか、人の捌けた改札口へと辿り着いた。
早朝、まだ通勤ラッシュには早いのか、出入りする駅員すらそう多くはなく。
少年は自分の目論見が成功する事を確信し、歩を進めようとして。
「──────このバカ。ボクとの待ち合わせを放り出して、どこに行く気だい?」
振り返った先に立っていた、灼けた髪の少女に止められた。
◇◇◇
「なんでキミはそう、好奇心に任せてバカな真似をしたがるのかなぁ…………」
時速二百キロメートルで流れていく、高層ビルの街並み。
車窓から覗く晴天。雲一つない青空は、この旅路の行く先を示すように。
新幹線のグリーン車を事実上化しきった場で、二人の男女が隣り合っている。
不服気に眉根を寄せた凡庸な少年と、朱色の髪を携えこめかみを抑えた少女。
彼女らの議題は目下、三十分ほど前に少年が起こした気の迷いについて。
「早朝の地下鉄を使って東京駅まで行くとか、正気を疑うんだけど」
中間考査が終わり。少年少女らには、報酬として修学旅行が与えられた。
現実としてはその他学校行事の過密を防ぐ為に、この時期になった、というだけだが。
しかし学生の身分にすれば、そんな大人の意図や都合はどうでも良く。
思春期の学生らしく。多くの生徒が、修学旅行という非日常に浮ついていた。
…………恐らくはこの少年も例外では無かったのだろう。
彼は
「いや、その、すまん。地下鉄で行ったら早いかなって」
彼がそんな行動に及んだ理由。聞かされたのは、浅謀短慮極まる目論見だった。
これは秋野空という少年が抱える明確な悪癖の一つで、不意の好奇心に弱いのだ。
普段はそれなり以上に慎重な性格をしている癖に、稀にこの手の失態を犯す。
これで本人的には大真面目に考えたつもり、と言うのだから尚の事タチが悪く。
仮に待ち合わせをしたのが彼女以外だったなら、きっと止められなかっただろう。
「あのね。キミの体力じゃ、東京駅の地下で人混みに呑まれて大遅刻して終わりだよ」
「そうだよな、オレもそう思う、反省してる。…………あの、怒ってる?」
「へぇ、一応悪い事した程度の自覚はあるんだ。意外だね、褒めてあげようか?」
実際のところ、彼女はそれほど怒ってはいなかった。
別に、修学旅行の班決めの時点で取り付けていた、大切な約束を破られただけで。
少しだけ、ほんの少しだけ気合を入れてから家を出たのに、彼が居なかっただけで。
到着の連絡は貰ってるのにな、とか。どこかで事故に遭ってないかな、とか。
絶対に有り得ない筈の仮定だけれど、秋野は約束を忘れてしまってはいないか、とか。
言葉にもしたくないような感情を抱いたというだけで、やっぱり
別に苛立ってなどいないけれど。甘い物で心を落ち着ける為、車内販売のアイスを買う。
「…………………………」
横目に見える少年の表情は、先程とは別人のように反省の色を浮かべている。
普段通りの、学校生活で見せるような空虚な態度とは違い、親近感が湧く。
いや、別に。そもそも怒るなどはしていないし、この程度では絆されないが。
「えっと、浅野?」
「何? 悪いんだけど後にしてしてくれるかい? 今このやたら硬いアイスの攻略に忙しいんだよね、ボク。言ってる意味わかる? ボクがアイスを食べ終わって、充分余韻に浸りきるまで話し掛けてくるなよって意味ね? そもそもキミは普段からボクを軽んじてる節があるよね、ボク相手ならどれだけ迷惑かけても良いとでも思ってるのかな??」
今一度口を閉じた彼を見る事もせず、
少しずつ浸透していく熱伝導スプーンと、僅かに冷えた白磁の指先。
空気含有量の少ないソレを掬い、口に運ぼうとした時、周囲が静かな事に気が付いた。
車内全体の視線が彼女らの座席に集中している。乗った感情は、主に好奇心。
…………思春期の中学生らしい下世話さで結構だが、今この瞬間は不愉快だ。
冷たく彼らを一瞥すれば、蜘蛛の子を散らすように視線を逸らしていった。
気を取り直して、
「その、お前には感謝してる。中間もそうだし、今回だってお前が居なきゃぼっちだし」
隣から何やら殊勝な声が聞こえてきた。相手は言わずもがな秋野空。
が、その程度で彼女の機嫌が直る訳はない、何しろそれは単純な現実なのだ。
特待生の立場もあり、勉強熱心ではないこの少年は、学業での成績が芳しくない。
秋野の点数は常に平均点スレスレで、しかもそれは学年全体で見た時の話。
特進クラスA組としては落第で、それでもテスト前に
必然というべきか、A組に居ながらも勉学の奮わない彼はクラス内でも浮き気味であり。
今回も
…………故に、秋野から
とは言え別に悪い気分でも無いので、鼻を鳴らして話の続きを促す。
「今朝も、お前なら来てくれるかなって。だから…………お前に甘えてた。ごめん」
「………………へぇ、そーなんだ? キミが、ボクに…………ふぅん?」
灼けた髪を指先でくるくると巻いて、
秘密の多い身である故か、この少年が信頼している人間は、現状そう多くない。
それなり程度の人間関係は築ける癖に、踏み込むことをせず、我儘など以ての外。
そんな彼が、
だがまぁ、折角の修学旅行だ。出鼻から険悪になる必要など微塵も無いのだし。
彼も反省もしている様子だし、許すのも悪くない、というかそもそも怒っていないし。
「ま、まぁ? ボクは寛大だし? 今回は許してあげても良いかもしれないね?」
「ホントか!? ありがとう浅────」
「────待ちなよ。ただし、ボクからのお願いを聞いてくれたら、の話ね?」
とはいえ、タダでというのは気に入らない。一つ、条件を付けてみる事にした。
…………どうしてこの世の全てに絶望したような表情してるんだ、この男。
彼女自身もそれ程大それたことを言うつもりはないが、この分では断られそうだ。
まぁ、その時はその時だろう。冗談だと言って、話を流してしまえばいい。
「その。明日の自由行動、ボクと二人で回るっていうのは、どうだい…………?」
「へ────?」
秋野はぽかんと口を開けたまま、変わらず彼女を見つめている。
…………耳が熱くなるような感触がする。今ほど髪の長さに感謝した事はない。
ほんの一瞬前の自分の言葉を痛烈に後悔して、逆恨み気味に秋野を睨みつける。
少年は、と言えば。やっぱり何を言われたのか理解してないように。
「お前と二人でって、な、なんで────?」
なんで、と来た。この男、春先にした約束を忘れてないだろうか。
…………あの日、学園の屋上で少年と交わした旅行の約束。
実のところ、春先から今日に至るまで、一度と彼女は旅行に行っていないのだ。
時期が悪く。お互いに部活や勉強などの諸用が入るなどで忙しくはあったし。
近場で遊びに行く程度なら数えきれないほどしたが。それはそれで、これはこれ。
「………………」
「な、なに。目がじっとりしてるぞ」
なのでこれは、埋め合わせだ。いつまでも約束を果たさない甲斐性ナシへの制裁。
因みにだがこれとは別に旅行は行く。これは謂わば、借金の利息分の支払いだ。
そして念の為釈明もしておくが、これはデートのお誘いではない、決して、絶対に。
よって万が一もし仮に秋野に断られたとしても、
億が一傷つく事があったとしても、冗談だ、と完璧に取り繕える自信が彼女にはある。
「それで? やっぱりボクと出掛けるのはイヤだったのかな、キミは」
「なワケ無いだろ。その程度で許してくれるなら、願ったり叶ったりだ」
願っ………………へ、へぇ…………ふぅん、そう、そう思ってたんだ??
何故だか無性に気分がよくなる感覚がする。アイスが妙に美味しくなった。
身体は少しずつ冷えている筈なのに、不思議と頬が火照って仕方がない。
拳を強く握り込みたくなる衝動さえ現れたが、それは鉄の理性で阻止。
裂けそうな程鼓動する、心臓の感触に気付かないフリをして、続く少年の声を聴く。
「ただ、教師陣はいくらでも言いくるめられるだろうが、班員達はどうするんだ?」
当然ではあるが、修学旅行の班員は
彼女らを除いた残る学力によって定められた特待生四名、五英傑が班員だ。
団体行動が常の修学旅行で、二人だけ別行動します、など認められるわけが無く。
まして彼らは、種類はどうあれ、浅野
…………秋野にすれば彼らが認める筈は無い、と考えたのだが。
「あぁ、それなら問題ないよ────皆、聞いてたでしょ? いいよね?」
「…………………」
苦虫を嚙み潰したような顔で。恨めしそうに秋野の方を睨みつけながら。
「オレはたまにお前が恐いよ…………」
「? まぁいいや。そういう訳だから、明日はしっかりエスコートしておくれよ?」
両手を上げて首肯する少年の姿に満足して。
少女は京都の街へ胸を躍らせながら、紫紺の瞳を目蓋にしまった。
◇◇◇
時間はゆっくりと経過し、翌日。修学旅行二日目が幕を開けた。
予定通り自由行動が許可され、生徒達が数名で纏まり京都へ繰り出していく中。
浅野
教師達への根回しは前日の時点で済ませていた。こういった時、特待生の立場は役に立つ。
その他班員が
何よりも。秋野空との京都巡りは、緩慢でこそあったが、酷く楽しいモノだった。
生来の体力の無さが原因か、秋野は比較的楽な近道を探るのが上手く。
そして、現代でも風雅な景色を残す京都の街は、ただ歩くだけでも心躍る物だった。
…………隣に特定の人物がいる事による影響については、考慮しないものとして。
正午を控えた現在、二人は清水寺からほど近いガードパイプの上に腰かけていた。
「いやぁ、流石に大迫力だったな。確か釘使ってないんだろ、あの本堂」
彼が語っているのは、先刻まで観光していた、清水寺の根本堂の話だ。
所謂ところの清水の舞台。建物そのものが国宝の、日本を代表する木造建築。
神性などは大嫌いだろうに、内陣の千手観音菩薩ごと気に入ったらしい。
………………それに応えるよう、紫陽花の瞳が柔らかい感情を宿している。
「確か
音羽の滝。清水寺の語源であり、創建の発端となった、由緒正しい霊地だ。
延命水と呼ばれる湧き水が三本流れており、口に含むとご利益があるという話で。
確か、左から、学業成就、恋愛成就、健康長寿の効果が期待できるのだったか。
秋野が切実な顔で健康長寿の列に並んでいたのが、何だかひどく印象に残っていた。
………………
「今のところ悪くないね。次はどこに連れて行ってくれるんだい、秋野?」
「あー、次は平安神宮とか良いと思ったんだが…………その前に一息入れないか?」
不意の秋野からの提案に、そういえば、と
考えてみれば、適宜人力車なども利用していたとはいえ、彼女らは朝から歩き詰めだ。
健康優良少女である
事実、顔色が悪い、とまでは行かないが、軽い人酔いは起こしている様子。
もう暫くは余裕だろうが、体力が底を尽きる前に休憩を挟むのが吉だろう。
「ん、そうだね。良い時間だし、そろそろお昼にしようか」
「わかった。なら、この辺りに良い具合の店があるか探してみる」
「あぁ、それなら父さ────理事長が会食用に使ってた店を予約してあるよ、そこにしよう」
秋野が"いつの間に"という顔をしているが、別にどうという事はない。
昨夜、秋野の部屋で枕投げバトルをしていた時に思い出したので、予約しておいただけだ。
"祇園
紹介者ナシの予約が極めて困難、食事は個室にて行われる、
理事長に一度だけ連れられたことがあったが、特に湯豆腐が
「けどそれ料亭だろ? 高い所連れて行ってもらっても、オレは食べれないぞ?」
「まぁまぁ。ほら、例のお店の為にも行ってみようよ、最悪ボクが全部食べるし」
「あそこ高級店じゃないんだが………………というか太るぞ」
「は? ボクの体重は永久にA4用紙一枚分なんだけど? は? 殺すよ??」
灼けた髪が憤りに揺れている。デリカシーをどこに棄てて来たのだ、この男。
年頃の淑女にあるまじき発言が零れたが、それもやむなしと言った所か。
溜息を吐いて。少年へ謝罪を要求するように、
「はぁ…………ほら、案内してあげるから。腕出して、腕」
「はいはい、分かっ────待て、なんで腕?」
少年が疑問を抱いたと同時に、差し出された彼の腕に身を寄せる。
淀みのない動作で片腕の指を絡め、もう片方の腕で制服の裾を掴む
自身のソレよりも硬く冷たい手のひらの感触に、否が応にも意識が集中する。
顔中に熱が集まる感覚を無視して、彼女は誰に聞かせるでも無い弁明を開く。
「こ、これは、ホラ、昨日みたいに変な気を起こされても困るからさ? ボクだって衆人環視の中でこんな事をするのは本意じゃないんだけどね? こうやって物理的に接触してれば、幾らキミでもはぐれたりしないじゃないか? そう、これはつまり"仕方なく"ってヤツなんだよいいかいわかるよね!?」
「お、おう…………そうか、なら仕方ない、か?」
「そうそう、仕方ない仕方ない。
抵抗をやめた……元からそんな素振りは無かったが……秋野と歩み再開する。
積み上げられた歴史の街。過密な人の波を、黒髪の少年と隣り合って渡っていく。
先程から、視線が過剰に気になってしまう。理由は目下不明のまま、気付かないフリ。
別に、事情を知らない第三者が、二人の関係性をどのように誤解したとて知ったことではなく。
まして
だから。問題なのは、連れ立って歩く少年の方で。
もしも、仮に、万が一。彼自身が迷惑がっていないか、と思うと、どうしてか顔が見れない。
と言うか。これだけの物理的な接触があるのだから、健全な思春期の男子学生らしく。
…………少しくらい。自分の事を意識してくれても、いいのではないだろうか、とか。
拗ねたような感情で、彼の横顔を盗み見れば。────耳まで赤くなった、秋野空がいた。
「────、──────」
………………へぇ~? ふぅ~ん? そっか、そうなんだ? へぇ~…………?
特に意味もなく心臓が高鳴って、特に理由もなく歩調が速くなる。
先程まで何を不安に思っていたかも忘れて、少年と共に人の波を掻き分ける。
往来の激しい大通りから逸れ、祇園の奥へ。耳に届く喧騒は、既に鳴りをを潜めて。
広がった視界と、狭まった青空。仄暗い路地に、石畳を踏む音だけが響いている。
京都で施策しているという景観条令の成果か、中々風情を感じさせる佇まいの場所。
観光地である事を疑うほどの静寂、人気の途絶えた空間は、どこか落ち着く気配がした。
霧夏庵は、ここから更に十分程度歩いた場所にある。…………が、少し早すぎた。
多少早く着く程度なら問題も無いだろうが、予定時間まで二十分以上も余っている。
料亭内で待つ訳にもいかない以上、適当に付近を散策する事になるだろう。
まぁ、少しばかり不服ではあるが。それまでは腕を抱いたままでも、文句は言うまい。
仕方なく、仕方なくの決断だ。とうに人通りは消えているが、辞め時も見失ったという話で。
丁度良く腕を離せるタイミングがそこなだけで。別に、名残惜しいという訳では無くて。
一先ずは、このままだと早く着きすぎる旨を、秋野に伝えようとして。
「へー、祇園って奥に入ると、こんなに
…………不意に、誰かの感心するような声が聞こえた。
秋野も同様のようで、確認を求めるよう、静かに
今も聞こえてくる胡乱な言葉。声質からして、彼女らと年の近い男女だろうか。
祇園の奥まった場所に用向きとは、中々の偶然だ、と。少しだけ好奇心が湧いて。
時間に充分な余裕がある事を確認してから、歩みを寄せてみる事にした。
「──────これは、なんと言うか。意外な連中だったな」
物陰に隠れ…………結果として、見つかったのは見慣れた制服。
感心したような声を上げる秋野を横目に、
紫紺の瞳が、無機質に彼らを精査する。特に、あの赤い髪の少年には見覚えがあった。
「A組、じゃないよな、アイツら。こんな所まで入り込むとか、趣味の良い奴がいるんだな」
「………………いや、違う。多分だけどE組の生徒だね、アレ」
「は? E組って、あの"エンドのE組"か?」
椚ヶ丘学園"エンドのE組"。それは、成績不振、または素行不良の生徒の更迭先。
働きアリの法則になぞらえた、浅野學峯による教育機構の一端、或いは本質。
学園生活において様々な低待遇を強いられ、全生徒から蔑まれる謂わば最底辺。
今回の修学旅行においても、移動手段や宿泊施設に差異が生まれていた筈だ。
そんな彼らがこのような場所にいる事に、
…………彼女らが今更、理事長の描く
しかし、素行に問題がある生徒であるのは、否定しようの無い事実。
先程から"見通しの悪さが良い"や、"ここで実行"などの不穏な言葉が飛んでいる。
秋野の左腕から離れ、
下卑た足音が、石畳の上を響く────そして、不審な高校生たちが現れた。
何らかの取引の線を疑ったが、その数瞬後に交戦が開始される。
手を出したのはE組生徒だったが、高校生達は凶器を持ちだしている。
重ね重ね、浅野
────この状況で、椚ヶ丘生を助けない選択肢など持ち合わせていなかった。
だが。彼女が現場へ切り込もうとした瞬間に、隣に立った少年がそれを制止した。
「…………巫山戯ないでくれるかい、秋野。今は遊んでる場合じゃないんだ」
「悪いが、今お前を行かせるわけにはいかない。意味が無いんでな」
言い聞かせるような秋野からの言葉が、今の
現場では既に赤羽業と思われる人物が沈み、戦局は酷く悪化している。
一秒の時間さえ惜しいこの状況で尚、秋野は
紫紺の瞳が不快気に歪む。血管を流れる感情に、苛立ちの色が混じり始める。
「ボクがあの程度の連中に負けるとでも? 全員捻じ伏せて見せようか」
「────違う。お前が勝てるのは、お前ひとりの場合だろ」
贔屓目を抜きに。仮に
純粋な事実として、浅野
しかしそれは、彼女に守るべきものが無いという前提の話だ。
見れば、既に不良達は女子生徒の誘拐を半ば完了させていた。
もしここで
「………………なら、これからどうするって言うのさ」
「幸いにも、取り敢えず連中に殺意はない。この場で人死には出ないだろ」
「後で彼らに手当てをしてあげればいい、と? なら不良達の動向は?」
「オレが今から"霧"で何人か攫ってくる。後で尋問して吐かせればいい」
ギリ、と奥歯の鳴る音がした。不愉快な現実が眼前を満たす。
秋野の言っている事は、徹頭徹尾正しかった。彼女の理性が、それを肯定している。
理性で認めた事を、感情論に任せて台無しにする程、彼女は幼くはなく。
…………ただ。一方的に暴力を振るわれる彼らを眺めるのは、痛みより苦かっただけ。
そして、暫くの時間が経って。霧の路地裏から、秋野と、不良達が姿を消していた。
◇◇◇
…………誰かの悲鳴と、自身を心配する声に、少年の意識が浮上した。
全身が未だ揺れているような感覚と、薄ぼんやりとしたままの思考回路。
重たい目蓋を上げれば、視界いっぱいに広がった鈍色の空と、どこか冷たい黒い風。
そして、少女にも似た少年……潮田渚……を覗き込んだ影が二つ分。
「大丈夫ですか渚君、私の事、分かりますか!?」
「────ぁ。奥田さん、と…………だれ、ですか?」
「ただの通りすがりだ。まだ動くなよ、手当てはもう少しで終わるからな」
奥田愛美と、凡庸な顔立ちの少年が彼の手当てをしているらしかった。
杉野友人を受け止めた時に負ったであろう擦り傷に、消毒綿が当てられる。
痛みを無視し、首だけで周囲を見渡してみれば、他の男子も起き上がっている。
取り敢えず動ける程度には回復しており、既に応急手当はされた様子だった。
…………なら、この遠くから聞こえる悲鳴は一体何なのだろうか。
「よし、こんな所だろ。他に痛むところは?」
「ない、です…………えっと、それで」
「あぁ、初めましてだよな。オレは秋野、見ての通り、椚ヶ丘生だよ」
「秋野さん、不良達がいなくなった後、私と処置の手伝いをしてくれたんです」
災難だったな、と苦笑いする彼は、確かに椚ヶ丘の制服に身を包んでいる。
しかし、秋野と名乗ったこの少年に対して、潮田渚は見覚えがない。
他の班員達の様子も伺ってみるが、同様。確かなのは、E組でないという事だけ。
未だ状況を飲み込み切れていない渚少年だったが、さしあたって。
…………先程から響き渡っている。野太い悲鳴に関して聞いてみる事にした。
「え? あぁ、逃げ遅れた不良が居たんで、オレと一緒に来てたヤツが尋問してる」
「尋問、っていうより拷問って感じの悲鳴に聞こえるけど~?」
「そこは、なんだ。アイツ今機嫌悪くてさ…………主にオレのせいで」
赤羽からの指摘に、ハハハ、と気まずそうに視線を逸らす秋野。
もうじきに終わる頃合だろう、と彼が言って暫く、ピタリと悲鳴が止んだ。
静まり返った霧の路地裏で。絶叫の代わりに、芯の強い足音が聞こえて来る。
その姿すら見えないというのに、その存在感に、否が応にも意識が集中する。
不意に。潮田渚の脳の奥に仕舞われていた記憶が呼び起こされる。
────確か、そう。椚ヶ丘学園で、彼は一度、この手の人間を見ていた筈だ。
「…………あーあ。これじゃあお昼はキャンセルかなぁ」
椚ヶ丘学園三年A組。それはE組とは違う、真の意味での"特別強化クラス"。
偏差値六十六を刻む学園の上澄み、その中にあって、彼女は別格の存在。
支配者の血統、何者より秀でる事を望まれ、そしてそれに臨んだ最優の少女。
夕焼けにも似た髪と、アメジストの瞳。それを持つのは、この学園でただ一人。
弱冠十四歳にして、あらゆる名声を欲しいままにする、彼女の名前は。
「三年A組、生徒会長────浅野、
彼女は渚の呟きに反応する事すらせず、秋野に対して声を掛ける。
態度から察するに、秋野もA組の生徒なのだろう。それが何となく意外だった。
「それで、どうだ浅野。何か情報は出たか?」
「────突発性の拉致犯罪、あの手の輩が考えそうなことだったよ」
秋野からの問いに、簡潔に言葉を返す
本件は、外様の学生による計画性の無い犯罪行為、と見てまず間違いないだろう。
しかし、不審な点は幾つかある、例えば、捕らえた連中の様子は少しばかり妙だった。
痛みに怯む様子が無ければ、抵抗の意思らしきものも見えない。まるで夢うつの状態だ。
ベンゾジアゼピン系を始めとする、薬物による中毒症状の疑いもあるが、しかし。
「だとすると、犯行の手際が良すぎたのが気にかかる…………背後に何かあるかもね」
そこで彼女は思考を打ち切って、彼らの方へ向き直り一瞥する。
意志の強い、値踏みするような視線。けれど不思議と、一切の不快感を感じない。
これが上に立つ者の自負、彼女の持つ資質だろうか、と渚は不明な感慨を抱いて。
続くであろう彼女の言葉を静かに待つ────そして、いつしか。
「不服だけど。ボクは生徒会長だからね、生徒が襲われた以上、解決する義務がある」
たとえそれが、被差別階級であるE組であったとしても。と、不遜に言い放つ。
「──────そこで、キミ達には二つ選択肢を提示しようと思う」
一つは、この事件を通報し、そのまま警察による解決を待つ道。
不良達は盗難車を使用し、尚且つナンバーを隠すなど犯罪慣れした風情だったが。
幸いにも潜伏先と身元が割れている以上、逮捕まで漕ぎ着けるのは難しくない。
…………だが、警察組織は巨大であるが故に。収拾時の人質の状態は保証できない。
それ故に、もう一つの選択肢。────この場の全員で人質の救出に向かうか。
「選びなよ。居るかも分からない神に祈るか、自分自身の手で復讐を果たすか」
耳を疑う程に物騒な提案。二者択一の言葉。
………………彼らの返答は、とうに決まっていた。
続きません。