空が夕闇に変わる頃   作:琥珀777

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第二十一章 【黎明】

 

午前8時30分 ─。

いつもより早く起きたわたしは清々しい気持ちでカーテンを開けたが、空はどんよりと灰色の雲に覆われていた。

昨日まで晴天が続いていたのに、決意した日に限ってこんな天気とは。まあ、決意といってもランニング程度の話だが。

 

最近は鬼火の怪我から始まり、泳斗くんや春香の事もあって心身共に疲れていた。だから走る気になれなかった。そうやって自分への言い訳はしっかり成立していたのに、──空舞さんめ。

 

"あなた、最近走らないわね。怪我も治っているのになぜ?それに最近顔が丸くなってきたわよ?お酒ばかり飲んで運動しないからじゃない?"

 

昨日の言葉を思い出し、昨日に続いてダメージを喰らった。

いや、仰る通りで──ここ最近はお酒ばかり飲んでろくに運動もしていなかった。運動と言えるのは通勤とスーパーへの買い出しくらいで、夏と違って汗もかかないから消費するものが何もない。

 

鏡を見て自分の顔を確認する。

うむ、若干、頬に肉がついたか?まあしかし、これくらいは許容範囲だ。すぐに落とす自信はある。

見てろよ空舞さん。わたしが本気を出せば、1日・・・いや、2日で元通りだ。

 

 

 

 

 

午前9時15分 ─。

わたしは、人間の体力の衰えというものを、これ以上ないほど実感していた。

 

何故だ──まだ15分しか走っていないのに、何故わたしはこんなに疲れ果てているんだ。

ランニングをサボったといっても、たかが2週間程度。それだけで人間はこんなにも衰えるものなのか?

もしかすると、自分が思うより体重が増えているのかもしれない。そのせいで身体が重いのかも。もしくは、ただの加齢による筋力低下?

いやいや、わたしはまだ20代前半だ。そんなことは、ありえない。

 

自問自答しながら、ふと思い出した。

そういえばわたし、もうすぐ誕生日じゃん。20代前半って言えなくなるじゃん。

もしかしたら、本当に年齢による体力低下なのかもしれない。

モチベーションが下がると共に、走る速度も落ちた。

 

しかし、立ち直りが早いのもわたしだ。頬を叩いて気合いを注入する。あとは自分との勝負。雑念を追い払い、速度を上げた。

 

 

 

 

限界を迎えたのは、それから1時間後。

先に見えるゴールを目指してわたしは最後の力を振り絞った。

 

「だああああああ」

 

脚がもつれ、そのままベンチに飛び込んだ。

 

「はあ、はあ、はあ、無理っ・・・もお無理っ・・・水・・・あっ!水っ!」

 

途中、自販機で水を買おうと思っていたのに、走るのに夢中ですっかり忘れていた。買いに戻るより、家に帰ったほうが早い。これは、呼吸を整えたら即帰宅だ。

 

ベンチに仰向けになり、気づいた。いつの間にか空が晴れている。さっきまでの雲はどこに消えたんだと思うくらい、晴天だ。

それにも気づかないほど無我夢中で走っていたということか?

 

──純粋な疑問が浮かんだ。わたしは、何をしているんだろう。夕方から仕事なのに、今からこんなに疲れていていいのか?

今日のコースは決まった。家に帰って湯船に浸かり、一眠りしてからの出勤だ。

 

5分ほど休み、呼吸が落ち着いたところで姿勢を起こした。よし帰るかと、立ち上がろうとして、気づいた。

 

「わぁ──っ!!」慌てて口を塞ぐが、手遅れだった。「すっ、すみません!ごめんなさい!人がいるとは思わなくてっ!」

 

2つ並んだベンチ。その隣に、若い女性が座っていた。

えっ、いつの間に?気配なんて感じなかったのに。そもそも、感じ取れる状態ではなかったが。

 

「いえ、私こそ驚かせてしまったみたいですみません」

 

「いえいえ!すみません!どうぞ、ごゆっくり!」

 

「ここは、凄く良い所ですね」

 

「・・・そうですね!景色もいいし!走るには最高です!」

 

「ずいぶん足が速いのですね。何かスポーツをやられていたのですか?」

 

「・・・えっ?あっ、いえ、とくには何も。趣味の一環というかなんというか・・・」

 

見られていたのか。帰ろうとしたが、そうもいかなくなった。

 

「それに回復も早い。素晴らしい身体をお持ちだ」

 

──なんで、そう思ったかはわからない。

わたしは、わたしに微笑むこの女性に一瞬、恐怖を感じた。

 

「私は決して丈夫なほうではないのでね。あなたのように優れた身体が羨ましい」

 

──あ、"ヤバイ"。

わたしに、野生本能という物があるとしたら、それが盛大に危険信号を鳴らしている。この女性、いや、本当に女性なのか?目の前にいるこの人物に近づいてはいけないと、本能が訴えかけている。

 

「そうですか・・・あの、わたしはこれで失礼しますね」

 

「お待ちを」

 

立ち去ろうとして踏み止まった。

 

「お忘れですよ」

 

振り返ると、女性がわたしの携帯を手に持ち、立っていた。

 

「あっ・・・すみません」

 

ベンチに寝そべった時にポケットから落ちたのか。

差し出された携帯に手を伸ばすが、触れる直前で手が止まった。脳より先に身体が拒否反応を起こしている。

 

「どうしたのですか?」

 

駄目だ。動揺を見せるな。隙を見せたら"終わり"な気がした。

 

「いえ、ありがとうございます」

 

出来るだけその手に触れないように、携帯を掴んだ──つもりが、手から離れ、地面に落ちた。

えっ──・・・なんで?背筋が凍り、全身に鳥肌が立った。

 

「あら大変」

 

女性がしゃがむ前にわたしは地面に落ちた携帯を素早く拾った。

 

「すみません、ありがとうございます。では」

 

動揺を見せない?そんなの無理だ。唯一自制出来たのは、走らなかったことだけ。本当はすぐにでも走って逃げ出したかった。

 

なんで?あの人の手、氷のように冷たかった。あれは人間の体温じゃない。あれで生きていられるはずがない。

 

背後に意識を置きながら、歩いた。そして十分な距離を取ったところで、足を止める。振り返るべきか迷ったが、身体が勝手に後ろを向いた。

 

──いない。彼女の姿はどこにもなかった。

ホッとする反面、大きな疑問が浮かび上がる。

 

アレは、なんだ。この説明の出来ない恐怖心は何処からくるんだ。見た目は普通の女性なのに、わたしは何に恐怖を感じているんだ。

 

考えられるのは、"人間"ではないということ。つまり、妖怪。財前さんやおばあちゃんみたいに人間の姿をした妖怪。いや、でもそれともまた違う──彼女からは"異質"なものを感じた。

 

早坂さん達に言うべきか。しかし、何の確証もない事を言ってどうなる?報告すれば、すぐにでもここに来ると言うだろうが、彼女はもういない。

 

それに、わたしの勘違いという可能性だってある。警戒心が強くなっているせいで、過剰に反応してしまっただけかも──いや、でもアレは──・・・「だああああッ」

 

頭がパンクしそうだ。とりあえず、帰ってお風呂に浸かりながら考えることにしよう。

 

 

 

 

 

 

午後8時─。

 

「あ──、今日はこんなもんかね」

 

窓の外を見ながら、春香が低い声で呻いた。

 

「うーん、人歩いてないしね。さっき帰ったお客さんで終わる可能性もあり得る」

 

「ここで途絶えたら、2組よ?計4人!こりゃあ潰れるのも時間の問題か?」

 

「ヤメテくれっ!まあ、こんな日もあるでしょう・・・」

 

「あんたが今考えてる事、当ててやろうか」

 

「なに?」

 

「そういえば、昨日も暇だったような?」

 

「・・・確かに」

 

春香はレジカウンターに寄っ掛かり、溜め息をついた。

 

「最近暇なの多くない?まあ、周りに新しい店がオープンしてるってのもあるけど、ウチの店もちょっと考えないとね」

 

「考えるとは?」

 

「期間限定メニューをもっと増やすとか、平日にハッピーアワー設けるとかさぁ」

 

「あー、時間帯で安く提供するってことね」

 

「あたしらだって、それ狙って行ったこと何度もあるじゃない?酒飲みはそーゆうのを目掛けて行くのよ」

 

「まあねぇ・・・そういえば、限定メニューもそろそろ変わる頃じゃない?」

 

春香が厨房にいる店長をチラリと見た。

 

「変わるって言っても、毎年同じ物の繰り返しじゃあねぇ・・・捻りが足りないわ。ヤル気あんのかしらあの人」

 

「見ればわかるよね」

 

店長はカウンターに肘をつき、真面目な顔で携帯と睨めっこしている。あの顔で携帯を横向きに持っている時は、決まってゲームだ。戦争ゲームだか何だか知らないが、課金と後悔の繰り返しを、数年見守っている。

 

わたしたちの視線に気づいた店長がこちらを見た。

 

「なに?どーしたの?一緒にやる気になった?」

 

一緒にやろうと誘われても数年。わたしと春香は、道連れにはならないと心に決めている。

 

「てんちょー、メッチャ暇なんですけど、どーするんですかぁー」

 

「え?どーするって?どーしようもないじゃん」

 

「最近、客足が遠のいてる気がするんですけど、何か対策考えません?」

 

「たとえば?」

 

春香の言葉を本気で聞いていないのは、スマホを忙しなくタップする手でわかる。

 

「メニュー改善とか?」

 

「あーダメダメ、そんなのしたって無理。来ない時は来ないから。大丈夫、そのうち忙しくなるって」

 

あえて春香の顔を見ないのは、どんな顔をしているかわかるから。

 

「まあ、店長がそう言うならいいですけど。あたし達の給料下げないでくださいね」

 

「・・・なんか、グサッときた」

 

「そりゃそーですよ。努力もしないで売り上げ落ちたからって給料下げられたらたまったもんじゃありません。まあ、その時は辞めますけど」

 

真顔になった店長が携帯を置いた。「本気で言ってる?」

 

「本気ですよ。給料下がったら、ですけど」

 

「・・・雪音ちゃんは?いてくれるよね?」

 

「わたしも給料下がったら辞めますね」

 

店長はカウンターに突っ伏した。「そんなこと言わないでよぉ・・・俺ら一心同体でしょ?」

 

「いつからそうなったのか詳しく教えて頂きたいのですが?」

 

「うう、春香ちゃん冷たい」

 

「冷たくないです。店長には危機感が足りないと思うんですが?この辺は激戦区なんですよ?続々と新しい店がオープンしてるし、良いと思ったらみんなそこに行くんです。確かにここは常連さんが多いけど、それがいつまで続くかなんてわからないじゃないですか」

 

店長は突っ伏したまま、黙った。正論すぎて、何も言えないんだろう。

 

「わかったよ・・・何か考えてみる」

 

──いつも思うが、どっちが経営者かわかりゃしない。

 

「凌ちゃんにアドバイス貰いに行こうかな」

 

その時点で考える気がないような気もするが、それ以上は春香も何も言わなかった。

 

そしてその後、店長の"改心"が功を成したのか、4人のお客さんが来店した。

 

 

 

 

 

午後23時─。

結局、4人の来店を最後に客足は途絶えたが、春香は満足気だった。というのも、店で1番高いワインが3本開いた上に、テイクアウトの大量注文が入ったからだ。

 

「良かったですね、店長」

 

いつもの定位置で煙に包まれている店長に労いの声をかけたが、店長は全身の骨が抜かれたように垂れ下がっている。

 

「そうだね・・・俺の腕は死んだけど」

 

「初めてじゃないですか?あれだけのテイクアウト入るの」

 

「うん。これからは厨房にいるのが俺1人なのを考えて注文を取ってほしい・・・」

 

「店長なら出来るってわかってたからそうしたんですよ。ていうか、店長以外いませんよ?短時間であれだけの注文をこなせるのは」

 

言ったのはわたしではなく、隣でグラスを洗っている春香だ。

 

「そお?嬉しいなぁ・・・褒められたよ、俺」

 

「春香、店長大丈夫かな。誰かと話し始めたけど」

 

「大丈夫でしょ。そっとしときましょ。さすがに今日はご苦労様だわ」

 

「ホントだね・・・」 本気を出せば、超がつく逸材なのに。残念ながら能力と精神力が統一していない。

 

「えっ・・・ちょっと何それ」

 

「え?」

 

突然、春香が隣にいるわたしの手を掴み、拭いていたグラスまで泡まみれになった。

 

「あっ!ちょっと何すんだっ!」

 

「何よこれ」

 

春香はわたしの手の甲を顔に近づけてまじまじと見た。

 

「何が?」

 

「ほら」

 

向けられた自分の手の甲を見て、驚いた。

わたしの親指の付け根には絆創膏が貼ってある。今日の昼間、お湯に浸かった時にチクリと痛みを感じ、見ると小さな切り傷があったからだ。爪で引っ掻いたような小さな痕。

化膿しないように念のため絆創膏を貼っていたが、その絆創膏のまわりの皮膚が赤黒くなっている。

 

「えっ、なにこれ・・・」

 

「店に来た時こんなじゃなかったわよね?」

 

「うん、てかさっきまでこんなの無かったのに」

 

「てかそもそも、どしたのコレ」

 

「いや、わかんないんだけど、たぶん爪で引っ掻い・・・」

 

──脳裏に、彼女の顔が浮かんだ。

あの時、携帯を落とした時、あまりの冷たさに驚いて気づかなかった。彼女の爪は長く鋭かった。

 

「雪音?」

 

それに、このアザ。覚えがある。思い出す時間は必要はなかった。

 

「あー・・・シクッたかも」

 

「なにが?」

 

「うん」

 

「ん?何がよ?」

 

「わたしが死んだら、財産は春香にあげるわ」

 

「・・・はあ?」

 

「あ、あげるけど1ヶ月の酒代にもならないよ」

 

「・・・あんた、何言ってんの?大丈夫?」

 

至って"正常"だったが、春香の本気で心配している顔を見て、事の重大さを実感してきた。

 

「大丈夫、ちょっと別の事考えてたわ。まず、早く片付けて帰ろ」

 

 

──早坂さんに、なんて伝えよう。出来るだけダメージを少なく伝えるには、何て言えばいい。すぐに言わなかったこと、怒られそうだな。

 

このアザのことより、そっちのほうが心配だった。

 

 

 

 

 

 

午前10時─。

 

窓の外から白いワゴンがこちらへ向かってくるのを確認して、わたしは家を出た。

 

瀬野さんはわたしの目の前にピタリと車を停めると、運転席から助手席のドアを開けてくれた。

 

「おはようございます。わざわざすみません、瀬野さん」

 

「乗れ」

 

「あい」

 

「どこだ、見せろ」わたしがドアを閉める前に瀬野さんが言った。

 

右手を差し出すと、瀬野さんはわたしの手首を掴み険しい顔でソレを見た。

 

「同じですよね、財前さんのと」

 

「・・・おそらくな。痛みはないか?」

 

「はい、さっきも電話で言ったように痛くもないし、身体も至って普通です」

 

「とりあえず、向かうぞ」

 

瀬野さんはゆっくりと車を走らせた。わたしはそれを見て、やっぱり"正解"だったと思った。

 

今日は昨日と同じく、どんよりとした曇り空が広がっていた。今にも降り出しそうだ。昨日と同じように晴れてくれればいいのに。

 

「あ、傘持ってくればよかった」

 

「・・・心配なのは雨の事か?」

 

瀬野さんが呆れ笑いで言った。

 

「えっ?」

 

「冷静だな。もっと動揺してるかと思ったが」

 

「・・・ああ」自分の手にあるアザに目を向ける。「ですね、思ったよりは。まあ、動揺しても状況は変わらないので」

 

瀬野さんはフッと鼻を鳴らした。「まあ、らしいっちゃらしいけどな」

 

「・・・早坂さんに伝えてもらえました?」

 

「ああ。お前んとこに向かいながら、さっきな」

 

「何か、言ってました?」

 

「いや、事情を説明して財前さんの所に向かうって言ったらすぐ切られた」

 

「・・・そうですか」

 

車が赤信号で停止すると、瀬野さんはハンドルに寄りかかるように肘を乗せた。

 

「なんで遊里に言わなかった」

 

「・・・言ったら、反応がわかってたので。絶対ぶっ飛ばして来るし、危ないですよね。それに、わたしも冷静でいたかったので」

 

「そうか。まあ、そーゆう意味では正解か」

 

「はい。瀬野さんが冷静だと、わたしも安心するんで。ただ、怒ってなきゃいいけど・・・」

 

「遊里か?」

 

「はい」

 

「そこまでアホじゃないだろ。アイツはお前が思うより、お前の事をわかってるぞ」

 

「・・・はい、それはわかってます」なんたって、エスパー早坂だから。「本音を言えば、早坂さんには言いたくなかったんですよね」

 

「理由は聞くまでもないな」 瀬野さんはどこか呆れ口調だ。

 

「あの人、異常なほど心配するし、それを見てると、わたしのほうが心配になってくるというか」

 

「まさしく異常だな。それに関してはお前に同情する気持ちもある。つーか、不憫だな」

 

「不憫、ですか・・・」

 

「執着されすぎるのも良し悪しだろ。どんな関係でもな」

 

「執着・・・か」

 

「俺が見る限り、アイツの優先順位は絶対的にお前だからな」

 

「・・・なんでですか?」

 

「俺に聞くな」

 

「ミハル・・・さん」

 

わたしは前を向いていたが、瀬野さんが驚いてわたしを見たのがわかった。

 

「今なんつった?」

 

「ミハルさん、ですよね?前に瀬野さんが言ったの覚えてたんで」

 

「・・・前に?いつの話だ?」

 

「早坂さんの家でご飯食べて、2人で帰る時です」

 

瀬野さんは自分が口にした事を覚えていないようだった。無理もない、あの時は無意識に口走ったようなものだから。

 

「ああ・・・そうだったか?俺、なんつった?」

 

「何も言ってないですよ。ただその人の名前を口にしただけです」

 

「・・・そうか」

 

「その人がどういう人かわからないけど、早坂さんにとって大事な人"だった"ってことですよね」

 

瀬野さんは、何も言わなかった。

 

「すみません。言う気なかったんだけど、わたしもこの先、どうなるかわかんないって思ったら、なんか聞きたくなっちゃいました」

 

「・・・俺の口からは何も言えん」

 

「はい、わかってます。ただ・・・思う時があるんですよね。早坂さんの過保護ぶりは、その人との過去が関係してるのかな、とか」

 

「俺からは何も言えん」瀬野さんは繰り返した。「が、否定はしない。アイツはな、まあ、なんだ・・・昔、かなりキツイ時期があった。まあ、それを思えば・・・お前の言う過保護っつーのも、わからなくはないな」

 

「そうですか。じゃあわたし、意地でも"無事"でいなきゃダメですね」

 

どんな理由でも、あの人を悲しませることはしたくない。

 

「たぶん、暴走するぞ、アイツ」

 

思わず、笑ってしまった。それについては、同感だったから。

 

「どうしますかね」

 

「殴るか」

 

「ブッ、その時は、お願いします」

 

「俺じゃなくてお前がだ」

 

「ええ!?なんで!?絶対無理っ!」

 

「お前なら何されても文句言わんだろう」

 

「はは・・・」

 

「中条」

 

「はい」

 

「自分の事だけを考えろ」

 

──それは、瀬野さんなりの励ましだと受け取った。

正直者の瀬野さんだから、"大丈夫"なんて言わない。でも、いつもより口数が多いのは、きっとそういう事なんだよね。

 

「うっす」

 

 

 

それから約30分後、瀬野さんの言った事が現実と化す。

 

財前さんの家に着いた時、早坂さんはまだ来ていなかった。

財前さんはわたしのアザを見ても、顔色を変えず冷静だった。どちらかというと、わたしのほうが動揺していた。今回の財前さんは高校生くらいの姿をしていて、それが超絶美少年だったから。これからは、常にこの姿でお願いしたい。

 

いつもの和室に通され、財前さんは雪人さんを呼ぶと、わたしの手を見るように言った。

 

 

「アザに気づいたのは昨日の夜と聞きましたが、それから大きくなっていますか?」

 

「あー、いや、変わってないと思います。たぶん」

 

「痛みや、その他に身体に異変はありませんか?」

 

「はい、とくには」

 

「手首より上に痛みはありませんか?」

 

「ないです」

 

雪人さんは医者のようにわたしの手を触診している。何か、わかるんだろうか。そして、財前さんを見た。

 

「まだ、可能性はあるかと」

 

わたしは、ちんぷんかんぷんだった。可能性?なんの?

 

「そうか。話は遊里が来てからだね。いつ頃着くだろうか?」

 

瀬野さんが腕時計を見た。「あー、仕事で遠出してるみたいなんだが、あそこからだと飛ばしてもあと30分はかかるか」

 

 

──と、その時、襖の向こうで玄関の扉が開く音がした。

 

「嘘だろ。空でも飛んできたのかアイツ」

 

そして、すぐに襖が開いた。

早坂さんはそこに立ち、肩で息をしながらわたしを見つめた。その目は少し虚ろだ。

 

「早坂さん?大丈夫ですか?」

 

察知した雪人さんがわたしの前から離れ、すぐに早坂さんと入れ替わった。

早坂さんはわたしの手を荒く掴み、トレーナーの袖を捲り上げた。次にもう片方の腕も。

 

「早坂さんっ、腕じゃないです」

 

右手の甲を向けると、早坂さんはまた荒々しくわたしの手首を掴んだ。怖い顔で、ソレを見つめる。

 

「なんで?なんでこんなことになるの?」

 

早坂さんがアザを見つめながら、独り言のように呟いた。

 

「わたしも、よくわからないんです。気づいたら・・・」

 

「財前さん、これは間違いなく同じアザよね?あたし達が探してる大蛇と同じ奴の仕業ってこと?」

 

「おそらく。遊里、その傷は・・・」

 

「雪音ちゃんを認識してたってこと?なんで?」

 

掴まれた手首が痛い。

 

「遊里、落ち着きなさい。大事な話が・・・」

 

「とにかく、そいつに会った場所に行くわよ」

 

「行ってどうする?そこにいる保証はないだろう。とにかく財前さんの話を・・・」

 

「さあ行くわよ雪音ちゃん」

 

パンッ──という良い音が、部屋に響き渡った。

殴るまでは行かなかったが、わたしは早坂さんの両頬を叩き、こちらを向かせた。

 

「早坂さん、落ち着いてください。今行っても、彼女はいません。わたしはこの通り元気ですから。とにかく、座ってください」

 

早坂さんは虚を突かれたように目を丸くした。でも、やっとわたしの目を見てくれた。中腰だった早坂さんはその場にペタンと座り、頬に当てたわたしの手をギュッと握った。

 

「ごめん・・・」俯き、自分を落ち着かせるように息をついた。

 

「いや、わたしこそごめんなさい・・・凄い良い音したけど、痛くなかったですか?」

 

「次はグーでやれ」何処からか悪魔の囁きが聞こえた。

 

「彼女?」早坂さんがパッと顔を上げた。「今、彼女って言わなかった?」

 

「俺は電話で言ったからな。ろくに聞きもせず切りやがって」

 

「女の人でした、若い。髪は真っ黒で腰くらいまであって・・・」

 

「不思議ではないよ」財前さんが静かに言った。「あやつは人を喰らい、その姿に化ける。それは男に限った事ではないからね。最近の"獲物"が、その女性だったということだろう」

 

──今思えば、彼女は血が通っていないかのように真っ白だった。

本来は、普通に生きていた人なんだよね。彼女の身に何があったのかはわからないが、その事を思うと、胸が締め付けられた。

 

「雪音ちゃんのことを認識していたかという話だが・・・可能性は高い」

 

「えっ・・・そうなんですか?」

 

「ああ。あやつは僕の死を待ち侘びているからね。苦しむ姿を自分の目で見たいはずだ。姿を隠しながら僕に近づいてる可能性はある。つまりは、僕の周りにいる人間も把握しているということだ」

 

「・・・だとしたら、周りの人間を傷つけて、財前さんを苦しめようとしてる・・・」

 

財前さんは目を伏せた。「もしくは、君の身体を望んでいる・・・」

 

──"素晴らしい身体をお持ちだ"

 

彼女の不敵な笑みを思い出し、ゾッとした。

 

「すまない。雪音ちゃん」

「えっ?いやっ、謝らないでください!財前さんが悪いわけじゃないんですから!たまたまターゲットがわたしだったっていうだけで?っていうか、本当にたまたまだったかもしれないし!」

 

場を和ませようと言ったが、重い沈黙が流れた。

わたしの手を握る早坂さんの手に力が込められる。

 

「このアザは、広がり続けるんですよね?その、財前さんみたいに・・・」

 

財前さんはゆっくり頷いた。「対処しないことにはね。僕のように徐々に身体を蝕まれていく」

 

「対処しないことには?」わたしより、早坂さんのほうが早かった。「何か方法があるの?」

 

財前さんは雪人さんと目を合わせた。そして、財前さんの代わりに雪人さんが口を開いた。

 

「今の状態でしたら、可能性はあります。あくまで、可能性ですが・・・」

 

「どーゆうこと?」また、負けた。

 

「わたしの家系は代々、薬を煎じておりまして。昔、祖母が蛇の妖怪に噛まれた時、やはり雪音さんのようなアザが出たのですが、それを治した薬があります」

 

「可能性ということは、効かない可能性もあるということか」

 

今度は瀬野さんに負けた。

 

「はい。効かないだけではなく、その場合、死に至ります」

 

再び、重い沈黙が流れた。いや、ここで黙るんかい!内心突っ込み、横目で早坂さんを見ると、怖い顔で一点を見つめている。やっと、わたしの出番が来た。

 

「なんとなく、わかりました。毒を以て毒を制すってやつですか?」

 

雪人さんは一瞬、驚いたようにわたしを見た。表情を変えないロボットみたいな人だと思ったが、こんな顔も出来るんだ。

 

「仰る通りです。その薬というのは、蛇の毒も用います。私は祖母が服用したところを直接見たわけではないのですが、同じように噛まれた他の人間は、"どちらか"だったと聞いております」

 

「生きるか、死ぬか・・・ですね」

 

雪人さんが頷いた。

 

「・・・えっ、待ってください、だったら財前さんも・・・」

 

目が合うと、財前さんはわたしに優しく微笑んだ。

 

「こんな時でも、君は他人(ひと)の事ばかりだね。ありがとう。でも、僕はちょっと手遅れかな」

 

笑いながら言うと、財前さんは着物の袖を捲り、忌々しいそのアザを見せた。

 

「ここまで広がっていると、どうにも出来ないんだ。残念ながらね。しかし君は・・・」

 

「駄目よ」

 

──この人が、そう言うのはわかっていた。

 

「あたしは許さない」

 

「・・・早坂さん」

 

「死ぬかもしれないのよ。それを黙って見てろって?」

 

「放置してたら、いずれ死ぬんですよ」その言葉を口にして、ハッとした。財前さんを見たら、変わらず優しい顔で微笑んでいた。

自分の事は気にするなと、目で言っている。

 

「他に方法があるはずよ」

 

「1つ、あるな。それが実行できるかはわからんが」 瀬野さんが冷静に言った。

 

「遊里、正輝の言う通り、あやつを仕留められる確証はない。それに・・・雪音ちゃんは僕とは違う。おそらく、そのアザは瞬く間に広がっていくだろう」

 

また、早坂さんの手に力が込もった。

──ああ、こんな顔させたくなかった。

 

「財前さんだったら、どうしますか」

 

「とゆーと?」

 

「財前さんがわたしの立場だったら、どうしますか?」

 

財前さんは、わたしが聞きたい答えをかわかっている。微かに微笑む目でわかった。

 

「そうだね。僕が君の立場で、まだ可能性があるとしたら・・・"君と同じ"選択をするかな」

 

その言葉を聞いて、安心した。

 

「やります」

 

「雪音ちゃん」

 

「早坂さん、これはわたしが決める事です。尊重してくれませんか」

 

早坂さんの顔が、苦悩に歪む。本当は、早坂さんもそうするべきだとわかっているから。

 

「お願いします。早坂さん」

 

早坂さんは、何も言わなかった。

 

「雪人さん、その薬はいつ用意出来ますか?」

 

「そうですね・・・それには特定の蛇の生き血が必要になるのですが、今から動けば明日の朝にはご用意出来るかと」

 

「待って、明日?」

 

「遊里、1秒でも早いほうがいい。わかるだろ」

 

こういう時、瀬野さんが居てくれると助かる。

 

早坂さんは片手でこめかみを押さえ、呻くように息を吐いた。

 

「遊里さん、これは一刻を争います。アザが進行すれば、薬は意味を成しません」

 

「・・・薬、ね。彼女を殺すかもしれない薬でしょ」 早坂さんが苛ついているのがわかった。

 

「雪人さん、確率はどのくらいですかね」

 

「・・・と言いますと」

 

「わたしが死ぬ可能性はどれくらいですか?」

 

「・・・雪音さん、それは・・・」

 

「雪人さんの見解でいいので、教えてください。何言われても驚かないので」

 

雪人さんは財前さんを見たが、財前さんは穏やかな顔で目を伏せている。

 

「先程も言いましたが、私は直接見た事がないので何とも申し上げられません。しかし、私が聞いた話を踏まえて、確立という話で言うのであれば・・・半々・・・50パーセント、と思われます」

 

「あ、意外と高い」

 

「・・・え?」口を開けてキョトンとする雪人さんを、また発見した。

 

「2つに1つって事ですよね。わたしクジ運とかないからちょっと不安だけど、なんか大丈夫な気がしてきました」

 

笑ってくれたのは、瀬野さんだった。「まあ、俺もお前が死ぬとは思えんな」

 

──あとは、隣で無言を貫いているこの人だけだ。

 

「わたしも仕事の事とかあるので、明日また来ますね。早坂さん、送ってもらえますか」

 

早坂さんはやはり無言で立ち上がった。

帰りの車が、こわい。

 

「あっ、財前さん、泳斗くんは・・・いますか?」

 

「ああ、立て込んだ話になりそうだったからね、泳斗くんは僕の知り合いに連れ出してもらったよ」

 

「そうですか・・・」 残念だが、仕方ない。そしてその知り合いは"人間"なのか気になって仕方ない。

 

「明日、会うといい」

 

「はい、そうですね」

 

 

 

 

 

 

帰りの車内も、やはり無言だった。

何を考えているんだろう。表情からは何も掴めない。

 

「あの、早坂さん、怒ってます?」

 

「なんで?」 早坂さんはこっちを見ない。

 

「いや、ずっと黙ってるから・・・」

 

「あたしが何言っても、あなたの腹は決まってるんでしょ」

 

やっぱり、怒ってるじゃん。

 

「反対ですか?」

 

「反対?遊びに行く場所でも決めるみたいに言うのね」

 

いや、メッチャ怒ってるじゃん。

 

「他に、どうしろって言うんですか。方法が無い以上、そうするしかないでしょう」

 

「・・・わかってるわ」

 

「わかってるなら、いつも通りにしてください。明日、死ぬかもしれないのに・・・このままじゃ嫌なんですけど」

 

突然、身体が傾き、車が荒々しく道路脇に停められた。早坂さんが身を乗り出し、助手席の窓にバンと手をついた。

 

「簡単に言うのね。あたしの気持ちを、少しでも考えた?あなたに何かあったら・・・あたしはどうすればいい?」早坂さんが力無くわたしの肩に頭を乗せた。「あなたに、出逢わなければよかった・・・」

 

──心臓が、締め付けられた。

わたしは早坂さんの頭を包み込むように抱きしめた。

 

「そんなこと言わないでください。わたしは早坂さんに逢えて良かったです。心からそう思ってます。それに・・・さっきの撤回します。わたし、絶対死なないので。安心してください」

 

早坂さんはしばらく動かなかった。そして、少しだけ顔を上げると目を合わせず、わずかに微笑んだ。

わたしのおでこに軽く唇を押し付け、何も言わず、また車を走らせた。

 

 

 

 

 

 

アパートの前に車を停めると、早坂さんはすぐにわたしの手を握った。

 

「仕事には行くの?」

 

「はい。明日の休みの相談もあるし」

 

「・・・なんて言うの?春香ちゃんに」

 

「ん・・・それも考えたんですけど、変に心配かけたくないんで、この事は黙っておこうかなって。だから、もしもの時は、早坂さんから伝えてもらえますか?」

 

早坂さんは、返事をしない。

 

「いやっ、もしもも何もないですけどね?一応です一応、念のため!」

 

「・・・仕事終わったら、うちに来る?」

 

──それは、何よりも嬉しい言葉だった。そうしたい。出来るだけ、一緒にいたい。

でも、わたしは、強気でいたい。

早坂さんと2人でいる時間が長ければ長いほど、それが崩れてしまう気がした。

 

「いえ、大丈夫です。また近いうち、遊びに行かせてください」

 

わたしが笑顔を見せると、早坂さんも微かにだが、微笑んでくれた。

 

「わかったわ。でも迎えには来るわ。昨日の事もあるし、1人で動くのは危険よ」

 

「・・・いや、わたしを殺そうと思うなら、昨日とっくにそうしてると思うんですよね・・・」──もしくは、出来ない何かがあるのか。「だから、心配しないでください。わたしも出来るだけ普通にしていたいので」

 

早坂さんが納得しないのは、わかっている。それ以上に、わたしの気持ちを汲んでくれようとしているのも。

 

「・・・わかった。明日、迎えに来るわ」

 

 

 

 

 

 

午後11時50分─。

帰宅したわたしは、缶ビールを手にベランダへ出た。

カシュッと素敵な音を聞き、少し溢れた泡をゴクゴクゴクと喉に流し込む。

 

「くぅ〜〜〜〜あっ」

 

明日死ぬかもしれない状況でも、ビールの美味さは変わらないらしい。

ベランダの手すりに肘をかけ、わたしは暗闇の空へ念じた。

 

来い──空舞さん、来い。

 

20分待った。しかし、空舞さんは来ない。冷蔵庫へ向かい、2本目のビールとあたりめを持ってまたベランダへ向かう。

 

「ぉわっ!・・・あれっ!?いつの間に!?」

 

「今来たわ」

 

「・・・念が通じたか」

 

空舞さんは首を傾げた。「なんの話?」

 

「空舞さん来いって念じてたんです」

 

「なぜ?」

 

わたしはベランダの脇にあるパイプ椅子に腰掛けた。

 

「ちょっと、話したくて」

 

「何かあったの?」空舞さんは手すりを移動してわたしに近づいた。

 

「わたし、明日死ぬかもしれないんです」

 

自分でも唐突すぎるとは思ったが、案の定、空舞さんは無反応だった。

 

「どーゆうこと?」

 

それから、事の起こりを説明した。重点を置いて、簡潔に。その間、空舞さんは黙って聞いていた。

 

──「ということで、空舞さんに会いたいなぁって思ってたんです」

 

「・・・・・・そう」

 

小さな声でそれだけ呟くと、空舞さんは頭を垂れた。

 

「いや、大丈夫ですよ?わたし死なないので。死なない自信あるので。ただ、万が一のために?会っておきたかっただけなんで!」

 

空舞さんの反応は、ない。

 

「優子のようにあなたまでいなくなったら、わたしは耐えられないわ」

 

「えっ・・・」

 

「ごめんなさい。失礼するわ」

 

「えっ!ちょっ・・・空舞さん!?」

 

空舞さんは翼を羽ばたき、暗闇へ飛び立って行った。空舞さんを追って宙に浮かぶ自分の手が、虚しい。

わたしはさっきの空舞さんのように頭を垂れた。

 

そうか──空舞さんは優子さんを亡くした傷が癒えてないんだよね。それなのに、わたしまでいなくなったら──・・・申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 

 

 

 

 

 

午前5時 ─。

 

───痛い。

このおでこに刺さる鋭い痛みは、嫌と言うほど経験している。

わかった。わかりました。起きますから、もうヤメテくれ空舞さん。

 

──・・・ん?空舞さん?

 

見事に目が覚めた。

目の前には、黒いクチバシ。

 

「起きなさい、朝よ」

 

「・・・空舞さん?」

 

「遊里が迎えに来るんでしょう」

 

携帯を確認する。「って、まだ5時じゃないですか。わたしさっき寝たばっかなんですけど・・・」

 

「あれからずいぶん飲んだようね」

 

誤魔化しようのない証拠がテーブルにある。わたしはのそのそと身体を起こした。

 

「なんか寝つけなくて・・・ていうか空舞さんなんで?もう戻ってこないかと思った・・・」

 

空舞さんはヘッドボードからわたしの膝へ移動した。

 

「ごめんなさい。わたしは自分の事しか考えていなかったわ。1番辛いのはアナタなのに・・・ごめんなさい」

 

「空舞さん・・・いえ、謝らないでください。わたしこそ、唐突すぎましたよね・・・ごめんなさい。でも、よかった。あのまま別れるのは悲しすぎます」

 

空舞さんはわたしの肩へ来ると、クチバシで頬に擦り寄った。

 

「別れじゃないでしょ。アナタは死なないんだから」

 

鼻の奥がツーンとなり、涙が込み上げてきた。でも、わたしは泣かない。

 

「そうですよ。わたしは死にません。だからまた会えますね」

 

「ここで、待ってるわ。アナタが帰ってくるのを。何があっても、帰ってきなさい」

 

「うぅ・・・空舞さんっ」

 

抱きしめようとしたが、すんなり逃げられた。

 

「早くシャワーを浴びてきたら?髪が蜘蛛の巣みたいになっているわよ」

 

──いつものテンションに戻るの早いな。でも、それが安心する。

 

「行ってきまっす」

 

 

 

 

 

 

午前7時30分─。

 

迎えに来た早坂さんの車に、わたしは元気よく乗り込んだ。

 

「おはようございます!」

 

「・・・おはよう」

 

「テンション低いですね」

 

「あなたは高いわね」

 

早坂さんはすぐにわたしの手を掴んだ。アザを確認している。

 

「大丈夫です。昨日と変わってません」

 

早坂さんはふうと息を吐いた。

口には出さなかったが、早坂さんの顔は酷く疲れていた。おそらく、一睡もしていない。

 

「あ、その服・・・」

 

「あ、はい。早坂さんのトレーナーです。似合いますか?」

 

早坂さんは力無く微笑んだ。

 

「可愛いわ」

 

そして、ゆっくりと車が動く。

 

 

「お休みは貰ったの?」

 

「はい、とりあえず3日ほど貰いました。どれくらい時間が必要なのかもわからなかったので・・・」

 

──ていうか、3日で足りるのか?まさか、1ヶ月とかかからないよね。考えたら急に不安になってきた。

 

「なんて言って?」

 

「・・・法事です。風邪とか言うと、家に来そうだったので」

 

「そう」

 

わたしは微かに聞こえる音楽の音量を上げた。

聞き慣れた洋楽に、車内の匂い、座り慣れたシート。ここはわたしにとって、最高の癒しの空間だ。

 

「わたし、この車好きです」

 

「・・・そう?あげるわよ」

 

「乗れないんでオブジェになりますね」

 

「そっか、免許ないのよね。取ったら?」

 

「いや、取ったところで、いつ乗るかっていう・・・」

 

「この車に乗ればいいじゃない」

 

「・・・なるほど。いいんですか?ぶつけるかも」

 

「いいわよ。直せばいいだけだし」

 

金持ちの発言だ。

 

「考えときます・・・」

 

早坂さんが、当たり前のように先の事を話すのが嬉しかった。前向きになってくれてるのかな。

 

「・・・ん?なんですかソレ」

 

早坂さんがウインカーを出した時、ある事に気づいた。

 

「え?・・・ああ、ちょっとね」

 

「見せてください」

 

「ダメよ、運転中だもの」

 

「いつも片手でしか運転しないでしょ!早く見せてください!」

 

早坂さんは渋々右手をわたしに見せた。

 

「なんっ・・・ですかコレ!」

 

早坂さんの手の甲が、指の付け根の骨から上にかけて赤く腫れ上がり、内出血を起こしている。加え至る所に擦り傷があり、血が固まっている状態だ。

 

「何か殴ったんですね?」

 

「いいえ?ぶつけたのよ」

 

「何処に」

 

「壁に」

 

「壁にぶつけたくらいじゃこんな事にはなりません!」

 

早坂さんはわたしの手から逃げると、ハンドルを持つ左手と入れ替えた。

 

「大丈夫よ、大した事ないから」

 

「大した事ありまくりですけど!・・・痛くないんですか?」

 

「ええ、ほらハンドルも握れるし」

 

思わず、溜め息がでた。「ダメですよ・・・そんなになるまで、何やってるんですか・・・」

 

「あたしのことはいーのよ」

 

「よく、ありません・・・」

 

何を思って、こんな事になったのか──いつもヘラヘラして軽口ばかり叩くくせに、本当の内は見せようとしない。

 

「このまま、逃げようかしらね」

 

「・・・え?」

 

「あなたを連れて、誰にも見つからない場所に行こうかしら」

 

──あながち、嘘でもないんだろうな。そう思うと笑みが出た。

 

「いいですよ。わたしはそれでも」

 

早坂さんと目が合った。わたしの本心も伝わっているはず。

早坂さんは笑い、シートに深く寄りかかった。

 

「そんなことしたら、あたしは一生恨まれそうね」

 

「ええ?誰にですか?」

 

「あなたの周りにいる全員によ」

 

 

──昨日から、ずっと考えていた事がある。

わたしは、早坂さんに自分の気持ちを伝えないままでいいのだろうか。

死ぬ気なんて、さらさら無い。でも、1番伝えなきゃいけない事を無視していいの?

 

「あの、早坂さん」

 

「ん?」

 

「・・・ずっと、言いたかったことがあるんですけど・・・」

 

「うん?」

 

──意気込んだはいいものの、何て言えば?いや、深く考えるな。わたしは早坂さんが好きです。シンプルにそう伝えればいい。

 

「あの、わたし・・・」

 

「雪音ちゃん」

 

「・・・え」

 

「その言おうとしてる事って、状況が違くても言うつもりだった?」

 

「・・・えっ?」

 

「言い急いでるわけではないのよね」

 

──まさか、そんな言葉が来るとは思わなかった。そう言われると、何も言えなくなる。

 

「出直します・・・」

 

早坂さんはわたしの頭に触れ、いつもの優しい笑顔を見せた。不意にポンと頭に乗るこの大きな手が、わたしはたまらなく愛おしい。

 

 

 

 

 

財前さんの家に到着すると、最初に出迎えてくれたのは泳斗くんだった。

 

「ユキネ!」

 

泳斗くんはわたしを見るなり、ピョンと胸に飛び乗ってきた。

 

「泳斗くん久しぶり!でも、ないかな?」

 

泳斗くんは黒い甚平を着ていた。季節外れ感は否めないが、最高に可愛いから問題ない。

 

「ボク、ユキネとボールで遊ぶ!」

 

「ん?ボール?」

 

「うん!サッカーだよ!」

 

「おお・・・出来るの?」

 

誰かに教えてもらったんだろうか。と、その時、襖が開いた。雪人さんだ。

 

「おはようございます。雪音さん、お待ちしておりました」

 

「ユキネ!外行こ!」

 

雪人さんは近くに来ると、わたしの胸からそっと泳斗くんを抱き上げた。

 

「泳斗くん、それはまた今度に。いいね?」

 

泳斗くんは口を尖らせ不満そうだったが、コクリと頷いた。なるほど、雪人さんの教育はちゃんと行き届いているらしい。

 

「泳斗くん、今度いっぱい遊ぼうね」

 

「うん!」

 

「裏庭にプールがあるから遊んでおいで」雪人さんが促すと、泳斗くんは奥の部屋へ走って行った。

この時期にプールとは。想像するだけで寒気がするが、元々泳斗くんは水の中に住んでいたし、それが当たり前なんだよね。

 

「お入りください」

 

「あ、はい」

 

 

部屋へ行くと、いつもの場所に財前さんが座り、その隣に瀬野さんがいた。そして、奥に1枚の布団が敷かれている。

──あれは、わたし用だろうか。

 

「おはよう雪音ちゃん。昨日は眠れたかい?」

 

「おはようございます。はい、それなりには・・・」

 

隣にいる人をチラリと見た。間違いなく、この人よりはね。

 

「お前、なんつー顔してんだ」 瀬野さんが言ったのは、早坂さんに対してだ。

 

「仏頂面に言われるとはね」

 

わたし達が座るなり、雪人さんはトレイに乗せた小さなグラスを持って来た。それをテーブルの上に置く。

 

「雪音さん、これが例の薬になります」

 

「・・・これを飲めと」

 

「はい」

 

「どう見ても人間が飲める色してないんですが」

 

この色を一言で言うなら、土だ。畑の色。何処からどう見ても、毒薬としか思えない。

 

「これを残さずに飲んでください」

 

「・・・どんな味するんですか」

 

「わかりかねます」

 

「ですよね」

 

量で言えばショットグラス一杯程度だが、これを口に入れるにはかなりの勇気が必要だ。

 

「なんつーか、効きそうな色してるな」

 

瀬野さんよ、他人事だと思って。

 

「こちらは準備が出来ていますので、あとは雪音さんのタイミングでお願いします」

 

「ここで飲むんですか?」

 

「あちらに布団を用意していますので、雪音さんにはこれを飲んだ後、横になってもらいます」

 

「・・・あの、どれくらいでわかるんですか?その、結果というか」──死ぬか、生きるか。

 

「祖母の場合は、半日ほどかかったといいます。その、非常に申し上げにくいのですが・・・その間、ずっと苦しみが続いていたと」

 

「なるほど・・・」飲んですぐ治るってわけにはいかないか。苦しみって、どんなだろう。

 

「しかし個人差があるようで、数時間でアザが消えた方もいたようです」

 

「数時間で死ぬこともあるってことですね」

 

「・・・はい」

 

「わかりました。わたしはいつでも・・・」

 

「雪音ちゃん、喉乾いてない?」 唐突に言ったのは、早坂さんだ。

 

「のど・・・?」

 

「うん、水分補給してからのほうがいいんじゃない」

 

そう言われると水分を欲する単純なわたしだ。

 

「あ、じゃあ・・・」

 

「おいで」

 

早坂さんが立ち上がり、わたしも後に続く。

部屋を出て台所へ案内された。初めて来たが、全体的に古い作りだ。この家自体、築年数も相当だろうから不思議ではないが。

 

「冷蔵庫に水があるわ」

 

「あ、はい」

 

どうやら冷蔵庫は最新式のようだ。中にはペットボトルの水とお茶、作り置きと思われるタッパーがいくつか重なっている。雪人さんが作っているんだろうか。

 

「早坂さんも飲みま・・・」

 

驚いて、ペットボトルを落としてしまった。振り向いたすぐそこに、早坂さんがいたから。

 

「びっくりし・・・」 一瞬、何が起きたかわからなかった。気づけば、わたしの唇は塞がれていた。早坂さんの唇によって。

 

冷蔵庫がパタンと閉まり、早坂さんの身体がわたしの身体を押し付ける。

早坂さんはわたしの顔を両手で挟み、さらに強く口づけた。

 

──息が出来ない。呼吸をする隙間を与えてくれない。

苦しくて早坂さんの服を握るが、早坂さんはやめようとしない。角度を変えて何度も押しつけられる唇に身体の自由を奪われていく。

 

とても、長く感じた。早坂さんは最後にわたしの下唇をペロッと舐めると、やっと解放してくれた。

膝から崩れ落ちそうになり、早坂さんにしがみついた。そのまま強く抱き寄せられる。

 

「なん・・・で・・・」 そう言うのがやっとだった。呼吸がままならない。

 

「文句は起きてから聞くわ」 耳元で囁かれた息が熱い。

 

 

───ずるい。なんで、今このタイミングでこんな事。わたしには言わせてくれないくせに。ありとあらゆる感情が溢れ出し、涙が込み上げてきた。

早坂さんはわたしを更に強く抱きしめた。苦しくて、また呼吸を奪われる。

 

「大丈夫。待ってるから。安心して戻ってきなさい」

 

 

 

 

部屋に戻ったわたしに、瀬野さんが言った。

 

「風呂でも入ってきたのか?」

 

自覚はあった。身体中が燃えるように熱い。一向に熱が冷めてくれない。歩いているのに足の感覚がない。ふわふわと宙に浮いているような気分だった。

 

 

 

 

──しかし、すぐに現実に引き戻された。

いざ薬を手にすると、死というものがリアルに押し寄せてきた。ついさっきまで覚悟を決めていたのに。これが最後かもしれない、その現実に押し潰されそうだった。

 

「雪音ちゃん。焦らなくていい、いくらでも時間をかけていいんだ」

 

わたしの布団を挟んで財前さんと雪人さんが座っている。早坂さんと瀬野さんには、部屋を出てもらった。早坂さんはそばにいると言ってくれたが、わたしが断固拒否した。逆の立場だったら、早坂さんが死ぬかもしれない物を口にするところを見るなんて、耐えられない。それにわたし自身、早坂さんがそばにいると決心が鈍りそうだった。

 

「すみません・・・なんか、ここにきて怖気付いちゃいました」 まだ、笑える余裕はあったらしい。

 

「雪音ちゃん、君がやろうとしてる事は他の誰にも出来ない。僕は君を尊敬するよ。心から」

 

視界の隅で雪人さんが頷くのがわかった。

 

「財前さん、1つお願いがあるんですが」

 

「なんだい?何でも言うといい」

 

わたしの"懸念材料"を伝えると、財前さんは小さく微笑み頷いた。

 

「わかった。安心しなさい」

 

「ありがとうございます」

 

 

──・・・さて。時間をかければかけるほど決意が揺らぐ。もう、やらなければ。

 

「よしっ」わたしは1度、深く息を吐いた。「中条雪音、やります!」

 

そして鼻をつまみ、そのどぎつい色の液体を一気に口の中に流し込んだ。

 

 

わかったのは、鼻をつまむ必要なんてなかったということ。そんな事をしても誤魔化せないほどの苦味が一瞬にして口の中に広がった。

しかし、それ以外は何ともなかった。何処も痛くも痒くもない。

 

「雪音さん、横になってください」

 

「あ、はい」

 

仰向けになり、目を閉じた。それから3分ほど経過しても、何も変化はなかった。何処も痛くも痒くもない。

あれ、もしかして、こんなもんで終わるの?もしくは、毒が効いていないとか?

 

「あの、雪人さっ・・・はっ・・・」

 

「雪音さん?」

 

息が、出来ない。

 

「かっ・・・はっ・・・」

 

心臓が、痛い。

 

「毒が効き始めたんだろう。雪人、彼女が暴れたら押さえつけるんだ」

 

「はい」

 

頭が割れそうに痛い。身体が焼かれるように熱い。全身を針で刺されているような激痛だ。

 

「雪音ちゃん、頑張るんだ。君なら耐えられる」

 

 

 

視界が、暗くなっていく。

 

ああ、わたし死ぬんだ。

 

──・・・母さん、もしかしたらもうすぐ会えるかも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「雪音、おっぱい大きくなってない?」

 

洗顔中のわたしは、泡を思いきり鼻の中に吸い込んだ。

 

「ゴフォッ・・・オエッ・・・なっ、何を言い出すかな急に」

 

「いや、久しぶりに裸見たから。もうすっかり大人の身体ねぇ」

 

「あんまり見られると恥ずかしいんだけど・・・」

 

「親子で恥ずかしいも何もないでしょ」

 

「そうだけど・・・」

 

「わたしなんて年々骨と皮になってくわ。見てこれ」

 

母さんは湯船から自分の鎖骨を見せた。骨が皮膚を突き破りそうなほど、浮き出ている。

 

「だったらもうちょっと食べて。母さんの食べる量、わたしの半分だもん。そりゃあ太れないよ」

 

「雪音と同じ量食べたら母さん死んじゃうわ」

 

「人を大食いみたいに」

 

「大食いじゃない。あーっ、母さんもうのぼせそう」

 

「先上がってて、わたしも体洗ったら出るから」

 

「髪乾かしてあげるわ」

 

「・・・どしたの今日は」

 

「いいじゃない、親子のスキンシップよ」

 

「スキンシップ、ねぇ・・・」

 

「・・・雪音」

 

「ん?」

 

「あのさ・・・」

 

その先を待ったが、母さんは何も言わない。

 

「ん?なに?」

 

「1つ、聞いてもいい?」

 

「・・・なに、改まって。なんか怖いんだけど。なに?」

 

それでも、母さんは躊躇した。よほど言いづらい事なのか。

 

「あのね、あなたが子供の時、友達と公園で遊んでて・・・未来ちゃん?だったわよね。その子が怪我したの覚えてる?」

 

ドクンと心臓が跳ねた。まさか、母さんの口からその名前が出てくるとは。

 

「あー、うん。覚えてるよ」

 

身体を洗いながら、軽い口調を心がけた。

 

「その時の事も、覚えてる?」

 

忘れるわけがない。忘れられたらどれだけ楽か。

 

「あー、どうだろ。ハッキリとは覚えてないかも。なんで?」

 

「・・・あの時ね、雪音がわたしに言ったことがあるんだけど」

 

心臓が早鐘を打ち、鼓動が体内に響く。

なに?何を言おうとしてるわけ?

 

「なに?」

 

「幽霊が・・・見えるって」

 

身体を洗っていた手が、止まった。

──笑え。笑って言うんだ。え?まさか本気にしてたの?って。

 

「あー、あったね」嘘笑いも上手いごまかしも出来ない自分が憎い。

 

「あれって、本当なの?」

 

「・・・どしたのいきなり」

 

「母さんね、ずっと気になってたの。雪音、あれ以来そーゆうこと言わなくなったでしょ。雪音は昔から嘘がつけない子だったから、もしかしてわたしがあの時・・・」

 

「たとえば、わたしが今、本当だよって言ったら信じる?」

 

おどけて言うのは、どうにか成功した。

 

「やっぱり・・・そうなの?」

 

「母さん。母さんは信じる?目に目えない物を」

 

「・・・うーん。母さんはそーゆうの見たことないから・・・でも、雪音が言うなら信じるかな」

 

──・・・じゃあ、なんであの時は信じてくれなかったの?子供だったから?

心に靄(もや)がかかる。これって、喜ぶべきところなんだろうか。

 

「正直、覚えてないんだよね。子供って妄想激しいし、お化けとか好きじゃん?幻覚見えてたのかな」

 

「・・・耳が生えた子が・・・」

 

「覚えてない。もうこの話やめない?恥ずかしいし」

 

「雪音・・・」

 

「母さん、顔が茹で蛸になってるけど大丈夫?」

 

「・・・そうね、母さんもう限界!」

 

「上がろっか」

 

 

 

──なんで、今さらこんなことを。

あの日以来、1度も口にした事がないのに。これまで過去の話になっても、未来ちゃんの名前が出た事は1度もなかった。忘れようとしていたのは、母さんのほうだったのに。

 

 

その翌日、母さんは死んだ。

いつまで経っても起きてこないのを不思議に思い、わたしは母さんの部屋へ向かった。

ドアを開けると、何故か母さんの身体は宙に浮いていた。

 

 

 

 

──・・・そうだ。思い出した。

あの時、わたしはその場で呼吸困難に陥り、しばらく気を失っていた。

 

母さんがお風呂で言った事も、記憶からすっぽり抜け落ちていた。

母さんは、わたしを信じようとしていた。時間はかかったけど、歩み寄ろうとしてくれていたんだよね。

 

それを、わたしが遮ったんだ。

嘘がつけない、顔にすぐ出るわたしだから、母さんはわかっていたのかもしれない。

 

ごめん。ごめんね、母さん。

 

 

ふと、後ろから誰かに抱きしめられた。

この匂いは──母さんだ。

 

「母さん?どしたの?」

 

「雪音は母さんの自慢」

 

「・・・ホントに、どしたの?そして髪全然乾いてないんだけど、もう終わり?」

 

「あ、ごめんごめん。長いと時間かかるわねー」

 

「そのうち切るよ、わたし。卒業したら短くするって決めてるから」

 

「そーなの?まあ、雪音なら何でも似合うだろうから、母さんはどっちでもいいや」

 

 

 

 

 

涙が、目尻から伝い落ちるのがわかった。

それを拭うように何かが触れる。

 

ああ、わかった。だって、わたしはこの手に何度も救われてきたから。

 

大きくて、力強くて、優しい、わたしが大好きな──・・・その顔が見えた。

 

 

 

「早坂さん・・・」

 

「おかえり・・・雪音ちゃん」

 

早坂さんがわたしの胸に頭を落とした。

身体が、思うように動かない。手を上げるのがやっとだった。早坂さんの頭に触れると、微かに震えている。

 

わたしを囲んで見下ろす瀬野さん、財前さん、雪人さん。

 

「やった・・・」 声が掠れた。

 

「起きて第一声がそれか?」瀬野さんの呆れ笑いが聞こえる。

 

「よく頑張ったね、雪音ちゃん」財前さんの優しい顔が見える。

 

「雪音さん、無理に身体を動かさないでください。しばらくは安静が必要です」

 

「・・・あい」動かしたくても、動けない。

 

わたしの胸に顔を埋めているこの人は、動かないが大丈夫だろうか。

 

「早坂さん・・・」どうにか手を動かし、髪を撫でた。

 

「ん」

 

「タバコ臭い」

 

「・・・・・・もう吸わないわ」

 

「吸いに行ってはすぐ戻ってくるを延々と繰り返してたからな。あとで灰皿見てみろ、無駄にしたシケモクが山になってる」

 

「・・・お黙り」

 

「気になってすぐ戻ってくるなら吸わなきゃいいだろう」

 

早坂さんが顔を上げた。「お黙りっ!居ても立ってもいられなかったのよ・・・雪音ちゃんがピクリとも動かないから」

 

「あの・・・あれから、どれくらい時間経ってるですか」

 

早坂さんがわたしの手を握った。

 

「6時間くらいね。今は15時を回ったところよ」

 

「えっ、そんなに・・・」 体感としては、さっきの事のようなのに。

 

「雪音ちゃん、薬を飲んでからのことを覚えているかい?」

 

「・・・息が出来なくなって、身体が焼かれるような熱くなって、そこからは・・・」

 

「そうか。苦しんでいたのは最初の数分だけで、その後パタリと動かなくなったんだ。正直最悪の事態も想定したが・・・良かったよ、こうしてまた話せて」

 

「ふふ・・・わたしもです」

 

「見た目は死人そのものだったな」

 

「瀬野さん、笑わせないでください喉がまだ・・・」

 

「雪音ちゃん、今日は此処に泊まっていくといい。身体にまだ毒が残っているからね。雪人の言う通り、1日は安静が必要だ」

 

「あ、はい・・・ありがとうございます」

 

「じゃあ、あたしも泊まるわ」

 

「えっ」

 

「まだ安心は出来ないし、あたしがそばで見てるから」

 

「・・・はあ」それはそれで、落ち着かないような。

 

財前さんはクスクス笑いながら立ち上がった。

「じゃあ、僕は用を済ませに出かけてくるよ。雪人、雪音ちゃんを宜しく」

 

「はい」

 

部屋を出かけた財前さんが足を止め、こちらを振り向いた。「そうだ。雪音ちゃん、君の頼みだけど、正直僕には自信がなかったよ」

 

「ええっ!?」

 

財前さんは声をあげて笑った。「取り越し苦労で済んで良かったよ。じゃあ、また」

 

「頼みってなに?」

 

すぐに反応したのは早坂さんだ。

 

「いや、ちょっと・・・」

 

「ちょっと?」

 

「気にしないでください」

 

「すごぉ──────く!気になるわね」

 

「いいですって!」

 

「言わなきゃこのままキスするわよ」

 

人が動けないのをいいことに。ていうか、したじゃん──"さっき"。

 

「・・・わたしがもし、死んだらのお願いをしてたんです」

 

「なに?」

 

早いな。

 

「早坂さんが暴走しそうになったら、瀬野さんと一緒に正常に戻してくださいって」

 

「間違いないな」先に反応したのは瀬野さんだ。

 

「自惚れ発言みたいですけど・・・」

 

早坂さんは、はあ・・・と息を吐いた。

 

「自分が死ぬかもしれないのに、あたしの事まで考えてたの?バカね」

 

「利口だろ、お前が暴走したら大変なのは俺たちだからな」

 

「お察しします・・・」

 

早坂さんの手が、わたしの額に触れた。冷たくて気持ちいい。

 

「疲れたでしょ。目を閉じて寝なさい。あたしは此処にいるから」

 

「目を閉じてって、当たり前だろ。開けながら寝る奴がいるのか?」

 

「ああああ、うるさいわね!アンタ仕事でしょ!?さっさと戻りなさいよっ!」

 

「お前も人任せにばかりしてないで、たまには顔出したらどうだ」

 

「出してるわよ、いつも!」

 

「その割にいつも暇そうだけどな」

 

「自由と暇は別なのよ」

 

 

2人の漫才が心地よくて、目を閉じた。目尻から涙が溢れる。

 

わたし、生きてるんだ。

 

───・・・よかった。

 

 

 

 

 

 

 

午後10時─。

 

「どお?もう普通に動かせる?」

 

「はい。痛みはほぼないです」

 

暗闇の中、わたしは天井に向って腕を上げ下げしている。

 

「ほぼ、ね。」早坂さんがわたしの手を掴み、布団に下ろした。「完全に回復するまで大人しくしてなさい」

 

「・・・早坂さん、さっきから何百回も言ってますけど、寝てください」

 

「あなたが寝たらね」

 

早坂さんはわたしの隣にピッタリと布団を敷き、肘をついて横になっている。まるで子供を寝かしつけるお母さんのように。

 

「ずっと寝てから全然眠くないんです。寝てください、わたしはもう大丈夫ですから」

 

「あたしもなんか目ェ冴えちゃってるのよねぇ」

 

「昨日全然寝てないのに?」

 

「・・・鋭いわね」

 

「誰が見てもわかります。瀬野さんにも言われてたでしょ」

 

早坂さんは仰向けになり、頭の下で手を組んだ。

 

「じゃあ子守唄うたって」

 

「・・・ねーんねーんーころーりーよー」

 

「棒読みね」

 

「音痴よりいいかと」

 

「音痴なの?」

 

「人前では歌わないって決めてます」

 

早坂さんがプッと噴き出した。「聴いてみたいわ」

 

「何があろうと、ぜったい歌いません」

 

「100万積まれても?」

 

「・・・要相談で」

 

「ハハッ、そこは歌っときなさいよ」

 

 

会話が途切れ、──暗闇と静寂の中、時計の秒針の音だけがやけに響いた。けれど、わたしはこの音が嫌いじゃない。おばあちゃんの部屋を思い出すから。

お願いだから、早坂さんがこのまま寝てくれますように。

 

 

「雪音ちゃん」

 

願いは通じなかった。

 

「あい」

 

「聞いていい?」

 

「・・・そう言われて、嫌とは言えないですよね。むしろ気になる」

 

早坂さんがクッと笑う。

 

「あなた、目覚める前に一言だけ、"お母さん"って、呟いたの。あたしの聞き間違いじゃなければ」

 

「・・・聞き間違いじゃないと思います」

 

「夢、見てた?」

 

──これまで、母さんの事を誰かに話したことはなかった。言ったところで、空気が重くなるのは目に見えていたから。だから、わたしにとって初の"試み"だ。

 

「あの、だいぶ前の事なので、軽い気持ちで聞いてほしいんですけど」

 

「わかった」

 

「・・・わたしの母親、わたしが高校生の時に自殺してるんです。前日まで普通に過ごしてたのに、何も変わった様子もなかったのに、ってずっと思ってたんですけど・・・今日母さんの夢を見て、思い出したことがあって。やっぱり、いつもと違かったんですよね、様子が。それが今まで、記憶から抜け落ちてて・・・死にかけたおかげで蘇りました」

 

最後は笑いを交えて言ったが、早坂さんはしばらく何も言わなかった。

 

 

「思い出してよかった?」

 

「・・・そうですね。よかった、のかな。複雑なところです」

 

「そっか。ありがとう、話してくれて」

 

 

早坂さんはこういう時、深くは聞かない。なんでも知りたがりの早坂さんなのに。

 

「わたし、ずっと自分を責めてたことがあって・・・」

 

「なに?」

 

言葉にするのが、怖かった。普段から考えないようにしていた。その事を考えると、自責の念に呑み込まれそうになるから。

でも、早坂さんには聞いてほしいと思ったんだ。

 

「わたし、母親が死んだ時、思ったんです。なんで・・・わたしを置いて、死んだのって。わたしを1人にして勝手に死んだのって・・・母親を恨んでしまったんです」

 

──まずい。案の定、いつものが来た。

胸が、苦しい。息がしづらい。そのうち、吐き気もするだろう。

 

おさまれ、おさまれ。

 

「少し、安心したわ」

 

「・・・・・・え?」

 

早坂さんを見たが、上を向いたままこちらを見ない。

 

「高校生のあなたは、ちゃんと高校生だったのね」

 

早坂さんの言ってる意味がわからず、言葉が出てこなかった。

 

「それは恨みとは言わないわ。あなたの本心、それだけの話よ。あなたは自力では生きていけない歳で、環境で、その不安をぶつける相手がいなかったのよ。それは恨みじゃない。当たり前の人間が当たり前に思うことよ。あなたは今、お母さんを恨んでる?」

 

「あっ・・・」声が震えて、うまく言えない。「いえ・・・恨んでなん・・・か・・・」

 

「だったら、自分を責めるのはやめなさい。あなたがそうやって罪悪感を抱いてることを、お母さんが喜ぶと思う?」

 

──暗くて、よかった。わたしの顔は涙と鼻水で大変なことになっている。声を堪えるので精一杯だった。

 

「あなたは、お母さんにとって自慢の娘だったと思うわ。勝手なこと言うようだけど」

 

トドメが来た。ズビッと鼻水をすすると、早坂さんがわたしの顔の前に腕を伸ばした。

 

「拭いていいわよ」

 

お言葉に甘えて、早坂さんのロンTで顔を拭った。そのまま、早坂さんの手を握る。早坂さんはすぐに握り返してくれた。

 

「早坂さん」

 

「ん?」

 

「ありがとうございます」

 

早坂さんがフッと笑ったのは、わたしが酷い鼻声だからだろう。

 

「頑張ったわね。ありがとう」

 

「・・・なんの、ありがとうですか」

 

「ん?あなたが頑張って来なきゃ、あなたに会えなかったかもしれないじゃない。だから頑張ってくれてありがとう。よ」

 

──その言葉が、どれだけ嬉しいか早坂さんにはわからないだろう。

大変だったね、苦労したね、頑張れ。今までかけられたどの言葉より──"頑張ったわね" その言葉に救われた。

 

 

「早坂さん」

 

ぎゅうっと手を握ると、早坂さんもこっちを向いた。暗闇の中で目が合う。

 

「ん?」

 

「そばにいてくれてありがとうございます。出来れば、これからも・・・いてほしいです」

 

突如、手が振り解かれた。そして、早坂さんがグリンと背中を向ける。

──あれ、なんか既視感。そしてブツブツと何か唱え始めた。

 

「呪文ですか」

 

「ええ、自制心を保つ呪文よ」

 

「・・・そのまま寝てください」

 

「そうね。危ないからこのまま寝ることにするわ」

 

可愛くて、笑えてきた。

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 

 

 

──朝方目が覚めると、すぐ隣に早坂さんがいて、しっかりと手が握られていた。

 

 

 

 

 

午前9時5分─。

 

家まで送ってもらったわたしは、ドキドキしながら部屋のドアを開けた。靴を脱ぎ捨て、駆け足で中に入る。

 

「空舞さんっ!ただいまっ!・・・・・って、いないんかぁ──い!!」

 

ええええ・・・ここで待ってるって言ったのに?感動の再会を期待していたのに?

 

「空舞さんの薄情者・・・」

 

「何を1人で叫んでいるの?」

 

「ギャ──ッ!」

 

声がしたほう、つまりは後ろを振り返ると、開けっ放しのドアの上に空舞さんが居た。

 

「空舞さん!そこにいたんですねっ!」

 

「あなたと一緒に入ってきたのよ」

 

「えっ!今!?」

 

「ええ、車を降りてからずっと後ろをついてきたのに気づかないんだもの」

 

「・・・全然わかんなかった」

 

「遊里は気づいてたわよ。わたしに手を振っていたもの」

 

「・・・とにかく!また会えて嬉しいです空舞さん!」

 

「そうね、わたしも嬉しいわ。身体は大丈夫なの?」

 

「はい、元気モリモリです!」

 

「そう、良かった。なら言わせてもらうけど、妖怪を見たわ」

 

「・・・・・・え"っ」

 

感動?の再会は、一瞬で現実に引き戻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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